神河内沙奈の人生

世間の普通。彼女の普通

入浴を褒美として食事をとらせることに成功した彼は、単純に厄介事が一つ減ったと安堵していただけだった。食事の度にモデルをやってもらうのが面倒になってきていたのだ。必要な時にやってもらえればそれでいいのだから。

しかも、彼女は彼女で、性的に搾取されなくても食事にありつけることを学習し始めていたので、彼の提案をそれほど戸惑うことなく受け入れることが出来たのだった。

とは言え、実際には食事の後に勝手に風呂に入ることは既に許されていたのだからそれが褒美になるのかというのも疑問ではあったが、残念なことに彼女の思考力はそこに気付くほどではなかったのである。その辺りは、乳児の頃の低栄養による脳へのダメージが影響しているものと思われた。

そう、彼女は、他人や本人がどれほど努力しようとも、もう＜普通＞にはなれない。後はどの程度それに近付けていくかという部分しか出来ることないのだ。しかし、幸か不幸か、彼女はそんな自分の状況を理解することも出来ないだろう。普通でない自分を理解してそれを嘆くことが出来るまでにはなれないのである。実に皮肉な話だった。

さりとて、彼女は今の状況を苦痛にも感じていなかった。油断出来ない人間と一緒とは言え、差し迫った危険や居心地の悪さも感じていない。今のままならそれはそれで、信用出来ない人間にしつこく絡まれることも無く、それだけでも彼女にとっては平穏な暮らしと言えるのだから。

カレーを食べ切った彼女は、彼に言われた通り、服を全て脱ぎ捨てて風呂へと向かった。いつもの通り、ハウスキーパーによる丁寧な清掃が行われた清潔なそこは、長風呂になる彼女に合わせたやや温ぬるめのいい湯加減になっていた。それでも彼女は自分で湯加減を見てから慎重に湯船に入った。かつて網螺春喜あみらはるきにより熱湯で折檻を受けたことがあって、それ故に『痛い湯がある』ということは理解していたのだ。

湯船に浸かった彼女は、「ふーっ」と大きく息を吐いた。その時の顔は、安心しきってお風呂の心地良さを味わっている普通の少女のそれに見えた。完全には普通になれなくとも、部分的にならそういうところを取り戻せるのも事実だろう。その為の歩みは始まったばかりだ。

ゆっくりではあるが彼女の社会への適応の為の訓練は順調に続き、夏休みを迎える直前には、学校での授業は四時間をこなし、そのまま給食まで食べられるようになっていったのだった。