神河内沙奈の人生

伊藤玲那の過去

クリスマス前にはもう既に、吉泉きっせん小学校は冬休みに入っていた。しかも、夏休みと同じように、やはり伊藤玲那いとうれいなが彼女の為だけのカリキュラムを組んでくれていた。

ここまでで八ヶ月近く丁寧に慎重に事を進めてきた成果か、彼女は決して上手ではないがひらがなとカタカナくらいは書けるようになっていた。鉛筆の持ち方も、ただ握り締めるだけだったものがほぼ正しい握り方に近いものになっていた。

しかしこれも、押し付けるような形で学ばせたのではない。山下沙奈やましたさなの目の前でわざとゆっくり鉛筆を持って見せて、彼女自身がそれを真似るように誘導していったのである。当然ながら時間はかかるが、無用な反発を招き彼女の攻撃性を表に出させることを思えば結果的にはこちらの方が早いし確実だろう。彼女が大人しく鉛筆を持って字を書いて見せている事実がそれを物語っていた。

だが、伊藤玲那の指導方法は、他の教師からすれば非常にまどろっこしくて無駄に見えるらしく、教師の中での孤立はむしろ深まっていると言えた。だが、山下沙奈が非常に大人しく従っていて問題を起こさないという事実が、そういうものを表面化させずに抑えてくれているというのもまた事実なのだろう。

伊藤玲那が何よりも恐れているのは、彼女の攻撃性が改めて定着してしまうことである。心を落ち着けて人間らしく振る舞うことを身に着ける前に攻撃的な感覚を再度身に着けてしまっては、さらにそれを制御する為の方法を学ばなくてはいけなくなる。そうなってしまっては時間も手間も余計にかかる。伊藤玲那一人でそれをするのは非常に困難なことだ。だからどんなにゆっくりに見えても、今のこのやり方が結局は一番早いのだ。伊藤玲那はそれを身をもって経験している。

伊藤玲那の父親は、人間性という点において非常に問題を抱えた人物だった。遵法精神というものに欠け、他者との共感性も乏しく、己の欲望を何より優先する人間だった。妻や娘である伊藤玲那を暴力と威圧で支配し、それどころか妻や娘に客を取らせて自分はその金で遊び呆けるということが平気で出来る人間だった。

そう、伊藤玲那は、実の父親に売春を強要されていたのだ。それも、僅か十歳の頃から。それは伊藤玲那が中学を卒業し、自ら児童相談所へ逃げ込むようにして助けを求めるまで続いた。その訴えを受けて児童相談所が警察に通報。父親は逮捕され十年の実刑判決を受けて服役した。現在は刑期を終えてるはずだが、消息は不明である。

そういう苦しみを自らの体で知っているからこそ、伊藤玲那は山下沙奈に対して丁寧に接さずにはいられないのであった。