ブストサル

かつたけい

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第一章 フットサル

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「じゃ次、ペアになってキック練習いくよ。まずは相手の胸に戻すように、三十回!」

 精一杯大きな声を張り上げたつもりだったが、隣で練習している男子剣道部員たちの竹刀や防具のぶつかりあう音に掻き消されてしまう。
 咳払いで喉のイガイガを飛ばすと、あらためて大きな声で叫んだ、のであるが同時にお隣さんから「チョリヤ!」と剣道らしからぬ裏返った奇声があがり、それに狂わされて、わたしまで声を裏返らせてしまった。恥ずかしいなもう。

 まあ、毎日やっているメニューなので、わたしの声が裏返ろうがしゃがれ声になろうが、彼女らの行動に変化はない。十名強の部員たちは、それぞれにペアを組んで向き合うと、わたしの指示した通り次の練習メニューを開始した。

 ボールを、相手の胸元目掛けて蹴る。両手でボールをキャッチした相方は、すぐさま手首のスナップでボールを相手に返す。それを今度は反対の足で返す。三十回繰り返すと、今度は蹴るほうと受けるほうとを交代させる。
 単純なことだけに、技術の差がはっきり出る。一年生の中には、感心するくらい上手なのもいれば、救いの手を差し伸べられないのがもどかしいほどにたどたどしいのもいる。基本的には、小中学校の頃からやっているのか、高校生になってから始めたのか、という経験の違いだと思っている。

ひさ、ごめん、ちょっとたけふじを見てあげて」

 たけふじことは一年生。一年生の中に「今年から組」は三人ほどいるのだが、彼女が一番不器用である。とても頑張っているのはよく分かるのだけど、どうにも飲み込みが悪く、なかなか上達しない。
 いまのメニューにしたって、相手の胸元にボールを返すどころか、とりあえずおおよそ相手の方向に飛んでいきさえすればラッキーという有様なのだから。

「オッケー!」

 と、はまむしひさは竹藤琴美のもとへ小走りに駆け寄る。

「えっと、その間、サジは織絵と組んで」

 らくやまおりゆうが指示通りペアになり、キック練習を開始する。
 サジこと佐治ケ江優は一年生だけど、恐ろしくキックの精度が高い。まるで精密機械かと思うほどに、まずミスがない。
 投げる側の手がすべって変なボールになってしまっても、それでもさっと移動するなり強引に足を伸ばすなりして、結局、投げた側の構えた手の中央へとボールは戻ってくる。
 致命的な欠点さえなければ、一年生であってもバンバン試合で使いたいところなんだけど。本当、もったいない。

 副部長の浜虫久樹は、竹藤にぴったり寄り添い、ボールを蹴る時の足の使い方や姿勢、タイミングなど、自らの実践もまじえて手取り足取り教えている。久樹は教え方がとても優しくて上手なので助かっている。
 久樹は、普段はとてもおちゃらけていて、わたしにもバカみたいなことばかりいってくるのだけど、部活になると顔つきがきりっと変わる。でも厳しいのは自分に対してだけで、他人には本当に優しい。いったん火がつくと、誰よりも怖いけど。

「はい終了。それじゃ、次は」

 わたしの合図に、キック練習は次のメニューへと移る。ペアを変更して、今度は近距離でのパス交換練習だ。
 インサイドキック、アウトサイドキック、爪先でのキック。足裏で少し転がして、パス。反対方向に、転がしてパス。
 今度は、ペアをくっつけ四人で組ませ、やはりパス交換の練習。

「あらら、失敗」

 久樹の声。ラボーナみたいな動きで竹藤へパス出そうとして、まったく関係ない方向へ転がしてしまったのだ。

「久樹、余計なことしない!」

 基本を教えろ基本を。竹藤相手なんだから。

 察しの良い人なら、剣道部と同じ場所つまり室内でサッカーのような練習をしていることから、我々がなにをしているのか分かるんじゃないかと思う。
 フットサル。誰にでも分かるようにいうと、ミニサッカーだ。
 テニスに対しての卓球のように、室内でサッカーを、ということで誕生したもの。
 サッカーを知らない人はいないだろうけど、サッカーにまったく興味のない人はフットサルを知らないんじゃないかな。
 でも意外に歴史は古く、現在ではフットサル独自のルールもしっかり確立されており、サッカーとは完全に異なるスポーツだ。
 規模としてはサッカーにはとてもかなわないけど世界にはプロチームだって存在しているし、日本にだってゆく末はプロ化を目指しているFリーグというものがある。

 さて、唐突ではあるが、ここらで自己紹介をしておこうか。
 わたしの名前はむら、千葉県立わらみなみ高等学校の二年生。つい先日、この女子フットサル部の部長になったばかり。
 夏休み一杯で三年生は引退、もちろん部長も引退したのだが、何故だかよりによってわたしなんぞに後任の白羽の矢が立ってしまい、それから今日までの一ヶ月、みんなに助けて貰いながら、どうにかこうにか頑張っているというわけである。

「久樹、ありがとう。もういいよ。竹藤も戻って。はい、じゃ、次いくよ。ダッシュ、往復二十回!」

 床に赤と白の二重の輪っかがペイントされている。赤い線がフットサル用の、ふた回りほど小さな白いのがバスケットボール用のセンターサークル。センターサークルを横切っているのがハーフウエーライン。そのラインのあたりから体育館の壁まで、二十メートルほどの短いダッシュをひたすら繰り返すのだ。
 壁にタッチすると、そこからまたダッシュでハーフウエーラインまで戻る。また壁に走り、タッチ。
 わたしも、みんなの中に加わって、走り出す。
 たかだか二十メートルの距離を、たかだか二十往復するだけ。と、いってみるのは簡単だけど、やってみるとかなりキツイ。往復十回にも達しないうちに、一年生の何人かがへたばってくる。

「ほらほら、だらだらしないの!」

 両手を叩いて、一年生を叱咤する。

「そんなこと……いわれても……」

 しのが泣きそうな声を出している。

「口動かす暇あったら足動かせ!」
「は、はい!」

 ほら、走れるじゃんか。
 と思ったら、今度は佐治ケ江がしゃがみ込んでしまった。

「サジ、やる気ないなら出てけ!」

 怒鳴るわたし。
 分かっている。基礎体力がまだ貧弱な一年生にとって、こうした体を苛めるだけのトレーニングがどんなにキツイのかは。
 でも、だからこそあえて、こういうことをしなければいけない。どんなに技術があったって、体力がなければ意味がないのだから。
 逆にいえば、体力さえあれば練習で身につけた技術が生きる。そうなれば、もっとフットサルを楽しむことが出来る。
 それに、とことん頑張り抜く根性を鍛えることは、今後の長い人生、決して無駄にはならないだろうし。などと恥ずかしいこと、わざわざ口に出してはいわないけど、まあ彼女たちはきっと分かってくれているだろう。

 などと偉そうなことを語っているが、実はわたしもフットサル経験二年程度の新米だ。
 中学の三年間は陸上部に所属し、中距離走をやっていた。
 それなりに優秀な成績だったと思う。
 いや、それなりどころではないな。
 自慢ではないが中二の時に、全中千葉予選八百メートル走で二位、参加標準記録を大きく上回り本大会へ進出。そして本大会では、千葉予選一位だった子よりも良い成績を収めて全国四位になったほどだ。
 と、経歴が経歴であるため、とにかく走ることには自信があった。
 だというのにフットサルを始めたばかりの頃は、肉体が悲鳴をあげまくって、慣れるまでは眠るのも辛いほどだった。フットサルというスポーツは、「前に走るだけ」とは、あまりにも使う筋肉が異なるのだ。
 従って、中学で文化部だった竹藤や亜由美が涙目になってしまうのも仕方がないのだ。
 中学でもフットサルをやっていた佐治ケ江がへたばってしまうのは、ちょっと情けないけど。佐治ケ江、ボール扱いが高校生と思えないほど上手なくせに、体力があまりになさすぎだ。

「ほら、またペース落ちてるよ、亜由美! ちゃんとしないと、もう二十回やらせるよ!」
「は、はいぃ!」

 このあと紅白戦を行う予定なのだけど、いったいいつになったら、バテバテではない引き締まった紅白戦が出来るようになるのやら。

     2
 グレーのスカート、白のソックス、白のブラウス、赤いネクタイ、グレーのベスト。特別捻りもない、ごく平凡な女子高生の制服だ。
 平凡すぎて、しょわしょわセミの鳴く陽炎立ち昇る田舎道にベストマッチだ。とあぜけいはまむしひさの姿を見てしみじみそう思う。
 わたしも同じ制服を着て、三人仲良く薄暗い林の中、細い県道を歩いているわけで、彼女らをコバカにする権利など微塵もないのだが。
 車道を行きかう自動車の音を装飾するかのごとく、牛蛙のぶぉ~ぶぉ~という鳴き声が時折聞こえてくる。
 田舎である。
 ここは千葉県の東北部にある、とり市というところだ。
 すぐ北は茨城県との県境。利根川の流れによって隔てられている。
 この近辺、以前はわら市という名称だったのだが、数年前に佐原を中心として合併、名称変更があったのだ。
 わたしの通う高校のある場所は、JR佐原駅から南東方向の山の中で、徒歩で三十分以上もかかる。だらけていると、四十分は軽く超える。
 市営バスが通ってはいるものの、三十分に一本。通学時間であってもそのペースは変わらない。これがどういうことかというと、あまりの混雑に乗ることが難しく、乗れたとしてもぎゅうぎゅうで肉体がバラバラになりそうになる、ということ。
 ぎりぎり逃して次の便を待つ場合には、必然的に待ち行列の前になるから座ることが出来るけど、三十分も待つくらいなら、歩いたほうがいい。
 学校も、もっと市に強く訴えて増便させてくれればいいのに。都会に住んでいる人には、わたしたちの学校は陸の中の孤島としか思えないだろう。
 鉄道、JR成田線もまた、三十分に一本という本数の少なさだしな。
 JR佐原駅はこの春、都心に遅れること八年、ようやくICカード定期券が利用可能になった。それだけでも大きな進歩というものではあるが、それより運行本数を改善して欲しい。
 等など、きりがないのでもうやめておくが、この程度の説明で充分に通学時における交通事情の劣悪さはご理解いただけたのではないかと思う。
 とはいうものの、わたしはこの近辺に住んでおり、学校まで徒歩圏内なので、交通事情もなにも関係ないのだけど。客観的に、大変だろうなーとは思っているけど。
 この近辺で、交通機関を利用しての通学がいかに大変なことかはよく分かっていたので、徒歩で通えるいまの高校に、学力的に厳しいと知りつつ猛烈に勉強してなんとか転がりこんだのだ。
 通学のことだけでなく、フットサル部があるというのも佐原南を選んだ大きな理由だ。
 まだまだフットサル部のある学校というのは非常に数が少なく、こんな近くにあるということ自体、奇跡のようなものなのだ。
 進学校というほどでもないけれども、そこそこ学力レベルの高い学校で、おかげで授業についていくだけで精一杯だけど。
 もっと東京に近く、楽に入れそうな、フットサル部のある高校にでもいって、いっそのこと一人暮らしでもすればよかったかなあ、などと少し後悔している。でもまあ、いまの学校で仲の良い友達が出来たのはなににも変え難い収穫というものだろう。

     3
 佐原駅近くにある、セカンドキッチンバーガーという節操なしな名前のお店に入る。
 弱小ながらも全国展開しているファーストフード店らしく、最近テレビCMも見るようになった。千葉県内にもここを含めて三店舗あるとのこと。しかしそんな数少ないうちの一店舗が、何故佐原なんかにあるんだろう。松戸市や千葉市ならともかく。重宝しているので、文句いうつもりはまったくないけど。
 駅前だから、わざわざ来るのに面倒ではあるのだが、わたしはよくこの店を利用する。
 わたしの家は、学校から佐原駅に向かって下山する途中の、平坦な、畑のたくさんある小さな住宅地にあり、佐原駅経由で下校するなど遠回りもいいところなのだけど、完全に下山しないと、ファーストフード店のようなのんびり会話に使えそうなお店がないのだからしょうがない。学校のすぐそばにそれっぽい店があればいいんだけど、定食屋と床屋しかお店がないし。

 セカンドキッチンの店内は、我々のような中高校生の客が大半を占めている。
 思い思いのものを注文したわたしたち三人は、奥のほうのテーブル席へとついた。

 わたしはセカンドキッチンハバネロダブルバーガーセットと、クリームチーズシェーキを。
 浜虫久樹もわたしと同じもの、にプラスしてセカンドメガメガチキンカツバーガーの単品を一つ。彼女はフットサル部で一番体が小さいくせに、楽山織絵と一位二位を争うほどの大食いなのだ。
 畔木景子は、セカンドスパイシーミニベーコンパイ単品一つと烏龍茶。こっちはとても小食。

 席についてからずっと、久樹のおしゃべりがとまらない。

「んでさあ、モキチがさぁ、真後ろに立ってて、ようのこと見下ろしてんのよ。要田、はっと気づいてビクッとなって、慌てて机のもの隠そうとしてるんだけど、そうはさせねえって感じにモキチがぶるぶる体震わせながら回り込んで飛び掛ってさぁ、がっぷり四つで『よ、よよよよ、どどど、ななな』ってなにいってっか分かんないの。顔だけ必死だから、もう大笑い。応戦する要田も、真剣なのかからかってんのか、よよよよって真似するし」

 顔を歪めながら、大袈裟な身振りでモキチの真似をする久樹。わたしと景子は、お腹をかかえてげらげらと笑い転げた。

「それ見たかった! モキチ、興奮すると日本語忘れるからね」
「国語の先生なのにねえ」

 モキチというのは、国語を担当している斉藤先生のこと。斉藤だからモキチ、安直過ぎと文句を付けようにも、名付けた先輩は十年前に卒業している。

「でもさ、要田、よくそれで追試にならなかったね。普通に考えて、大幅減点もいいとこでしょうが」わたしは滲み出る涙を拭った。拭いつつ、またぷっと吹いた。「あたしたちなんて、そうなったらとても部活どこじゃなくなっちゃうよね」

 と、久樹に同意を求める。

「まあ、自慢じゃないけど勉強に関しては万年崖っぷち犬だからね、あたしも梨乃も。……景子が羨ましいよな、赤点と無縁で。あたしが景子くらい頭が良かったら、ほとんど勉強なんかしないでフットサルばっかやってるよ」
「あのねえ、わたしは別に頭良くなんかないよ。それだから夜に必死で勉強しているだけです! でないとすぐに成績下がっちゃうから」
「そのさ、夜にちゃんと勉強するってのがさ、つか机に向かえるってこと自体がさ、一つの才能なわけよ、大将」

 勉強嫌いが、優等生に向かって勉強のことをエラソウに語っているよ。
 わたしはそんなやりとりに笑いながらも、ちょっとした劣等感を覚えてさびしい気持ちになる。
 景子はもとの才能もあるのだろうが、なおかつしっかり勉強もしていて、とても賢い。
 久樹はいつも赤点ぎりぎりだが、ろくに勉強をしていないのである意味当然の成績。高校を卒業さえ出来ればいいと考えているので、とても器用に生きているともいえる。
 そしてわたしはといえば、成績は久樹よりほんの少しだけ上ではあるものの、実はかなり勉強を頑張っている。だというのに、ろくに勉強していない久樹と劣等生の真剣勝負を繰り広げているのだから、いかにもともとの脳味噌の作りが劣悪かが窺えるというものだろう。
 神様は不公平だ。天は二物を与えず、というけれども、わたしには一物もないのだから。……体力があることだけは自信があったけど、その自信も中学生の頃、ある人間にメチャクチャに破壊されたし。

「あ、そうだ梨乃、関サル、今日か明日あたり、相手分かるんじゃなかったっけ?」

 久樹が唐突に会話をフットサルモードに切り替えてきた。いつものことだけど。

「その予定。明日、朝まっさきに職員室にいってオジイに聞いてみるよ」

 関サルとは、関東高校生フットサル大会のこと。
 どこかの食品会社が主催して行なっているもので、今年で第七回目だ。
 ちなみにオジイとは、フットサル部顧問の先生。老けて見えるからオジイなのだ。

「弱いとこと当たりたいな~」

 とわたしの弱気発言に対し、

「あたしは強いとこのほうがやる気出るけどね。最初に潰してしまえば楽だし」

 とあくまで強気な久樹。うち、そんなこといえるほど強くないだろ。
 でもまあ、久樹だけは別格で、とてつもなく上手なんだけどさ。

「そういや来年の二月に、千葉県少女フットサル大会なんてのが開催されるらしいんだよね。それも、申し込んでみようかな」
「いいんじゃん。関サルは関東決勝までいっても年内で終わるから、日程かぶらないし」

 久樹はどんな時であれ、決勝に行くこと、優勝することしか考えてない。

「でもその大会名称が引っかかるな。あたしさあ、なんか少女って言葉、嫌いなんだよね~」

 スカートのくせに椅子に座りながら片あぐらの久樹、うん、確かに少女っぽくないよな。肌も浅黒くて、小学生の男の子みたいだし。とかいいつつ、わたしも片あぐら組んじゃっているけど。だから、というわけではないけれど、

「あたしも、少女って嫌い。なんか鳥肌立つよねあの言葉。じゃなんていえばいいのか分かんないけど。平気なのは少女漫画っていう時だけ。そん時だけ、違和感ない」
「わたしも、好きじゃないな~。女子ならいいけど」

 と、のんびり口調の景子。

「そうそう、女子ならいい! 意味がどうこうじゃなくて、少女って言葉の響きが、なんか嫌なんだよね」

 誰も考えないであろうどうでもいいこだわりが、三人で一致してしまった。わたしたちが友達になったのって、必然のことだったのかも。

「スカート丈もさあ、最近の高校生って短いじゃん。あれ、凄い嫌なんだよね。仕方なく履いちゃってるけどさ。目立たぬ程度に、長めに伸ばしてはいるけれど」

 と、今度はわたしが振った。

「梨乃はガッチリと筋肉ついてるからな、男みたいに」
「ついてないよ!」

 失敬な。

「冗談だって。あたしも嫌だな、現在の女子高生の服装って。バカみたく見えるしさあ。太ってる子なんか可哀相だよね、どう考えても似合ってないのに、そうしないとそれはそれで目立って恥ずかしいし」
「わたしも好きじゃない。でも、そうしないと、久樹のいう通り目立って恥ずかしいんだよね」

 おお、また三人で意見が一致だ。

「まさにそうなんだよ。景子のいう通り。一年の時ね、あたし実際にやったんだよ、長く。膝下十センチ。通学路に出て他の子たちの姿が目に入った瞬間、うわやばっ! ってクルリ反転、すぐ家に駆け戻ったよ」

 わたしは、去年の恥ずかしい経験を語った。

「で、そん時さあ、織絵に見られてて、爆笑されちゃったよ。女って嫌だね~、服装のことだけじゃなく、なにからなにまで面倒でさあ」
「ほんとほんと。男に生まれたかったよなあ」
「そう?」

 あ、ここで景子脱落。

「飛行機乗ったことない人!」

 わたしは唐突にそういうと、高らかに手を上げた。なんかいまの流れだと、またまた全員意見一致しそうな気がして。でも二人の手は上がらなかった。

「なんだよいきなり。あるよ、飛行機くらい」

 と久樹。

「毎年家族で海外旅行にいくから」

 景子。良いな金持ちで。

「なんだよ、あたしだけ仲間外れか。景子はともかく、久樹が飛行機乗ったことあるとは意外だ」
「一昨年、学校の旅行でも乗ったし。それと、小さい頃。親の仕事の関係で、ブラジルに住んでたから」
「え、久樹、外国で暮らしてたの?」
「九歳くらいまでね。向こうの日本人学校に通ってた」
「初めて聞いたあ。じゃ、じゃあブラジル語も話せるの?」
「ブラジルはポルトガル語だよ。まだ、ある程度は話せると思うよ」
「凄い! うわあ、なんか落ち込むな。あたし一人飛行機未体験で外国も未経験かよなんて思ってたら、それどこじゃなくて、久樹外国語喋れるんだもんな。景子も頭いいしさ、真の劣等生はあたし一人ってことじゃんか。もう、立ち直れねえ」

 横にどっと倒れて、景子の膝枕。景子にほっぺたをムニュムニュといじられる。

「でも梨乃、中二の時、陸上の全中で四国にいったんだろ。飛行機じゃなかったの?」
「あれさあ、お金ないからっていわれて、新幹線と在来線。本州の外に出たの初めてだったのに、えらい大変な旅行だったよ」

 わたしの陸上なんかより、久樹のフットサルだよ。子供の頃からフットサルやってたっていうのは知っていたけど、ブラジルでやっていたんだ。
 だからあんなに、足元の技術力がもの凄いんだな。

 さて、わたしもなんとか真の劣等性というショックから立ち直った。
 わたしたちの会話は、その後も相変わらずフットサル中心で回っていく。
 今回は関サルも近いことがあり、わたしも景子もそこそこ会話に参加したけども、フットサルの話題は久樹が一人で喋り続けることが多い。ただでさえよく回転する舌が、フットサルの話になるとさらに倍化する。そして今日もだんだんと、いつもの久樹になってきた。ターボがかかってきた。
 部活でのこと、Fリーグのこと、世界の有名なプレイヤーのこと、そしてサッカーのこと。久樹はこの分野のことは実に知識情報豊かで、一人で喋らせていても少しも話が途切れることがない。ある意味凄い才能だ。
 わたしは基本的には頷いているだけで、自分の知識や考えで返せるようなところがあれば返すという程度。景子ははなから、頷きと相槌担当を決め込んでいる。

「ピヴォとはなんぞや」

 一人ぺらぺら語っていたかと思っていたら、唐突にそんな質問をしてきた。

「最前列ディフェンダー。たぶん久樹とは違う考え方だと思うけど」

 わたしは即答する。常々考えていることだったから、迷わなかった。ちなみにピヴォとは、サッカーでいうところのフォワードだ。
 久樹は、にやにや笑って、

「まあね。でもキャプテンの考えてることの方向性を確認しとかないと、なにやるにもチグハグになっちゃうからさ、ちょっと聞いてみた。なるほどね、最前列ディフェンダーか。じゃ、FP四人全員がベッキだな」
「うん。フットサルはルール自体が守備的一辺倒にはやれないようになっているから、だからこそ全てのことを守備的に考えるのって大事だと思う。大袈裟にいうと、点を取ることも守備なんだよ」
「はあ」
「逆いうと守備することも攻撃になってしまうから、あまり突っ込んだ話をしようとしても矛盾だらけで論点ずれちゃうけど。まぁとにかく、それで戦術をどうこうしようとまでは思ってなくて……あたしはまだ、そこまでの経験はないから。あくまで個人的な、意識の持ち方ってだけの話。先制されたらパワープレイだってさせるよ、当然。相手より点を取らなければ勝てないんだから」
「なるほどな。梨乃が部長になってからのこの一ヶ月間の練習で、守備的に比重置く考えなのは分かっていたけど、そこまでとはね。おもしろいね、点取ることも守備って」
「中学生の時、先輩のボールを二十分かけて奪うどころか触れることすら出来なかったってとこから、あたしのフットサル人生は始まっているからね。守備が完璧ならば負けない」
「またはる先輩ですかあ? だから何度もいうけど、あいつは別格なんだってば。特殊なの、特殊」

 久樹が特殊だという春江先輩というのは、わたしの中学時代の……
 っと、それは後だ。
 お店の自動ドアが開いて、新たな客が入ってきた。
 よく知った顔の男子が二人。
 嫌な奴がやってきた……

 二人とも佐原南の男子制服をラフに着ている。
 ワイシャツは第三ボタンまで開けて、裾はズボンから出している。
 暑いのにわざわざ長袖を着てわざわざ袖まくりしている。
 ズボンずり下げるようなそこまでみっともない格好はしてないけど、それでも充分にだらしない。

「お、ゴリラとその手下たちじゃん」

 二人のうちの一人、いつもぼさぼさ寝癖髪のたかみつが、わたしたちがいるのに気付いたようで、さっそく毒を吐き散らしてきた。
 こいつは、わたしや景子と同じクラスだ。
 その後ろにいる図体の大きいのが、高木三人の友人というか悪友のわらたかし
 どちらも男子フットサル部員だ。

「うるさい、変な名前のくせに」

 わたしはボサボサ寝癖男を、じろりと睨んだ。
 三人と書いて「さんにん」でも「みつひと」でもなく、「ミット」と読む変な名前の男の顔を。
 背はスラッとして顔立ちもまあ普通なのだけど、とにかく口が悪い。だからわたしの心の中の「非・恋愛対象者リスト」の上位には、常にこいつの名前がある。本人はまさか、目の前の女子にそう思われていることなどつゆも知らずに能天気顔だ。

 なんでもお父さんが野球大好きで、息子をプロ野球選手にしたかったらしい。
 ところが当の息子ときたら天性の天邪鬼、物心つくや否、買い与えられたバットもグローブも蹴飛ばして、地元の少年サッカー団に入ってしまったのだ。
 しかしそんなひねくれ者も、自分で選んだ道は楽しいようで、中学校ではサッカー部、高校ではフットサル部、と順調に続けている。

「あれ、おい、ゴリラ、そのシェーキ新しいのじゃねーの? 期間限定の、クリームチーズの。どうがCMやってるの。おれもそれにしよっと」
「勝手にすりゃいいじゃん。それはそうと、ゴリラっていうな、このミット!」

 よく考えると悪口でもなんでもないことを、さも悪口かのような口調でいってみるわたし。いずれにしてもこのバカ男にはまったく効果なく、それどころか余計に調子に乗ってゴリララゴリララと不気味な歌をうたいながら身をくねらせている。

「夏の暑さが脳にまだ残ってんじゃないの、あんた」

 このバカとは家が近く、小学校の時からの半ば腐れ縁のような関係だ。ただ、同じクラスになったのは、今年が初めてなのだけど。
 容赦なくバカバカいってるけども、実はわたしよりずっと成績が良く、それがとても悔しい。
 あと、いっとくけどわたしは別にゴリラ顔ではない。美人とか超絶カワイイとか、そんなのではないけど、でも決して悪くはないと思っている。
 身体だって、か細くはないけど太くもないし、まあ普通だ。
 要は、小学生の頃に何故だかそんなあだ名がついたことがあって、現在でもその名で呼ぶ者がいる、というだけのこと。このバカも、その一人。ほんと大っ嫌い、こいつ。

「本当、仲がいいよね~」

 ミットの後ろに回りこんで、いっそ絞め殺してやろうかとスリーパーホールドをかけていると、それを見ていた景子がいきなり、とんでもない言葉を発した。

「どこが!」

 対象者二人揃って、景子に真剣に抗議だ。

「うわ、ハモった!」

 茶化す久樹。

「そういえば、お前らよう」

 黙って立っていた加地原孝が、唐突に口を開いた。すっかり存在を忘れていたよ。身体が大きいと、かえって目立たないものだ。

「関サルの一回戦、ばらふじに決まったらしいべ。ご愁傷様だな」
「え……」

 茂原藤ケ谷って、まさか。

「なに、ゴリラあそこと当たんだ。うわっほ、可愛そうに。まあ、もしも暇があったら骨は拾ってやるから、せいぜい頑張れや。つか、お前には効かないんじゃないの、呪い。あれ、人間用だろ」

 わたしの腕の中でミットが小癪なことをいうので、スリーパーホールドかけている腕にぎゅいいっと力を込めてやった。

「あたしも立派な人間なんですけど」

 このまま窒息してしまえ。
 暇だったら骨くらい拾ってやる。

「分かった、それでもいい、人間ってことでもいい! ギブ、ギブッ」

 憐れみに腕を緩めてやった途端、するりと抜け出したミット。また類人猿だなんだといって腰をくねらせながら踊り始める。行動読めてたから、もうあんまり腹も立たない。それよりも、

「加地原、それ本当なの? 茂原藤ケ谷って」

 アホの相手よりも、こっちのほうが大事だ。

「さっき入ってきたばっかの情報だけど間違いねえって。ダブルバーガーかけてもいい、ハバネロの」
「かけないよそんなの、こっちに分が悪いでしょ」

 毎年秋から冬にかけて行われている、関東高校生フットサル大会、略して関サル。我々にとって、一番二番を争う大事なイベントだ。まずは県内で地区予選があるのだけど、加地原の話ではわたしたち女子部の初戦の相手が茂原藤ケ谷だというのだ。
 県立茂原藤ケ谷商業高等学校。千葉県茂原市の外れ、海のすぐ近くにある高校だ。男子部は特になにも聞かないけれども、女子部は非常に有名。
 何故かというと理由がいくつかあって、まずは大柄な選手揃いで、体格にものをいわせた反則ギリギリのラフなプレーがとにかく多いらしいということ。
 しかも、何故だか試合直前になると、対戦相手の主力選手が怪我やら病気やらで、ことごとく欠場してしまったりするらしい。
 去年の大会の時も、直前に対戦校の主将がアルバイト先で大クレームを起こして、高校生の身分だというのにお客さん先に謝罪にいかされるはめになり、それもあってか結局茂原藤ケ谷にボロボロにやられてしまったという話だ。
 そんなことばかり起こるので、毒を盛っているんだとか、黒魔術だとか、様々な噂が暴走している状態。運良く試合に出られた選手も、結局はラフプレーの餌食になるとか。
 そんな茂原藤ケ谷も、結局はフィジカルが強くて戦術のしっかりした強豪校にあっさり負けて散ってしまうのだけどね。それまでにどれだけ血の海を作り、死人の山を築くことか。いの一番に強豪校と当たって、とっとと玉砕してしまえばいいのに、よりにもよって何故うちなんかと。

「嫌だなあ、茂原藤ケ谷なんて」

 景子が心底嫌そうな顔をしている。
 華奢な体格の景子は、茂原藤ケ谷の直撃を食らったらひとたまりもないだろうからな。くるくる回りながら、八十メートルくらいは軽く吹っ飛ぶんじゃないかしら。……どんな怪物なんだか一度も実物見たことないものだから、どうしても噂からいろいろと勝手にとんでもない想像をしてしまう。

「大丈夫。あいつら、技術はそれほどじゃないって聞くよ。絶対にあたしらが勝つ! ね、梨乃」

 久樹が、真冬だったら暖房費かからないんじゃないかってくらいに、炎をめらめら燃やした瞳でわたしの顔を見る。いま九月だからくそ暑いわ。

「なんかえらく強気だなあ。そりゃ、あたしだってさ、やるからには勝ちにいきますって。だからとりあえず……景子、あのさあ」
「なに?」
「ノート見せて。現国の」

 両手合わせて景子様を拝んだ。

「モキチ、今日の中から出題するようなこといってたじゃん、二学期の中間」

 試験で赤点なぞとっていたら、茂原藤ケ谷もなにもないのだ。

「あ、ずるい梨乃! 景子、あたしも」
「あのね、二人とも、ノートとることだってちゃんとした勉強なんですからね」
「だってモキチ板書速いんだもん」

 とわたしはグズる。

「どこの田舎か分からないような喋り方するから、ついついまじまじ聞いちゃうんだよな」

 久樹がなんか酷いこといってる。とかいうわたしも乗ってしまって、

「そうそう。どこの地方の喋り方だろ、ってまじまじ聞いて考えている間に、黒板消しサッサカやって消しちゃうんだもん」
「同じまじまじ聞くなら、せめて身になるところをちゃんと聞けばいいのに」

 景子、あきれてものもいえない様子。いってるけど。

「そうするから、だから、ノート見せて。いまここでちょっと見るだけでもいいから」
「なんかいってることが支離滅裂なんですけど。……しょうがないなあ。今回だけだよ」
「やった~!」

 声合わせて喜ぶ劣等性コンビ。
 これで何度目の「今回だけ」か。
 やっぱり持つべきものは友達ってことですね。


「ただいまー」

 我が家に帰宅。
 もうとっくに夜だ。時計の針はすでに八時を三十分ほど回っている。
 勉強もしないといけないというのに、ついつい久樹たちと対茂原藤ケ谷戦のことで話し合っていて時間がたつのも忘れてしまったのだ。

「あ、おかえりなさい、梨乃さん」

 従業員のヒデさんがお店の後片付けをしている。ヒデさんは大柄で、優しそうな顔の青年だ。確か年齢は二十九歳。独身。
 木村豆腐店というのがこの店の名前。木造の、吹けば飛ぶようなオンボロの住宅兼店舗だ。
 以前はお父さんとお母さん夫婦で働いていたのだけど、お母さんが死んでしまって……半年くらいはお父さん一人で頑張っていたのだけれど、やはりどうにも労力的に厳しくて、ヒデさんを雇ったというわけだ。もうかれこれ五年ほど前の話になる。
 よく「店の側から上がるんじゃねえよ!」と、お父さんに怒鳴られるけど、こっちのほうが早いし、いまは営業時間終わっているから平気でお店から入ってしまう。まあ、営業時間内でも、平気でそうしちゃっているのだけど。
 店の奥ではお父さんが大きな鍋を鉄のタワシで掃除している。同時に明日のための仕込みも行っている。いつものことながら、この空間はもの凄い大豆の匂いだ。

「お父さん、ただいま」
「おかえりうぃ~っしゅ」

 腕を交差させる父。ゴツイ顔して、チョビ髭なんか生やしてるくせに、なにやってんだか。

「バカじゃないの」

 わたしも容赦ない。

「うるせーな、吉田さんが流行ってるっていってたんだよ!」

 吉田さんは近所のおばちゃんで、お得意様。

「……あのさあ、なんか手伝おっか」

 わたしの一声に父は、振り上げたタワシを下ろし、

「お、なんだなんだ、どういう風の吹き回しだよ。ははあ、小遣い値上げなら無理な話だぜ。このあいだ上げてやったばっかだろ」
「まったくもう。可愛い娘の純粋な愛情を、そうやってすぐ邪推するんだからなあ」

 まあ無理もないか。先々月、粘りに粘ってようやくお小遣いを上げて貰ったばかりなのだから。交渉に味をしめた、と思われても不思議ではない。

「え、可愛い娘、どこどこ? いねえよぶふっ!」

 予想外に力の入ってしまった拳を顎に受けて、のけぞるオヤジ一匹。やば、当たり所が悪かったのか本当に痛そう。

「いってえな。余計な筋肉ばっかりつけやがって」
「バカなこといってっからだよ」
「器量悪いツラしてんだから、少しはおしとやかにしてろっつーの」
「昭和のオヤジか!」

 器量悪いだとか、いまどぎ実の娘にいう台詞かね。つうか死語だろ、おしとやかだなんて。

     5
 夜九時。
 残暑の厳しい季節だけれども、さすがにこのくらいの時間になるといくらか涼しくなる。
 既にヒデさんも帰って、ボロい我が家にはわたしたち父娘の二人だけ。
 お風呂から出たわたしは、パジャマに着替えタオルを頭にまいて、床にあぐらかいてビデオのリモコンをいじっている。

「ああもう、また録画されてないよ! お父さん、もうこのボロビデオ、やだ」
「電源ちゃんと入るべ」

 寝っ転がりながら柿の種を食べている父。

「すぐ録画出来なくなるんじゃ意味ないじゃん」

 千葉テレビで隔週放送しているサッカー講座番組「楽しいサッカー」、タイマー録画のセットをしたはずなのに録れてなかったのだ。
 番組予約表を見ると、予約時刻の表示が残ったままだから、そもそもまったく作動しなかったっぽい。
 セットした予約時間に間違いはないものの、ビデオの時計が0:00のまま点滅している。一瞬電源が落ちたのか、時刻が飛んでしまったようで、それが原因だ。たまにこのようなことが起こるのだけど、まさかこんな日に、こんなことになるとは。

「久樹も景子も録画していると思うけど、ビデオテープじゃないしなあ。今度、遊びにいって、見せてもらお」

 二人とも、家にあるのは地デジ対応のハードディスクレコーダーだというのに、うちはいまだにVHSのビデオテープ。たまに絡まってこれまでの記録が完全にオシャカになったりする、あのビデオテープだ。
 テレビなんか、わたしが生まれた頃に買ったらしい十四インチでビデオ一体型のものだ。買って数年でビデオデッキ部分が壊れてしまい、ビデオだけ別に専用機を買ったのだそうだ。

「早く最新のテレビと、録画する機械買えばいいのに。知ってる? あと二年でアナログ放送も終わりなんだよ。うちの今の機械じゃ映らなくなるんだよ。クサナギ君がCMでいってたでしょ。でもまあ、ぎりぎりまで待ったほうが性能が良いのが出るからいいのかな、どうせまた十年二十年って使うんだろうから」
「そもそも、いらねーじゃん。テレビなんて見ないだろ」

 呑気そうにお茶をすする父。

「見るよ! テレビがないなんて、どんな家だよ。あのね、お父さん、確かに豆腐作りには関係ないかも知れないよ、直接的には。豆腐講座なんてやってないからね、NHKでも千葉テレビでも。でもさあ、それ以外にも、物価の上昇やら消費税やら天気予報やら株価やら総裁選やら星座占いやら、生活にかかわるような番組一杯あるでしょーが」

 あと、お笑いやら、ドラマやら。わたしのついでとはいえお父さんも見ているから、ういっ~しゅなんてバカやっているわけで。ちょっと古いのがなんだけど。

「山奥で仙人のような暮らししている職人と違うんだよ。街の中、お客さん相手の商売してるんだからね。世の中のことなんにも知りませ~ん興味もありませ~んじゃ困るでしょ?」
「別に困らんなあ」

 ダメだこりゃ。
 テレビもビデオも、はよ壊れてしまえいっそのこと、と思っていたけど、やっぱり壊れてはいけない、頼む、もうしばらく頑張ってくれ。二年後のアナログ放送が終わる頃までには、なんとかお父さんを改心させるから。
 あ、でもあと二年後といえば、わたしももう高校卒業しているよな。
 大学生になって一人暮らしなんかしているかも知れない。
 ……結婚してたりして。
 なんてね~。

「相手いねーだろ」
「あ、あたしなに喋った? どこまで喋った?」

 お父さんの首を両手でぎゅぎゅーっと絞める。
 考えていること無意識に口にしてしまう、わたしの悪い癖だ。なんとかしないとなあ、とは思っているのだけど。
 とにかく、「楽しいサッカー」が録画されてないんじゃあ仕方ない、いつも夜十時くらいからやってる日課のランニング、早めに済ませてくるか。それとも勉強を先にしてしまおうかな。
 などと迷っていると、いきなり電話のベルが鳴った。
 まあ、いきなりじゃなく予告してからベルの鳴る電話機なんてないけど、とにかくうちの電話は大昔からの黒電話なので「ジリリリン!」とうるさくて、油断している時に鳴ると飛び上がって天井に頭ぶつけるくらいビックリするのだ。この感覚、分かってくれる人が周囲にいないんだよね。黒い電話だからなに? って感じで。
 いつまでもオカマのセミが唸るような大音量でジリジリ鳴られてはかなわないので、四つ足で素早く電話器ににじり寄り受話器を取った。

「はい。木村豆腐店でございます」

 うちはお店専用の電話番号を持ってないので、建物同様に電話も自宅と兼用。だからわたしも必然的に、営業トークなんか身についてしまっている。電話で赤の他人と会話ができない相槌も打てない十代が増えているとニュースで見たことがあるが、うちには無縁のことだ。つうかなんで電話なのに相槌も打たないのか、理解できん。

「あ、なんだなんだ。春江先輩かあ」

 わたしとフットサルとを引き合わせてくれた人。パワーも技術も半端じゃなく凄い、わたしの心の師匠だ。
 本当は同い年なんだけど、尊敬崇拝の意味を込めて先輩と呼んでいる。
 彼女はわたしと同じ中学の出身で、現在は東京の高校に通っている。

「うん。大丈夫だよ」

 実家からあまりに時間がかかるから、アパートを借りて一人暮らしをしている。わたしが一人暮らしに憧れるのも、彼女の影響なのだ。先輩のやること、わたしにはなんでもかっこよく思えてしまうのだ。

「そうそう、そうなんだよ。茂原藤ケ谷でしょお、もう、どうしようかと思ってさあ。……そりゃ、やるしかないよ。うん、うん、ありがとね、心配してくれて。先輩、大好きだよー」

 茂原藤ケ谷がわたしたちの初戦の対戦相手であることを知って、ちょっと心配になって電話をかけてきたのだそうだ。優しいなあ。
 それにしても情報が早い。
 いくら人望人脈があるにしても、凄いネットワークだよな。

     6
 スカートをきゅっきゅっと回して、位置の微調整。
 赤いネクタイを結び、ブラウスの第一ボタンをとめる。
 髪の毛に、さっとスプレーをひとふき。
 目の前にいま、一人の女の子が立っている。
 身長百六十ちょっと、まあ普通。
 体重も、まあ普通、だろう。
 背骨はすらっと真っ直ぐで、目はパッチリでもないが二重、童顔、髪の毛は肩にかかるかどうかってくらいのいわゆるショート。
 鏡に映ったわたしの姿だ。

「ゴリラじゃねえよな」

 ぼそり、と呟く。
 そこそこ可愛い部類に入るのでは。いや、まあまあ普通、かなあ。他人の感覚なんぞ分からんけれど、ともかく、決して、絶対に、ブスなんかではない。
 なにがあろうとも。そう、なにがあろうと、ゴリラなんかじゃあないっつーの。高木ミットのアホウ! ボケが! あの、昔のマンガの江戸っ子みたいな顔のオヤジの娘にしては、驚異的に可愛い! 
 と、思うけど。
 たぶん。
 どうなんだろう……
 もう、どうでもいいや。
 ブスでもいいや。
 ゴリラでも、サルでもいいや。
 はあ。
 つい、心の中で熱く盛り上がってしまって、逆にテンション下がっちゃったよ。
 小学四年生の時だったかな、クラスの女子がやけに華奢な子ばっかりで、相対的にわたしがいかつく見えてしまったのか、男子に毎日のようにブスだ猿だゴリラだといわれていた。現在となってもその名残から、悪意はなくともわたしをそう呼ぶ者がいる。例えば高木ミットとか。
 周囲の子がどうこうというだけでなく、その頃わたしがいつも猫背気味で姿勢が悪かったことも原因の一つかも知れないけどね。
 久樹ほどじゃないけど、ほんの少し色黒なところも。
 他人よりちょっとだけ首が短いとことか。
 意外とがっちり骨太なとこも。
 低学年の頃から妙に気が強くて、男子と殴り合ってばかりいたことも。
 ミットの奴も何度ボコボコにしてやったことか。まあそんなわたしも現在は、すっかりおとなしくて地味な子になってしまったけどね。
 ええと、あとそれから、
 って、おい、いくつ原因があるんだよ。
 再び、長い長いため息だ。
 やっぱりブスなんだよ。きっとゴリラなんだよわたしは。
 しかし男子も男子だ。小学生の頃ならば、女の子にブスだなんだいいたくもなる年齢だろうけど、高校生にもなっていうなよ。
 もっと普通の、思春期特有の悩みに悩みたいよ。
 ニキビとか、恋愛とかさあ。
 などと心にぶつぶつ呟いていると突然、お父さんが眠そうな目をこすりながら洗面所に入ってきた。いつも早朝の仕事が一息つくといったん寝て、このくらいの時間にまた起きてくるのだ。

「おう、洗面所まだあかねえのか。化粧したって変わらんだろ。酷くなりこそすれ」
「化粧なんかしてないよ!」

 誰がブスじゃボケ! って、いってないか。

「なに怒ってんだよ」
「ごめん。ん? なんでバカにされたほうが謝んなきゃなんないんだよ」
「知るか」

 わたしは歯ブラシを手に取り、ブラシの上ににゅるんとチューブの中身を出すと、お父さんに洗面所の所有権を明け渡した。
 歯を磨きながら居間へ。
 十四インチのボロテレビをつけると「めざましスタジオ七時です」がやっている。
 男性レポーターが、渋谷の女の子に現在流行のおしゃれグッズのことを質問している。名前聞き逃したが、なんかギリシャ人みたいな変わった靴。認知度九八%だって。うそ、わたし、そんなの初めて見たよ。
 ……おしゃれなんて二の次って思ってたけど、さすがに二%の側になるのは恥ずかしいかも。ちょっとは興味持つようにしないといけないなあ。雑誌まで買うつもりはないけど。

     7
 仕度を済ませ、トイレも済ませ、仏壇に線香あげて、天国のお母さんにお祈りして、お父さんと従業員のヒデさんに挨拶して、靴履いて、家を出た。
 カーッ、と照りつける陽光を浴び、大きく伸びをする。
 朝、七時四十分ジャスト。
 今日も平凡な、でもそれなりに充実してて退屈はしないであろう、そんな一日がはじまるのだ。
 わたしの通う佐原南高校まで、うちから早足で約二十分。参考までに、佐原駅からだと三十分くらいだ。
 電車通学の久樹が体力作りのためバスを使わず佐原駅から歩いているため、景子も真似してなるべく歩くようにしており、そんな二人に途中で合流して、三人でお喋りしながら学校へ向かうのがだいたいいつものパターン。
 佐原駅から見ると、北側は平坦な住宅地帯。南側は少しだけ平坦な部分があり、小江戸などと呼ばれる観光名所があるのだが、さらに進むと住宅の閑散とした山林地帯に入る。
 その山の中にも、ところどころ住宅街も存在しており、我が家はそんな中にある。
 昔からある小さな住宅街の中の、古びた商店街の中の、さびれた豆腐屋だ。
 なんでも昔は老舗の和菓子屋だったらしいのだが、戦後、祖父の代、大量の大豆が激安入手出来るルートがあるとかで、あっさり鞍替えしてしまったらしい。
 一時期はそれで随分と儲けたらしいが、いまはご覧の通りの有様。しかもここ数年、大豆の価格高騰でさらに厳しい状態らしい。
 和菓子屋だったらなんかオシャレっぽいから後を継いであげてもいいけど、豆腐屋じゃ嫌だなあ。などと考えてしまうわたしは、冷たい人間だろうか。
 さて、その小さな豆腐屋を出て、自動車一台が通れる程度の細い道を少し歩くと、左右から垂れるように伸びる木々のトンネルに覆われた薄暗い県道に出る。この県道が、JR佐原駅から佐原南高校までの通学路だ。わたしの住んでいるところも駅から結構坂道を登ったところなのだが、通う高校はもっともっと登ったところにある。
 本当は山というよりは単なる高台なのだが、感覚的に、わたしはこの近辺を山と呼び、坂を上るのを登山、下るのを下山などと呼んでいる。

「おいーす」

 自転車に乗ったわらたかしが、わたしを追い抜いていく。上り坂だというのに凄い勢いだ。さすがは男子。

「おいーっす」

 といちおう返しとくが、立ち漕ぎでシャカシャカ頑張ってる加地原の巨大なはずの背中は、既にかなり小さくなっている。
 反対に、わたしの視界にみるみる大きくなってくるのがあぜけいの後ろ姿。
 景子はいつも単語帳やら参考書やら片手にゆっくり歩いているので、早足のわたしとこのように合流することが多いのだ。
 一緒になるとわたしも速度落とすし、景子も手にしてる物しまって歩調を速め、他愛もない話などをしながら歩くことになる。

「景子、ノートありがとね。助かった。……悪いね、見せてもらうどころか結局貸してもらっちゃって」
「貸したくはないけど、梨乃ってば、鬼気迫る感じで顔寄せてくるんだもん」

 とまあ、昨日はそういうことだったのだそうで……

「まあまあ。試験無事にパスしたら、なんでも奢っちゃうからさあ」
「じゃ、ハナキヤのイタリアンジェラートね。ダブルのビッグサイズで、ゴールドバニラとカカオスペシャル」

 景子、さらっといってのけるが、しかし、

「そ、それ、究極にゴージャスな組み合わせじゃん!」
「嫌なら別にいいよ。それじゃ、ハナキヤはやめて、そうだなあ、カフェエクスプレッツァの……」
「ハナキヤでいいです。ハナキヤ奢らせてください、是非」

 高い代償を払うことになってしまった。
 小遣い値上げしてもらってなければ、どうなっていたことか。
 口は災いの元とはよくいったものだ。

「ダイエットしてるくせに」

 往生際悪く、ぼそっと反撃してみる。

「こういう時にしっかり食べられるようにね」

 間髪入れず、返ってくる。
 負けた。
 最初から勝てるはずないとはいえ、なんの抵抗も出来ず、あっさりと。
 まあいいか。ノートは今日、久樹だって借りるんだから。なんとか引きずり込んで、折半にしてしまおう。
 それにしても、景子のまとめたノートは本当に分かりやすかった。基礎学力の足りないわたしには、どうにも分からないところもたくさんあったのだが、それでも、ノートを見ているだけでなんだか賢くなった気がしたし、今度の試験対策には充分に役立つものだったと思う。
 でもいいな、景子は。
 頭いいし。
 かわいいし。
 性格も優しいし。
 気がきくし。
 ほんと、欠点がない。おっとりしてて、一緒にいて癒される。

「よっ、ゴリラ」

 背後からその声が耳に入った瞬間、脳を経由せず脊髄反射で後ろ回し蹴りを放っていた。足に、獲物をしとめた確かな感触。高木ミットが「えひぃ」と奇妙な叫び声をあげた。わたしの蹴りが、腰だか腿だかのあたりに炸裂したのだ。

「スカートで回し蹴りなんてほんと野蛮なサルだな。ガキかよ!」
「うるさい! ガキはお前のほうだ!」

 ほんとこいつ、ムカツクわ。先に悪口いってきたの、そっちだろ。

「景子、やめてよ、その微笑ましいものを見る顔つき。他人に勘違いされたらどうすんの」
「楽しそうだなぁって思って」
「どこが!」

 うわ、またこのバカ男とぴたりハモってしまった。
 朝からついてねぇ。
 腹立つから、もういっちょ蹴り食らわしたる!

     8
「えー、であるからにしてからにして」

 静かな教室に、カマバロンの甲高い声だけが反響している。
 いまは四時限目、数学の時間だ。
 そして、これが終わればようやくお昼。あと三十分。
 もうお腹が鳴りそう。鳴ったら恥ずかしいし、空腹は辛いし、昼、早くきてくれ。全速力で。
 しかし今日は、えらい猛暑だ。残暑云々という季節だというのに、真夏を遥かに超えている。
 汗がダラダラと止まらない。
 エアコンくらい導入してくれればいいのに。職員室にもないので、そう文句もいえないのだけど。
 空腹と暑さとで、椅子に座っているのにもかかわらず目が回って倒れそうだよ。

「したがってこの式の解は!」

 またカマバロンの絶叫轟く。
 うるせえな、もう!
 いや、本人は普通に喋っているだけなんだろうけど、キンキン響くからヒステリックなおばちゃんが怒っているように感じられてどうにも鬱陶しいのだ。
 カマバロン。本名、なかたけし。ジャガイモっぽい顔 → ジャガイモといえば → 男爵、ということで、しばらくオカマ男爵などと呼ばれていたのだが、最近は専らカマバロンと呼ばれている。名付け親はこんどうこういち。肉ジャガから派生して、肉男爵などといっている者もいるが、なんか響きが卑猥で女子は誰もそう呼んでない。
 って、カマバロンの話なんかどうでもいい。
 しかし参ったな。迂闊だった。モキチの国語のことばかり考えてて、すっかり数学のことを忘れていたよ。
 テストに備えて、さて、本腰入れて授業を聞きますか、と思ったものの全然理解出来ない。カマバロンが黒板に数式を書いているけど、魔女の呪文にしか見えない。
 わたしは自分のノートに、『ノートちょっと見せて』と書いて、小声で「おーい」と隣の隣の席にいる高木ミットに声をかけた。
 よくよく考えると、数学って他人のノート見ても意味がない科目だと思うのだけど、まあ咄嗟の人間の行動なんてこんなものなのである。
 ミットは、こちらをちらりと見るや否、ぷいと反対側を向いてしまった。
 ほんっとムカツク奴。嫌なら、せめて気づかないふりして、真っ直ぐ黒板見てりゃいいじゃんかよ。
 と思ったらミット、がさごそ動いたかと思うと、高くノートをかかげた。
 なんだ、ちょっとはいいとこあるじゃん。

『阿佐野亭のステーキ食いたいなー』

 はあ?
 横目でこちらをちらちら見てるミット。
 なんでノートちょこっと見せてもらう程度で、そんなんおごらないといけないんだよ。
 変な名前のくせに、調子乗りやがって。頭きた。
 と、すかさずカリカリ書いて、

『ドケチ!』

 ミットに向けて、ノートを突き出した。
 景子にハナキヤのアイスをおごるだけで、財布が大ピンチなんだぞ。

『バーカ』

 と瞬時にして返ってきた。
 ミット、いったんノート引っ込めて、カリカリやって、また見せてくる。さっきのおっきい『バーカ』の周囲に小さく、

『バーカ バーカ バーカ ゴリラ ゴリラ ゴリラ ブス ブス ブス サル ブスザル ブス 猿人 類人猿 人類のあけぼの 石器 オリバー』

 わたしたち二人の間にいるこしともちゃんが、心底迷惑そうな表情を浮かべている。ごめん、しかしもう、あとには引けんのじゃ。
 他人のノート借りようというわたしもわたしだが、さすがにこの仕打ちにはムカっ腹が立ち、ガリガリガリガリと思いつく罵詈雑言の限りをノートに書き殴り、これでどーじゃとばかりミットに向けてばっと突き出した。
 ショックで死ね!
 突き出した先には、カマバロンの顔があった。わたしのノートを見て、目を白黒させている。頬がピクピクしてるのが分かる。
 この教室にこれほどまでに重たい空気が流れたのは、開校以来ではなかろうか。
 カマバロン、ノートを軽く払いのけて、こほんと咳払い。

「あなたの気持ちはよーく分かりました」

 冷静な表情だが、手がぷるぷる震えているのがはっきり分かる。

「ち、ちが……」

 わたしは慌てて立ち上がった。
 事情を説明するから冷静に聞いてくれ、カマバロン! いや、田中先生!

「自習!」

 カマバロンは、ガラスが砕け散りそうなキンキン声で叫ぶと、内股の早足で教室を出ていってしまった。
 吉田ノリオが廊下に顔を出し、完全にカマバロンが消えたのを見届けガッツポーズ。埃が床に落ちる音すら聞こえそうなくらいしんとしていた空気が、一瞬にして大爆発。

「自習!」

 近藤孝一が内股で体をくねらせながら、カマバロンのキンキン声をマネして叫ぶ。

「木村、ありがとう」

 とくろうが、わたしの手をぎゅっと握ってきた。

「はあぁぁぁ?」

 ちょっと、なにいってんのよこいつ。

「よし、早弁するべ」
「野球やろうぜ野球」

 とみんなはしゃぎ放題。
 みなさん、教室は勉強するところですよ~!

「しかし木村、お前勇気あるなあ」
「だから違うって! ミットが」

 ったく、どいつもこいつも。

「失敬な。ボクはただ真面目に勉強していただけですが」

 作り真顔百%のミット。もし眼鏡かけてたら、絶対に人差し指でぐいと持ち上げてただろう。

「うわ、きったねーー」

 わたし一人悪者かよ。
 しかし、最悪な事態になってしまった。
 よりにもよって、カマバロン相手にやらかしてしまうとは。
 以前、吉田ノリオが先生にチクリと嫌味をいってしまったことがある。確かあの時も、冷静に受け流しつつも手がぷるぷるしてた。翌日から、吉田への態度がもう明らかに違っていた。
 問題の振りかたなんか、実に用意周到で、難易度高くはないけども吉田には苦手そうというものばかり振ってくるのだ。徹夜で考えてるんじゃないかってくらい。
 ヒント教えてあげる振りをしつつ、恥かくように巧みに巧みに誘導するような真似するし。
 「にねん たかぎみっと」と名前書いた野球ボールでも、カマバロンの後頭部にぶつけてやろうかしら。あらたな獲物の出現に、地味なわたしの存在なんてあっさり忘れてくれるかも知れない。

     9
「次っ、リフティング! 五回も出来なかったら、腹筋五十回やらせっからね!」

 わたしの怒鳴り声が、壁に人にボールに、バリバリぶつかって反響しまくっている。いま体育館には女子フットサル部員しかいないから、そんな大きな声出す必要ないのだけど。

「キャプテン、無駄に声うるさくて迷惑で~す」

 はまむしひさが、しかめっ面で耳を押さえて、容赦のないリアクションだ。

「どーもすんませんです……」

 わたしはがっくりうな垂れる。
 だって、明日からのカマバロンのねちねち攻撃が怖いんだもん。情緒不安定になるのもしょうがないじゃないか。
 でもまあ、いまから不安な気持ちになっていても、それこそしょうがないよな。世の中なるようにしかならないのだから。気持ちを切り替えなければ。
 そうだ。こんな時にはフットサルの練習だ。すべてを忘れられる、楽しいフットサル。わたしもみんなと一緒に、リフティングに参加しよう。よおし、やるぞお。

 結局……
 五回出来なかったのは、わたし一人だけだった。
 やりゃいいんでしょ、腹筋五十回。

     10
「うわあ」

 久樹が大袈裟に身をのけぞらせて驚いている。

「そりゃくるよ、きますよ、絶対。ねっちねっちと、ねばっこいのが。バカだなあ梨乃は、なにカマバロン敵に回してんのよ。心から同情するわ。ま、せいぜい頑張ってね」
「おい、どこが同情してるんだよ」

 所詮人間一人きり。孤独な生き物。
 もう夜の七時半だというのに、わたしと久樹はまだ学校にいる。
 ところどころ照明の消された、薄暗い廊下を歩いている。
 もう完全に夕日も沈みきっており、窓の向こうはろくに外灯もない真っ暗闇だ。
 部活のあと、わたしと久樹の勉強落ちこぼれコンビは教室でテストの対策をしていて、それですっかり帰りが遅くなってしまったのだ。

「あれ、部長ノート置いてきちゃったみたいだ。ごめん久樹、ちょっとだけ待ってて。んじゃ、昇降口のとこで」
「分かった。急いでよね」

 オーケー、とわたしは走り出した。
 静まり返った廊下に、かかとを履きつぶした上履きのペタペタペタという足音が響く。
 なお部長ノートとは、普通の大学ノートで、単にわたしが部活用に使っているメモ帳だ。勝手にそう呼んでいるだけ。
 階段を降り、再び廊下を走り、廊下を抜けて外へ、体育館の入り口直前を左折、体育館に沿ってぐるりと半周したところに、運動部の部室に使用しているプレハブの建物がある……のだが、わたしはそこまでいかずに体育館の途中で足を止めてしまった。

「おら、いくぞ!」
「まだまだ!」
たけとみ、そこじゃないっていってんだろ間抜けが!」

 男子の大きな叫び声にびっくりし、窓から体育館の中を覗き込み、そのまま目が離せなくなってしまったのだ。
 高木ミット、その他、二十人ほどの男子が、素早く動き回り、激しく身体をぶつけ合っている。
 男子フットサル部。こんな時間なのに、まだ練習しているんだ。
 いくつかのグループに分かれ、ボールを使い、攻守の練習をしているようだ。
 男子はいいよなあ、三年生が抜けてもまだ二十人以上の部員がいるんだから。紅白戦に不自由しないじゃないか。うちらは、何人かに休まれるともう無理だからね、五対五は。
 しかし、ほんとにみんな凄く真剣な顔してる。
 ボールと足と脚と筋肉と骨と頭と胸と気迫と汗と、様々なものがぶつかり合っては、ガッ、ガッと音をたてている。
 鼓膜だけでなく、五感すべてに、音が響いてくる。
 短パン姿なんだけど、ソックスとの間から見えている足の筋肉なんかも、見事に筋張ってて、太くガッチリしてて、なおかつしなやかそうで。
 やっぱり男子は迫力があるなあ。高木ミットも凄い気迫だ。汗だらだら。いつもふざけてて、くだらないことばっかりいっているのに。
 っと、そうだ。
 久樹を待たせていること、すっかり忘れてた。
 怒られちゃう。
 わたしはまた、ペタペタと音たてて薄暗い通路を走り出した。 
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