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罪と罰
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結人は、自分の過去が、自分が大人達からされてきたことが、自分の行為を正当化してくれると思っているようだが、それは大きな間違いである。いかなる事情があっても許されない部分というのはあるのだ。
もしこの時、彼が織姫を守る為にということでナンパ男に食らいつきその肉を噛み千切ったりすればそれは事件となり、彼は世間から容赦のない非難を浴びるだろう。保護者代わりの女性を守ろうとした美談などと思ってくれるのはごく一部に過ぎない。<キレる子供による事件>として晒され、『少年法を廃止しろ』、『子供でも死刑にするべきだ』等の罵詈雑言が浴びせられるのは火を見るより明らかだった。
世間というものがそういうものであることを、結人は知っている筈である。なにしろそうやって以前にも誘拐未遂事件を起こした人間を世間の前に引きずり出してなぶりものにさせたことがあるのだから。そうなるのが分かってて騒ぎになるように自動車にぶつかってみせたのだから。
なのに、自分が事件を起こせば同じ目に遭うということを、彼はよく理解していなかった。罪を問われたとしても自分はそんなもの気にしないと、誰に批判されようと平気だと思っていたようだが、実際にはそんな甘いものではないのだ。結人が事件を起こせば、織姫も同じ目に遭うのだということを彼は十分に理解できていない。ナンパ男に絡まれるよりも遥かに辛く苦しい毎日を彼女が送ることになるのだということを、彼は知らなければならなかった。
彼がナンパ男にムカついたのは、無意識のうちに織姫のことを守ろうとしたからだろう。いくら悪態を吐いて鬱陶しい煩い奴だと思っていても、既に彼にとっては大切な存在になっているのは間違いないのだ。彼自身がそれに気付いていないだけである。それに気付き、自分の行いが彼女を苦しめることになるのだと知れば、彼は迂闊にキレたりできなくなる。彼女を守りたいと思えばこそ、安易に暴力に頼ることが適切ではないということが分かる筈だ。彼にはそれを理解出来る程度の知性は備わっているのだから。
山下達が暴力に頼らないのは、本人が臆病な性格だからという以上に、それが何をもたらすかを痛いほど知っているからだった。彼の長女である玲那の事件の経験によって。
山下玲那は、実の父親により十歳の頃から売春を強要されてきた。それにより精神を病み、一時はまともに他人とコミュニケーションをとることすらままならない状態になった。その後、友人に恵まれたことで劇的に回復はしたが、以前にも語ったように実母の葬儀中に実父が新たな売春グループの立ち上げを計画していることを知ってしまい、それが故にパニックを起こして包丁で実の父親を刺してしまうという事件を起こしたのだった。だが、それに対して世間の目は厳しかった。マスコミなどは同情的な報道もしたが、そんなマスコミを<マスゴミ>と罵る人間を中心に罵詈雑言の集中砲火を浴び、その一端に触れてしまったことで次女の沙奈子は感情を上手く表に出せなくなってしまうほどの心の傷を受けたのである。
僅か十歳で実の父親から売春を強要されるという地獄のような経験をした玲那ですらそうなのである。いくら結人が何人もの大人から虐待を受け、実の母親に首を絞められて命を落としかけるという境遇を生きてきたと言っても、見ず知らずの他人はそんなことを斟酌してはくれない。事件を起こした人間の背景など想像もしてくれない。目先の事件だけを見て<更生の余地もない凶悪なクソガキ>と称して徹底的に叩き潰そうとするだろう。そういう事例は数限りなくある。それが現実なのだ。彼がいかに強がろうと、世間が相手では非力な子供でしかない。そしてそんな結人の保護者であった織姫も同様に叩かれる。
だが、彼の力だけでは、織姫を守ることさえ出来ないのだ。織姫をそういう目に遭わせないようにする為には、彼は事件を起こしてはいけないのである。誘拐未遂事件の時は彼はあくまで犯人の自動車に撥ねられただけだったから、そこまでのことにはならなかっただけでしかない。それだけの話なのだから。
だから、山下達は、織姫だけでなく結人のことも守ったのだと言えるだろう。暴力に頼ることなく。
それがいつも上手くいくとは限らないが、達はそれが通用しないと思えば織姫や結人を連れて一目散に逃げる。どれほど馬鹿にされようと不様に見られようと、達は織姫や結人が結果として守られる手段を取るし、その為ならば恥を恥とも思わない。そしてそもそも危険なところには近付かないし、家族や仲間を危険に曝すようなところに連れて行かない。そういう人間だった。
なお、実はこの時、星谷美嘉が同行していたので、彼女を警護するガードマンが海水浴場近くで待機していたのだった。いざとなれば、それを頼ることもできただろう。さらには、達と織姫がビーチパラソルを設置した場所はライフセーバーの待機場所のすぐ傍であり、監視員詰所からも近いので、比較的安全な場所なのだった。そういうことを分かっていてこの場所を選んだというのもある。臆病だからこその知恵ということだ。
また、午前中に来たのもその為だ。人が少なく、故にナンパ目当ての人間も当然少なく、監視の目も行き届きやすい。事実、織姫をナンパしようとしてた男達の行動は、既に複数のライフセーバーや監視員の目に留まり、行き過ぎた行為と判断されれば駆け付ける準備も整っていたのだった。結人が暴力でどうにかしなくてもなんとかなる状態だったというわけだ。
弱い者には弱い者なりの身の守り方がある。人間には知恵を働かすことができる頭があるのだからそれを活かさない方が本来はおかしいのだ。『君子危うきに近寄らず』とは、まさにこういうことを言うのだろう。予測可能なリスクは事前に回避する。当たり前と言えば当たり前のことだった。
そんなことが起こっている一方で、沙奈子や千早や大希や美嘉は、海を満喫していた。騒ぎなど起こせばせっかくの時間も台無しになっていたに違いない。大人であればそういうことも考えなければいけない。もっともこれは、半分以上、『大希との大切な時間を煩わしいトラブルで邪魔されたくない』という美嘉の考えであったのだが。しかしそんな風に知恵の働く人間を味方につけていた山下達の人望も大きいと言っていいと思われる。
とまあ、些細なトラブルはあったものの全体としては大きな問題もなく、楽しい海での一時は楽しいままで過ぎていったのだった。
正午を回り人が増え始めると、全力で遊んだ千早もさすがにバテてきて、昼食を食べて帰ることを承諾してくれた。遊ぼうと思えばまだ遊べなくはなかったが、人が増えればそれだけトラブルが生じる可能性も高くなる。十分に楽しんだのだから、楽しいままで帰った方が得策なのであった。これもまた、弱者故の知恵だ。
「いや~、楽しかった!」
千早が満足気にそう声を上げると、結人を除く皆が笑顔になった。殆ど表情を変えることのない沙奈子でさえ、笑ってるような穏やかな目をしていた。事実これは、彼女の笑顔だったのである。いかにも分かりやすい表情ではなかったが、彼女は確かに笑っていた。
『笑ってんのか…?』
この時、結人にも何故かそれが分かった。何故分かったのか彼自身にも理解できなかったが、そう思えてしまったのだ。
こうして、夏休みの宿題である日記を書くのに絶好のネタとなる思い出ができたのであった。
もしこの時、彼が織姫を守る為にということでナンパ男に食らいつきその肉を噛み千切ったりすればそれは事件となり、彼は世間から容赦のない非難を浴びるだろう。保護者代わりの女性を守ろうとした美談などと思ってくれるのはごく一部に過ぎない。<キレる子供による事件>として晒され、『少年法を廃止しろ』、『子供でも死刑にするべきだ』等の罵詈雑言が浴びせられるのは火を見るより明らかだった。
世間というものがそういうものであることを、結人は知っている筈である。なにしろそうやって以前にも誘拐未遂事件を起こした人間を世間の前に引きずり出してなぶりものにさせたことがあるのだから。そうなるのが分かってて騒ぎになるように自動車にぶつかってみせたのだから。
なのに、自分が事件を起こせば同じ目に遭うということを、彼はよく理解していなかった。罪を問われたとしても自分はそんなもの気にしないと、誰に批判されようと平気だと思っていたようだが、実際にはそんな甘いものではないのだ。結人が事件を起こせば、織姫も同じ目に遭うのだということを彼は十分に理解できていない。ナンパ男に絡まれるよりも遥かに辛く苦しい毎日を彼女が送ることになるのだということを、彼は知らなければならなかった。
彼がナンパ男にムカついたのは、無意識のうちに織姫のことを守ろうとしたからだろう。いくら悪態を吐いて鬱陶しい煩い奴だと思っていても、既に彼にとっては大切な存在になっているのは間違いないのだ。彼自身がそれに気付いていないだけである。それに気付き、自分の行いが彼女を苦しめることになるのだと知れば、彼は迂闊にキレたりできなくなる。彼女を守りたいと思えばこそ、安易に暴力に頼ることが適切ではないということが分かる筈だ。彼にはそれを理解出来る程度の知性は備わっているのだから。
山下達が暴力に頼らないのは、本人が臆病な性格だからという以上に、それが何をもたらすかを痛いほど知っているからだった。彼の長女である玲那の事件の経験によって。
山下玲那は、実の父親により十歳の頃から売春を強要されてきた。それにより精神を病み、一時はまともに他人とコミュニケーションをとることすらままならない状態になった。その後、友人に恵まれたことで劇的に回復はしたが、以前にも語ったように実母の葬儀中に実父が新たな売春グループの立ち上げを計画していることを知ってしまい、それが故にパニックを起こして包丁で実の父親を刺してしまうという事件を起こしたのだった。だが、それに対して世間の目は厳しかった。マスコミなどは同情的な報道もしたが、そんなマスコミを<マスゴミ>と罵る人間を中心に罵詈雑言の集中砲火を浴び、その一端に触れてしまったことで次女の沙奈子は感情を上手く表に出せなくなってしまうほどの心の傷を受けたのである。
僅か十歳で実の父親から売春を強要されるという地獄のような経験をした玲那ですらそうなのである。いくら結人が何人もの大人から虐待を受け、実の母親に首を絞められて命を落としかけるという境遇を生きてきたと言っても、見ず知らずの他人はそんなことを斟酌してはくれない。事件を起こした人間の背景など想像もしてくれない。目先の事件だけを見て<更生の余地もない凶悪なクソガキ>と称して徹底的に叩き潰そうとするだろう。そういう事例は数限りなくある。それが現実なのだ。彼がいかに強がろうと、世間が相手では非力な子供でしかない。そしてそんな結人の保護者であった織姫も同様に叩かれる。
だが、彼の力だけでは、織姫を守ることさえ出来ないのだ。織姫をそういう目に遭わせないようにする為には、彼は事件を起こしてはいけないのである。誘拐未遂事件の時は彼はあくまで犯人の自動車に撥ねられただけだったから、そこまでのことにはならなかっただけでしかない。それだけの話なのだから。
だから、山下達は、織姫だけでなく結人のことも守ったのだと言えるだろう。暴力に頼ることなく。
それがいつも上手くいくとは限らないが、達はそれが通用しないと思えば織姫や結人を連れて一目散に逃げる。どれほど馬鹿にされようと不様に見られようと、達は織姫や結人が結果として守られる手段を取るし、その為ならば恥を恥とも思わない。そしてそもそも危険なところには近付かないし、家族や仲間を危険に曝すようなところに連れて行かない。そういう人間だった。
なお、実はこの時、星谷美嘉が同行していたので、彼女を警護するガードマンが海水浴場近くで待機していたのだった。いざとなれば、それを頼ることもできただろう。さらには、達と織姫がビーチパラソルを設置した場所はライフセーバーの待機場所のすぐ傍であり、監視員詰所からも近いので、比較的安全な場所なのだった。そういうことを分かっていてこの場所を選んだというのもある。臆病だからこその知恵ということだ。
また、午前中に来たのもその為だ。人が少なく、故にナンパ目当ての人間も当然少なく、監視の目も行き届きやすい。事実、織姫をナンパしようとしてた男達の行動は、既に複数のライフセーバーや監視員の目に留まり、行き過ぎた行為と判断されれば駆け付ける準備も整っていたのだった。結人が暴力でどうにかしなくてもなんとかなる状態だったというわけだ。
弱い者には弱い者なりの身の守り方がある。人間には知恵を働かすことができる頭があるのだからそれを活かさない方が本来はおかしいのだ。『君子危うきに近寄らず』とは、まさにこういうことを言うのだろう。予測可能なリスクは事前に回避する。当たり前と言えば当たり前のことだった。
そんなことが起こっている一方で、沙奈子や千早や大希や美嘉は、海を満喫していた。騒ぎなど起こせばせっかくの時間も台無しになっていたに違いない。大人であればそういうことも考えなければいけない。もっともこれは、半分以上、『大希との大切な時間を煩わしいトラブルで邪魔されたくない』という美嘉の考えであったのだが。しかしそんな風に知恵の働く人間を味方につけていた山下達の人望も大きいと言っていいと思われる。
とまあ、些細なトラブルはあったものの全体としては大きな問題もなく、楽しい海での一時は楽しいままで過ぎていったのだった。
正午を回り人が増え始めると、全力で遊んだ千早もさすがにバテてきて、昼食を食べて帰ることを承諾してくれた。遊ぼうと思えばまだ遊べなくはなかったが、人が増えればそれだけトラブルが生じる可能性も高くなる。十分に楽しんだのだから、楽しいままで帰った方が得策なのであった。これもまた、弱者故の知恵だ。
「いや~、楽しかった!」
千早が満足気にそう声を上げると、結人を除く皆が笑顔になった。殆ど表情を変えることのない沙奈子でさえ、笑ってるような穏やかな目をしていた。事実これは、彼女の笑顔だったのである。いかにも分かりやすい表情ではなかったが、彼女は確かに笑っていた。
『笑ってんのか…?』
この時、結人にも何故かそれが分かった。何故分かったのか彼自身にも理解できなかったが、そう思えてしまったのだ。
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