上 下
135 / 144
漆の怪【ひとはしらのかみさま】

讃えよ雪花、訴えよ胡蝶、生まれ出ずるは報せ神

しおりを挟む
 リイン、リインと、鈴の鳴る音がした。
 心の中に、何者かの思考が入り込んでくるような、そんな感覚。
 押し流そうとしてもどうにもできずに、意識が遠のいていく。

 そして、俺自身の意識すら食い潰されて、〝彼女〟自身の記憶としてそれを体験することとなるのだ。

 リイン、リイン。

 記憶を蘇らせるような鈴の音が。
 しかし、彼女自身ではなく俺の中にその記憶を呼び起こす。

 ――そう、それは白い蝶の記憶。

 沈み込んでゆくように。思い出に浸るように。
 思考が、煙る。

 ――夢を、夢を見たんだ。予知夢を。防げない、未来の記憶を。

 詩子ちゃんの声が頭の中に響き渡る。
 そうして、俺の意識は思い出の中に溶けていく……。

 ◆

 夢を、夢を見たんだ。予知夢を。防げない、未来の記憶を。

 山々の窪地にあるこの土地の北のほうが崩れる夢だ。
 ああ、いつものかと、こ綺麗な布団から身を起こして枕元の鈴を鳴らす。

「はい、ねえさま。おはようございます。いかがなさいましたか?」
「いつものやつさ、詠子えいこ。北の崖のところ、青ケ谷さんのとこの坊ちゃんが足を踏み入れ、崩れた崖と共に川へ落ちるだろう。準備したまえ」
「はい」
「それと、もっと話し方を柔らかくすることを要求するよ。姉妹なんだから」
「う……ごめんなさい、ねえさま」
「家の中でならいいだろう?」
「ええ、そうね」

 彼女――詠子は私の唯一の家族。なによりも尊い、我が妹。
 村の人達は予知を見ることのできる私をどうやら神聖視しているようで、妹のこの子でさえ気安く接することを制限しようとする。それ、全ては私のためだとうそぶいているが、ただの他人様が私の心を勝手に語ろうなどというその態度がそもそも気に入らない。
 私は神なんかではないのだ。奴ら大人にはそれが分からんらしい。素直に私を頼り、はにかむ年下の子供達のほうが余程私の気持ちというものを分かっているだろうさ。

 私の予知は決して覆らないということを理解しきれていない子供達は、私を責めない。
 たとえば、今日という日に亡くなるだろう男の子も。その子と親しい子供達も、私を責めることはない。
 どうしようもないからだ。私だって、叶うのならこの身を持ってあの子達を守ってあげたい。身を削って傷を癒すことができようとも、死者を蘇らせることはできないのだ。

「ねえさま」
「ああ、今行くよ」

 リン、と鈴が鳴る。
 訪問する際に持つようにと渡された鈴。そして、その鈴を私の手首に結ぶのは我が自慢の妹が編んだ組紐だ。肌身離さず、いつも身につけている。

 さて、今日も仕事を始めよう。

 ――


 ある日、黒ずくめの旅の法師だと名乗る男が現れた。
 明らかに怪しい風態。以前出会った真っ赤なおかしな男と似た人間とはまた違った気配に、すぐさま村の人間には相手にしないようにと通達した。
 いずれは消えるだろう。村の人間が私の指示に従わないことなどないのだから。

 それから、また夢を見た。

 今度は、村全体が揺れる夜の夢。村の多くの人間が、そして詠子が崩れる家屋に巻き込まれてゆく予知。
 それを見て、私は恐怖というものを思い出してしまった。
 揺るがぬと信じていた妹の未来と、潰える運命にあると知った絶望を。

 私は、詳細を黙っていた。
 村の人間にはただ、大きな災害に備えよとだけ命じるだけ。

 そして、自室で布の人形を作る妹と村の様子を鑑みて……とっくに気づいていた。そして放置していた問題が間近に迫っていることを悟った。

 黒ずくめの法師は既にいなくなっていたが、村全体に大きなヒビを入れて去っていったことは知っていた。
 そして、あの赤い男の忠告が現実のものとなりかけていることが理解できていた。

 けれど、私は止まるつもりがない。
 いくら現人神あらひとがみと言われようが、私にはできないことが多すぎる。
 予知は揺るがないからと、死にゆく者をはなから気にかけず、見捨てていた。助けようとする努力も、予防しようとする努力もとっくに諦めてしまっていた。そんな私の「罪」は必ず罰せられる。そうでなければならない。

「もしかしたら、本当に神様になれたら……守りたいものを、全部守れるのかもしれないね」
「どうしましたか? ねえさま」
「いいや、詠子。君の白無垢姿を見るまで私はいなくなるわけにはいかないな、と思っただけさ」
「……そう、ですね。そんなときがくればいいのに」
「そんな暗い顔はおやめ。大丈夫だよ、君のことは私が守るから。きっと、きっとね。君の未来は明るい。予知のできる私が言うのだから、本当のことだよ」

 ひとつ、嘘をついて微笑む。
 ああ……本当に、神様になれば運命とやらを覆すことができるのだろうか。

 だから、私は知っていてなお、罠に足を踏み入れた。
 きっと痛い目に遭うだろう。苦しいだろう。死ぬとはそういうことだからだ。

「ねえ、ねえさま。いかないで」
「……」

 その日、一度だけあの子は私を引き止めた。
 ずっと作り続けていた、私と、あの子にどこか似ている人形を胸に抱いて。
 私は、全てを知っていた。
 これから、私は死ぬだろう。この子や、村の人達のために、永遠に予知を続ける神さまとなる。外から持ち込まれた儀式。本当に効果を成すかも分からぬその儀式を信じた者達の手によって死んでゆく。

「詠子、なにを泣いているんだい?」
「…………だって」
「いいかい、詠子。どこへ行ったって、見えなくたって、私はお前のお姉ちゃんだよ。お姉ちゃんは妹を守るものだ」
「でも、見えなかったら、分かりません」
「そうだね、そうしたら、心に思い浮かべてごらん? 私の顔を、声を、言葉を。お前の心の中を覗いてごらん? そこに、必ずあるはずだよ」

 静かに頷いて、目を瞑る詠子の髪に触れる。

「詠子は心配症だね。ただちょっとお祈りをしてくるだけだよ。今までとほとんど変わらない。そうだろう?」
「……うん」

 素直に頷いた詠子を抱きしめて、離す。

「ずっと、君を守るよ。私が、ずっと。だから安心おし」
「うん……うん」
「約束だよ。私を、忘れないでくれ」
「うん、約束する。ねえさまを、私は忘れない」

 次の日には、あの子はもう引き止めなかった。



 白い雪が桜のように積もる森の中。やがて、その純白の花は紅梅の色へと姿を変える。
 雪の届かない暗い祠は、けれど外よりも凍えるように冷たかった。

 外界とこの身を繋ぐ唯一の絆の証がチリリと音を鳴らす。
 呻き声すら出せぬ灼熱の痛みに息を漏らし、床板をギギギと爪で引っ掻いた。

 痛い、辛い、苦しい。
 でも、神様になれば、あの子達をきっと救うことができるから。
 痛い、辛い、苦しい。
 こんな苦しみ、あの子を失うだろう絶望に比べれば、なんて易いもの。
 痛い、辛い、苦しい。
 ああうるさいな。祈りの声なんて聞きたくない。あの子の声を聞かせてくれ。
 痛い、辛い、苦しい。
 私がいなくともあの子は歓迎されるのだろうか。寂しくはないだろうか。
 痛い、辛い、苦しい。
 まさかいじめられてなんかいないだろうな。そうしたら許さないぞ。
 痛い、辛い、苦しい。
 痛い、辛い、苦しい。
 痛い、辛い、苦しい。


 ――ああ、どうして私がこんな目に遭わないといけないんだ。


「っ……」

 私は今なにを思った……? 
 そんなの、いけない。そんなことを思ってはダメだ。
 私は、私は神様に、なるんだ。そうして、運命を変えるんだ。

 でも、嫌だ。
 嫌だ、嫌なんだ。あの子を守るなんていうちっぽけな約束ひとつ、守れそうにないことが。あの子の晴れ姿をこの目で見られないだろうことが。

 あの子は寂しくないか、なんて……違うだろう。私が寂しいだけなんだ。

 寂しい、寂しい、寒い、寒い、みんなのため、あの子のために、頑張りたいけれど、気持ちが抑えられない。真っ暗な気持ちが、この期に及んでどくどくと内側から溢れ出てくるのだ。

 嫌だ嫌だ。寂しい。痛いのは嫌だ。辛いのも嫌だ。苦しいのが嫌なんだ。

 私は死にたくない。
 当たり前だろ。誰が喜んで死ぬものか! 
 地の底から湧き上がり、体を這い回るような絶望と恐怖に唇を噛みしめる。

 せめて美しく死にたい、なんて馬鹿なことを思っていた。
 なんて、なんて醜い。私はこんなにも醜い人間だったのか。
 大人が憎い、あの子が妬ましい、どうして私がこんな目に! 

 嫌だ嫌だ嫌だ、あの子に合わせてくれ! どうかこの黒い気持ちを抑えつける術をくれ! 
 憎い、憎い、憎い。
 妬ましい、妬ましい、妬ましい。

 私じゃなくて、あいつらが死んでしまえばよかったのに。
 死の直前の恐怖で祠の扉を引っ掻く。

 出して、出して、出してくれ。

 チリチリと鳴る鈴が落ちていきそうな思考をつなぎとめる。

 出して、出して、出して。
 このまま手遅れになる前に。

 きっとお前達を恨んでしまう。妬んでしまう。害してしまう! 
 そんなことがないように、お願いだから開けてくれ。

 私は――





 ……



 ガラガラと崩れ去る家屋の中、なにかを探すあの子の手に触れて引っ張り、外へと連れ出す。

 家屋は、あの子を連れて私が出てくればすぐに崩れ落ちた。
 目的は達成した。やりたかったことを、できるようになった。
 守るという約束を果たせた。

 けれどなぜだろう。
 ちっとも嬉しくなく、私を置いて村の人間の中に紛れていくあの子を見送った。
 どうしよう、誰もが似たような顔に見えてくる。視界がブレる。

 神様になって、運命を変えた。
 なのに、黒い感情が沸き立つようにふつふつとこみ上げてきて、それを直前で抑え込む。

 ああ、でも、守らなければ。
 こんな状態でも、あの子だけは、守るんだ。

 降り積もった雪のように溶けて消えていく記憶を、必死に繋ぎ止めながら……

 おしら神として、私は此処へ永遠に足止めなのだ。




 ◆

 寂しげなその少女の背中を、俺はなにもできずに見ることしかできなかった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

少年、その愛 〜愛する男に斬られるのもまた甘美か?〜

西浦夕緋
キャラ文芸
【和風BL】【累計2万4千PV超】15歳の少年篤弘はある日、夏朗と名乗る17歳の少年と出会う。 彼は篤弘の初恋の少女が入信を望み続けた宗教団体・李凰国(りおうこく)の男だった。 亡くなった少女の想いを受け継ぎ篤弘は李凰国に入信するが、そこは想像を絶する世界である。 罪人の公開処刑、抗争する新興宗教団体に属する少女の殺害、 そして十数年前に親元から拉致され李凰国に迎え入れられた少年少女達の運命。 「愛する男に斬られるのもまた甘美か?」 李凰国に正義は存在しない。それでも彼は李凰国を愛した。 「おまえの愛の中に散りゆくことができるのを嬉しく思う。」 李凰国に生きる少年少女達の魂、信念、孤独、そして愛を描く。

側妃ですか!? ありがとうございます!!

Ryo-k
ファンタジー
『側妃制度』 それは陛下のためにある制度では決してなかった。 ではだれのためにあるのか…… 「――ありがとうございます!!」

だいたい死ぬ悲運の王女は絶対に幸せになりたい!〜努力とチートでどんな運命だって変えてみせます〜

十和とわ
ファンタジー
悲運の王女アミレス・ヘル・フォーロイトは、必ず十五歳で死ぬ。 目が覚めたら──私は、そんなバッドエンド確定の、乙女ゲームの悪役王女に転生していた。 ヒロインを全ルートで殺そうとするわ、身内に捨てられ殺されるわ、何故かほぼ全ルートで死ぬわ、な殺伐としたキャラクター。 それがアミレスなのだが……もちろん私は死にたくないし、絶対に幸せになりたい。 だからやってみせるぞ、バッドエンド回避!死亡フラグを全て叩き折って、ハッピーエンドを迎えるんだ! ……ところで、皆の様子が明らかに変な気がするんだけど。気のせいだよね……? 登場人物もれなく全員倫理観が欠如してしまった世界で、無自覚に色んな人達の人生を狂わせた結果、老若男女人外問わず異常に愛されるようになった転生王女様が、自分なりの幸せを見つけるまでの物語です。 〇主人公が異常なので、恋愛面はとにかくま〜ったり進みます。 〇基本的には隔日更新です。 〇なろう・カクヨム・ベリーズカフェでも連載中です。 〇略称は「しぬしあ」です。

宵風通り おもひで食堂

月ヶ瀬 杏
キャラ文芸
瑠璃色の空に辺りが包まれた宵の頃。 風のささやきに振り向いた先の通りに、人知れずそっと、その店はあるという。

30年待たされた異世界転移

明之 想
ファンタジー
 気づけば異世界にいた10歳のぼく。 「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」  こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。  右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。  でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。  あの日見た夢の続きを信じて。  ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!  くじけそうになっても努力を続け。  そうして、30年が経過。  ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。  しかも、20歳も若返った姿で。  異世界と日本の2つの世界で、  20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

転生したら貴族の息子の友人A(庶民)になりました。

ファンタジー
〈あらすじ〉 信号無視で突っ込んできたトラックに轢かれそうになった子どもを助けて代わりに轢かれた俺。 目が覚めると、そこは異世界!? あぁ、よくあるやつか。 食堂兼居酒屋を営む両親の元に転生した俺は、庶民なのに、領主の息子、つまりは貴族の坊ちゃんと関わることに…… 面倒ごとは御免なんだが。 魔力量“だけ”チートな主人公が、店を手伝いながら、学校で学びながら、冒険もしながら、領主の息子をからかいつつ(オイ)、のんびり(できたらいいな)ライフを満喫するお話。 誤字脱字の訂正、感想、などなど、お待ちしております。 やんわり決まってるけど、大体行き当たりばったりです。

処理中です...