1 / 11
プロローグ
しおりを挟む
「優、お前はアホか。なんべん同じこといわすんや!」
グレーのジャージを着てピッチ横で腕組みをしている小野隆道代表監督からの、この日十何度目かの雷が落ちた。
電撃を浴びたのは、佐治ケ江優である。
ボールを持ったあとの動き出しが、監督の考えと食い違っていたためだ。
「お前は技術力がピカイチなだけやぞ。やれいうこと出来ひんやったら、足を引っ張るだけやないか。そんなんいらんわ!」
三十一歳、と優とさほど年齢の変わらない、元フットサル男子日本代表の監督である。
足首の怪我が原因で現役を引退後、FWリーグから声がかかりファルカリーナ亀岡のコーチとして就任。翌年に監督を経験し、そのシーズンが終わると同時に女子日本代表のコーチに呼ばれ、そして一年で代表監督に。
当時FWリーグで弱小のファルカリーナ亀岡を初の年間順位三位に導くなど、指揮能力や育成能力の高さが認められたのと、他の代表監督候補が契約上の折が合わなかったなど、運もあって異例のとんとん拍子であった。
でも代表入閣の声がかかった時、彼はさぞかしびっくりしたことであろう。びっくりというより、「どうしよう」という、やりにくさを感じたという方が正しいか。
世間一般の認知度としてフットサル女子日本代表といえばすなわち佐治ケ江優であるが、小野隆道はその佐治ケ江優と、アスリートのトップ中のトップとして雑誌の企画で何度か対談をしたこともある仲なのである。
それどころか、個人プロフィールの尊敬する選手の欄に「女子の佐治ケ江優選手を尊敬してまーす。上手だしかわいいしい」などと書いていたくらいなのだ。
代表監督といえば罵詈雑言を浴びせるのが一番の仕事なのに、威厳もへったくれもないというものであった。
しかし、というよりもだからこそか、彼は優に対して就任時に意を決してきっぱりと伝えてある。
「あなたはキャプテンやし、だからぼくは佐治ケ江さんのことを一番きつく叱ると思います」
と。
まだ小野監督指揮下での対外試合は一度も行われてはいないが、チームの雰囲気という面では着実にその効果は表れていた。
テレビに引っ張りだこで少年週刊誌で漫画になったこともある有名人の佐治ケ江優を、一切特別扱いをしないどころか、キャプテンである彼女により厳しく接することにより、他の選手たちは自ら気を引き締めてより真剣に練習に取り組むようになっていたのである。
フットサル代表は、まだ人材の宝庫などと呼べるものではなく、従って代表もある程度人員が固定化してしまうところがある。つまりダレて当然なのであるが、そこへ小野監督は人員を入れ替えることなく緊張感だけを持ち込むことに成功したのである。
もちろん優ばかりが叱られるわけではない。他の選手も失敗すれば、容赦のない攻撃を浴びたりもする。
「かなえ、そこで前に受けに行くんだよ! なんのために引いたんか、前で貰うスペースを作るためやろが。いちいちいわんと分からへんの? フットサルはまずチームプレーなんだよ。いつも呼ばれてっからって天狗になってんやないの? 子供じゃないんやから、しっかりせえや、ほんま。もう呼ばんよ、永久に」
と、このように。
「はい、気をつけます!」
雷を落とされた林原かなえは甲高い声で気合いたっぷりの返事をすると、くるり監督に背を向けて、苦々しい顔でべーっと舌を出した。
「鏡鏡! 壁の鏡で丸見えや! ったく、子供か」
小野監督はばりばりと頭を掻いた。
「あ、いや、昨日食べたチーズフォンデュが熱過ぎて舌をやけどしちゃってえ」
林原かなえは、通用するはずもない弁解の言葉を吐きながら、そそくさと仲間である巴和希の背中に隠れた。
なお合宿での食事にチーズフォンデュが出たことなど一度もない。
「怒られちゃった」
林原かなえは相変わらずの、けろりとしたすまし顔だ。
「あたしのせい。あたしの声掛けが足りなかった、ごめんねかなえちゃん」
反対に巴和希は、怒られた本人ではないというのに、心底済まなそうな表情で謝った。善良で気が弱く心配性であるため、ついこうしてことあるごとに先回りしてしまうのだろう。
ここは愛知県岡崎市。フットサル女子日本代表候補の、合宿地である。
FWリーグの開幕はまだまだ先なので、今回は長期合宿となっており、最終的には人数を絞り込んで海外へ遠征する予定である。
優とともに代表常連の巴和希と林原かなえであるが、どちらも優とは代表以前からの古い仲である。仲といっても、かつて試合をしたことがあるというだけであるが。
もう十年以上も前、高校生の頃だ。
現在、巴和希はFWリーグのデウルース日光に所属、林原かなえはスペインの二部リーグでプレーしている。
他に優の古くから知る仲としては、高校の先輩である高木梨乃が、一回きりではあるが代表候補として合宿に参加したことがある。
他の者より能力が劣っていたわけでもないが、ある事情により次に呼ぶことが出来なくなった。
優としては、高校時代には凄い先輩だ恩人だとただ尊敬していたし、大学時代に対戦した時にはチームとして完璧な対策をされて個人としても徹底したマンマークにあって潰され、とにかく苦しめられたあげくに大敗した。と、そんな格の違いを見せつけられた記憶しかなく、い続けてくれれば心強かったのに、と思う。
いずれにせよ彼女は既婚で二人の小さな子供がおり、そういう意味では呼ばれ続けるのは難しかっただろうが。
高木梨乃本人は二十歳を過ぎてから、「フットサル部に入ったのが高校からだったから、体力に自信はあっても技術的なところやセンスなどで周囲に対してどうにも埋められないものを感じ始めた」とよく嘆いていた。部活がというよりも、ボールを蹴り始めたのが遅かったということをだろう。
優もフットサル部という組織に所属したのは中学生からで、しかも中二の秋からだから、梨乃とそれほどの大差はない。
でもそれまで、一人きりではあるが幼少の頃より庭の石を相手に小さなサッカーボールを蹴り続けていた。
優の群を抜いて優れているフットサル技術のほとんどは、その独学時代にほとんどが築かれている。
部活に通うことで習得した技術は、それほどない。
ただし部活では、一人きりでは決して得られなかったかけがえのない、とても大切なものを部のみんなから与えてもらったと思っている。
現在の人生に繋がる、いや、現在の人生の根幹そのものといっていい、そういったものがそこで築かれたのだ。
もしも、いじめから逃げるように広島から千葉に転校して来ていなかったら、
もしもフットサル部に入っていなかったら、
今日の優の人生は、まったく異なったものになっていたであろう。
中学から高校にかけての、ほんの三年間を過ごしただけであるが、第二の故郷といってもいいくらいに千葉には愛着がある。
だって運命に心から感謝したくなるような、人生の転機の始まりであったのだから。
二〇〇七年九月二十七日、広島から羽田空港へと飛び立ったあの日が。
グレーのジャージを着てピッチ横で腕組みをしている小野隆道代表監督からの、この日十何度目かの雷が落ちた。
電撃を浴びたのは、佐治ケ江優である。
ボールを持ったあとの動き出しが、監督の考えと食い違っていたためだ。
「お前は技術力がピカイチなだけやぞ。やれいうこと出来ひんやったら、足を引っ張るだけやないか。そんなんいらんわ!」
三十一歳、と優とさほど年齢の変わらない、元フットサル男子日本代表の監督である。
足首の怪我が原因で現役を引退後、FWリーグから声がかかりファルカリーナ亀岡のコーチとして就任。翌年に監督を経験し、そのシーズンが終わると同時に女子日本代表のコーチに呼ばれ、そして一年で代表監督に。
当時FWリーグで弱小のファルカリーナ亀岡を初の年間順位三位に導くなど、指揮能力や育成能力の高さが認められたのと、他の代表監督候補が契約上の折が合わなかったなど、運もあって異例のとんとん拍子であった。
でも代表入閣の声がかかった時、彼はさぞかしびっくりしたことであろう。びっくりというより、「どうしよう」という、やりにくさを感じたという方が正しいか。
世間一般の認知度としてフットサル女子日本代表といえばすなわち佐治ケ江優であるが、小野隆道はその佐治ケ江優と、アスリートのトップ中のトップとして雑誌の企画で何度か対談をしたこともある仲なのである。
それどころか、個人プロフィールの尊敬する選手の欄に「女子の佐治ケ江優選手を尊敬してまーす。上手だしかわいいしい」などと書いていたくらいなのだ。
代表監督といえば罵詈雑言を浴びせるのが一番の仕事なのに、威厳もへったくれもないというものであった。
しかし、というよりもだからこそか、彼は優に対して就任時に意を決してきっぱりと伝えてある。
「あなたはキャプテンやし、だからぼくは佐治ケ江さんのことを一番きつく叱ると思います」
と。
まだ小野監督指揮下での対外試合は一度も行われてはいないが、チームの雰囲気という面では着実にその効果は表れていた。
テレビに引っ張りだこで少年週刊誌で漫画になったこともある有名人の佐治ケ江優を、一切特別扱いをしないどころか、キャプテンである彼女により厳しく接することにより、他の選手たちは自ら気を引き締めてより真剣に練習に取り組むようになっていたのである。
フットサル代表は、まだ人材の宝庫などと呼べるものではなく、従って代表もある程度人員が固定化してしまうところがある。つまりダレて当然なのであるが、そこへ小野監督は人員を入れ替えることなく緊張感だけを持ち込むことに成功したのである。
もちろん優ばかりが叱られるわけではない。他の選手も失敗すれば、容赦のない攻撃を浴びたりもする。
「かなえ、そこで前に受けに行くんだよ! なんのために引いたんか、前で貰うスペースを作るためやろが。いちいちいわんと分からへんの? フットサルはまずチームプレーなんだよ。いつも呼ばれてっからって天狗になってんやないの? 子供じゃないんやから、しっかりせえや、ほんま。もう呼ばんよ、永久に」
と、このように。
「はい、気をつけます!」
雷を落とされた林原かなえは甲高い声で気合いたっぷりの返事をすると、くるり監督に背を向けて、苦々しい顔でべーっと舌を出した。
「鏡鏡! 壁の鏡で丸見えや! ったく、子供か」
小野監督はばりばりと頭を掻いた。
「あ、いや、昨日食べたチーズフォンデュが熱過ぎて舌をやけどしちゃってえ」
林原かなえは、通用するはずもない弁解の言葉を吐きながら、そそくさと仲間である巴和希の背中に隠れた。
なお合宿での食事にチーズフォンデュが出たことなど一度もない。
「怒られちゃった」
林原かなえは相変わらずの、けろりとしたすまし顔だ。
「あたしのせい。あたしの声掛けが足りなかった、ごめんねかなえちゃん」
反対に巴和希は、怒られた本人ではないというのに、心底済まなそうな表情で謝った。善良で気が弱く心配性であるため、ついこうしてことあるごとに先回りしてしまうのだろう。
ここは愛知県岡崎市。フットサル女子日本代表候補の、合宿地である。
FWリーグの開幕はまだまだ先なので、今回は長期合宿となっており、最終的には人数を絞り込んで海外へ遠征する予定である。
優とともに代表常連の巴和希と林原かなえであるが、どちらも優とは代表以前からの古い仲である。仲といっても、かつて試合をしたことがあるというだけであるが。
もう十年以上も前、高校生の頃だ。
現在、巴和希はFWリーグのデウルース日光に所属、林原かなえはスペインの二部リーグでプレーしている。
他に優の古くから知る仲としては、高校の先輩である高木梨乃が、一回きりではあるが代表候補として合宿に参加したことがある。
他の者より能力が劣っていたわけでもないが、ある事情により次に呼ぶことが出来なくなった。
優としては、高校時代には凄い先輩だ恩人だとただ尊敬していたし、大学時代に対戦した時にはチームとして完璧な対策をされて個人としても徹底したマンマークにあって潰され、とにかく苦しめられたあげくに大敗した。と、そんな格の違いを見せつけられた記憶しかなく、い続けてくれれば心強かったのに、と思う。
いずれにせよ彼女は既婚で二人の小さな子供がおり、そういう意味では呼ばれ続けるのは難しかっただろうが。
高木梨乃本人は二十歳を過ぎてから、「フットサル部に入ったのが高校からだったから、体力に自信はあっても技術的なところやセンスなどで周囲に対してどうにも埋められないものを感じ始めた」とよく嘆いていた。部活がというよりも、ボールを蹴り始めたのが遅かったということをだろう。
優もフットサル部という組織に所属したのは中学生からで、しかも中二の秋からだから、梨乃とそれほどの大差はない。
でもそれまで、一人きりではあるが幼少の頃より庭の石を相手に小さなサッカーボールを蹴り続けていた。
優の群を抜いて優れているフットサル技術のほとんどは、その独学時代にほとんどが築かれている。
部活に通うことで習得した技術は、それほどない。
ただし部活では、一人きりでは決して得られなかったかけがえのない、とても大切なものを部のみんなから与えてもらったと思っている。
現在の人生に繋がる、いや、現在の人生の根幹そのものといっていい、そういったものがそこで築かれたのだ。
もしも、いじめから逃げるように広島から千葉に転校して来ていなかったら、
もしもフットサル部に入っていなかったら、
今日の優の人生は、まったく異なったものになっていたであろう。
中学から高校にかけての、ほんの三年間を過ごしただけであるが、第二の故郷といってもいいくらいに千葉には愛着がある。
だって運命に心から感謝したくなるような、人生の転機の始まりであったのだから。
二〇〇七年九月二十七日、広島から羽田空港へと飛び立ったあの日が。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
ブストサル 第四巻
かつたけい
青春
高木梨乃、26歳。
食品メーカーに勤務しながら、社のフットサル部で主将として活躍している。
家に戻れば二児の母。
仕事にフットサルに子育てに大忙しの毎日である。
ある日、旧知の仲でフットサル女子日本代表である野木春江が参加辞退したことを知るが、
なんと梨乃へと追加招集の連絡が入る。
めぐんでもらった代表などいるか!
と、真意を糾すため怒気満面怒り乗り込んだ野木春江宅にて衝撃の事実を知り、梨乃は代表への参加を決意することになる。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
晴天に輝く
Chi
青春
幼いころから人には見えないものが見えていた晴天(はるたか)。
周りから気味悪がられ孤独な日々を送っていたが、クラスメイトの輝(あきら)に誘われサッカーを始めたことで環境が一変する。
Lavender うっかり手に取ったノート
あおみなみ
青春
朱夏(あけなつ)学院中等部。
3年生の十三沢学(とみさわ・がく)は、部活の練習中にけがを負い、治療後も意気消沈したままバドミントン部を退部する。
その後放課後の空いた時間に図書室通いを始めるようになるが、司書の松喜(まつき)から、図書室の常連である原口友香(はらぐち・ともか)の忘れ物を彼女に渡すように頼まれる。
A5サイズの日記帳のようなノートで、松喜からは「中を読まないように」と釘をさされたが、好奇心からつい開いてしまう学。そこに書かれていたのは、痛々しい原口の心の叫びの数々だった。
鈍色(にびいろ)
カヨワイさつき
青春
島根に住むシンガーソングのtomoべつさん、
作詞作曲tomoべつ、"鈍色"(にぶいろ)から物語を作りました。
フィクションです。
ノンフィクションではありません。
作者の願望と欲望の妄想作品です。
OLのともの恋愛物語。
歌う事が好きな"とも"。
仕事の人間関係は最悪の仲、
コツコツと頑張る"とも"。
大好きだった人との別れ、
始まっていない恋からの失恋。
シンデレラの様な新しい恋……。
出会いのきっかけは、電車での
チカンでした。
氷の蝶は死神の花の夢をみる
河津田 眞紀
青春
刈磨汰一(かるまたいち)は、生まれながらの不運体質だ。
幼い頃から数々の不運に見舞われ、二週間前にも交通事故に遭ったばかり。
久しぶりに高校へ登校するも、野球ボールが顔面に直撃し昏倒。生死の境を彷徨う。
そんな彼の前に「神」を名乗る怪しいチャラ男が現れ、命を助ける条件としてこんな依頼を突きつけてきた。
「その"厄"を引き寄せる体質を使って、神さまのたまごである"彩岐蝶梨"を護ってくれないか?」
彩岐蝶梨(さいきちより)。
それは、汰一が密かに想いを寄せる少女の名だった。
不運で目立たない汰一と、クール美少女で人気者な蝶梨。
まるで接点のない二人だったが、保健室でのやり取りを機に関係を持ち始める。
一緒に花壇の手入れをしたり、漫画を読んだり、勉強をしたり……
放課後の逢瀬を重ねる度に見えてくる、蝶梨の隙だらけな素顔。
その可愛さに悶えながら、汰一は想いをさらに強めるが……彼はまだ知らない。
完璧美少女な蝶梨に、本人も無自覚な"危険すぎる願望"があることを……
蝶梨に迫る、この世ならざる敵との戦い。
そして、次第に暴走し始める彼女の変態性。
その可愛すぎる変態フェイスを独占するため、汰一は神の力を駆使し、今日も闇を狩る。
一般男性の俺が転生したらの小5女子になったので周りに欲をぶつけてやる!
童好P
青春
内容を簡単に言えばタイトルの通りです
そして私の小説のコメディ枠です
AI画像を使用していますので少しずつ内容や絵がズレる可能性がありますのでご了承ください
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる