上 下
52 / 144
伍の怪【シムルグの雛鳥】

休息のひととき

しおりを挟む
「いろはちゃん、寒くはない?」

 不意に、ナヴィドがいろはにそう問うた。

「はい? …… そうですね。このくらいの気温なら全然」
「そうか…… そのブレザーの下は夏服だろう? これから寒くなってくるから早めに衣替えしておいたほうがいいよ」
「分かるんですね…… まあその通りですし、気を付けますよ」

 彼女は相変わらず外を見ながらスケッチブックを取り出し、手元の鉛筆を弄んでいる。その線は薄く、タッチの柔らかい曲線を描いていく。

 引っかかることなくスケッチブックに迷わず線を引いていき、そのページが捲られる。早描きだと知っているナヴィドもその完成の速さに驚かされながら笑みを浮かべた。

「コンクール用の絵は進んでるかい?」
「ええ、あと二日くらいで完成すると思いますよ」

 スケッチブックから顔を上げ、緩く笑みを浮かべたいろはが言う。完成した姿を想像しているのか、細められた目はどこか遠くを見るように見えた。

 その碧眼が山吹色の月光を浴びて、彼にはとても儚げに見えただろう。ナヴィドはそんな彼女の様子を微笑ましく思っているようだ。

「そうかい。完成して見るのが楽しみだね。キミはいっつも完成するまで人に見せないんだから」
「人にわたしの絵を見せること自体がマレなんです。あなたが勝手に見た上あんなことを言うから仕方なく、ですよ」

 誇ってもいいんですよ、とでもいいたげなその言い方は通常一生徒が教師に発していい言葉ではない。しかしこともなげにそう言ったいろはにナヴィドはイラつく様子もせず明るく笑っている。

「そうだったね。感謝してるよ」
「……」

 こちらも当たり前のように出た言葉であったが、再びいろははスケッチブックに視線を下げ、黙ったまま右手を動かし始めた。涼しい顔はしているが俯き、照れ隠しとも取れるその行動に彼は深く追求することはなかった。

「…… そういえば、携帯電話が機能してませんけどこの6時66分ってどういうことなんでしょうか」
「ああ、それ? きっと悪魔…… 獣の数字ってやつだね」

 鉛筆を滑らしながら質問した彼女に、考える素振りもなくナヴィドが答える。

「日本ではそうでもないだろうけど、海外じゃあ不吉な数字としてよく挙げられるね」
「ああ、なんか映画なんかでそういうのがあった気がしますね」
「日本だともっぱら4とか9が不吉な文字として言われるけど、まあそれと似たようなものだよ。13もそうだね。でもこれは宗教関係が理由だから自然信仰の日本にはあまり関係ないことかな」

 スラスラとそう述べる彼にいろはは興味が湧いたのかスケッチブックを仕舞って、同じく回収作業を終えた彼と向き合うようにして座った。

「へぇ…… 先生はそういうのは信じてるんですか?」
「…… 信じてる、というよりは…… そうだな、私には関係ないことだと考えているかな。私の古い友に関わり合いのある者もいるけれど、私はあまり気にしていないよ」
「そうですか」

 なんだ残念、とでも言うように抑揚のない声で返事を返したいろはは暫し考えるように黙ると、再びナヴィドに問いかける。

「先生はこれ…… 出られると思いますか?」
「校庭もあんな感じだし、学校の敷地内は普通に出られる気がするね。ただ玄関が空かなかったことに意味があるのかってところが謎なんだけど……」

 顎髭をさすりながら窓の外を視線を向けた彼は、先程まで金魚がいて見えなかった校門を見た。しっかり閉まっていて、傍目にもとても開けそうにはない。上から無理に脱出しようとするのも危険が伴うかもしれないのだ。

 しかしそれは玄関が開かないこととはなんら関係がない。玄関が開かないのにはなにか理由があるのかもしれない。そういう意味で話した彼の言葉にいろはは頷いて自身の推測を口にする。

「なにか…… ちゃんと玄関から出ないとこの変になった学校からでられない、とか」
「ありそうだね…… 注意書きと出口についてはちゃんと考えた方が良さそうだ。特に注意書きは……」
「その注意書きも怪しいんですけど…… まあ、今はアレしかヒントになるものもなさそうですもんね」

 おかしな出来事が起きている学校の中で、親切にもヒントを示す張り紙があるなんて、罠にしか思えない。いろははそう言いたいのだ。真剣な表情で。

「ヒントは鵜呑みにしないほうがいいと思うんです」
「ああ、そうだね…… 文字も赤い絵の具みたいなもので書かれているし、あまり良いものではない気がするよ」

 いろはが最初に見た滲んだペンキの文字も、中庭にあったテーブルの文字も、保健室前の張り紙も文字は血のように赤かったのだ。血で書かれた注意書きなど、信用できるかは分からない。普通の文字で書かれていたとしても、普通は疑心が湧くものだ。二人はそう話し合い、注意書きは鵜呑みにしないことに決めた。

 そして話し合いが終わるとベットに座ったいろはが足を揺らしながら再び空を見上げ、ふと思いついたように言葉を零した。

「あの月…… もう少し色を薄くしたら先生の髪にそっくりですね」
「そうかい? まったく、キミは本当に絵が好きだね」

 軽く笑いながら、左肩の下で結んだ長めの髪をナヴィドは手に取って色を比べて見ている。
暗い海のような瞳が赤ぶち眼鏡の奥で細まり、視線をいろはに向けた。

「そう言うキミは、綺麗な秘色の髪をしているよね。地毛なんだっけ? かなり珍しいんじゃないかい?」
「ああ、はい。大変だったんですよ。黒染めしても戻っちゃいますし…… 今はきちんと診断書を取って学校に許可を得ています」

 いろはも肩についた自身の髪を手にすくって眺めている。しかし窓から降り注ぐ山吹色の月光によってその髪の色はいつもよりも心なしか明るく見えるようだ。次いでナヴィドのエプロンを指さして微笑む。

「美術準備室は先生の絵ばっかりですよね。いろんな鳥の絵…… 教卓の近くも鳥の絵が多いし、授業で外に出た時も先生は一人で野鳥の絵を描いてますよね」
「キミは風景画をよく描くよね。あとは動植物なんかの写実画だ。いつも時間一杯までキミは外にいるけど、キミは早描きだよね?何枚描いているんだい?」

 ナヴィドは教師として、そして自らが美術部に誘った生徒だからか、少々変わり種な彼女のことをよく知っているようだ。そんなナヴィドの話に、一瞬言葉に詰まった彼女は目を伏せてから彼の言葉に答える。

「…… 風景画は片手間でも描けますし、動物は描きやすいモチーフですからね。それに…… 喜んでもらえますから、結構な枚数描いてますよ。スケッチブックもすぐ一杯になっちゃいます」

 トートバッグを胸の前で抱きしめながらいろはが言う。
 相変わらず目は伏せられ、声に抑揚はなかったが表情は豊かに、口元が緩く笑んでいる。

「今日持ってるのは比較的新しいスケッチブックだよね」
「昨日切らしてしまって、買いに行ったんですよ」
「そうか」

 そこで、二人の会話は途切れた。

「キンギョ、減ってますよ。もうそろそろ行きましょう」

 いろはが外の景色に目を向けると、先程大量にいた金魚はその数を減らしていた。
 いろはに次いで目を向けたナヴィドもそれを確認し、静かに頷く。

「本当だね、今のうちに校門が開くか調べに行こうか」
「はい。窓は…… つっかえ棒でもして、閉められないようにしておきましょうか」
「うーん、カーテンじゃあ閉まってしまうかもしれないし、栄養関連の本でも開いて窓台にでも引っかけておこうか」

 そう言って彼は大きくて、そこそこ分厚い本を片手に持って来た。
いろははそれを見て、一つ頷く。

「あんまり分厚くても小さい辞書だと落ちちゃいそうですもんね。引っかかりやすいそれくらいの本だったら安心できそうです」
「よし、じゃあ外に出たらこれを窓台に開いて置こう」
「はい」

 二人は一冊の本を持ち出し、山吹色の月光が降り注ぐ校庭へと降り立った。

「これで良し」

 いろはが言う。そう高くない窓台に本を挟んで固定したのだ。
 そうしている彼女は上履きのままであったが、気にしてはいないようだ。ナヴィドも外で履くような革靴ではないが、気にするそぶりも見せない。

「行きましょうか」

 月光の中、二人は再び歩き出した。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

狐火の通る散歩道~月夜に集うあやかしの茶屋~

昼から山猫
キャラ文芸
とある宿場町の外れに、夜だけ現れる幻の茶屋があるという。“狐火の散歩道”と呼ばれる小道を辿った先で、動物の面をつけた客たちがひそやかに集い、奇妙な酒や菓子が振る舞われるらしい。旅人の詩夏(しか)は、偶然その茶屋を見つけてしまい、店主の白面(はくめん)と名乗る女性に迎えられる。そこには、人だけでなくあやかしも交わり、愚痴をこぼしたり笑い合ったりと不思議な温かみがあった。しかし、茶屋で交わされる噂話には、町を脅かす妖異の影がちらつく。詩夏は旅を続けるべきか、この茶屋で耳にした人々の嘆きやあやかしの警告を見過ごすべきか、揺れ動く。やがて狐火の灯が導く先には、茶屋を取り巻く秘密が待ち受けていた。

となりの京町家書店にはあやかし黒猫がいる!

葉方萌生
キャラ文芸
京都祇園、弥生小路にひっそりと佇む創業百年の老舗そば屋『やよい庵』で働く跡取り娘・月見彩葉。 うららかな春のある日、新しく隣にできた京町家書店『三つ葉書店』から黒猫が出てくるのを目撃する。 夜、月のない日に黒猫が喋り出すのを見てしまう。 「ええええ! 黒猫が喋ったーー!?」 四月、気持ちを新たに始まった彩葉の一年だったが、人語を喋る黒猫との出会いによって、日常が振り回されていく。 京町家書店×あやかし黒猫×イケメン書店員が繰り広げる、心温まる爽快ファンタジー!

異界の狭間のシェアハウス 〜西洋あやかし憑きの洋館でひとクセある同居人たちに囲まれて始める高校生活

海野宵人
キャラ文芸
待ちに待った、中学校の卒業式がやってきた。やっとだ。やっと卒業だ。 イギリス人の父を持つハーフの佐藤千紘は、不遇の中学生活を過ごした。 父親似の容姿のせいでガイジン呼ばわりされ、両親は相次いで行方がわからなくなり、彼女を引き取った伯父はモラハラで、伯母は彼女を家事にこきつかい、同い年の従姉妹からは嫌がらを受け、学校ではセクハラまがいのいじめがあり、散々な中学時代だった。 けれどもそこに、後見人だという弁護士ステファンが現れた。おかげで高校進学とともに伯父の家から解放される。 転居先は、東京都内にある洋館のシェアハウス。 ただし、訳あり。 住人もなかなか変わっている。 ときどきおかしな出来事の起きるシェアハウスで、楽しい高校生活が始まった。 なのに、せっかく離れられた従姉妹が、なぜかわざわざ転居先まで追いかけてきて絡もうとする。その上、訳ありの家は、やがて訳ありっぷりの本領を発揮してきて……。 裏で小人さんが頑張る、超ローテクなスマートハウスが舞台のローファンタジー。

麻雀少女激闘戦記【牌神話】

彼方
キャラ文芸
 この小説は読むことでもれなく『必ず』麻雀が強くなります。全人類誰もが必ずです。  そういう魔法を込めて書いてあるので、麻雀が強くなりたい人はもちろんのこと、麻雀に興味がある人も全員読むことをおすすめします。  大丈夫! 例外はありません。あなたも必ず強くなります!   私は本物の魔法使いなので。 彼方 ◆◇◆◇ 〜麻雀少女激闘戦記【牌神話】〜  ──人はごく稀に神化するという。  ある仮説によれば全ての神々には元の姿があり、なんらかのきっかけで神へと姿を変えることがあるとか。  そして神は様々な所に現れる。それは麻雀界とて例外ではない。  この話は、麻雀の神とそれに深く関わった少女あるいは少年たちの熱い青春の物語。その大全である。   ◆◇◆◇ もくじ 【メインストーリー】 一章 財前姉妹 二章 闇メン 三章 護りのミサト! 四章 スノウドロップ 伍章 ジンギ! 六章 あなた好みに切ってください 七章 コバヤシ君の日報 八章 カラスたちの戯れ 【サイドストーリー】 1.西団地のヒロイン 2.厳重注意! 3.約束 4.愛さん 5.相合傘 6.猫 7.木嶋秀樹の自慢話 【テーマソング】 戦場の足跡 【エンディング】 結果ロンhappy end イラストはしろねこ。さん

ルナール古書店の秘密

志波 連
キャラ文芸
両親を事故で亡くした松本聡志は、海のきれいな田舎町に住む祖母の家へとやってきた。  その事故によって顔に酷い傷痕が残ってしまった聡志に友人はいない。  それでもこの町にいるしかないと知っている聡志は、可愛がってくれる祖母を悲しませないために、毎日を懸命に生きていこうと努力していた。  そして、この町に来て五年目の夏、聡志は海の家で人生初のバイトに挑戦した。  先輩たちに無視されつつも、休むことなく頑張る聡志は、海岸への階段にある「ルナール古書店」の店主や、バイト先である「海の家」の店長らとかかわっていくうちに、自分が何ものだったのかを知ることになるのだった。  表紙は写真ACより引用しています

虫けら転生録

或哉
ファンタジー
転生したら、虫けらだった!? 世界最弱に転生した男が、前世で叶わなかった“幸せ”を掴む為... 最弱が、いずれ最強へ至る物語。 自分の初投稿作品になります。 定期更新諦めましt(( 無理のない範囲でのんびりやっていこうと思います。 ★の付いているお話は、主人公視点ではなく、別のキャラの お話になります。

絶世の美女の侍女になりました。

秋月一花
キャラ文芸
 十三歳の朱亞(シュア)は、自分を育ててくれた祖父が亡くなったことをきっかけに住んでいた村から旅に出た。  旅の道中、皇帝陛下が美女を後宮に招くために港町に向かっていることを知った朱亞は、好奇心を抑えられず一目見てみたいと港町へ目的地を決めた。  山の中を歩いていると、雨の匂いを感じ取り近くにあった山小屋で雨宿りをすることにした。山小屋で雨が止むのを待っていると、ふと人の声が聞こえてびしょ濡れになってしまった女性を招き入れる。  女性の名は桜綾(ヨウリン)。彼女こそが、皇帝陛下が自ら迎えに行った絶世の美女であった。  しかし、彼女は後宮に行きたくない様子。  ところが皇帝陛下が山小屋で彼女を見つけてしまい、一緒にいた朱亞まで巻き込まれる形で後宮に向かうことになった。  後宮で知っている人がいないから、朱亞を侍女にしたいという願いを皇帝陛下は承諾してしまい、朱亞も桜綾の侍女として後宮で暮らすことになってしまった。  祖父からの教えをきっちりと受け継いでいる朱亞と、絶世の美女である桜綾が後宮でいろいろなことを解決したりする物語。

神木さんちのお兄ちゃん!

雪桜
キャラ文芸
✨ キャラ文芸ランキング週間・月間1位&累計250万pt突破、ありがとうございます! 神木家の双子の妹弟・華と蓮には"絶世の美男子"と言われるほどの金髪碧眼な『兄』がいる。 美人でカッコよくて、その上優しいお兄ちゃんは、常にみんなの人気者! だけど、そんな兄には、何故か彼女がいなかった。 幼い頃に母を亡くし、いつも母親代わりだったお兄ちゃん。もしかして、お兄ちゃんが彼女が作らないのは自分達のせい?! そう思った華と蓮は、兄のためにも自立することを決意する。 だけど、このお兄ちゃん。実は、家族しか愛せない超拗らせた兄だった! これは、モテまくってるくせに家族しか愛せない美人すぎるお兄ちゃんと、兄離れしたいけど、なかなか出来ない双子の妹弟が繰り広げる、甘くて優しくて、ちょっぴり切ない愛と絆のハートフルラブ(家族愛)コメディ。 果たして、家族しか愛せないお兄ちゃんに、恋人ができる日はくるのか? これは、美人すぎるお兄ちゃんがいる神木一家の、波乱万丈な日々を綴った物語である。 *** イラストは、全て自作です。 カクヨムにて、先行連載中。

処理中です...