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第一話 C side
タクシーにて ①
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チヒロが自宅の住所を告げると、運転手はゆっくりと車を走らせた。
運転手は目の細い、それでいて温和そうな年嵩の男性で、バックミラー越しに一瞬だけ彼と目を合わせたチヒロは、決して望ましくはない気持ちの昂ぶりがやんわりと静まっていくのを感じていた。
「それにしてもお嬢さん」
決して美声ではない、年季を感じさせる磨耗した声。
それでも発音の良いはきはきとした運転手の言葉は、安心感のある声としてチヒロの耳に響く。
「こんな時間に、あんな何もない場所で、いったい」
何をしていたんですか。
省略された言葉の続きを、チヒロは頭の中で繰り返していた。
再度バックミラーを見てみると、それを察したのか運転手の黒目が動き、鏡越しにチヒロのことを見据えた。
なぜだかチヒロは慌ててしまい、急いで窓の外へと目をやる。
何をしていたんですか。
その質問に対する回答は赤の他人に話す内容ではない上に、たとえ話してしまうのだとしても、あまりうまい具合には説明のできない内容だった。
チヒロは窓に映る自分の姿を見て、無意識のうちに前髪を触っていたことに気づくと、その手を口元に添えた。
「ああ、いや、ね」
運転手の声。
磨耗した声質からすれば、意外なほどに大きな声だった。
慌てたような、照れ隠しのような口ぶり。
「質問しておいてこう言うのもおかしいのかも知れませんがね、質問に答えてほしいわけじゃあないんですよ」
はあ、と、チヒロの口からは返事とも吐息ともつかない音が漏れる。
運転手は返事ととらえたのか、それとも返事を待つつもりもなかったのか、二回呼吸をする間を置いて口を開いた。
「こんなことを言っちゃあ変に思われるかも知れませんが、何が言いたかったのかと申しますとね」
よく喋る運転手だと、チヒロは思った。
人並みに話好きである自覚はあったけれど、今はあまり、自ら口を開きたいような気分ではなかった。
それでも、特に多くを語ることを求められていないためか、悪い気はしない。
窓の外では、赤い光をもやのように薄ぼんやりと放ちながら、歩行者用信号機が後退していく。
「幽霊じゃ、ありませんよね」
全身を強く揺さぶられるような、頭の中を引っ掻かれるような、なんとも言いがたい衝撃がチヒロを襲った。
紛れもなく、運転手の吐いた幽霊という単語のせいだった。
運転席に目をやると、白髪交じりの穏やかな後姿が座っている。
記憶の中には単語が残っているだけで、どんな語調だったのかを全く認識していなかったチヒロには、運転手のその言葉がどんな意味を持っていたのかを判断することがかなわなかった。
どうしようもなく広がる沈黙。
運転手はチヒロの困惑を悟ったようで、再び取り繕うようにして口を開く。
「ああ、いえ、何と言いますかね」
タクシーが減速し、停まる。
窓の外では赤信号が点滅していた。運転手はシートから背中を浮かせて左右を確認すると、ちらりとバックミラー越しにチヒロの姿を確認してからハンドルを左に切った。
「私はこの仕事を始めてから、そう長いほうではありませんからね」
気楽な口ぶり。
「いや、長く続けていれば遭遇する、という類のものではないのかも分かりませんが、私はいまだかつて、幽霊を客として乗せてしまったことがありませんので、失礼な話ですがーー」
目の周りをくしゃくしゃにして笑っているのが、斜め後ろからでもよく分かる。
「あなたがもしかしたら、と……大変失礼な話ですがね、そう勘ぐりだすと、怖いやら緊張するやらで」
「失礼な話ですね」
運転手の気楽さにほだされて、チヒロの表情にも自然と笑みが灯る。
運転手は、ははあ、とため息のような笑い声を漏らすと、これは失礼、とやはり気楽な風に言った。
運転手は目の細い、それでいて温和そうな年嵩の男性で、バックミラー越しに一瞬だけ彼と目を合わせたチヒロは、決して望ましくはない気持ちの昂ぶりがやんわりと静まっていくのを感じていた。
「それにしてもお嬢さん」
決して美声ではない、年季を感じさせる磨耗した声。
それでも発音の良いはきはきとした運転手の言葉は、安心感のある声としてチヒロの耳に響く。
「こんな時間に、あんな何もない場所で、いったい」
何をしていたんですか。
省略された言葉の続きを、チヒロは頭の中で繰り返していた。
再度バックミラーを見てみると、それを察したのか運転手の黒目が動き、鏡越しにチヒロのことを見据えた。
なぜだかチヒロは慌ててしまい、急いで窓の外へと目をやる。
何をしていたんですか。
その質問に対する回答は赤の他人に話す内容ではない上に、たとえ話してしまうのだとしても、あまりうまい具合には説明のできない内容だった。
チヒロは窓に映る自分の姿を見て、無意識のうちに前髪を触っていたことに気づくと、その手を口元に添えた。
「ああ、いや、ね」
運転手の声。
磨耗した声質からすれば、意外なほどに大きな声だった。
慌てたような、照れ隠しのような口ぶり。
「質問しておいてこう言うのもおかしいのかも知れませんがね、質問に答えてほしいわけじゃあないんですよ」
はあ、と、チヒロの口からは返事とも吐息ともつかない音が漏れる。
運転手は返事ととらえたのか、それとも返事を待つつもりもなかったのか、二回呼吸をする間を置いて口を開いた。
「こんなことを言っちゃあ変に思われるかも知れませんが、何が言いたかったのかと申しますとね」
よく喋る運転手だと、チヒロは思った。
人並みに話好きである自覚はあったけれど、今はあまり、自ら口を開きたいような気分ではなかった。
それでも、特に多くを語ることを求められていないためか、悪い気はしない。
窓の外では、赤い光をもやのように薄ぼんやりと放ちながら、歩行者用信号機が後退していく。
「幽霊じゃ、ありませんよね」
全身を強く揺さぶられるような、頭の中を引っ掻かれるような、なんとも言いがたい衝撃がチヒロを襲った。
紛れもなく、運転手の吐いた幽霊という単語のせいだった。
運転席に目をやると、白髪交じりの穏やかな後姿が座っている。
記憶の中には単語が残っているだけで、どんな語調だったのかを全く認識していなかったチヒロには、運転手のその言葉がどんな意味を持っていたのかを判断することがかなわなかった。
どうしようもなく広がる沈黙。
運転手はチヒロの困惑を悟ったようで、再び取り繕うようにして口を開く。
「ああ、いえ、何と言いますかね」
タクシーが減速し、停まる。
窓の外では赤信号が点滅していた。運転手はシートから背中を浮かせて左右を確認すると、ちらりとバックミラー越しにチヒロの姿を確認してからハンドルを左に切った。
「私はこの仕事を始めてから、そう長いほうではありませんからね」
気楽な口ぶり。
「いや、長く続けていれば遭遇する、という類のものではないのかも分かりませんが、私はいまだかつて、幽霊を客として乗せてしまったことがありませんので、失礼な話ですがーー」
目の周りをくしゃくしゃにして笑っているのが、斜め後ろからでもよく分かる。
「あなたがもしかしたら、と……大変失礼な話ですがね、そう勘ぐりだすと、怖いやら緊張するやらで」
「失礼な話ですね」
運転手の気楽さにほだされて、チヒロの表情にも自然と笑みが灯る。
運転手は、ははあ、とため息のような笑い声を漏らすと、これは失礼、とやはり気楽な風に言った。
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