赤信号が変わるまで

いちどめし

文字の大きさ
上 下
4 / 45
第一話 C side

タクシーにて ①

しおりを挟む
 チヒロが自宅の住所を告げると、運転手はゆっくりと車を走らせた。
 運転手は目の細い、それでいて温和そうな年嵩の男性で、バックミラー越しに一瞬だけ彼と目を合わせたチヒロは、決して望ましくはない気持ちの昂ぶりがやんわりと静まっていくのを感じていた。

「それにしてもお嬢さん」

 決して美声ではない、年季を感じさせる磨耗した声。
 それでも発音の良いはきはきとした運転手の言葉は、安心感のある声としてチヒロの耳に響く。

「こんな時間に、あんな何もない場所で、いったい」
 何をしていたんですか。
 省略された言葉の続きを、チヒロは頭の中で繰り返していた。
 再度バックミラーを見てみると、それを察したのか運転手の黒目が動き、鏡越しにチヒロのことを見据えた。
 なぜだかチヒロは慌ててしまい、急いで窓の外へと目をやる。

 何をしていたんですか。
 その質問に対する回答は赤の他人に話す内容ではない上に、たとえ話してしまうのだとしても、あまりうまい具合には説明のできない内容だった。
 チヒロは窓に映る自分の姿を見て、無意識のうちに前髪を触っていたことに気づくと、その手を口元に添えた。

「ああ、いや、ね」

 運転手の声。
 磨耗した声質からすれば、意外なほどに大きな声だった。
 慌てたような、照れ隠しのような口ぶり。

「質問しておいてこう言うのもおかしいのかも知れませんがね、質問に答えてほしいわけじゃあないんですよ」

 はあ、と、チヒロの口からは返事とも吐息ともつかない音が漏れる。
 運転手は返事ととらえたのか、それとも返事を待つつもりもなかったのか、二回呼吸をする間を置いて口を開いた。

「こんなことを言っちゃあ変に思われるかも知れませんが、何が言いたかったのかと申しますとね」

 よく喋る運転手だと、チヒロは思った。
 人並みに話好きである自覚はあったけれど、今はあまり、自ら口を開きたいような気分ではなかった。
 それでも、特に多くを語ることを求められていないためか、悪い気はしない。

 窓の外では、赤い光をもやのように薄ぼんやりと放ちながら、歩行者用信号機が後退していく。

「幽霊じゃ、ありませんよね」

 全身を強く揺さぶられるような、頭の中を引っ掻かれるような、なんとも言いがたい衝撃がチヒロを襲った。
 紛れもなく、運転手の吐いた幽霊という単語のせいだった。
 運転席に目をやると、白髪交じりの穏やかな後姿が座っている。
 記憶の中には単語が残っているだけで、どんな語調だったのかを全く認識していなかったチヒロには、運転手のその言葉がどんな意味を持っていたのかを判断することがかなわなかった。

 どうしようもなく広がる沈黙。
 運転手はチヒロの困惑を悟ったようで、再び取り繕うようにして口を開く。

「ああ、いえ、何と言いますかね」

 タクシーが減速し、停まる。
 窓の外では赤信号が点滅していた。運転手はシートから背中を浮かせて左右を確認すると、ちらりとバックミラー越しにチヒロの姿を確認してからハンドルを左に切った。

「私はこの仕事を始めてから、そう長いほうではありませんからね」

 気楽な口ぶり。

「いや、長く続けていれば遭遇する、という類のものではないのかも分かりませんが、私はいまだかつて、幽霊を客として乗せてしまったことがありませんので、失礼な話ですがーー」

 目の周りをくしゃくしゃにして笑っているのが、斜め後ろからでもよく分かる。

「あなたがもしかしたら、と……大変失礼な話ですがね、そう勘ぐりだすと、怖いやら緊張するやらで」

「失礼な話ですね」

 運転手の気楽さにほだされて、チヒロの表情にも自然と笑みが灯る。
 運転手は、ははあ、とため息のような笑い声を漏らすと、これは失礼、とやはり気楽な風に言った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

私が死ねば楽になれるのでしょう?~愛妻家の後悔~

希猫 ゆうみ
恋愛
伯爵令嬢オリヴィアは伯爵令息ダーフィトと婚約中。 しかし結婚準備中オリヴィアは熱病に罹り冷酷にも婚約破棄されてしまう。 それを知った幼馴染の伯爵令息リカードがオリヴィアへの愛を伝えるが…  【 ⚠ 】 ・前半は夫婦の闘病記です。合わない方は自衛のほどお願いいたします。 ・架空の猛毒です。作中の症状は抗生物質の発明以前に猛威を奮った複数の症例を参考にしています。尚、R15はこの為です。

壁の薄いアパートで、隣の部屋から喘ぎ声がする

サドラ
恋愛
最近付き合い始めた彼女とアパートにいる主人公。しかし、隣の部屋からの喘ぎ声が壁が薄いせいで聞こえてくる。そのせいで欲情が刺激された両者はー

王命を忘れた恋

須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』  そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。  強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?  そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。

婚約者の心の声が聞こえるようになったけど、私より妹の方がいいらしい

今川幸乃
恋愛
父の再婚で新しい母や妹が出来た公爵令嬢のエレナは継母オードリーや義妹マリーに苛められていた。 父もオードリーに情が移っており、家の中は敵ばかり。 そんなエレナが唯一気を許せるのは婚約相手のオリバーだけだった。 しかしある日、優しい婚約者だと思っていたオリバーの心の声が聞こえてしまう。 ”またエレナと話すのか、面倒だな。早くマリーと会いたいけど隠すの面倒くさいな” 失意のうちに街を駆けまわったエレナは街で少し不思議な青年と出会い、親しくなる。 実は彼はお忍びで街をうろうろしていた王子ルインであった。 オリバーはマリーと結ばれるため、エレナに婚約破棄を宣言する。 その後ルインと正式に結ばれたエレナとは裏腹に、オリバーとマリーは浮気やエレナへのいじめが露見し、貴族社会で孤立していくのであった。

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

処理中です...