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第五章 そしてあの頃へ
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1
「テラッチョ寺内のお!」
カメラの視界を半分塞ぐように、チューリップハットに黒縁メガネの中年男性がぐぐっと迫った。
司会者のテラッチョ寺内、道内で活躍するローカルタレントだ。
「エンジョイ、フットサル」
真横でスタンバイしていた佐治ケ江優も、さっと横移動でフレームイン。
スタッフにお願いされた通り、精一杯元気に叫んだつもりであるが、そう思っているのは本人のみで、肺炎で苦しんでいるんじゃないかというようなぼそぼそ声であった。
「え、切れちゃってる? 佐治ケ江さんが? わお」
テラッチョ寺内が、カメラマンとそんなやりとりをしている。
佐治ケ江優が恥ずかしがってテラッチョ寺内に密着しなかったせいで、彼女の顔が半分しかフレームに入り切らなかったようなのだ。
「まあでも、この番組は緩さがウリなので、撮り直さずに続けちゃいましょうよ! そこ喋りでなんとかするので、佐治ケ江さんは上手くボケて下さいね。じゃ、タイトルはオッケーってことで。次こっち」
テラッチョは優を手招きして、コート中央へ向かって歩いて行った。
ここは札幌市営鹿の森文化体育館。
狭い室内球技用の、多目的コートだ。
コート内にいるテラッチョたちを囲むように何台かのカメラ、さらにそれを囲むようにユニフォームを着た子供たちが二十人ほど見守っている。色々なところから集まったようで、ユニフォームのカラーはバラバラだ。
「どうもすみません」
優はカメラマンに深々と頭を下げて、不手際を謝った。ちなみに優もユニフォーム姿。赤の上下で、所属フットサルクラブであるベルメッカ札幌のものだ。
「あっと違う違う佐治ケ江さん、いまはあっちのカメラが正面だから。さっきいったでしょ。しっかり回ってるから、可愛いお尻が映るだけになっちゃってるって。いやはや、さすがは日本代表、ボケまで計算ずくう」
「あ、あ、ええと」
優は狼狽し、ぼさぼさ頭を意味もなく掻いた。
司会者がカメラマンと、撮り直しがどうとか話していたから、まさかいま現在カメラが回っているなど思いもしなかったのだ。
それに、さっきいったでしょもなにも、先ほどの打ち合わとはなんだかまったくカメラワークが違うじゃないか。
司会者は慣れているから、あうんの呼吸で臨機応変にスタッフとの調整が出来るのかも知れないけど、こっちは素人なんだから。
まあ、そうであるが故に、ボケているなどといってフォローしてくれたのだろうけど。
カメラにお尻向けて謝ったりなど、素ではさすがに恥ずかし過ぎるから。
……素だったのだけど。
2
「蹴り方はこうですね。足をしっかりと開いて、蹴るというよりは、押してあげる感じで。まずは、受け手が受けやすいパスを心掛けて下さい」
佐治ケ江優は、ぐるりと子供たちに囲まれている。
一人の男の子と向き合って、パスの基本を実演しているところだ。
「あと、止め方はこう」
優は、男の子のパスを足の裏で軽く踏み付けた。
「サッカーと違って、きゅっと止まりますから、軽く押さえるだけでいいです。そうすると、次の動きに入りやすいので」
優は蹴り返す。
いわれた通りに男の子はボールを軽く踏んだ。
きゅ、と音がしてボールは足の裏におさまった。
「なるほどなるほどお、トラップのしやすさが、狭いコートをガンガンと動くあの独特のダイナミックさに繋がるわけですね」
横から見ていたテラッチョ寺内が、カメラ前に入ってきた。
エンジョイフットサルは、道内のサッカー大好き芸人であるテラッチョ寺内が司会を務めるフットサルのレッスン番組だ。
月替わりのゲスト講師が、子供や成人女性などフットサル初心者を初歩から教えていくという、もう三年も続いている番組だ。
教える内容が少しずつステップアップしていくのだが、今週から年度が変わってまたゼロのゼロからのスタート。優が今年度初月のゲスト講師を担当しており、今回で二回目だ。
「寺内さんのおっしゃる通りです。狭くて常に相手との距離が近いフットサルでは、トラップにもたついたら即相手ボールになりますから、これは基本中の基本です。慣れれば、受けたらどんな動きをしようかと瞬時に考えてそれに合ったトラップが出来るようになります。しっかり練習して下さい」
子供たちに囲まれている中で佐治ケ江優は流麗に言葉を続けたが、その表情は緊張からかガチガチであった。
先ほどから寺内に小声で、「もっと柔らかい顔して。出来れば笑って」などとダメ出しされている。しかしいわれるほどに、優の顔は硬直。
「で、では、蹴り方と、受け方が分かったところで、応用編。ワンツーからのシュートを見せます。……ほいじゃ、わたしが動きながらボールを渡すので、すぐにゴール前へと転がして下さい。寺内さんは、相手選手として、そこに立っていて下さい」
優は相方の男の子と寺内にそういうと、ゆっくりとドリブルを開始。
右足を内側へと柔らかく振って、左へパス。
「出して下さい」
優の声に、男の子はゴール前へとパスを出した。
そこへ駆け込んだ優が、フィニッシュだ。ボール目掛けて、すっと右足を振った。
そして空振り。
バランス崩して転倒、尻餅。
「佐治ケ江さん、子供たち相手に加減していただけるのは優しいことだと思うんだけどお……」
たびたびベタなお笑いシーンを盛り込まれても、しつこいと寒いだけなんだけどなあ。お笑い芸人出身の寺内としては、そう苦笑するしかないようであった。
「いえ、そうではなくて……」
レッスン番組など初めてで、単純にガチガチに緊張しているだけなのだ。
優はお尻をさすりながら立ち上がったが、ボールに乗っかってしまい、また転んでしまった。
子供たちの大爆笑。
まあ受けているからいいやと小声で呟く寺内と、いっそ死にたいと真に願う優であった。
3
長~いため息。
自宅マンションへと帰ってきた優の、最初に取った行動がそれであった。
疲れた。
試合でフル出場するより、遥かに疲れた。
収録が終わった時点で既に限界まで疲れていたが、こうして休める場所まで戻ってきたことでそれが一気に全身から吹き出していた。
よろよろとゾンビのような動きでベッドのある部屋まで行くと、倒れ込み、大の字に手足を広げた。
服を脱ぐのも面倒で、しばしそのままぐったりとしていると、いきなり携帯の着信音が鳴った。
ポーチから取り出して画面を見ると、親友の遠藤裕子からのメールであった。
サジちゃんおツカレーライス。さむっ! 何時代だよ。
今日、フットサル教室の撮影だって井ってたよね。
どうだっ田?
緊張志田ろ。
帰ってけて最初にまづため息ついたろ絶対。なっがーいの。
あまんまり落ち込むなよなよな。
サジはサジなんだから。
今度またサッポロ一番くからそしたらケキおごってくだちい。
なんだか最後の方、意味が分からないが(おそらく予測変換をそのまま確定してしまっているのだろう)、とにかく自分を励ましてくれているらしい。
収録にあたってガチガチに緊張して失敗し、もともとさして持ってなどいない自信を完全に無くしてしまったこと、すっかりお見通しのようだ。
ベッドに寝そべったままメールを読み終えた優は、そのままの姿勢でさっそく返信を打った。
心配してくれてありがとう。
よく分かったね、ため息のこと。
まさにその通り。ため息に限らず全てのことがね。
本当に自分が嫌になるよ。
私にパワーがないのが悪いんだけど。
王子の百分の一でもね、あればまったく違ったんだろうけど。
さっきのメールの最後、今度また仕事で札幌に来るってこと?
ケーキの美味しいお店は知らないけど、チームメイトに聞いておくよ。
ほいじゃ。
送信すると、そっと目を閉じた。
もう歳なのだろうか。身体が疲れていると、連動して眼もかすむ。
あとちょっとで、三十だもんな。
普通の三十歳がどんなものか知らないけど、身体を酷使酷使でこの年齢だしな。もともと自分の身体は、人一倍弱いというのに。
などと思っていると、突然ブーーーーという振動とともに着信メロディーが鳴って、優は驚いて飛び上がった。
裕子からである。
ぱっと見たところ、別件ではなく優がいま出したばかりのメールへの返信のようだ。
返信にしてはやたら早かったけど、ひょっとして最近メールは旦那さんが入力担当なのだろうか。
確か王子は機械いじりが苦手で大嫌いで、入力だって相当に遅いはずだからな。
誤変換をそうと気付かなかったり、気付いても打ち直す方法が分からずに構わずそのまま送ってきたりするし。
でもさっきのもいまのも誤変換だらけだし、なら本人なのかな。
まあいいや、どっちでも。
寝よう。
ちょっとだけでも、休まないと。
ブーーーーーーー!
またあ!
4
湯舟に浸かると、また長いため息をついた。
今日だけで何回目か。
でも今度は安堵のため息。心身リラックスさせるために、半ば意識的にしているものだ。
たっぷり張った湯面に顎の先が触れるかというくらいにまで身を沈めると、軽く目を閉じた。
優の入浴時間は非常に長い。一時間を越えることも珍しくない。
別に美容のためではない。そのようなものに、あまり興味はない。
筋肉疲労を取り除き、明日のトレーニングにそなえるためである。
だから反対に、ハードな練習のないオフシーズンなどは、入浴時間は十分くらいだったりする。
生活のすべてがフットサル中心なのだ。
プロ契約になってから、ずっとそうやって過ごしてきた。
優はゆっくりと息を吸いながら、ゆっくりと目を開いた。
右の太股に両手を添えて包み込むようにすると、脚のマッサージを始めた。以前にプロのマッサージを受けた際に教えてもらったやり方だ。
優はプロ契約のフットサル選手であるが、生活するのが精一杯の薄給だ。だから商売道具である自分自身をメンテナンスするためといえどもマッサージ師を雇う余裕などはない。だから、食事に気を使ったり、入浴時間を活用することが非常に重要なのである。
もうすぐ三十歳。いつまで現役でいられるかは分からないけど、出来る限りは続けていきたいから。
優の四肢は、擦り傷だらけであった。長年フットサルをやり続けてきたことにより増えていったものである。
それだけではなく、肉だか皮だかが溶けて引き攣れたような、そんな痕跡が右のスネと、左太股の裏にある。幼い頃の火傷のような、鋭い刃物でざっくりと肉をえぐりとられた痕跡のような。
これは中二の時に受けたいじめによって出来たものである。
正確には、自分でつけた傷であるが。
こんもりと盛り上がったその跡に指先が触れるたび、その時のことを思い出す。
もう二十年近くも昔のことだが、現在でもはっきりと覚えている。
忘れるはずがない。
いま振り返れば、あの頃の日々が結果として現在の自分に繋がっているわけで、だからもしも運命というものがあるのであれば、それは自分にとって必要な出来事だったのだろう。でももう二度と、死ぬまで経験したくなどはないことだが。
「ああ、もう」
焦れったそうな、そんな小さな声を上げた。
本当に焦れったい気持ちだったのだ。もう吹っ切れたつもりでいるくせに、こうしてことあるごとついつい過去を思い返してしまう自分に対して。
「ほうじゃ、コラムどうしよう。この間発表された来期以降のリーグの全体構造について私的な意見を述べるか、それとも個人的な、優勝への感想とするか」
過去を追い払うべく、優は珍しく独り言を呟き始めた。
5
優は、のけぞるように背もたれに思い切り重心を預けると、両腕を上げて大きく伸びをした。
リビング中央のテーブルで、フットサル季刊誌のコラムをノートパソコンで執筆し終えたところだ。
ふと壁掛け時計を見れば、もう二十三時。
普段ならば、そろそろベッドに入る時間であるが、今日はまだまだ仕事をしなければならない。といっても、こうなったのも完全に自分の責任だが。
これから、ベルメッカ札幌の所属選手が持ち回りで担当している、公式ブログを書かなければならないのだ。
コラムのことばかり考えていて、ブログについては内容を考えていないどころか今回が担当であることすら完全に失念していたのだ。
天井を見上げ、思案にふけったが、なにも考えつくものがなかった。
そもそも、こういう日記的なものをなおかつ他人に公開するために書くというのは苦手だ。
こういうのが得意であったり、得意でなくとも好きだという人の脳の構造がまったく理解出来ない。
一億総情報発信時代などというが、なにが楽しくて思ったことをいちいちネットに書き込むのだか。
前回のブログ記事は、王子に助けてもらってなんとか凌いだけれども、そう毎度のように頼るわけにもいかないし。困った。
悩めども悩めども、時間が過ぎるばかりでなにを書いたものかさっぱり思い付かず、気分転換に、と床に座ってストレッチを始めた。
そんなことをしている暇に早く執筆を終らせて早く寝ないと、明日の練習や、取材対応にも差し支えが出てしまう。という焦りはあるが、強引にでも自分をリラックスさせなければ、それこそ仕事を終らせられず、寝ることも出来ない。
床に座ったまま大きく脚を開いて、爪先に手を伸ばすように頭を下げ、前屈。
軽く力を入れただけで、ぎち、と筋が悲鳴を上げた。背骨が折れそうに痛い。
普通のアスリートであれば、当たり前のように手の先は爪先に届き、頭は床につくところであろうが、その半分が優には限界だった。
中学時代から指摘され続けていることだが、とにかく身体が硬いのである。
小学生までは一人でただ好き勝手にボールを蹴っていただけで、ストレッチなど体育の授業くらいでしかしたことがなかった。本格的に身体作りをやらされるようになったのは、中学のフットサル部に入ってから。なので幼少の頃よりしっかり柔軟をこなしてきた者と比べて差があるのは当然だが、二十年近くたってもほとんど軟らかくなっていないことを考えると、先天的なものが大きいのだろう。
背中だけでなく股関節も足首も、すべての関節が異様に硬く、なにもトレーニングをしていない人と同程度の負荷で肉体が悲鳴を上げる。
アスリートとして恥ずかしいことは充分に自覚しており、だからなにかにつけてこのようにストレッチを頑張っているのだけど、努力の結果はこの通り。
いくら続けたところで今後一ミリたりとも稼動域が広がるとも思えないが、なにもしなかったら狭まるのは早そうなので、現役でいる間は頑張るしかない。
……ということをネタに書けばいいのでは。
「ほうじゃ」
とナイスアイディアの浮かんだ優は、さっと立ち上がっていた。
ゴギ、と音が鳴って、激痛に四つん這いに崩折れた。
無理な体制から立ち上がって、股関節を痛めてしまったのだ。
迂闊だった。
まさか立ち上がるだけでこうなろうとは。
明日、まともに練習が出来るだろうか。いまがオフシーズンで助かった。
優はなんとか上体を起こし、椅子の背にすがりつくようにして席に着くと、痛みを我慢しながら再びパソコンに向かった。
公式ブログのページを開き、愕然。
前回担当である村野朱美が、まさにそのネタだったのである。
「ラムちゃん、確かに自分でよく硬い硬いいっとるけど、ほいでもうちよりは遥かにましじゃのに……」
どうしよう、ブログネタ。
今夜は、眠れないかも知れない。
6
ようやく仕事が終わって布団に潜り込んだ頃には、日付が変わったどころではなく、既に三時に近い時間になっていた。
結局、一人でいくら考えていてもなに一つアイディアの片鱗すらも浮かばず、王子こと遠藤裕子に電話で泣き付いて執筆テーマについてのアドバイスを受けたのだ。
裕子の脳内はブログネタになるような話題の宝庫で、まあ次から出て来ること出て来ること。
その中から自分のことに使えそうな話題を選んで、自分のことに置き換え当てはめ、文章に仕上げたわけだが、実質のところ、ほとんど裕子の作成した記事といっても過言ではなかった。
翌朝、アップ前のチェックに引っ掛かって「優ちゃんって、こんな変態だっけ? これ本当に優ちゃんの文章?」などと、広報の夜竹さんから尋問だか訂正依頼だかが入ることは必至と思われるが、とりあえず文章は書いたし送ったし、今日の仕事ノルマは果たした。
早く寝なければ。
と思うものの、ずっと焦って脳味噌フル回転させていたため、すっかり神経が興奮状態になっているようで全然眠気が襲ってこなかった。
眠れずあがくうちに、ふと、今日の昼のことを思い出していた。
フットサル講座の番組収録のことを。
講師役として呼ばれたはいいが、緊張のあまり身体がギクシャクしてしまって、生徒である子供の前でミスのオンパレード。単純なキックすら空振りしたり、転んで尻餅をついたり。起き上がろうとして、また転んだり。用意された台詞を、まったく関係ないタイミングで発してしまったり。
編集でなんとかしてくれるだろうとは思うが、まあ惨憺たる有様だった。
日本語には適材適所という言葉があるが、わたしにあんな仕事をさせることが間違いなのだ。
テレビ、講師、子供、わたしの苦手な三要素が全部揃っているではないか。
でも、楽しそうな子供の笑顔を見ているうち、引き受けてよかったなと思えたのも事実だった。
あんな、楽しくのびのびとフットサルが出来るような、そんな子供時代を過ごしたかった。
幼少の頃は自ら引きこもって、ただひたすら取り憑かれたように一人でボールを蹴っていたが、仲間と一緒にそのように出来ていたら面白かっただろうなと現在では思う。あくまで、現在となっては、であるが。
そんな子供時代を、送りたかった。
フットサルのことだけではなく、生きていて辛くない毎日を送りたかった。
優は、広島から千葉へ引っ越す直接のきっかけとなった、ある事件を思い出していた。
もう絶対にあんな目にあいたくなどはない。
でも、もしもあのことがなかったら、いま自分はどうしていただろう。
こそこそとしたまま学校を卒業して、現在もこそこそとどこかで働いていたのだろうか。
もしも、あのことがなかったら。
中学二年生の、あの日……。
思い出したくなんかない。
思い出したくなんかないのに……
あんなこと、思い出したくなんかないのに……
はっきりと浮かんだ映像が、頭の中でぐるぐるぐるぐると回り出していた。
心臓が激しく鼓動し、息が苦しくなってきた。
わたしは最近、疲れているのだろうか。
吹っ切れた、と思っていた昔のことが、こうしてやたらと脳裏に浮かぶ。
忙しくて、頭が疲れてしまっているのだろうか。
眠りたいのに。
こんなこと、思い出したくなんかないのに。
じゃけえ……
ここまできよったらもうやけじゃ。
開き直って、思い切りあの時のことを思い出してやる。
「テラッチョ寺内のお!」
カメラの視界を半分塞ぐように、チューリップハットに黒縁メガネの中年男性がぐぐっと迫った。
司会者のテラッチョ寺内、道内で活躍するローカルタレントだ。
「エンジョイ、フットサル」
真横でスタンバイしていた佐治ケ江優も、さっと横移動でフレームイン。
スタッフにお願いされた通り、精一杯元気に叫んだつもりであるが、そう思っているのは本人のみで、肺炎で苦しんでいるんじゃないかというようなぼそぼそ声であった。
「え、切れちゃってる? 佐治ケ江さんが? わお」
テラッチョ寺内が、カメラマンとそんなやりとりをしている。
佐治ケ江優が恥ずかしがってテラッチョ寺内に密着しなかったせいで、彼女の顔が半分しかフレームに入り切らなかったようなのだ。
「まあでも、この番組は緩さがウリなので、撮り直さずに続けちゃいましょうよ! そこ喋りでなんとかするので、佐治ケ江さんは上手くボケて下さいね。じゃ、タイトルはオッケーってことで。次こっち」
テラッチョは優を手招きして、コート中央へ向かって歩いて行った。
ここは札幌市営鹿の森文化体育館。
狭い室内球技用の、多目的コートだ。
コート内にいるテラッチョたちを囲むように何台かのカメラ、さらにそれを囲むようにユニフォームを着た子供たちが二十人ほど見守っている。色々なところから集まったようで、ユニフォームのカラーはバラバラだ。
「どうもすみません」
優はカメラマンに深々と頭を下げて、不手際を謝った。ちなみに優もユニフォーム姿。赤の上下で、所属フットサルクラブであるベルメッカ札幌のものだ。
「あっと違う違う佐治ケ江さん、いまはあっちのカメラが正面だから。さっきいったでしょ。しっかり回ってるから、可愛いお尻が映るだけになっちゃってるって。いやはや、さすがは日本代表、ボケまで計算ずくう」
「あ、あ、ええと」
優は狼狽し、ぼさぼさ頭を意味もなく掻いた。
司会者がカメラマンと、撮り直しがどうとか話していたから、まさかいま現在カメラが回っているなど思いもしなかったのだ。
それに、さっきいったでしょもなにも、先ほどの打ち合わとはなんだかまったくカメラワークが違うじゃないか。
司会者は慣れているから、あうんの呼吸で臨機応変にスタッフとの調整が出来るのかも知れないけど、こっちは素人なんだから。
まあ、そうであるが故に、ボケているなどといってフォローしてくれたのだろうけど。
カメラにお尻向けて謝ったりなど、素ではさすがに恥ずかし過ぎるから。
……素だったのだけど。
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「蹴り方はこうですね。足をしっかりと開いて、蹴るというよりは、押してあげる感じで。まずは、受け手が受けやすいパスを心掛けて下さい」
佐治ケ江優は、ぐるりと子供たちに囲まれている。
一人の男の子と向き合って、パスの基本を実演しているところだ。
「あと、止め方はこう」
優は、男の子のパスを足の裏で軽く踏み付けた。
「サッカーと違って、きゅっと止まりますから、軽く押さえるだけでいいです。そうすると、次の動きに入りやすいので」
優は蹴り返す。
いわれた通りに男の子はボールを軽く踏んだ。
きゅ、と音がしてボールは足の裏におさまった。
「なるほどなるほどお、トラップのしやすさが、狭いコートをガンガンと動くあの独特のダイナミックさに繋がるわけですね」
横から見ていたテラッチョ寺内が、カメラ前に入ってきた。
エンジョイフットサルは、道内のサッカー大好き芸人であるテラッチョ寺内が司会を務めるフットサルのレッスン番組だ。
月替わりのゲスト講師が、子供や成人女性などフットサル初心者を初歩から教えていくという、もう三年も続いている番組だ。
教える内容が少しずつステップアップしていくのだが、今週から年度が変わってまたゼロのゼロからのスタート。優が今年度初月のゲスト講師を担当しており、今回で二回目だ。
「寺内さんのおっしゃる通りです。狭くて常に相手との距離が近いフットサルでは、トラップにもたついたら即相手ボールになりますから、これは基本中の基本です。慣れれば、受けたらどんな動きをしようかと瞬時に考えてそれに合ったトラップが出来るようになります。しっかり練習して下さい」
子供たちに囲まれている中で佐治ケ江優は流麗に言葉を続けたが、その表情は緊張からかガチガチであった。
先ほどから寺内に小声で、「もっと柔らかい顔して。出来れば笑って」などとダメ出しされている。しかしいわれるほどに、優の顔は硬直。
「で、では、蹴り方と、受け方が分かったところで、応用編。ワンツーからのシュートを見せます。……ほいじゃ、わたしが動きながらボールを渡すので、すぐにゴール前へと転がして下さい。寺内さんは、相手選手として、そこに立っていて下さい」
優は相方の男の子と寺内にそういうと、ゆっくりとドリブルを開始。
右足を内側へと柔らかく振って、左へパス。
「出して下さい」
優の声に、男の子はゴール前へとパスを出した。
そこへ駆け込んだ優が、フィニッシュだ。ボール目掛けて、すっと右足を振った。
そして空振り。
バランス崩して転倒、尻餅。
「佐治ケ江さん、子供たち相手に加減していただけるのは優しいことだと思うんだけどお……」
たびたびベタなお笑いシーンを盛り込まれても、しつこいと寒いだけなんだけどなあ。お笑い芸人出身の寺内としては、そう苦笑するしかないようであった。
「いえ、そうではなくて……」
レッスン番組など初めてで、単純にガチガチに緊張しているだけなのだ。
優はお尻をさすりながら立ち上がったが、ボールに乗っかってしまい、また転んでしまった。
子供たちの大爆笑。
まあ受けているからいいやと小声で呟く寺内と、いっそ死にたいと真に願う優であった。
3
長~いため息。
自宅マンションへと帰ってきた優の、最初に取った行動がそれであった。
疲れた。
試合でフル出場するより、遥かに疲れた。
収録が終わった時点で既に限界まで疲れていたが、こうして休める場所まで戻ってきたことでそれが一気に全身から吹き出していた。
よろよろとゾンビのような動きでベッドのある部屋まで行くと、倒れ込み、大の字に手足を広げた。
服を脱ぐのも面倒で、しばしそのままぐったりとしていると、いきなり携帯の着信音が鳴った。
ポーチから取り出して画面を見ると、親友の遠藤裕子からのメールであった。
サジちゃんおツカレーライス。さむっ! 何時代だよ。
今日、フットサル教室の撮影だって井ってたよね。
どうだっ田?
緊張志田ろ。
帰ってけて最初にまづため息ついたろ絶対。なっがーいの。
あまんまり落ち込むなよなよな。
サジはサジなんだから。
今度またサッポロ一番くからそしたらケキおごってくだちい。
なんだか最後の方、意味が分からないが(おそらく予測変換をそのまま確定してしまっているのだろう)、とにかく自分を励ましてくれているらしい。
収録にあたってガチガチに緊張して失敗し、もともとさして持ってなどいない自信を完全に無くしてしまったこと、すっかりお見通しのようだ。
ベッドに寝そべったままメールを読み終えた優は、そのままの姿勢でさっそく返信を打った。
心配してくれてありがとう。
よく分かったね、ため息のこと。
まさにその通り。ため息に限らず全てのことがね。
本当に自分が嫌になるよ。
私にパワーがないのが悪いんだけど。
王子の百分の一でもね、あればまったく違ったんだろうけど。
さっきのメールの最後、今度また仕事で札幌に来るってこと?
ケーキの美味しいお店は知らないけど、チームメイトに聞いておくよ。
ほいじゃ。
送信すると、そっと目を閉じた。
もう歳なのだろうか。身体が疲れていると、連動して眼もかすむ。
あとちょっとで、三十だもんな。
普通の三十歳がどんなものか知らないけど、身体を酷使酷使でこの年齢だしな。もともと自分の身体は、人一倍弱いというのに。
などと思っていると、突然ブーーーーという振動とともに着信メロディーが鳴って、優は驚いて飛び上がった。
裕子からである。
ぱっと見たところ、別件ではなく優がいま出したばかりのメールへの返信のようだ。
返信にしてはやたら早かったけど、ひょっとして最近メールは旦那さんが入力担当なのだろうか。
確か王子は機械いじりが苦手で大嫌いで、入力だって相当に遅いはずだからな。
誤変換をそうと気付かなかったり、気付いても打ち直す方法が分からずに構わずそのまま送ってきたりするし。
でもさっきのもいまのも誤変換だらけだし、なら本人なのかな。
まあいいや、どっちでも。
寝よう。
ちょっとだけでも、休まないと。
ブーーーーーーー!
またあ!
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湯舟に浸かると、また長いため息をついた。
今日だけで何回目か。
でも今度は安堵のため息。心身リラックスさせるために、半ば意識的にしているものだ。
たっぷり張った湯面に顎の先が触れるかというくらいにまで身を沈めると、軽く目を閉じた。
優の入浴時間は非常に長い。一時間を越えることも珍しくない。
別に美容のためではない。そのようなものに、あまり興味はない。
筋肉疲労を取り除き、明日のトレーニングにそなえるためである。
だから反対に、ハードな練習のないオフシーズンなどは、入浴時間は十分くらいだったりする。
生活のすべてがフットサル中心なのだ。
プロ契約になってから、ずっとそうやって過ごしてきた。
優はゆっくりと息を吸いながら、ゆっくりと目を開いた。
右の太股に両手を添えて包み込むようにすると、脚のマッサージを始めた。以前にプロのマッサージを受けた際に教えてもらったやり方だ。
優はプロ契約のフットサル選手であるが、生活するのが精一杯の薄給だ。だから商売道具である自分自身をメンテナンスするためといえどもマッサージ師を雇う余裕などはない。だから、食事に気を使ったり、入浴時間を活用することが非常に重要なのである。
もうすぐ三十歳。いつまで現役でいられるかは分からないけど、出来る限りは続けていきたいから。
優の四肢は、擦り傷だらけであった。長年フットサルをやり続けてきたことにより増えていったものである。
それだけではなく、肉だか皮だかが溶けて引き攣れたような、そんな痕跡が右のスネと、左太股の裏にある。幼い頃の火傷のような、鋭い刃物でざっくりと肉をえぐりとられた痕跡のような。
これは中二の時に受けたいじめによって出来たものである。
正確には、自分でつけた傷であるが。
こんもりと盛り上がったその跡に指先が触れるたび、その時のことを思い出す。
もう二十年近くも昔のことだが、現在でもはっきりと覚えている。
忘れるはずがない。
いま振り返れば、あの頃の日々が結果として現在の自分に繋がっているわけで、だからもしも運命というものがあるのであれば、それは自分にとって必要な出来事だったのだろう。でももう二度と、死ぬまで経験したくなどはないことだが。
「ああ、もう」
焦れったそうな、そんな小さな声を上げた。
本当に焦れったい気持ちだったのだ。もう吹っ切れたつもりでいるくせに、こうしてことあるごとついつい過去を思い返してしまう自分に対して。
「ほうじゃ、コラムどうしよう。この間発表された来期以降のリーグの全体構造について私的な意見を述べるか、それとも個人的な、優勝への感想とするか」
過去を追い払うべく、優は珍しく独り言を呟き始めた。
5
優は、のけぞるように背もたれに思い切り重心を預けると、両腕を上げて大きく伸びをした。
リビング中央のテーブルで、フットサル季刊誌のコラムをノートパソコンで執筆し終えたところだ。
ふと壁掛け時計を見れば、もう二十三時。
普段ならば、そろそろベッドに入る時間であるが、今日はまだまだ仕事をしなければならない。といっても、こうなったのも完全に自分の責任だが。
これから、ベルメッカ札幌の所属選手が持ち回りで担当している、公式ブログを書かなければならないのだ。
コラムのことばかり考えていて、ブログについては内容を考えていないどころか今回が担当であることすら完全に失念していたのだ。
天井を見上げ、思案にふけったが、なにも考えつくものがなかった。
そもそも、こういう日記的なものをなおかつ他人に公開するために書くというのは苦手だ。
こういうのが得意であったり、得意でなくとも好きだという人の脳の構造がまったく理解出来ない。
一億総情報発信時代などというが、なにが楽しくて思ったことをいちいちネットに書き込むのだか。
前回のブログ記事は、王子に助けてもらってなんとか凌いだけれども、そう毎度のように頼るわけにもいかないし。困った。
悩めども悩めども、時間が過ぎるばかりでなにを書いたものかさっぱり思い付かず、気分転換に、と床に座ってストレッチを始めた。
そんなことをしている暇に早く執筆を終らせて早く寝ないと、明日の練習や、取材対応にも差し支えが出てしまう。という焦りはあるが、強引にでも自分をリラックスさせなければ、それこそ仕事を終らせられず、寝ることも出来ない。
床に座ったまま大きく脚を開いて、爪先に手を伸ばすように頭を下げ、前屈。
軽く力を入れただけで、ぎち、と筋が悲鳴を上げた。背骨が折れそうに痛い。
普通のアスリートであれば、当たり前のように手の先は爪先に届き、頭は床につくところであろうが、その半分が優には限界だった。
中学時代から指摘され続けていることだが、とにかく身体が硬いのである。
小学生までは一人でただ好き勝手にボールを蹴っていただけで、ストレッチなど体育の授業くらいでしかしたことがなかった。本格的に身体作りをやらされるようになったのは、中学のフットサル部に入ってから。なので幼少の頃よりしっかり柔軟をこなしてきた者と比べて差があるのは当然だが、二十年近くたってもほとんど軟らかくなっていないことを考えると、先天的なものが大きいのだろう。
背中だけでなく股関節も足首も、すべての関節が異様に硬く、なにもトレーニングをしていない人と同程度の負荷で肉体が悲鳴を上げる。
アスリートとして恥ずかしいことは充分に自覚しており、だからなにかにつけてこのようにストレッチを頑張っているのだけど、努力の結果はこの通り。
いくら続けたところで今後一ミリたりとも稼動域が広がるとも思えないが、なにもしなかったら狭まるのは早そうなので、現役でいる間は頑張るしかない。
……ということをネタに書けばいいのでは。
「ほうじゃ」
とナイスアイディアの浮かんだ優は、さっと立ち上がっていた。
ゴギ、と音が鳴って、激痛に四つん這いに崩折れた。
無理な体制から立ち上がって、股関節を痛めてしまったのだ。
迂闊だった。
まさか立ち上がるだけでこうなろうとは。
明日、まともに練習が出来るだろうか。いまがオフシーズンで助かった。
優はなんとか上体を起こし、椅子の背にすがりつくようにして席に着くと、痛みを我慢しながら再びパソコンに向かった。
公式ブログのページを開き、愕然。
前回担当である村野朱美が、まさにそのネタだったのである。
「ラムちゃん、確かに自分でよく硬い硬いいっとるけど、ほいでもうちよりは遥かにましじゃのに……」
どうしよう、ブログネタ。
今夜は、眠れないかも知れない。
6
ようやく仕事が終わって布団に潜り込んだ頃には、日付が変わったどころではなく、既に三時に近い時間になっていた。
結局、一人でいくら考えていてもなに一つアイディアの片鱗すらも浮かばず、王子こと遠藤裕子に電話で泣き付いて執筆テーマについてのアドバイスを受けたのだ。
裕子の脳内はブログネタになるような話題の宝庫で、まあ次から出て来ること出て来ること。
その中から自分のことに使えそうな話題を選んで、自分のことに置き換え当てはめ、文章に仕上げたわけだが、実質のところ、ほとんど裕子の作成した記事といっても過言ではなかった。
翌朝、アップ前のチェックに引っ掛かって「優ちゃんって、こんな変態だっけ? これ本当に優ちゃんの文章?」などと、広報の夜竹さんから尋問だか訂正依頼だかが入ることは必至と思われるが、とりあえず文章は書いたし送ったし、今日の仕事ノルマは果たした。
早く寝なければ。
と思うものの、ずっと焦って脳味噌フル回転させていたため、すっかり神経が興奮状態になっているようで全然眠気が襲ってこなかった。
眠れずあがくうちに、ふと、今日の昼のことを思い出していた。
フットサル講座の番組収録のことを。
講師役として呼ばれたはいいが、緊張のあまり身体がギクシャクしてしまって、生徒である子供の前でミスのオンパレード。単純なキックすら空振りしたり、転んで尻餅をついたり。起き上がろうとして、また転んだり。用意された台詞を、まったく関係ないタイミングで発してしまったり。
編集でなんとかしてくれるだろうとは思うが、まあ惨憺たる有様だった。
日本語には適材適所という言葉があるが、わたしにあんな仕事をさせることが間違いなのだ。
テレビ、講師、子供、わたしの苦手な三要素が全部揃っているではないか。
でも、楽しそうな子供の笑顔を見ているうち、引き受けてよかったなと思えたのも事実だった。
あんな、楽しくのびのびとフットサルが出来るような、そんな子供時代を過ごしたかった。
幼少の頃は自ら引きこもって、ただひたすら取り憑かれたように一人でボールを蹴っていたが、仲間と一緒にそのように出来ていたら面白かっただろうなと現在では思う。あくまで、現在となっては、であるが。
そんな子供時代を、送りたかった。
フットサルのことだけではなく、生きていて辛くない毎日を送りたかった。
優は、広島から千葉へ引っ越す直接のきっかけとなった、ある事件を思い出していた。
もう絶対にあんな目にあいたくなどはない。
でも、もしもあのことがなかったら、いま自分はどうしていただろう。
こそこそとしたまま学校を卒業して、現在もこそこそとどこかで働いていたのだろうか。
もしも、あのことがなかったら。
中学二年生の、あの日……。
思い出したくなんかない。
思い出したくなんかないのに……
あんなこと、思い出したくなんかないのに……
はっきりと浮かんだ映像が、頭の中でぐるぐるぐるぐると回り出していた。
心臓が激しく鼓動し、息が苦しくなってきた。
わたしは最近、疲れているのだろうか。
吹っ切れた、と思っていた昔のことが、こうしてやたらと脳裏に浮かぶ。
忙しくて、頭が疲れてしまっているのだろうか。
眠りたいのに。
こんなこと、思い出したくなんかないのに。
じゃけえ……
ここまできよったらもうやけじゃ。
開き直って、思い切りあの時のことを思い出してやる。
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