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第十一章 大嘘

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 そうかいすぎ中央病院。杉戸町内にある、救急病院だ。
 救急救命室近くの、通路の長椅子にわたしたちは座っている。

 病院という雰囲気がわたしたちをより緊迫させてしまうのか、わたしたちの緊迫感がより病院の雰囲気を重くしてしまっているか、分からない。
 分かっているのは、それほどにわたしたちはどんより落ち込んだような、暗いオーラを吐き出していたということ。

 わたしの隣で、ガソリンは両手を組み祈り続けている。お願いします、お願いします、と、囁き続けている。

 救急救命室の中にいるのは誰か、いうまでもないだろう。ボスだ。学校で突然血を吐いて倒れ、救急車で搬送されて来たのだ。

 わたしたちは授業に出るようにといわれたのだけど、いてもたってもいられずに黙って学校を抜け出し、走って病院へ。

 病院にはボスの担任である大崎先生がいて、なにやっているんだとこっぴどく怒られたけど、追い返されることはなかった。戻っても六時限目に少し出られるくらいだし今更ということか、それとも友達を心配する気持ちを汲んでくれたのか。

「ボスの……浜野さんのお父さんと、連絡取れたんですか?」

 わたしは大崎先生に尋ねた。
 愚問だな、と思いながら。だって、連絡が取れたとして、それでなにがどうなるわけでもないからだ。あんなお父さんでは。

「いや、全然だ。確か無職の人だけど、出掛けているのかな」

 出掛けているかも知れないけど、家にいる可能性も充分にあるだろう。だって娘への虐待の追求を恐れて、児童福祉施設に対して居留守をつかっているくらいだからな。

 白衣を着た女性がやってきて、大崎先生になにらやぼそぼそとした声で話し掛け、戻って行った。
 大崎先生は、くるりわたしたちを向いた。

「やっぱり、お前たちはもう帰れ」

 突然のその言葉に、わたしたちはみな不満げな表情になった。

「でも」

 サテツが、抗議するような視線を先生へ向ける。

「ボスがどうなるか分からないのに……」

 ガソリンがイラついたように唇をとがらせた。

「このまま戻ったって辛いだけですってばあ、せんせえ」

 アキレスが泣きそうな顔で懇願した。

「大丈夫。とりあえず意識は回復したってことだ。このままいても状況は変わらんし、どうせ今日は会うことも出来ないんだぞ」

 このようにいわてしまっては、帰るしかなかった。
 意識が戻った、と、最悪の事態が避けられたことのみに心を慰められなければならないことは、なんともじれったかった。

     2
「大崎先生!」

 ざわつきを掻き消すかのような大声で、ガソリンは先生を呼び止めた。
 大崎健二先生。ボスのクラスの担任だ。
 くるり振り向き、わたしたちに気が付くと、まだ三十代だというのにカッパのように禿げている頭頂部を撫でた。

 休み時間。ここは、五年生の教室がある廊下だ。
 生徒らのごちゃごちゃした中を掻き分けて、わたしとガソリンは先生のそばに駆け寄った。

 どのような話を持ち掛けられるか想像付いているのだろう。先生は少し歩いて、おそらく人混みを避けるため、給食用エレベーターのある部屋へと入った。
 わたしたちも続く。

「浜野さんの病気、分かったんですか?」

 廊下にいる生徒に聞かれないよう声を潜めながらも、ガソリンの質問は速球一直線だった。
 先生は、うーんと考え込んで、禿げた頭頂部を指先でつるりつるり撫でる。

「まだな、教えられないんだよ」

 それが先生の回答だった。
 でもそれで引き下がるわたしたち、というより、ガソリンではなかった。

「先生! あたしたちはボスの……浜野さんの、傷だらけのところや、酷い咳、血を吐いたりしているところ、そんなのをたくさん見てきているんですよ! ボスもそうしたところを、あたしたちには晒してくれている。それほどの仲だというのに、心からの親友だというのに、それを教えてくれないってんじゃあ、あまりに酷いですよ! 教育者のくせに、やってること逆じゃないですか!」

 真摯に訴えるが、多分に嘘が混じっている。だってボスは、様々なことをさらけ出そうとするどころか、むしろ必死に隠そうとしていたのだから。
 だけど、彼女のボスへの思いは間違いなく真摯であり、だからこそ聞き出すために嘘を吐くことに躊躇いがないのだろう。
 しかし、

「いえないもんはいえないんだよ」

 先生の口は硬かった。

「じゃあ質問変えます。ボスのお父さん、病院に来たんですか?」
「なかなか連絡が取れなかったんだけどな。手紙を投函しておいたら、すぐむこうから連絡がきた。やっぱり居留守を使ってたんだろうな」
「じゃあ、なんの病気なのかは知っているんだ」
「医者から聞いているはずだ」
「なら、あたしボスのお父さんに教えて貰います」
「ちょっと待て。それはやめろ」

 先生のいうことは分かる。生徒の病気に対して他人が好き勝手に詮索するなということ、また、児童虐待という問題が起きてなんら解決していないうちに当事者にむやみやたら接触をするなということ。

「だって先生がケチなんだもの。他に知ってる人から聞くしかないでしょ。あいつなら、平気な顔でさらりと答えてくれるだろうし」
うち、お前なあ……分かったよ」

 大崎先生はため息をつくと、また禿げた頭を指先で撫でた。

「ただし、誰にもいうなよ。特に本人には、絶対にな」

 グサリ、となにか冷たく硬いものが、わたしの胸を貫いていた。
 教えて貰える、という嬉しさよりも、地獄に放り込まれるような恐怖に全身が凍り付いていた。

 だって、そうじゃないか。
 いまの先生の台詞。
 まだ、ボス本人には伝えていないということじゃないか。
 もう何日も経っているというのに。

 それはつまり、告知出来ないような病気、ということに他ならない。
 先生の前置きは、わたしたちの心を衝撃から守るクッションのようでいて、まるでそんな役割などはたしてはいなかった。

 でも、一秒二秒、一呼吸二呼吸、と置くうち自分の中にもともと存在していた覚悟のようなものが呼び出され、固まってきたようだった。
 自分のことながら、他人事のようで嫌になるけど。でも、とにかく知らないことには一緒に頑張ることが出来ない。ボスだって、きっと近々告知されるのだろうし。

 ガソリンもわたしと同じことを考えているような表情だった。ごくり、と唾を飲むと、ゆっくり口を開いた。

「あたし、なにをいわれても驚いたりしませんから。チームの仲間以外には話しませんから。仲間にも、絶対に他言させませんから……だから、教えて下さい」
「仲間に、って……」
「あたしたちは、十人で一人なんです!」
「分かったよ。いうぞ……」

 わたしたち二人は、先生の言葉に小さく頷いた。
 再び口が開かれるのを待った。
 ほんの数秒のことだというのに、わたしには永遠の長さだった。

 ゆっくりと、口が開かれた。
 その口から、ついにボスの病名が発せられた。

 わたしは、自分に嘘をついていた。
 覚悟は出来ている。そう思っていたのは、大嘘もいいところだった。
 そんな覚悟、なにも出来ていなかった。
 心の中に、微塵も存在などしていなかった。

 存在していたのは覚悟などと呼ぶには片腹痛い、上っ面だけの、薄甘い気持ちだった。
 そんな程度のわたしに、先生の発した言葉はあまりに重たすぎた。

 病名を聞かされた瞬間、幼児が懸命に積み上げた積み木のようなわたしの心は、すべてが砕け、がらがらと崩れ落ちていた。

 なお虚勢を張る、などということにもうなにも意味はなく、それはガソリンも同じで、二人はただ呆然と立ち尽くしていた。全身が、ぶるぶると震えていた。

 末期の、胃がん。

 医師の診断に謝りがなければ、先生が大嘘をついているのでなければ、それが、それこそが、ボスの病気の正体だった。

 どれだけ、立ち尽くしていただろう。
 次に口を開いたのは、わたしだった。

「……治るんですよね」

 俯きながら、ぼそりと。

「治るんですよね! 先生、それ治るんですよね!」

 顔を上げ、先生に掴み掛かり、睨みつけていた。
 もしも嘘だったら絶対に許さない。そんな思いで。先生がそのような嘘をつくはずがないのに。

 廊下にいる生徒たちが、なにごとかとこちらを見ている。わたしはそれに気づくと、これ以上声を荒らげることは出来ず、また俯いた。
 代わりに、涙がどっとこぼれ落ちた。
 うくっ、と声が漏れたかと思うと、わたしはボロボロ大粒の涙をこぼしながら、泣き出してしまっていた。

「治るもなにも、病気を治すために医者ってのはいるんだ。……クラスのみんなに喋ったり、絶対にするんじゃないぞ」

 先生はわたしたちだけに聞こえるような小声でそういうと、わたしたちを残して去って行った。

 わたしたちは、無言でずっと立ち尽くしていた。
 何十秒、いや、何分経っただろうか……

「あああああああああっ!」

 ガソリンの絶叫に、俯いていたわたしはびくりと肩を震わせ、顔を上げた。
 絶叫しながら、彼女はコンクリートの壁を蹴っ飛ばしたのだ。
 何度も、何度も。

     3
 わたしは自転車で、近所にある書店を訪れていた。
 以前に、野球チームの作り方を調べるために本屋で立ち読みをしたことがあるけど、そのお店だ。

 でも今いるのは、野球とはまったく関係ない。
 医療関係の書籍コーナーだ。
 がんや、その闘病についての本を、片っ端から手に取っているのだ。

 何故そのような本を探しているのか、語るまでもないだろう。
 病院で胃がんと診断されたボスについて、なにか役立てることがあればと考えてのことだ。

 自分自身の精神状態を正常に判断出来ないから本当のところは分からないけど、実は単に、自分の気持ちを落ち着けたいだけなのかも知れない。だからこうして情報を求めてしまう。

 がんであると知って、でもがんについてなにも知らないことが、どうにもはがゆくて我慢出来なかったのだろう。知ってしまうが故の恐さというものもあるかも知れないけど。

 あまり専門的な本はちんぷんかんぷんで、これほど自分の頭の悪さを呪ったことはなかった。まだ小学生で語彙も貧弱であったし、仕方ないことではあったのだけど。

 でも数打ちゃ当たるの作戦で次々と本を手に取っていった結果、理解出来たことも多々ある。

 小児がんは、がんという名称ではあるものの大体が白血病であるということ。
 ボスのように、胃がんや大腸がんといった大人がなるようながんは珍しいということ。
 そのことが、ほっと出来る救いの要素であるのか否かは、また別のことだけど。

 白血病の方が遥かに怖い不治の病というイメージがあるけど、脊髄移植で治るとかそんな話もよく聞くものだから。それと比べての胃がんの難しさ恐ろしさというのが、どうにもよく分からないのだ。

 要は胃のがん細胞を物理的に切除し摘出さえ出来ればいいだけなのでは? などと考えてしまうけど、でもそんな簡単なはずがない。もしそのような簡単な理屈ならば、毎年たくさんの患者が亡くなるはずないだろう。
 やはり難しい病気であり、戦わなければならないことは間違いないのだ。

 まだボスへの告知はなされていないということだけど、治療に入るためには伏せておくわけにいかないだろう。

 ボスは自分の病気を知って、その上で戦うことになる。
 だからその時に備え、仲間として闘病のサポートが出来るよう、こうして情報を集めているのだ。

 でも……
 大崎先生のいっていた、重くのしかかる言葉。

 末期、の二文字。

 要は胃の中が、がん細胞だらけになっているということ? それとも一つの腫瘍が大きくなり過ぎて深く根を張ってしまっているということ?

 あまりにたくさんあると、切除なんか繰り返したら胃がなくなっちゃうの?

 他に放射線治療とか抗がん剤なんとかって聞くし、そういう技術を総動員して一つずつ腫瘍を取り除く、または小さくしていくことって、出来ないのだろうか。

 確かボスのお母さんも、胃がんで亡くなったと聞いた。その子供が、しかも、まだ小学生で同じ病になるだなんて……。運命だとしたら、あまりにも酷すぎる。

 いつか、もしもがんが治ったとして、いや、絶対に治るけど、その後、また一緒に野球をやったり、出来るのだろうか。
 またガソリンと些細なことから口論したり、あんな関係に、あんな日々に、戻れるのだろうか。

 とても短くはあったけれども、振り返れば、とても楽しく、充実していた日々。
 大きな変化は不意に訪れた。ガソリンたちと、ボスの身体の傷を見てしまったあの時だ。

 ふう、とわたしはため息を漏らした。
 不意に罪悪感に胸をざくっとえぐられ、鈍い痛みに顔をしかめた。

 その罪悪感とは、わたしがボスの病気をここまでにしてしまったのでは、という思い。

 だって、傷とがんは関係ないとはいえ、あの時すぐに先生たち大人に訴えていれば、ボスの検査がもっと早くなり、末期になどなる前に見つけることが出来たかも知れない。腫瘍が 小さいうちに、簡単な手術で取り除くことが出来たかも知れない。

 秘密にしておくようお願いされたからとはいえ……まさかここまでとは思わなかったからとはいえ……なにもせずに、ただ黙っていた。そのせいでもしかしたら、と考えてしまうのだ。

 いまさっき、すべて元に戻れるだろうかと自問した。
 戻れるに決まっている。そう信じて疑ってはいないけど、でも、わたしの心までは元どおりには出来ないかも知れない。友達の生命を、自身の優柔不断さによって縮めてしまったのだから。

 だから、完全には、もう、戻れない……
 いやいや、わたしの心のことなんか、どうでもいいだろう。ボスががんを治すこと。これ以上に優先されるべきものなど、ありはしないのだから。

 そうだ。こんなところで悩んでいても、なんにもなりはしない。ボスが戦えるよう、精神面をサポートする。これしか、いまのわたしに出来ることはないのだから。

 まずは、病を知ることだ。

 わたしはさらに書籍の物色を続け、ちょっと難しそうではあるけれど一番役に立ちそうかなと思われる本を持つと、レジへと向かった。

     4
「うおーっす!」

 病室内に、ボスのけたたましいまでの大声が響いた。
 二人部屋で相方がまだ入っていないからいいけど、もし入っていたらさぞかし迷惑に思われたことだろう。

 パジャマ姿のボスは、ベッドの角度を変えて上半身だけを起こしている。テレビもついていないし、窓から景色でも眺めていたのだろうか。

 ここは杉戸町の北に隣接するさつ市というところにある、しゆうめいいん大学附属病院。
 学校で倒れた時には近場である杉戸の救急病院へ取り急ぎ搬送されたのだけど、その翌日、もっと大きな病院であるこちらへ移ったのだ。

 今日は、コーチも含めてチームの全員で、ボスのお見舞いに訪れていた。
 わたし、フミ、ドン、ガソリン、ノッポ、サテツ、バース、フロッグ、アキレス、コーチ、二人部屋に十人も訪れているものだから当然ぎゅうぎゅうだ。

「具合、どう?」

 ガソリンが、ちょっと恥ずかしそうな笑みをボスへ向けた。

「特に変わらないよ。それよりも、やることないから退屈で退屈で。身体動かしてもいいのって看護婦さんに聞いたら、ダメッとか怒られるしさあ。ほんとつまんない」

 ボスは唇をとんがらせて不満を述べながらも、なんとも楽しげな表情を浮かべていた。とはいえ、多分に演技めいている表情ではあったけれど……

「でもま、たまにはこういうのも悪くないな。ベッドは硬いけど、でもうちの畳の上にせんべい布団よりいいや」

 ははっ、と笑うボス。

 でもその軽口に反応する者は誰もいなかった。
 ふとみんなの表情を見ると、なんだか落ち込んだように暗かった。
 きっとわたしも、同じような顔をしているのだろう。
 ここへ来る途中までは、「元気になって貰うぞお」と、みんな明るく、賑やかだったのに。

 無理もないか。
 だって、もうみんな、知っているのだから。
 ボスのことを。
 だから……

 みながみな、わたしのような心理状況になっていたのかは分からないけど、同じようなベクトルの、気持ちにはなっていたのだろう。室内は、なんともいえない気まずい沈黙に包まれてしまっていた。

 それを打ち破ったのはボスの、予想外の言葉だった。ある意味、気まずい沈黙のままの方が遥かにましとも思えるような。

「なんの病気なのか、聞かないんだな」

 まさかそんなことをいわれるとは思ってもおらず、わたしの心臓は驚きにあばらを突き破って飛び出そうになった。両手で押さえ付けるのがあとわずか遅かったら、間違いなく飛び出していただろう。

「なんの、病気、なんですか?」

 実は知っている、ということを気づかれないように、わたしは笑顔を作り、尋ねた。作ったつもりというだけで、笑顔になっているかどうか不安ではあったけど。

「とても、心配したんですから。いきなり学校で倒れちゃうし」
「ああ、ごめん。でも、たいしたことないよ。胃潰瘍だってさ。血を吐いたりしたのも、それが原因。薬を飲んで安静にしていれば、すぐ治るってさ。退屈で退屈でとても安静になんかしていられないから、完治させるのは難しそうだけどね」

 ボスはまた笑った。
 胃潰瘍……って、お医者さんから、そう教えられたの?
 それともボス、本当は……

あいざわのツラぁ見ないで済むのもいいな。だってあいつ、あたしの顔を見るたびにチビチビうるさいんだもん。ぶん殴ってやれないのは残念だけどさあ」

 ボスはなおも、一人明るく振る舞っていた。楽しげに、喋り続けていた。

 彼女がそうすればするほど、わたしたちの心は深く沈んでいった。
 なんのために来たんだ。わたしたちは。
 励ますためだろう?
 問うまでもない。
 これからボスを待っている苛酷な戦いのため、たっぷりの元気を与えようと思って来たのだろう?

 分かっている。そんなことくらい。
 でもみんな、演技が出来るような器用さを持っていなかったのだ。
 すべてを知っているくせに、仮面をかぶり芝居を演じ続ける器用さを。
 この辛さに耐えられるような精神力を。
 誰も、持ってなどいなかったのだ。

 この中で一番豪胆と思われるガソリンにしたって口数は少なく、おいそれと軽口すら出せないでいるのだ。遥かに小心なわたしたちに、なにをどのように出来るはずもなかった。

 お見舞いに来たというのにこんな態度でしかいられないことに、焦れったさや申し訳なさを覚えながらも、どうにも自分をコントロールすることが出来なかった。
 そんなイライラを表に出せればまだしも、わたしたちはみな、そのもどかしさにますます無口になり、おとなしく下を向いてしまうだけだった。

 耐え切れず爆発したのは、わたしたちの誰でもなく、ボスだった。

「あああもう! あったまくんなあ!」

 怒鳴り声を張り上げて、台に置かれたテレビのリモコンを掴んで床に叩きつけたのだ。

「みんな、病気のこと知ってんだろ? なんだかずっと態度がおかしいもん」

 やっぱり……
 ボスも、もう知っているんだ。自分がなんの病気であるのか。

 こうして激高するボスなど見慣れているはずなのに、わたしは激しく動揺してしまっていた。張り裂けそうなくらいに、胸が痛かった。

 どどっどどっ、という動揺からくる激しい鼓動は全然おさまる気配はなかったけど、でも、一秒、二秒、と経つにつれ、落ち着き、というよりも一種決意のようなものが胸の奥に沸いてきて、わたしはすうっと息を吸うと、ゆっくりと口を開いていた。

「大崎先生から、聞きました」

 正直に答えていた。
 今更それにより事実が変わることはなにもないのだから、と自分の心を押さえ付けながら。

 しばらく興奮したようにわたしたちを睨みつけていたボスだったけど、やがて、おかしそうな表情になってふっと鼻で笑った。
 かと思うと突然、じわりと目に涙が滲んでいた。

「あたしも一昨日、教えられたんだ。胃にさあ……がんが出来ているって。かなり、進んでいるって。どうしよう……死んだお母さんと、同じ病気になっちゃったよ、あたし……」
「絶対に治るから!」

 誰かが大きな声で叫んでいた。
 そして、はっと気づく。
 叫んでいたのは、わたしだったのだ。

 驚きながらも、わたしはなおも続けていた。

「現在の医学ってね、凄いんですよ。放射線とか色々あって、薬でがんをやっつけて、小さくすることが出来るんです。だから、だから、絶対に治ります! というよりも、治して下さい! たかががんくらい、簡単にやっつけて下さい! だってボスなんですから! 絶対に、絶対に、負けないで下さい!」

 まくしたてるようにして、肺の空気を全部搾り出すと、苦しさにはあはあと酸素を吸い込んだ。
 睨むような、懇願するような、複雑な思いを視線に込め、わたしは肩を大きく上下させた。

 このような声が、言葉が、わたしの口から発せられるなどまさか思ってもいなかったのだろう。ボスはすっかり言葉を失って、ぽかんと口を開けたままになっていた。
 わたしの言葉に続いたのは、ガソリンだった。

「そうだよ! 早く治してチームに戻って来てくんなきゃあ、誰が指揮とるの? コタローなんかじゃあ、いたってなんの役にも立たないよ」
「おい! おれ、そこまで酷いか?」

 コタローコーチが、なんとも情けない顔を作った。

「酷いよ」と、コーチをにべなく一瞥すると、ガソリンは続ける。「それに口喧嘩の相手がいないんじゃあ、つまらないよ。だってこのチーム、大人しくて気が優しいのばかりだからさあ。それがいいとこでもあるんだけど、でも、なにするか分からない横暴なバカが一人くらいいなきゃあ。……だからさ、早く戻ってきなよね。リハビリがてら、ビシビシとしごいてあげるから」

 声を上げ、笑った。

「でね、リハビリしてチームに復帰したら、早速試合に出場してねえ……」

 サテツがなんだか興奮気味に語ろうとするが、ノッポがみなまでいわせず、

「ばかすかとヒットを打ってさあ」

 言葉をかぶせた。

「それで、ボスの大活躍で、劇的に勝って」

 アキレスが続け、

「みんなで、勝利のポーズをするんだから」

 フロッグは、両手でウインのダブリューを作った。以前に公園で、みんなで考えたポーズだ。

 わたしも、そしてみんなも、フロッグの真似をしてポーズを作っていた。
 始めは頭上に掲げていたのだけど、いつしか誰からともなくボスへと向けて突き出していた。
 無意識ながら、ボスへのエールだったのだろう。
 闘病に絶対勝利するんだという。

     5
 わたしは、歩いてボスの家へと向かっていた。

 訪れるのは、これで二度目。
 前回はわたし一人だけだったけど、今日はガソリン、フミ、ノッポと一緒。つまりは、最初にボスの秘密を知ってしまった四人だ。

 ボスに会いに行くわけではない。
 当然だ。彼女はいま入院中で、必死に病気と戦っているところなのだから。

 ならばなにかとなると、もう一つしかないだろう。
 ボスのお父さんと会うことが目的だ。

 ここ最近のわたしたちは、おろおろ慌てふためくことしか出来なかったけど、病院にお見舞いに行ってとりあえずボスの元気な姿を見たことによって、精神的に少しばかりの落ち着きを得ることが出来ていた。

 そうなると必然的に沸き上がってくるのがこのこと。ボスのお父さんへの憤りであった。

 とはいえ、会ってなにがしたいのか、自分でも分からないのだけど。
 虐待をしていたのだという事実を、本人の口から確認したいだけなのか。
 これまでの行ないをただ糾弾したいのか。
 謝罪の言葉を引き出したいのか。
 隠された事情があるとして、聞き出させれば満足なのか。

 いまさらそのような話をしたところで、ボスの病状がどうなるというものでもないけれど、でも、ボスのためにもそこを放っておいてはいけないという強い思いがあった。
 その気持ちをガソリンに打ち明けたところ、彼女もまた同じ思いを抱いており、ならばこの四人で乗り込もうという話になるまでさして時間はかからなかった。

 ボスの家へ到着した。
 通りに面した、平屋の借家が並ぶ中の、真ん中の一軒。塀は立てられていないので、道路からすぐに玄関だ。

 ドアの前で、わたしはちょっと躊躇ってしまう。
 なにについて躊躇っているのか自分でも分からず、いらぬ迷いを首を振って振り払い、呼び鈴のボタンへ指を伸ばしかけたところで、痺れを切らしたガソリンに先に押されてしまった。

 中から、ブーーッといういかにもブザーという感じの古くさい音が鳴った。
 奥でごとごとっと音が聞こえたような気がした。

 しばらくドアの前で立っていると、やがて覗き穴が、微妙に暗くなった。
 その瞬間を逃さず、ガソリンがぬっと穴へと手を伸ばし、手のひらで塞いだ。
 そこにいるのは分かっているぞ、という意味だろう。
 おかげでなのかは分からないけど、やがてガチャガチャと錠の回る音がして、玄関のドアがそっと開いた。
 この前一度会ったきりの、ボスのお父さんが狭い隙間からこちらを見ていた。

「なんか、用か?」

 人目を気にするかのように、わたしたちの頭の向こうへと視線を泳がせながらくぐもった声で問い掛けた。
 あの時はひどく酔っ払っていたけど、でもわたしたちの顔は覚えていたようだ。
 この人の自業自得とはいえ、後々大変だったろうからな。

「ボス……まどか、ちゃんのことで話があって、来ました」

 わたしは真剣な表情を、ボスのお父さんへ向けた。
 本名というだけでなく、ちゃん付けで呼んでしまったことに照れ臭く恥ずかしい気持ちであったが、こんな状況でそんなことを考えてしまうことこそ恥ずかしく、ごまかそうとしてちょっと睨みつけるような表情を作った。

「こっちは話すことなんかねえよ」

 ボスのお父さんは、つまらなそうな顔でそれだけいうと、狭く開いていたドアを閉めてしまった。
 いや、そうなる寸前、

「待ってよ!」

 ガソリンが、持っていたバッグを隙間に突き入れていた。

「なにすんだ!」

 ドアが少し開いたかと思うと、ガソリンの身体はどんと胸を突かれて後ろによろけていた。
 ばたん、とドアは今度こそ完全に閉じてしまった。

「どうせ暇なんでしょ! いい大人のくせに、仕事してないんでしょ? 引きこもり! 生活能力ゼロで穀潰しのクズオヤジ! 虐待! 虐待オヤジ! 町内のみなさん聞いてくださあい、ここのオヤジは自分の…」

 ばたん。今度は激しい勢いでドアが開いた。
 ぬっと伸びてきた手に、ガソリンは胸倉を掴まれ、ぐいと強引に引っ張られていた。

 ボスのお父さんは、さらにガソリンを引き寄せて顔を自分の顔へと近づけると、憎々しげな視線を浴びせながら舌打ちした。

「上がれ!」

 怒鳴り声に恐怖を覚えながらも、わたしたちは玄関ドアから入り、家へと上がった。

     6
 わたし一人だけ以前に一度ここを訪れている。
 入ってすぐ左側がボスの部屋である和室で、右がトイレや浴室と思われる部屋のドア。奥にもドアがあって、今回通されたのはその奥の部屋だった。

 入るとすぐに狭いキッチン。そこから繋がって六畳ほどの和室、その中央には布団が敷っぱなしになっている。
 物が散らかりっぱなしで、酷い有様だ。
 布団の周囲など、子供が思わず目をそむけたくなるような雑誌が何冊も無雑作に置かれている。
 食べ終えたカップ麺など、幾つもそのままになっている。カップにはスープが残っているようだけど、足の踏み場所にも困るような状態で、蹴倒してしまわないのだろうか。

 整理整頓の出来ないだらしなさを感じる部屋だけど、でも、感じるだらしなさほど実際は汚くない。おそらくボスがまだ入院する前は、まめに片付けをしていたのだろう。

 ボスのお父さんは、汚え部屋だななどと文句をいいながら布団を蹴っ飛ばして座れるスペースを作ろうとするが、カップ麺を倒してしまうとすぐに諦めて(運良くなにも入っていないカップだった)、わたしたちを別の部屋へと連れて行った。通りに面している部屋だから本当は嫌なんだとか、小言をいいながら。

 通されたのは、ボスの部屋だ。
 隅の座卓近辺にランドセルや教科書などが置かれており、他にはグローブなど野球道具があるだけ。女の子の部屋とは思えないくらいに、殺風景だ。わたしも野球以外は無趣味といっていい方だけど、でも少しくらいは可愛らしいものが置いてあったりするのに。
 先ほどの部屋と同じ家とは思えないほどに、こちらの部屋は綺麗に片付いている。というよりも、そもそも物の散らかるような生活をしていないのだろう。

 でも……
 こちらの部屋の方が、その、なんといったらいいのか……凶気、というか、そういったものを感じるのは、やはり部屋に漂う、鼻腔を軽くくすぐる錆びのようなにおいのせいだろうか。

 そう、この部屋には血のにおいが染み付いているのだ。
 ボスはここで、自分自身の身体を傷つけていた。
 以前ここへ来た時に、ボスはわたしにその自傷行為を見せた。
 自分の腕を、包丁でざっくりと、なんの躊躇いもなく切ってみせたのだ。
 どんな気持ちでそうしていたのかは分からないけど、でもとにかく、ボスの体内から流れ出した血のにおいがこの部屋には染み込んでいる。

 切り傷に関してはすべてボスの自傷行為かも知れないけど、痣や擦り傷のようなものはボスのお父さんが犯人だろう。背中にも無数にあり、自分で作れる傷とは考えられないからだ。

 先ほど、通りに面した部屋が嫌だと文句をいっていたのも、日常的に暴力をふるわずにいられないくせに、発覚することは怖れているからではないだろうか。結局酔った勢いから失態、発覚し、現在お父さんは児童相談所から逃げて回っているわけだけど。

 ボスの部屋はあまりに片付いていて床に置かれているものがほとんどないため、先ほどの部屋と違い腰を下ろすのに困ることはなかった。

「で、なんの話だ」

 下ろすなり、早々に尋ねられた。
 早々といっても、行ったり来たりばたばただったけど。

「……無駄をいわずにお聞きします。どうして、まどかちゃんにあんな酷いことをしていたんですか?」

 わたしは自分でいった通り、単刀直入に切り出していた。
 怖かったけど。
 自分の子供に平気で暴力をふるうような人に、こんなこと尋ねるの、怖かったけど。

「なにいってんだ、お前?」

 と、なんだかバカにしたような顔を向けられ、鼻で笑われた。

「お父さんに、されたって……教えてもらったことがあります。たぶん隠し通すつもりがうっかりいってしまったんだと思います。そのあとはもう、自分でやったの一点張りですから」
「じゃあ、自分でやったんだろ」
「でも……」
「でもじゃねえよ。そのうっかりいったというのが、そもそも嘘だったんだろ。まどかの機嫌が悪くて、おれを犯人にしたかったんだろ。証拠もないのに、口でいっただけのこと信じてんじゃねえよ。おまえがなにを知ってんだよ」
「……」
「証拠出せよ、証拠をよ」

 口ごもってしまうわたし。
 横から助け船を出してくれたのはガソリンだった。助け船というか、船頭交代というか。

「とぼけないでよ、おじさん! ボス、じゃなくて、まどかちゃん、実際に傷だらけじゃん! 全身いたるところさあ。あたしたち、知ってんだからね!」
「ああ? そうなのか? おれはなんにも知らなかったよ。だからそれ、自分でやったってことなんじゃねえのか。それとも、誰かにいじめられてんのかなあ」
「だからとぼけないでっていってるでしょ! おじさん、あたしたちの前でも、平気で殴ったり蹴ったりしてたじゃない! 酔っ払ってさあ」
「酔っていて、あん時の一回だけな。まどかには申し訳ないことをしたよ」
「あれだけで、あそこまで傷だらけになるわけないでしょ!」
「だったら、他の誰かにやられたんだろうなあ。学校でイジメにあっているとか、知らねえか?」
「だからさあ!」

 助け船の方こそが、のらりくらりかわされてすっかり顔が真っ赤になっていた。
 先ほど玄関で、ガソリンの言葉に激高していたボスのお父さんだけど、こうしてからかうことで仕返しをしているのだろう。

「毎日毎日、当たって怒鳴って蹴って殴って、酷いことばかりしているくせに! 暴力親父! 野蛮人! 卑怯者!」

 なにいってもかわされるとなると、もうこうして決めつけて怒鳴り散らすくらいが、交渉術も権威もなにもない小学生としては関の山であっただろうか。
 もうこのままはぐらかされ続け、やがて追い返されるだけかと思っていたけど、でも、ガソリンの執拗な態度がついに実を結ぶ時がきた。

「うるせえな! じゃあ、証拠を見せてやるよ」

 認める、ではなく、やっていないという証拠を見せる、という予想外かつ不本意なものではあったけれど。

「でっちあげたものなんか証拠にならないんだからね! 見せてみなさいよ! 相談所の人が怖くて、こそこそ逃げながらそんなもん作ってたんでしょ!」

 なおも矢継ぎ早にまくしたてるガソリン。

「うるせえ!」

 ボスのお父さんは凄み、ガソリンの胸倉をがっと掴み引き寄せると、すぐに手を離して、立ち上がった。
 押し入れへと向かうと、ふすまを開いた。
 上段には布団、下段には色々なものが入っており左端に三段のラックケースがある。

「ここにな、あいつ、日記を隠してやがんだよ。……おれが知ってることは、あいつは知らねえ」

 日記は日々のことを綴るものであり、虐待が本当ならば書かれていないわけがない、ということか。
 読まれていることを知っているならばあえて書かないこともあるけど、知らないからには、書かないはずがない。つまり、もしそのことについてなにも触れていないのであれば、それが虐待などしていない証拠。

 でもそれはそちらの言い分だ。
 例えなにも書かれておらずとも証拠にはならない。

 でも、ある程度のことは分かるかも知れないし、もしも書かれているのならばそれは決定的な証拠になる。
 でも……ひとの日記を勝手に読むだなんて……

 ボスのお父さんはラックの棚を引っ張るが、ガチャガチャ音がするばかりで開かない。
 一見、ロックのないタイプに見えるけど、重みで潰れて引っ掛かっているのだろうか。
 違っていた。

「横から穴を空けてワイヤー錠を掛けてやがら。くそ、あいつ知恵つけやがったな」

 日記を見なくて済むという安堵と、暴力を追求出来ない不満とに複雑な感情を覚えていたところ、「ちょっと待ってろ」と、ボスのお父さんは部屋を出て、ラジオペンチを手にして戻ってくると、錠前のワイヤーを躊躇うことなく切断した。

「ほら」

 真ん中の引き出しから、本のようなものを取り出すと放り投げる。
 わたしたちの前にどさりと落ちた。

 茶色の、ハードカバー。
 これが、ボスのつけていた日記……

「面倒くせえからおれはもうなーんにも釈明しねえ。だから、ブスどもでそれ見て勝手に判断しろ」

 にい、と嫌らしい笑みを浮かべた。

「人の日記を勝手に見るなんて、出来ません」

 わたしは拒絶する。
 しかしガソリンの考えは違っていた。わたしも、彼女も、どちらもボスを思う気持ちは一緒ではあるのだろうけど。

「コオロギはさあ、そんな優柔な気持ちでここに来たの? あたしは違う」

 そういうと日記帳を手に取り、躊躇うことなく開いたのである。

 真剣な表情で、ページをめくっていく。
 わたし、フミ、ノッポは、やはり真剣な、少し戸惑ったような表情で、その様子を見つめていた。

 ボスの秘密へとさらに一歩踏み込もうとしていることにより、脆いガラスのような緊迫した雰囲気が生まれていた。
 ガソリンの、ページをめくる動きがゆっくりになる。
 わたしたちとのことに関係がありそうなところへたどり着いたのだろう。
 より緊迫感が増して、唾を飲む音すらも廊下に聞こえそうなほどに部屋は静まり返っていた。

「どっかに書いてあるかあ? 今日もお父さんにぶちのめされましたとか、裸にされて風呂に沈められましたとか、ビール瓶で腹をど突かれましたとか、パンツ脱がされて股ァ広げられてベロベロ舐められましたとか、キュウリ突っ込まれてあんあん感じちゃいましたとか、キュウリよりお父さんのを突っ込んで下さいと言わされましたとか、どっかに書いてあんのかよお」
「黙ってて下さい!」

 わたしは、声を裏返らせて怒鳴っていた。
 うるさくてガソリンの気が散るということと、あと、まだ小学生であるわたしにはいってることの半分も理解は出来なかったけど卑猥な話であることは想像ついて、よくも自分の娘をダシにそんな下品な冗談がいえると思った瞬間つい激昂してしまったのだ。

「じゃあ、それおめえらにやるから、とっとと出てって好きなところで勝手に見てろ。おれがなんにもしてねえってこと分かったら、もう二度とここ来んじゃねえぞ。クソガキどもが。舐めやがって。来やがったらてめえらも全員やっちまうぞ」

 と、悪態をつきながらボスのお父さんが立ち上がり、部屋を出て行こうとした時である。

 嗚咽の声。
 日記を読んでいたガソリンが、息を押し殺しながら泣いていたのである。

「なに泣いてんだ、脳味噌バカなんじゃねえのか。そんなことよりも、おれがなんかしたって、どっかに書かれてあったか?」
「どこにも、書かれては、いなかった……」

 ガソリンは日記をそっと置くと、涙を拭いもせずゆっくり立ち上がった。

「やっぱり、もったいなさ過ぎるよ。ボス……浜野まどかって子は、あんたなんかの子にはもったいなさ過ぎるよ」

 そういわれ、睨みつけられ、ボスのお父さんは面白くなさそうにふんと鼻を鳴らした。

     7
 自宅二階の自室である。
 学習机に置かれている物をすべてどかして、真っ平らの状態にしたところだ。

 よくわたしは、考え事をする際にこうして机上を綺麗にする。何故だか集中出来るからだ。

 でも、いまそうしたのは、単にけじめのため。
 ふざけた気持ちなどは微塵もない、と、自分にいい聞かせたいがためだった。

 机の上に、カバンから取り出した一冊の本のようなものを置いた。
 茶色の、皮のハードカバー。
 ボスの、日記帳だ。

 そう、わたしはこれから、ボスの日記を読もうとしている。
 ガソリンから、絶対に読みなと押し付けられたのだ。
 「ボスは特にコオロギのことを信頼しているようだから、コオロギだけは絶対に読むべき。あたしなんかより、コオロギこそ読むべきだよ」と。

 ボスは闘病中でここにいないというのに勝手に読むわけにはいかない、と、わたしは頑なに拒絶したのだけど、ガソリンの方こそ岩のように頑なだった。
 「じゃあ、あたしがボスに伝えに行くよ。あたしもう読んじゃったから、コオロギに見せても同じだよね、って。つうかさあ、そんなことくらいで揺らぐ信頼関係しか築けてないの? 笑っちゃうんだけど」

 その言葉にちょっとカチンと来てしまったわたしは、咄嗟に日記を受けとってしまったのだ。
 何故そうまでわたしに読ませたがるのか分からなかったけど。
 いまもまったく、理解出来ないけど。
 一人だけ読んでしまったという罪悪感から、逃れたいだけかも知れない。

 そういえば、読んだ後のガソリンの態度、なんだかボスへの信頼をより深め、そしてお父さんをより蔑み憎んでいたようだった。
 そもそも今日は、そうしたことを知るために、確認するために、ボスの家へ行ったのだったっけ。
 ボスの尊厳を守るために。

 もしかしたら……
 それが、この日記に書いてある……ということ?

 きっと、そうなのだろう。
 ならば……

「ボス、ごめんね」

 わたしは独り言を呟くと、ゆっくりと日記を開いた。
 それがボスの尊厳を守ることに繋がる、と信じて。
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