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scene 8.

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 周囲のざわついた雰囲気にはっと顔を上げた。

 パソコンの時計を見ると十二時を過ぎたところだった。隣席の綾花がいそいそと弁当箱を取り出している。

「……そういえば西野って弁当が多いよな」
 ん? と蓋を開いて手を合わせたまま綾花が遼太郎を見た。

「まあ人間、いっこくらい特技がね。……惚れるなよ?」
「誰が」

 軽口の応酬をしたところに、後ろからあーっと声が上がった。

「西野さんの弁当美味そうっすねえ。いいなあ」
 後輩の川原が遼太郎の横から同じように綾花の弁当をのぞき込む。

「……あげないよ。これはあたしの腹を満たすモノ」
「別に分けてくれなくてもいいから、俺の分も作ってほしいっす」
「やだよ。なんであたしが」
「弁当美味そうだからっす」

 二人のやり取りが面白くて聞いていたかったがキリがないので遼太郎はそっと席を外した。
 川原の態度は分かりやすい。確か黒木と同い年のはずだが、かなり子どもっぽく感じる。

 黒木のことを思い出して、遼太郎は胸がつきん、と痛んだ。



 今朝は黒木に会えなかった。

 昨日の夜、初めて一緒に飲みに行って。最後あんな別れ方をしたので、正直、今朝顔を合わせるのは気まずかった。

 自業自得と分かってはいたものの、どんな顔をしたらいいか逡巡した上にいっそ時間をずらそうかとも思ったがそれも後ろめたく感じ、いざいつもの時間にエレベーターホールに着いて黒木の姿が見えないことで、焦燥感に襲われた。

 何か連絡を、とも思うがじゃあ何を言えばいいのか分からない。
 朝から何度もスマホを取り出しては仕舞うという行為を繰り返している。おかげで仕事にまったく身が入らなかった。

 ……嫌われたのかもしれない。

 ため息をつきながら一人エレベーターに乗り、ビルの出口まで来て地面が濡れていることに気づく。

「あちゃー……」

 朝からどんよりした雲が空を覆っていたが、とうとう降り出したか。
 今から傘を取りに戻るのも面倒で、遼太郎は小雨なのをいいことにそのまま歩き出した。

 正直、何を食べたいか思いつかない。近場で適当なところに入るかときょろきょろしていると、ある看板が目に入った。

 全国でも有名なカフェのロゴ。――黒木がいつも手にしているタンブラーと同じロゴ。

 いるかもしれない、と期待したわけではなかったが、遼太郎はその店のドアを開けた。

 レジには数人の客が並んでいた。遼太郎は最後尾につき、店内を眺めた。

 窓を向いたカウンターの中に、目指す背中を見つけた。――少し猫背の、大きな背中。

 黒木はいつものタンブラーを手元に、サンドイッチを咥えながら何やら分厚い本を広げていた。

「――黒木」



 ためらいつつも、遼太郎は同じくコーヒーとサンドイッチの乗ったトレイを手に、その背中に声をかけた。

「佐野さん……!」
「……隣、いいか?」
 あ、はい、と黒木は慌てたように本を閉じた。

「何、読んでんの」
「あ、これは……設計の資料みたいなもので。まだ勉強することがたくさんあって」

 そう言って黒木はサンドイッチに目を落とした。遼太郎を見ようとしない素振りに胃の辺りがきゅっと絞られるような気がした。

「今朝、会えなかったから……もしかして具合悪いのかと思ったけど、よかった」

 そう言うと黒木は一瞬だけ遼太郎を見て、眉を寄せた。

「違うんです、ただ寝坊しただけで……すみません、佐野さんにまで心配かけて」

 そう言ってまた目を逸らす。なんだか奥歯にものが挟まったような言い方に少し苛立ちを感じてきた。

「何だよ。なんか言いたいならはっきり言えばいいだろ」

 遼太郎の言葉に黒木が顔を上げた。少し怒ったようで、それでいて拗ねた子どものようで。いつも穏やかな表情ばかりだったので、遼太郎は初めて見たその顔に、口を半開きにしたまま固まってしまった。

「……佐野さんが先に帰っちゃったから。本当は、もう一軒一緒に行きたかった……です」

 そう言うとふいっと窓の方を向いてしまった。

 その端正な横顔はいつもと違い眉をつり上げ、ふてくされたように頬を膨らませている。

 遼太郎は思わず吹き出してしまった。



「わ……笑い事じゃないんですよ。俺、本気で怒ってるんですからねっ」
「うん。ごめん、悪かった」

 腹の底から笑いがこみ上げてきて止まらない。黒木の腕をばんばん容赦なく叩いてしまい、痛いです、と腕を引っ込められてしまった。

「もう、何なんですか。おかげで俺、やっぱり佐野さん嫌だったのかなとかいろいろ心配して昨日寝れなかったのに……」

 とそこまで言って慌てて口に手を当てた。かああっと頬が朱に染まる。

「……それで、寝坊したのか?」
 遼太郎が確かめるようにそっと尋ねると、黒木が肯定するように顔を伏せた。綿毛のような前髪が表情を隠してしまう。

「そっか……」
 黒木の熱が伝染したかのように遼太郎の頬も熱くなる。二人で赤面してお互い俯いてしまった。

「……その、ホントに嫌だったらちゃんと言うから。昨日はその……最初だし、お前が気使うかと思って切り上げただけで、別に他意はないというか」

 黒木の顔を見れないまま、遼太郎は呟くように言った。本当は違う理由があったはずだけども。

「はい……分かりました。すみません、俺の方こそ」

 そこで腕時計が視界に入り、はっとした。

「ヤベ、もうこんな時間」
「佐野さん全然食べてない」
「大丈夫五分あれば食べれる」

 ええ、と目を丸くする黒木を横に、飲み込むようにサンドイッチを完食しコーヒーを注ぎ込む。

「ホントに食べちゃいましたね……」
「胃には良くないけどな」

 そう返すと、黒木はくすりと笑って立ち上がった。

「トレイ返して来ますね」

 すっと遼太郎の分も当然のように重ねて運んで行く。その後ろ姿をつい眺めてしまう。



「佐野さん? 戻りましょうか」
「あ、うん」

 黒木に促されてドアを開けて、雨のことを思い出す。

「そういえば傘ないんだった」
「あ、俺ありますよ。――どうぞ」

 大きな蝙蝠傘を広げ、黒木がにっこり笑う。
 男二人で入るのに少し抵抗があったが、帰る方向は同じだし、断ってわざわざ雨に濡れるのもどうかと思い、遼太郎はありがたく黒木の隣に収まった。

「梅雨入りしたみたいですね~」
「……だな」
「この時季、嫌なんですよねえ。髪が膨れちゃって」
「……天パってのも大変なんだな」

 今日も自由を謳歌している黒木の髪を見上げる。そうなんですよ、と黒木が眉を下げて苦笑した。

「もうだいぶ慣れましたけどね」

 蒸し暑くてお互い肘の辺りまで袖を捲った素肌がかすかに触れ合う。
 なぜ、そんなことを意識してしまうのか。
 遼太郎は考えまいとして頭を振った。




 エレベーターホールは朝と違い、事務所に戻る人でごった返していた。

「あの……佐野さん」
 黒木が何か言いかけたとき、その向こうから声がかかった。

「あ、黒木さん」
 鈴の音のような高い通る声。

「橋本さん……お疲れさまです」
 黒木が振り返って、軽く頭を下げる。
 長い髪を上半分、大きなリボンで止めている彼女。
「今日もいつものカフェですか」

 ふふ、と黒木の手にあるタンブラーを見て微笑んだ。
「うん……そう」

 挨拶するのが正解なのかどうか。
 黒木の背の影で迷っているうちに、エレベーターが一台到着し、人波が集中した。

 あ、と押されて黒木が流されていく。

 黒木は橋本さんと呼ばれた彼女と一緒に箱に詰め込まれた。遼太郎は何か言いたそうな黒木に軽く手を振った。

 少し情けない顔をした黒木を乗せて扉が閉まり、遼太郎は手を下ろす。

 ――まあ、別に。いいけどさ。

 ふう、と息をついて髪をかき上げた。



「おっす。どした?」

 綾花が両手でコンビニのプリンを捧げ持って、人波が去ったエレベーターホールに現れた。

「いや、なにも……ってまだ食うの?」
「何を言う。甘いものは別腹でしょ」

 これ限定品なんだ~とニコニコしながらプリンを眺め回す。
 次のエレベーターが到着し、綾花と二人で乗り込む。

「……佐野くんさあ」
「ん?」
「あたしに惚れるのはダメだけど、相談には乗るからね」

 プリンを見つめながらそう言う。
 遼太郎は一瞬きょとんと綾花を見、くすりと笑ってしまった。

「一応訊くけど、なんで惚れるのはダメなの」
「ん? それはあたしには心に決めた人がいるからね」

 意外な答えに遼太郎は目を見開く。

 綾花は恋をしている。

 願わくば、その相手が自分のよく知っている声の大きい奴だといいなと、遼太郎は後輩の顔を思い浮かべてまた頬を緩めた。

「ところで、それはなんの本?」
「あ」

 先ほど、黒木がタンブラーを持って傘をさすのに、遼太郎が本を持ってやったのだ。

 あいつ、行きはどうやって持って行ったんだ。

 そう思うとあたふたしている黒木が想像できて笑ってしまい、綾花に「また一人笑い気持ちワルイ」と言われてしまった。


 scene 8. 〈了〉
 
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