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第一話
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およそ228年現在、中華は三つの国「魏」「呉」「蜀」に分かれ、天下の覇権を争っていた。
しかし、最大の強国「魏」を築き上げた「曹操」、そして三国建立以前の正当国家であった「漢」の正当性を引き継ぎ「蜀」を立ち上げた「劉備」、その二人の英傑の姿は今は亡く、時代は脈々と移り変わりつつある。
突きつけられた厳しい状況。勝利を重ねながらも、蜀国の丞相「諸葛亮」の率いる蜀軍は、苦境を強いられていた。
対峙するのは、魏国の大将軍である「曹真」率いる二十万の主力軍。重なる敗戦で曹真の兵力や士気は落ち込んでいたが、魏より精鋭数万が援軍として到着。これで、明らかに総数は蜀軍の総勢十八万よりも多くなった。
さらに急報によると、魏国で、政争によって爵位を剥奪されていたはずの「司馬懿」が復帰。錬磨の勇将である「張コウ」と共に、十数万の軍勢で蜀軍の侵攻を阻む為、進軍の足を速めている。
そして最も蜀軍にとって大きな打撃だったのは、魏国から降伏してくるはずであった将軍「孟達」のクーデターが、司馬懿によって迅速に鎮圧されたことであった。
外から蜀軍が都市「長安」を脅かし、内から孟達が都市「洛陽」を脅かす。国の二京を同時に攻めれば、一挙に魏国を打ち滅ぼすことだって可能であっただろう。
しかし、それがついに叶うことはなかった。戦況は、苦しくなっていくばかりである。
高低様々な山が並び、地面は岩肌があちこちに露出している。蜀の兵は、こういった山岳での戦いを得意としており、対する魏の兵は、平原での騎馬戦こそ強かったが、こういった山岳での戦は不得手であった。数の劣る蜀軍が魏軍に押し勝つ為、諸葛亮が地の理を活かすべく選んだ戦場である。
蜀軍本陣。最も大きな幕舎では、今日も、締め付けが強まる戦況を打開するべく、全ての将軍や部隊長らによって軍議が執り行われている。そして現在、軍議の主張は大きく二つに分かれていた。
「丞相、今こそ絶好の好機です。わざわざ長安にまで出向いてきた魏帝の『曹叡』はまだ若く、戦を知りません。それに曹真、司馬懿が出て来ている今、長安に駐屯しているのは大したことのない雑軍です。今こそ一気に攻め上がり、長安を落とすべきかと思いまする」
「逸ってはならん、『魏延』都督。一気に攻め上がれば、我らは常に、曹真と司馬懿に背後を脅かされることになる。長安を取った後、司馬懿らに包囲されては元も子もない」
魏国の都市である長安へ攻め込む為には、大きく分けて三つの道がある。
一つは「子午谷」を進み、長安へ進む最短の道。最も距離が短い道だが、蜀にとってまだ不明瞭な土地でもあり、どんな罠があるのか分からないといった不安があった。
もう一つは「箕谷」「斜谷」を進み、要所である「ビ城」を取って長安へ臨む道。この道は大軍が進むのに適しており、現に蜀軍はこの箕谷で曹真軍との対峙を続けている。
そして、最後の一つは「祁山」に上り「渭水」の上流から下流のビ城や長安へ攻め込む道。他の二つと比べ足元を着実に固める堅実な道筋ではあるが、距離的には一番の遠回りでもあった。
「虎穴に入らざれば虎子を得ず、と言います。それに曹真や司馬懿が我らの背後をつけるまでは時間がかかります。それまでに長安を取れれば、食料も十分に長安で賄えますし、我が蜀漢の漢中から軍勢を出して、曹真と司馬懿を挟撃することだって可能でございます」
「魏延都督は長安ばかりに気を取られておるが、長安の周囲には『ビ城』を始めとした要所となる支城が複数ある。司馬懿や張コウは必ず進軍の途中で、その複数の城に兵を割いているだろう。それでもまだ、楽に長安へ攻め込めると思っているのか?我らはこのまま斜谷へ出でてビ城を落とし、街亭より物資を運び込んだ後、決戦へ臨むべきだ」
「それでは敵の体制が整うまで待っていろと言っているようなものですぞ!?物資も兵数も圧倒的にこちらが少なく、守りを固められては手の出しようがないのは火を見るより明らか!それならば、この魏延に精鋭一万を与えてくだされ。丞相率いる本隊が司馬懿らを相手取っている間に、一気に奇襲で長安を攻め落とし、挟撃の形に持ち込んで見せまする!!」
「この魏国を討伐するという『北伐』は先帝である『劉備』皇帝陛下の悲願であった。そのような危険な賭けに乗って失敗でもしようものなら、もう二度と、先帝のご遺志が叶うことはなくなるのかもしれない」
「先帝のご遺志であるからこそ、その身を惜しまず、好機を逃してはならぬのです!!」
議論の中、一挙に魏国の要である長安へ攻め込む策を提案しているのは、蜀軍の前線部隊の統括を行う立場の魏延である。実質、諸葛亮に次ぐ重職であり、蜀の将軍の中でも筆頭として名の挙がる豪傑の武将でもあった。顔に現れるくらい厳格で強情な性格だが、配下の兵を良く労り、どれだけ厳しい戦況であろうと絶対に仲間を見捨てない、誇り高き武将である。
武将の中でも一際体格が大きく、顎から喉にかけてまで生えた無精髭が目立つ。そして何よりも、声が大きい。数多の叫び声が響く戦場であろうと、魏延の声だけは遠くまでよく通った。その為、魏延の下で戦う兵達は非常に良く統率が取れており、どれほどの混戦でも隊が乱れることがない。文官やその他の将軍達との衝突も多かったが、兵士達から寄せられる信頼はとても厚かった。
そして、危険の少ない土地で確実に足元を固めて長安へ臨む策を立てているのは、言わずと知れた、蜀の皇帝に次ぐ最高権力者の諸葛亮だ。弱冠二十歳の頃から、先帝である「劉備」に付き従ってきた忠臣。その先帝亡き今は、蜀の軍事や内政の一切を取り仕切っている。
体の線は細く、決して肌艶も良くはない。疲れが溜まっている様に見えるものの、その眼光は強く、あの魏延でさえも強く踏み込んだ抗議を立てることが出来ずにいた。
各将軍や部隊長などの、血の気の多い軍人は魏延の策を支持し、諸葛亮を支持するのは文官が主である。しかし、やはり今までこの蜀を支え続けてきたのは、この諸葛亮の他ならない。
「もう良い魏延、私の腹は決まった。我が軍は斜谷に出でて兵を進め、ビ城を取る。その後に長安へ臨む」
「しかし、丞相!」
「くどいぞ、今日の軍議はこれまでだ。明日、進軍の行路を決めた後に兵を進める。皆、下がれ……あぁ、いや『馬謖』、君は残ってくれ」
文官武将は皆、胸の前で掌と拳を合わせ礼をし、幕舎を後にする。魏延だけは最後まで何か言いたそうに諸葛亮の前に立っていたが、一言だけ「御意」と言い、強く地面を踏みながら外へ出た。
そして広い幕舎の中、残ったのは諸葛亮と、武将の馬謖のみとなる。
馬謖は幼い頃から才知に長け、その並外れた才能を、諸葛亮も高く評価していた。その間柄は師弟同然であり、馬謖は多忙な諸葛亮を良く補佐している。
性格は常に冷静沈着で、時を見極めて大胆な行動が出来る等、武将としても有能であった。また、自らの才覚を鼻に掛けて驕り高ぶることも絶対にしなかった為、周囲の文官や武将との関係も良好である。
「先生、お疲れのように見えます。しばらく休まれてはいかがですか?私のことは、また後で呼びつけてもらっても構わないので」
「大丈夫だ、心配するな。この『北伐』は、劉備様の悲願であらせられた。この程度で疲れたなどと、言ってはいられないのだ」
「分かりました」
魏延と同じように、また、諸葛亮もこうして強情な質であることを馬謖はよく理解していた。特に、先帝の劉備に関わることになると、ことさらその強情さは増す。そういう時はこうして素直に、了解の意を唱えるのが一番良かった。
しかしそれにしても、この北伐での諸葛亮の気の張り様は、未だかつて見たことがないほどである。部下に任せればいいような仕事まで一人でこなし、痛々しいまでに自分を追い込んでいるようであった。
「先生、ご用件は何でしょうか?先生のご負担を減らせるならば、どのようなことでも致しましょう」
「そう緊張しなくてもいい。少し、話し相手が欲しかった。この国の未来について語らえるような、話し相手を」
「お安い御用でございます」
馬謖は近くの腰掛を手に取り、文机を挟むようにして諸葛亮の前に座る。諸葛亮はそこでやっと思い切り姿勢を崩して、長く息を吐いた。
「なぁ馬謖、お前から見て、私はどうだ?軍略の、内政の、外交の、謀略の能力に長けていると思うか?」
「勿論、先生は当世きっての英傑。全てにおいて誰にも劣らぬ才知をお持ちです」
「……質問を変えよう。私は、司馬懿と比べて、軍略家としての才覚はあるか?大局を見た戦においての優劣は、どうだ?」
「先生の方が勝っていると思います」
「いいや、違う。まともな戦をすれば、私は奴に及ばないだろう。それに加えて、物資量、兵力差、どれも我が軍が劣る。私はやはり、内政や政治の人間なのだ」
「どうなされたのです?いつになく弱気ではありませんか」
首を傾げる馬謖に、諸葛亮は苦く笑う。
「あぁ、『ホウ統』が、『法正』が生きていれば、私は内政だけに力を注げただろう。君の兄の『馬良』が生きていれば、外交や国政において、ここまで私が頭を悩ますこともなかっただろう。多くの優秀な人材が、早くして逝ってしまった……馬謖よ、今この蜀に、国を支える優秀な人材がどれほど残っているだろうか」
すぐに否定しなくてはいけないと思いはしたものの、現に、今の蜀は圧倒的に人材が不足していた。だからこそ、当世の英傑とまで言われる諸葛亮に、負担が極端に偏ってしまっている現状がある。内政も国政も軍事や外交に至るまで、諸葛亮は優秀すぎたのだ。
「しかし、私は先生が司馬懿に劣るなどとは決して思いません。現に、孟達が自分勝手に動くのではなく、先生の指示通りに行動を起こしていれば、クーデターを司馬懿は防げなかったはずです。それに、以前に司馬懿が蜀に仕掛けてきた、五つの道から様々な敵勢力を侵攻させるといった策も、先生は見事に完封しました」
「蜀は天然の要害に守られている土地だ、守れて当然よ。馬謖、軍略家としての才は、危険を顧みず、大敗しても生き、なお強く立ち上がれるかどうかで決まるのだ。一戦一戦の勝敗ではなく、最後の一戦に勝てる者が本当に優秀な軍略家なのだ。かの、魏国の礎を築き上げた曹操がそうであったようにな。それを踏まえた上で考えてみよ、私の今回の策は、魏延の策と比べてどうだ?」
馬謖は困ったように口を紡ぐ。それを見て諸葛亮は、吹き出すように大きく笑った。
「例え誰が相手だろうと、理路整然と弁舌を振るう君だが、こういった嘘は苦手らしいな。わかりやすい奴だ」
「本当に申し訳ありません。ただ、私個人の意見としては、魏延都督の策の方に利があるように思えるのです」
「構わん、理由を話してくれ」
「確たる要因が分かるわけではございません。ただ、申し上げるとすれば、先生の策は『負けない為の策』であり、都督の策は『勝つ為の策』であります。魏は大国です、機を逃せば、蜀が勝利を得るまでどれほどの時がかかるのでございましょうか。都督の策は危険が大きいですが、方針は間違ってはおらぬと、そう思っております」
「長安の周囲には、ビ城も含めた複数の支城がある。その抵抗を押し切って長安に攻め込めるだけの将が、かつての『関羽』将軍のような大器が、今の我が軍に居るか?魏延都督は気が逸り過ぎる、趙雲将軍はもう全盛の頃と比べ老いてしまった。王平、張嶷、廖化、張翼、馬岱、この将軍達はそれぞれ優秀ではあるが、大器とは言えぬ。姜維将軍は、頭も良く、何より平野戦の指揮においては天武の才を持っているが、まだ若く忠烈すぎる故、決戦において身を亡ぼしかねない」
「先生は、欠点ばかりを見つめすぎなのです。各々の将軍達も、欠点を補うほどの長所を持っていましょう」
「───君しか居ないのだ、馬謖。君だけが、将来、私の後継者となり得る素質を持っている」
細く、骨に皮がついただけのような指が、馬謖の顔を指した。ただひたすらに、まっすぐに見つめられた視線。馬謖は思わず、目を逸らしてしまう。
気づけば齢は、三十を超えていた。そして、諸葛亮は五十に及ぼうとしている。目の前にいるこの諸葛亮は、間違いなく歴史に大きく名を遺すほどの英雄である。その英雄に付き従ってきて、常に格の違いというものを見せつけられてきた。例え一生を費やしたとしても、自分はこの人には遠く及ばないだろうと、尊敬と同時に、諦めも感じていた。
そんな馬謖にとって「英雄の後継者」は、あまりにも荷が重すぎる話であった。
「せ、先生。後継はまだまだ先の話でございましょう。天下は依然として先生を必要としておりますし、ましてや先生の代わりとなるような人物はおりません。それよりも、まずはこの北伐です。魏を滅ぼし漢を復興させれば、軍事は他の者に任せることも出来ましょう」
「そうだな、私が北伐を成さねば……劉備様の、遺志を……」
眉間に深くしわを寄せ、諸葛亮は目を閉じたまま動かなくなった。
きっと、相当疲れているのだろう。日中、緊張の糸を張り詰めすぎているだけに、最近の諸葛亮はこうしてプツンと、急に眠りに入ることが多くなっていた。
数回、諸葛亮に声をかけるが反応はない。深い呼吸を繰り返しているだけだ。馬謖は幕舎の外の従者へ呼びかけて、諸葛亮を寝所へ運ぶように指示した。
幕舎の外へ出ると日はもう沈みかけており、陣中のあちこちでかがり火が煌々としている。
「先生は恐らく、今回の北伐が長くかかると……それも、自分の命数よりも長引くと読んで、死後の事まで案じているのだろう」
この北伐を開始して以来、確かに諸葛亮は、自分の命を削るように職務をこなしていたように思えた。
諸葛亮の死後。それはまだまだ先のことだと、そもそも考えもしなかったことだったが、もしかしたらすぐ近くまでに来ているのかもしれない。馬謖は、目の前に底の見えない穴が開いたような、そんな気分に陥った。
しかし、最大の強国「魏」を築き上げた「曹操」、そして三国建立以前の正当国家であった「漢」の正当性を引き継ぎ「蜀」を立ち上げた「劉備」、その二人の英傑の姿は今は亡く、時代は脈々と移り変わりつつある。
突きつけられた厳しい状況。勝利を重ねながらも、蜀国の丞相「諸葛亮」の率いる蜀軍は、苦境を強いられていた。
対峙するのは、魏国の大将軍である「曹真」率いる二十万の主力軍。重なる敗戦で曹真の兵力や士気は落ち込んでいたが、魏より精鋭数万が援軍として到着。これで、明らかに総数は蜀軍の総勢十八万よりも多くなった。
さらに急報によると、魏国で、政争によって爵位を剥奪されていたはずの「司馬懿」が復帰。錬磨の勇将である「張コウ」と共に、十数万の軍勢で蜀軍の侵攻を阻む為、進軍の足を速めている。
そして最も蜀軍にとって大きな打撃だったのは、魏国から降伏してくるはずであった将軍「孟達」のクーデターが、司馬懿によって迅速に鎮圧されたことであった。
外から蜀軍が都市「長安」を脅かし、内から孟達が都市「洛陽」を脅かす。国の二京を同時に攻めれば、一挙に魏国を打ち滅ぼすことだって可能であっただろう。
しかし、それがついに叶うことはなかった。戦況は、苦しくなっていくばかりである。
高低様々な山が並び、地面は岩肌があちこちに露出している。蜀の兵は、こういった山岳での戦いを得意としており、対する魏の兵は、平原での騎馬戦こそ強かったが、こういった山岳での戦は不得手であった。数の劣る蜀軍が魏軍に押し勝つ為、諸葛亮が地の理を活かすべく選んだ戦場である。
蜀軍本陣。最も大きな幕舎では、今日も、締め付けが強まる戦況を打開するべく、全ての将軍や部隊長らによって軍議が執り行われている。そして現在、軍議の主張は大きく二つに分かれていた。
「丞相、今こそ絶好の好機です。わざわざ長安にまで出向いてきた魏帝の『曹叡』はまだ若く、戦を知りません。それに曹真、司馬懿が出て来ている今、長安に駐屯しているのは大したことのない雑軍です。今こそ一気に攻め上がり、長安を落とすべきかと思いまする」
「逸ってはならん、『魏延』都督。一気に攻め上がれば、我らは常に、曹真と司馬懿に背後を脅かされることになる。長安を取った後、司馬懿らに包囲されては元も子もない」
魏国の都市である長安へ攻め込む為には、大きく分けて三つの道がある。
一つは「子午谷」を進み、長安へ進む最短の道。最も距離が短い道だが、蜀にとってまだ不明瞭な土地でもあり、どんな罠があるのか分からないといった不安があった。
もう一つは「箕谷」「斜谷」を進み、要所である「ビ城」を取って長安へ臨む道。この道は大軍が進むのに適しており、現に蜀軍はこの箕谷で曹真軍との対峙を続けている。
そして、最後の一つは「祁山」に上り「渭水」の上流から下流のビ城や長安へ攻め込む道。他の二つと比べ足元を着実に固める堅実な道筋ではあるが、距離的には一番の遠回りでもあった。
「虎穴に入らざれば虎子を得ず、と言います。それに曹真や司馬懿が我らの背後をつけるまでは時間がかかります。それまでに長安を取れれば、食料も十分に長安で賄えますし、我が蜀漢の漢中から軍勢を出して、曹真と司馬懿を挟撃することだって可能でございます」
「魏延都督は長安ばかりに気を取られておるが、長安の周囲には『ビ城』を始めとした要所となる支城が複数ある。司馬懿や張コウは必ず進軍の途中で、その複数の城に兵を割いているだろう。それでもまだ、楽に長安へ攻め込めると思っているのか?我らはこのまま斜谷へ出でてビ城を落とし、街亭より物資を運び込んだ後、決戦へ臨むべきだ」
「それでは敵の体制が整うまで待っていろと言っているようなものですぞ!?物資も兵数も圧倒的にこちらが少なく、守りを固められては手の出しようがないのは火を見るより明らか!それならば、この魏延に精鋭一万を与えてくだされ。丞相率いる本隊が司馬懿らを相手取っている間に、一気に奇襲で長安を攻め落とし、挟撃の形に持ち込んで見せまする!!」
「この魏国を討伐するという『北伐』は先帝である『劉備』皇帝陛下の悲願であった。そのような危険な賭けに乗って失敗でもしようものなら、もう二度と、先帝のご遺志が叶うことはなくなるのかもしれない」
「先帝のご遺志であるからこそ、その身を惜しまず、好機を逃してはならぬのです!!」
議論の中、一挙に魏国の要である長安へ攻め込む策を提案しているのは、蜀軍の前線部隊の統括を行う立場の魏延である。実質、諸葛亮に次ぐ重職であり、蜀の将軍の中でも筆頭として名の挙がる豪傑の武将でもあった。顔に現れるくらい厳格で強情な性格だが、配下の兵を良く労り、どれだけ厳しい戦況であろうと絶対に仲間を見捨てない、誇り高き武将である。
武将の中でも一際体格が大きく、顎から喉にかけてまで生えた無精髭が目立つ。そして何よりも、声が大きい。数多の叫び声が響く戦場であろうと、魏延の声だけは遠くまでよく通った。その為、魏延の下で戦う兵達は非常に良く統率が取れており、どれほどの混戦でも隊が乱れることがない。文官やその他の将軍達との衝突も多かったが、兵士達から寄せられる信頼はとても厚かった。
そして、危険の少ない土地で確実に足元を固めて長安へ臨む策を立てているのは、言わずと知れた、蜀の皇帝に次ぐ最高権力者の諸葛亮だ。弱冠二十歳の頃から、先帝である「劉備」に付き従ってきた忠臣。その先帝亡き今は、蜀の軍事や内政の一切を取り仕切っている。
体の線は細く、決して肌艶も良くはない。疲れが溜まっている様に見えるものの、その眼光は強く、あの魏延でさえも強く踏み込んだ抗議を立てることが出来ずにいた。
各将軍や部隊長などの、血の気の多い軍人は魏延の策を支持し、諸葛亮を支持するのは文官が主である。しかし、やはり今までこの蜀を支え続けてきたのは、この諸葛亮の他ならない。
「もう良い魏延、私の腹は決まった。我が軍は斜谷に出でて兵を進め、ビ城を取る。その後に長安へ臨む」
「しかし、丞相!」
「くどいぞ、今日の軍議はこれまでだ。明日、進軍の行路を決めた後に兵を進める。皆、下がれ……あぁ、いや『馬謖』、君は残ってくれ」
文官武将は皆、胸の前で掌と拳を合わせ礼をし、幕舎を後にする。魏延だけは最後まで何か言いたそうに諸葛亮の前に立っていたが、一言だけ「御意」と言い、強く地面を踏みながら外へ出た。
そして広い幕舎の中、残ったのは諸葛亮と、武将の馬謖のみとなる。
馬謖は幼い頃から才知に長け、その並外れた才能を、諸葛亮も高く評価していた。その間柄は師弟同然であり、馬謖は多忙な諸葛亮を良く補佐している。
性格は常に冷静沈着で、時を見極めて大胆な行動が出来る等、武将としても有能であった。また、自らの才覚を鼻に掛けて驕り高ぶることも絶対にしなかった為、周囲の文官や武将との関係も良好である。
「先生、お疲れのように見えます。しばらく休まれてはいかがですか?私のことは、また後で呼びつけてもらっても構わないので」
「大丈夫だ、心配するな。この『北伐』は、劉備様の悲願であらせられた。この程度で疲れたなどと、言ってはいられないのだ」
「分かりました」
魏延と同じように、また、諸葛亮もこうして強情な質であることを馬謖はよく理解していた。特に、先帝の劉備に関わることになると、ことさらその強情さは増す。そういう時はこうして素直に、了解の意を唱えるのが一番良かった。
しかしそれにしても、この北伐での諸葛亮の気の張り様は、未だかつて見たことがないほどである。部下に任せればいいような仕事まで一人でこなし、痛々しいまでに自分を追い込んでいるようであった。
「先生、ご用件は何でしょうか?先生のご負担を減らせるならば、どのようなことでも致しましょう」
「そう緊張しなくてもいい。少し、話し相手が欲しかった。この国の未来について語らえるような、話し相手を」
「お安い御用でございます」
馬謖は近くの腰掛を手に取り、文机を挟むようにして諸葛亮の前に座る。諸葛亮はそこでやっと思い切り姿勢を崩して、長く息を吐いた。
「なぁ馬謖、お前から見て、私はどうだ?軍略の、内政の、外交の、謀略の能力に長けていると思うか?」
「勿論、先生は当世きっての英傑。全てにおいて誰にも劣らぬ才知をお持ちです」
「……質問を変えよう。私は、司馬懿と比べて、軍略家としての才覚はあるか?大局を見た戦においての優劣は、どうだ?」
「先生の方が勝っていると思います」
「いいや、違う。まともな戦をすれば、私は奴に及ばないだろう。それに加えて、物資量、兵力差、どれも我が軍が劣る。私はやはり、内政や政治の人間なのだ」
「どうなされたのです?いつになく弱気ではありませんか」
首を傾げる馬謖に、諸葛亮は苦く笑う。
「あぁ、『ホウ統』が、『法正』が生きていれば、私は内政だけに力を注げただろう。君の兄の『馬良』が生きていれば、外交や国政において、ここまで私が頭を悩ますこともなかっただろう。多くの優秀な人材が、早くして逝ってしまった……馬謖よ、今この蜀に、国を支える優秀な人材がどれほど残っているだろうか」
すぐに否定しなくてはいけないと思いはしたものの、現に、今の蜀は圧倒的に人材が不足していた。だからこそ、当世の英傑とまで言われる諸葛亮に、負担が極端に偏ってしまっている現状がある。内政も国政も軍事や外交に至るまで、諸葛亮は優秀すぎたのだ。
「しかし、私は先生が司馬懿に劣るなどとは決して思いません。現に、孟達が自分勝手に動くのではなく、先生の指示通りに行動を起こしていれば、クーデターを司馬懿は防げなかったはずです。それに、以前に司馬懿が蜀に仕掛けてきた、五つの道から様々な敵勢力を侵攻させるといった策も、先生は見事に完封しました」
「蜀は天然の要害に守られている土地だ、守れて当然よ。馬謖、軍略家としての才は、危険を顧みず、大敗しても生き、なお強く立ち上がれるかどうかで決まるのだ。一戦一戦の勝敗ではなく、最後の一戦に勝てる者が本当に優秀な軍略家なのだ。かの、魏国の礎を築き上げた曹操がそうであったようにな。それを踏まえた上で考えてみよ、私の今回の策は、魏延の策と比べてどうだ?」
馬謖は困ったように口を紡ぐ。それを見て諸葛亮は、吹き出すように大きく笑った。
「例え誰が相手だろうと、理路整然と弁舌を振るう君だが、こういった嘘は苦手らしいな。わかりやすい奴だ」
「本当に申し訳ありません。ただ、私個人の意見としては、魏延都督の策の方に利があるように思えるのです」
「構わん、理由を話してくれ」
「確たる要因が分かるわけではございません。ただ、申し上げるとすれば、先生の策は『負けない為の策』であり、都督の策は『勝つ為の策』であります。魏は大国です、機を逃せば、蜀が勝利を得るまでどれほどの時がかかるのでございましょうか。都督の策は危険が大きいですが、方針は間違ってはおらぬと、そう思っております」
「長安の周囲には、ビ城も含めた複数の支城がある。その抵抗を押し切って長安に攻め込めるだけの将が、かつての『関羽』将軍のような大器が、今の我が軍に居るか?魏延都督は気が逸り過ぎる、趙雲将軍はもう全盛の頃と比べ老いてしまった。王平、張嶷、廖化、張翼、馬岱、この将軍達はそれぞれ優秀ではあるが、大器とは言えぬ。姜維将軍は、頭も良く、何より平野戦の指揮においては天武の才を持っているが、まだ若く忠烈すぎる故、決戦において身を亡ぼしかねない」
「先生は、欠点ばかりを見つめすぎなのです。各々の将軍達も、欠点を補うほどの長所を持っていましょう」
「───君しか居ないのだ、馬謖。君だけが、将来、私の後継者となり得る素質を持っている」
細く、骨に皮がついただけのような指が、馬謖の顔を指した。ただひたすらに、まっすぐに見つめられた視線。馬謖は思わず、目を逸らしてしまう。
気づけば齢は、三十を超えていた。そして、諸葛亮は五十に及ぼうとしている。目の前にいるこの諸葛亮は、間違いなく歴史に大きく名を遺すほどの英雄である。その英雄に付き従ってきて、常に格の違いというものを見せつけられてきた。例え一生を費やしたとしても、自分はこの人には遠く及ばないだろうと、尊敬と同時に、諦めも感じていた。
そんな馬謖にとって「英雄の後継者」は、あまりにも荷が重すぎる話であった。
「せ、先生。後継はまだまだ先の話でございましょう。天下は依然として先生を必要としておりますし、ましてや先生の代わりとなるような人物はおりません。それよりも、まずはこの北伐です。魏を滅ぼし漢を復興させれば、軍事は他の者に任せることも出来ましょう」
「そうだな、私が北伐を成さねば……劉備様の、遺志を……」
眉間に深くしわを寄せ、諸葛亮は目を閉じたまま動かなくなった。
きっと、相当疲れているのだろう。日中、緊張の糸を張り詰めすぎているだけに、最近の諸葛亮はこうしてプツンと、急に眠りに入ることが多くなっていた。
数回、諸葛亮に声をかけるが反応はない。深い呼吸を繰り返しているだけだ。馬謖は幕舎の外の従者へ呼びかけて、諸葛亮を寝所へ運ぶように指示した。
幕舎の外へ出ると日はもう沈みかけており、陣中のあちこちでかがり火が煌々としている。
「先生は恐らく、今回の北伐が長くかかると……それも、自分の命数よりも長引くと読んで、死後の事まで案じているのだろう」
この北伐を開始して以来、確かに諸葛亮は、自分の命を削るように職務をこなしていたように思えた。
諸葛亮の死後。それはまだまだ先のことだと、そもそも考えもしなかったことだったが、もしかしたらすぐ近くまでに来ているのかもしれない。馬謖は、目の前に底の見えない穴が開いたような、そんな気分に陥った。
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主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
二人の花嫁
糺ノ杜 胡瓜堂
歴史・時代
江戸時代、下級武士の家柄から驚異の出世を遂げて、勘定奉行・南町奉行まで昇り詰めた秀才、根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が30年余にわたって書き記した随筆「耳嚢」
その「巻之七」に二部構成で掲載されている短いお話を、軽く小説風にした二幕構成の超短編小説です。
第一幕が「女の一心群を出し事」
第二幕が「了簡をもつて悪名を除幸ひある事」
が元ネタとなっています。
江戸の大店の道楽息子、伊之助が長崎で妻をつくり、彼女を捨てて江戸へと戻ってくるところから始まるお話。
おめでたいハッピーエンドなお話です。
女の首を所望いたす
陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。
その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。
「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」
若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
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