上 下
18 / 104

見えない予兆

しおりを挟む
リビングに戻った彼女は、びしょ濡れだった。当然、床もびしょ濡れだったが、桃弥とうやはそのことについて何も言わなかった。彼女を丁寧にバスタオルで拭いた後、そのバスタオルで床も拭いてそれそ脱衣所にある洗濯機へと放り込んだだけだった。

彼は、彼女に対して何も期待していなかった。人間らしく振る舞ってくれることも、自分の思い通りに振る舞ってくれることも。限度を超えて傍若無人に振る舞うなら放逐するという選択もあっただろうが、現状、彼女は本当に猫のように気ままに振る舞いつつも精神的には安定しているようなので、自分で体を拭けない程度のことなら、

『まあ、目くじらを立てるほどのことでもないよな』

と思っていた。

本来の彼女の家族である親類のところにいた時からそうだったが、部屋が濡れることを嫌って体くらいは拭いてくれていた。それが故に彼女は自分で体を拭くという習慣がなかった。手で水滴を拭い落とし、後は自然に乾くまでなるべく温かいところでうずくまるというのが、拭いてもらえなかった時のやり方だった。

だがここに来てからはきちんと拭いてもらえるので、彼女としても寒い思いをせずに済むことで助かっていたようだ。そういうこともまた、とりあえず大人しくしていられる原因の一つかも知れない。

当然のように服は着ず、リビングのカーペットの上でうずくまって寝て、外が明るくなる頃には目をさまし、縄張りをパトロールするかのように家の中を巡回する。

この日常をいつまで繰り返せばいいのかは、誰にも分からなかった。桃弥とうやは元より、宿角玲那すくすみれいなでさえ断定はできないだろう。しかしそれを気にする人間はここにはいない。

『この感じでのんびりした状態が続くなら、別にいいや』

これ以上の厄介事が起きないのなら、それで構わない。笹蒲池桃弥ささかまちとうやはそういう考え方をする人間だった。彼にとって、漫然と同じことを繰り返すことは苦痛ではなかったのだ。むしろそれを望んでさえいる。ただ毎日が無事に過ぎればそれで良かったのである。そのことがまた、彼女にとっても幸運だった。

彼女には人間らしい欲求が欠落している。人間の子供なら当然欲しがるものを欲しがらない。腹がへれば食い、眠くなれば眠る。それだけだった。むしろそれ以上を与えようとされると警戒せずにはいられなかった。だがここでは、彼女が必要とするものは揃っており、かつ余計なことはされなかった。だから真猫まな自身、徐々にここでの生活を快適なものと思い始めていたのだった。

しおりを挟む

処理中です...