神河内沙奈の人生

京衛武百十

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彼の思い付き

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ハウスキーパーを雇い常に整理整頓された清潔な環境を維持し、それでいて彼女を意のままに操ろうといった様子を見せない神河内良久かみこうちよしひさを始めとしたこの家にいる人間の姿を改めて確認出来て、伊藤玲那いとうれいなは安心していた。これなら彼女も精神的に安定していられるだろう。それが何よりだった。

無駄に反抗的にならず同じ場所にじっとしている彼女に対して余計なことをする方が危険だと伊藤玲那は知っているからだ。自らを制御する方法を知らない山下沙奈やましたさなにとって、今は精神の安定が最も大事と言えた。普通はその為の方法を見付けることに手間が割かれるのだが、ここでは実にうまい具合にそれが成立しているのが分かった。こういうのはむしろ珍しい。大抵は何とか大人の都合に従わせようとして過剰に干渉してしまい、それが故に精神的に不安定になってしまう事例の方が多いのである。

今の彼女に、<人間の理屈>は通用しない。それをきちんと教えてくれる、理解させてくれる人間が存在しなかったからだ。彼女はそういうものを学ぶ機会を与えられてこなかったのである。赤ん坊が親の仕草を真似て学ぶように、手本になる人間が存在しなかったのだ。そして、元より道理を理解出来てない相手に道理を通そうという方が無理がある。

そんな彼女に対して威圧的攻撃的な人間がいないということは、彼女がこれ以上大人のそういう言動を学ばずに済むということでもある。その間に、彼女に人間性を学び取ってもらうことが出来る。これは非常に幸運なことだった。そして伊藤玲那は、一層、彼女に対して丁寧に接していくことを決意したのだった。そうすることが彼女の為であり、この家庭の為なのだ。



伊藤玲那が何をしに来たのか、神河内良久は理解もしていないし関心も抱いてはいなかった。彼にとっては、人形を作る以外のことは無難にやり過ごせればそれでいいという程度のことでしかなかったのである。

作業を終えたハウスキーパー達も帰り、再び二人きりになったところで彼は彼女をモデルにしようとしてふと思い立った。

『風呂がそんなに好きなら、風呂を褒美にして食事をとらすことは出来ないか…?』

取り敢えず十分に観察はしたので、これからは必要になった時に随時モデルになってもらえれば良い。だからモデルを頼むのもむしろ億劫になってきたことで思い付いたのだ。そこで昼食として用意されたカレー(甘口)をテーブルの上に置き、彼は言った。

「食事が済んだら風呂に入っていい」

すると彼女は少し躊躇する様子を見せたものの、案外素直にカレーを食べ始めたのであった。

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