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起
悪霊退治④
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「さて、仕上げといくか」
「仕上げって、お札を貼って終わりじゃあないのかい」
見ると、ハルヒコは自動販売機の前に立って腕組みをしている。
さあ帰ろうと車へ向かいかけていた僕は、ゴミ箱の前に駆け戻るとお札の貼ってあるはずの場所をゴミ箱越しに凝視してみる。
「今からお経を読むのさ」
組んでいた腕を崩して、テープやハサミが入っていたのとは反対側のポケットから数珠を取り出し、ハルヒコは合掌する。
僕もその場で自動販売機に向かい、手を合わせた。
「結構、ちゃんとやるじゃないか。でも、お経なんて読めるのかい」
「般若心経くらいなら暗唱できるさ」
「そ、それで良いのかな」
ハルヒコはにやつく代わりに目を閉じると、
「ないよりはマシだろう」
低く小さい声でお経を読み始めた。
僕には最初のあたりしか般若心経が分からないけれど、支えることなく、僧侶さながらのスムーズさで一字一字を詠いあげるハルヒコの般若心経は、きっとそのうちのたった一字さえ間違ってはいないのだろう。
何かが乗り移ったのかとさえ思わせるほど粛々とした友人の姿を、僕は目を見開いて、こちらも何かに憑かれてしまったかのように眺め続けていた。
こうしてお経が読まれているときは目を閉じているものだと思ってはいるものの、この場所この雰囲気は、僕の目蓋に上向きのベクトルしか与えてはくれなかった。
それが、いけなかった。
お経を読むハルヒコの横顔。
その先で真っ直ぐ続く道の中に、恐ろしく不吉なものを見てしまった。
白に近い色のワンピースを着た、黒い髪の女性。
長い前髪で顔が隠れきるほどにうつむいて、しかし彼女は確実にこちらを見ている。
直感した。
あれは、いけない。
この間の幽霊とは違う。
だけど、あれはどう考えてもまずい。
まだ僕らと彼女との距離は、ハルヒコのお経の声が聞こえていないであろう遠さをもっているけれど、彼女が一歩でも歩き出せば、息つく間もなくゼロになってしまうだろう。
僕の脳内に染み込んでくるこの懸念は、はたしてただの妄想だと言い切ることができるだろうか。
ハルヒコの声が、今までよりもいっそう低くなる。
それはこの状況を察したのではなくて、読経が最終盤に突入したからなのだろう。
ハルヒコは合掌した手を数珠と一緒に擦り合わせ、少しだけ力強い声で
「般若心経」
と唱えると、目を開きながらこちらを向いて、照れくさそうににやけてみせた。
「よし、終わり。我ながら様になっていたような気がするよ」
まだ、ハルヒコは気づいていない。
俯いた女に、背中をさらしていることを知らない。
「そんな顔して、まだ不安なのかい。大丈夫だよ。あのお札は知り合いの神主に譲ってもらった、ちゃんとしたお札なんだ」
まだ、気づいていない。
「しかし残念だよな。その幽霊が出てきたら、こう、顔面に貼ってやったのに」
さすがに、僕の様子から何かを察したのだろう。
軽口を叩いたばかりでにやついた顔を硬化させ、ハルヒコはそのままの顔で僕の視線を追った。
街灯の明かりなど押しつぶしてしまいそうな闇。
闇の中にひっそりと、しかしあまりにもくっきりと浮かび上がる女性。
細かく首を動かしながら何かを探すハルヒコは、まだ彼女の存在に気づいていないらしい。
「おい」
今、気づいた。
「おい、あれ」
早口で、無感情な声。
あれ。
そう、ハルヒコは間違いなく彼女のことを言っている。
「霊か」
「さあ」
喉が渇いた。
絞り出そうとしてもろくな言葉が浮かんでこない。
「退治したかったやつか」
「違う」
退治したかった、あの少女の霊とは明らかに違う。
僕とチヒロの邪魔をしたのはどう考えても子供だったけれど、今こちらを見ている女性はとても子供には見えない。
「じゃあ何だ」
「知らないよ」
「霊か」
最初の質問に戻ったかのようなハルヒコの言葉は、しかし先ほどのものとは違い確信の色を含んでいた。
この場に存在する全ての要素を集約して考えてみれば、その可能性を否定することなどできるはずもないのだ。
「まさか」
それでも僕は否定した。
例え言葉の上だけだとしても否定しなければ、その可能性は事実になってしまうような気がしたからだ。
「そうか、だよな、違うよな」
そんな僕の思惑を察したのか、ハルヒコは早口で言い切ると、ひぇひぇっと少しだけ笑い声をあげてすぐに静かになった。
息をしているのかさえも分からないハルヒコの後ろ姿は、僕のことを一呼吸ごとに不安にさせる。
「あの、ハルヒコ」
「帰るぞ」
短く。
たった今思い出したかのように、ハルヒコは短くその言葉を解き放った。
「そうだな」
僕は、ハルヒコがそう言ってくれるのを待っていたのに違いなかった。
だからハルヒコが短く素早く前触れも脈絡すらなく言い切ったその言葉は、僕にとっては唐突でも予想外でもなんでもなかった。
僕らの会話は「帰るぞ」「そうだな」に終結すると最初から決まっていたのだ。
「そうだな」と言い切って、ハルヒコと二人で急いで車に乗り込んだ僕には、そう思えた。
普段よりも冷静にエンジンキーを回し、普段よりも慎重にアクセルペダルを踏み込んだ僕は、たぶん、俯いた女性を通り越したのだろう。
去り際に彼女の姿を見ることなど、僕にはできるはずもなかった。
「仕上げって、お札を貼って終わりじゃあないのかい」
見ると、ハルヒコは自動販売機の前に立って腕組みをしている。
さあ帰ろうと車へ向かいかけていた僕は、ゴミ箱の前に駆け戻るとお札の貼ってあるはずの場所をゴミ箱越しに凝視してみる。
「今からお経を読むのさ」
組んでいた腕を崩して、テープやハサミが入っていたのとは反対側のポケットから数珠を取り出し、ハルヒコは合掌する。
僕もその場で自動販売機に向かい、手を合わせた。
「結構、ちゃんとやるじゃないか。でも、お経なんて読めるのかい」
「般若心経くらいなら暗唱できるさ」
「そ、それで良いのかな」
ハルヒコはにやつく代わりに目を閉じると、
「ないよりはマシだろう」
低く小さい声でお経を読み始めた。
僕には最初のあたりしか般若心経が分からないけれど、支えることなく、僧侶さながらのスムーズさで一字一字を詠いあげるハルヒコの般若心経は、きっとそのうちのたった一字さえ間違ってはいないのだろう。
何かが乗り移ったのかとさえ思わせるほど粛々とした友人の姿を、僕は目を見開いて、こちらも何かに憑かれてしまったかのように眺め続けていた。
こうしてお経が読まれているときは目を閉じているものだと思ってはいるものの、この場所この雰囲気は、僕の目蓋に上向きのベクトルしか与えてはくれなかった。
それが、いけなかった。
お経を読むハルヒコの横顔。
その先で真っ直ぐ続く道の中に、恐ろしく不吉なものを見てしまった。
白に近い色のワンピースを着た、黒い髪の女性。
長い前髪で顔が隠れきるほどにうつむいて、しかし彼女は確実にこちらを見ている。
直感した。
あれは、いけない。
この間の幽霊とは違う。
だけど、あれはどう考えてもまずい。
まだ僕らと彼女との距離は、ハルヒコのお経の声が聞こえていないであろう遠さをもっているけれど、彼女が一歩でも歩き出せば、息つく間もなくゼロになってしまうだろう。
僕の脳内に染み込んでくるこの懸念は、はたしてただの妄想だと言い切ることができるだろうか。
ハルヒコの声が、今までよりもいっそう低くなる。
それはこの状況を察したのではなくて、読経が最終盤に突入したからなのだろう。
ハルヒコは合掌した手を数珠と一緒に擦り合わせ、少しだけ力強い声で
「般若心経」
と唱えると、目を開きながらこちらを向いて、照れくさそうににやけてみせた。
「よし、終わり。我ながら様になっていたような気がするよ」
まだ、ハルヒコは気づいていない。
俯いた女に、背中をさらしていることを知らない。
「そんな顔して、まだ不安なのかい。大丈夫だよ。あのお札は知り合いの神主に譲ってもらった、ちゃんとしたお札なんだ」
まだ、気づいていない。
「しかし残念だよな。その幽霊が出てきたら、こう、顔面に貼ってやったのに」
さすがに、僕の様子から何かを察したのだろう。
軽口を叩いたばかりでにやついた顔を硬化させ、ハルヒコはそのままの顔で僕の視線を追った。
街灯の明かりなど押しつぶしてしまいそうな闇。
闇の中にひっそりと、しかしあまりにもくっきりと浮かび上がる女性。
細かく首を動かしながら何かを探すハルヒコは、まだ彼女の存在に気づいていないらしい。
「おい」
今、気づいた。
「おい、あれ」
早口で、無感情な声。
あれ。
そう、ハルヒコは間違いなく彼女のことを言っている。
「霊か」
「さあ」
喉が渇いた。
絞り出そうとしてもろくな言葉が浮かんでこない。
「退治したかったやつか」
「違う」
退治したかった、あの少女の霊とは明らかに違う。
僕とチヒロの邪魔をしたのはどう考えても子供だったけれど、今こちらを見ている女性はとても子供には見えない。
「じゃあ何だ」
「知らないよ」
「霊か」
最初の質問に戻ったかのようなハルヒコの言葉は、しかし先ほどのものとは違い確信の色を含んでいた。
この場に存在する全ての要素を集約して考えてみれば、その可能性を否定することなどできるはずもないのだ。
「まさか」
それでも僕は否定した。
例え言葉の上だけだとしても否定しなければ、その可能性は事実になってしまうような気がしたからだ。
「そうか、だよな、違うよな」
そんな僕の思惑を察したのか、ハルヒコは早口で言い切ると、ひぇひぇっと少しだけ笑い声をあげてすぐに静かになった。
息をしているのかさえも分からないハルヒコの後ろ姿は、僕のことを一呼吸ごとに不安にさせる。
「あの、ハルヒコ」
「帰るぞ」
短く。
たった今思い出したかのように、ハルヒコは短くその言葉を解き放った。
「そうだな」
僕は、ハルヒコがそう言ってくれるのを待っていたのに違いなかった。
だからハルヒコが短く素早く前触れも脈絡すらなく言い切ったその言葉は、僕にとっては唐突でも予想外でもなんでもなかった。
僕らの会話は「帰るぞ」「そうだな」に終結すると最初から決まっていたのだ。
「そうだな」と言い切って、ハルヒコと二人で急いで車に乗り込んだ僕には、そう思えた。
普段よりも冷静にエンジンキーを回し、普段よりも慎重にアクセルペダルを踏み込んだ僕は、たぶん、俯いた女性を通り越したのだろう。
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