神河内沙奈の人生

彼女に対するイジメ

社会常識というものについて、彼女は本当に赤ん坊と大差なかった。信号の意味も知らなかったし、車道と歩道の区別すらついていなかった。一方で危険に対する感覚は鋭いらしく、自動車を危険なものとは認識し、決して自分からは近付こうとしなかった。自動車が近付いてくればひどく警戒し、通り過ぎるまでそれを解くこともなかった。その為、集団登校の様子も、最初の頃は滑稽な程に周囲を警戒していた。

それも今ではさすがに落ち着いている。念の為に今も神河内良久かみこうちよしひさが付き添ってはいるが、そろそろそれも必要がないかも知れないと思えるほどだった。下手をすれば、小集団の中で一番、行儀よく歩いていると言っていいくらいである。

年齢は十三歳でも発育が遅れ気味なことが逆に幸いしてランドセルを背負った姿もすっかり板につき、外見上では他の生徒と何ら区別がつかない。まあ、ひどく地味で可愛げの欠片もない恰好をしていることを除けばだが。

吉泉きっせん小学校の生徒は、よく言えば大人しくて利口、悪く言えば調教され過ぎた羊のように覇気のない子供が多かった。その為、問題を起こす生徒もあまりいないが、果たしてこれで社会の中で力強く生きていけるのだろうかと心配にすらなってしまうような生徒が大半だった。これも時代の流れというものなのかも知れないが、管理する側にとっては非常に都合は良かったのだろう。

しかし、そういう部分も山下沙奈やましたさなにとっては幸運だったと言える。彼女のような悪目立ちする児童はえてして迫害の対象になったりするものだが、吉泉小学校の生徒の多くはそこまでの覇気すらなかったのだった。

とは言え、イジメが全くないかと言えばそうでもない。積極的に暴力を振るったりというケースは少なくても、特定の生徒を徹底的に無視するというような形でのイジメはあった。消極的なイジメとでも言えばいいのか。実は、山下沙奈に対する普通学級の生徒達の接し方も、本質的にはそれだった。扱い難く話も合わない彼女のことは徹底的に無視し、いないものとして扱われていた。

が、当の山下沙奈がそれを全く意に介していないどころか逆に干渉されなくて助かっているくらいだったので、かえって問題にならなかったという皮肉な一面もある。伊藤玲那もその辺りは承知していたが、今の山下沙奈はまだ過干渉の方が危険な時期であり、故にそれを好機と捉えさえしていたのだった。

そして、微妙なバランスを保ちつつ、彼女が学校に通い始めて二度目の夏がやってきたのである。