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第九章
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「嘆き悲しむ未亡人の演技は初めてだろうに。さすがはロレイン、完璧だ」
曇天に鳴り響く弔鐘にかき消されまいと、ドノヴァンはクリフォードの耳元に口を寄せて、嘲った。
朝から行われたパウエル伯爵の葬儀は、残すところ埋葬だけだ。
夫の棺が土に埋もれていく様子を見守るロレインは、白いレースのハンカチを目に押し当て、美しい泣き顔を維持していた。
何も知らなければ、夫の死を心から悼んでいるように見えるだろう。
しかし、クリフォードの目には、嬉し涙を流しているようにしか見えなかった。
五年前の裏切りから、穿った見方をしているのではない。コールダー・メイソンとパウエル伯爵、双方に関わりがある人物を探せば、どうしたってロレインに行き当たる。
パウエル伯爵と刺し違えて死んだ娼婦は、確かに仮面を被り、金髪だったが瞳の色は青。薄暗くとも黒っぽく見えるとは言えない。
ピーター・バーンズを誘惑した女と同一人物だと断定するには、疑問が残る。『ヴァニタス』の店主は、いちいち仮面の下の顔を検めていたわけではないだろうし、ピーター・バーンズも仮面の下の素顔は知らない。
女の正体を知っていたと思われるコールダー・メイソンは、パウエル伯爵の墓からさほど離れていない場所に埋められ、二度と沈黙を破ることはない。
元凶のコールダーが死んですべてが解決したはずだが、なんとも言えない後味の悪さが残っている。
あれ以来、何も不審な出来事は起きていなくとも不安が拭えない。
「挨拶くらいはしておくか? クリフ」
「ああ。それくらいは、すべきだろう」
ロレインを慰めたいとは思わないが、何かを暴けるかもしれない。
会葬者たちが去っていくのを待って声をかけた。
「パウエル伯爵未亡人」
「クリフ! 来てくれたのね、ありがとう」
目を潤ませ、手を伸ばそうとしたロレインを避け、クリフォードはドノヴァンを前へ押しやった。
「あー、我々からもお悔やみ申し上げる。悲劇的な最期だったとお伺いしているが……」
「ドノヴァンさま……ええ、パウエルにとっては悲劇かもしれませんけれど、他人から見たら愚かのひと言に尽きるでしょうね。私も、愚かな妻だと思われている」
ロレインは眉根を寄せ、悲しげな表情を作った。
「夫の喪に服さずとも、世間はあなたに同情するでしょう。辛い記憶はさっさと忘れて、次の幸せを探しては?」
「ドノヴァンさまらしい言い分ね。ええ、私もそう考えているんです。こちらでやるべきことを片付けたら、早々にキルケイクを離れるつもりです。親しい友人もこちらにはいませんし……もしも誰かが私の心を慰めてくれるなら、残るかもしれませんけれど……」
思わせぶりな眼差しを寄越すロレインに、クリフォードは微笑み返した。
「他の男がどう思うかは知らないが、私は欲しくもないものを差し出されても喜べないな」
ロレインの顔色が変わり、その赤い唇がほんの少しだけ歪められる。
だが、それも一瞬のことだった。すぐに計算され尽くした笑みを浮かべ、話題を変えた。
「ねえ、クリフ。あなたのかわいい羊飼いの怪我は? 結婚が延期になったのなら、残念ね」
「ハリエットの怪我は大したことはなかった。だが、犯人が捕まるまでは慎重に行動させるつもりだ」
「あら……犯人は捕まったのではなくって?」
「ああ。撃った犯人は捕まえた。だが、どうも怪しい女がその裏にいるらしい」
クリフォードは、ロレインのどんな表情の変化も見逃さないようじっと見つめた。
「殺人をそそのかすなんて、ずいぶん大胆な女性ね? でも、どうしてあなたの羊飼いが狙われるのかしら? 実は、ただの羊飼いではなくて……莫大な持参金があるとか?」
ロレインは驚き、冗談めかした推察を口にして首を傾げてみせる。
「ハリエットも私も、金が目当てで結婚するわけではない」
心なしか、ロレインの目元が引きつったようだが、淑女の仮面を剥がすには至らなかった。
「キルケイクを離れる前に、結婚式で直接お祝いを伝えられたらよかったのだけれど、無理そうね。もうそろそろ行かなくては……。二人とも、今日はわざわざ来てくださってありがとう」
そそくさと立ち去るロレインが十分離れてから、ドノヴァンは声を上げて笑った。
「おまえ、ずいぶん嫌みな男だな? クリフ」
「そんなつもりはない」
墓地を出たドノヴァンは、速さと扱いやすさから気に入って乗り回している二輪馬車の手綱を自ら握り、なぜかフィッツロイの屋敷とは逆方向へ向かう。
「ドノヴァン? どこへ行くつもりだ?」
「今日の葬儀の様子を含め、おばあさまが一連の事件について詳細な報告を待っている」
一昨日、ハリエットをフィッツロの屋敷に移したが、結婚を承諾してくれたことを含めて何一つ、クリフォードの口からはモードリンに説明していなかった。
そうしなくてはいけないとは思っていたが、できるだけ先延ばししたいというのが本音だ。
「おまえが説明すればいいだろう」
「当事者から話を聞きたいそうだ。たぶん、結婚式の手配についてあれこれ口出ししたいんだろう」
クリフォードは深々と溜息を吐いた。
そうなることを恐れて、黙っていたのだ。
ハリエットが結婚を承諾してくれたことは嬉しいし、一刻も早く結婚したかったが、貴族社会の面倒な慣習をいきなり押し付けて、彼女を戸惑わせたくなかった。
挙式はもちろんするつもりだ。が、大々的に公表はせず、フィッツロイの領地かヘザートンで済ませてしまおうと思っていた。
「逃げても無駄だ。いきなり横槍を入れられるよりは、牽制しておいた方がいい」
「おまえの時もそうするつもりか?」
「俺の時は、たぶん口を出すことすら許されない」
ドノヴァンはげんなりした様子で呟く。
「そう言えば……マーガレット・グレインストーンの結婚相手は誰だったんだ?」
コールダー・メイソンの話を思い出したクリフォードが尋ねると、ドノヴァンはなぜか咳き込み、唐突に話題を変えた。
「クリフ。実は、パウエル伯爵の財産について、なかなか興味深いことがわかった」
ドノヴァンを問い詰めたいところだが、どうせ素直に吐きはしないだろう。あとでモードリンに尋ねてみることにして、興味深いという話に耳を傾けることにした。
「財産という名の借金しかないと言われても、驚きはしないが?」
「パウエルが資金繰りに行き詰まっていたのは知っているな?」
「ああ、そういう噂が流れていた」
「コールダー・メイソンからかなりの額を借りていたのは事実だ。パウエルがキルケイクに帰国したのは、コールダーに新たな融資を頼むためだった。しかし、逆に返済を迫られて、コールダーからネックレスのことを聞き、借金を返済して再び金を借りるために死んだ娼婦と共謀して奪った……というのが、コールダーの描いた筋書だったが、実際はちょっと違う」
「違う?」
「パウエルの手がけていた事業は、噂ほど低迷してはいなかった」
「だが、投資家たちは手を引いていただろう?」
「ああ。だが、投資家たちが手を引いたからコールダーが融資したのではなく、コールダーが融資するために手を引かせたのだとしたら?」
クリフォードは、そちらの視点からは考えていなかった自分の迂闊さに舌打ちした。
「可能性はあるな……。だが、どうしてそう思ったんだ?」
「パウエルに、コールダーから金を借りるよう口添えしたのはロレインだったかもしれないとわかったからだ。パウエル伯爵家の財産は、ロレインには一切渡らない」
「一切、渡らない?」
「パウエル伯爵家の財産のうち、土地や屋敷などは限嗣相続だが、パウエル自身が築いた財産は、妻が相続することも可能だ。だが、ロレインには法的に相続する権利がまったくない。二人は結婚していなかったんだ」
「結婚……していない? まさか」
ドノヴァンは真顔で本当のことだと言い切った。
「あらゆる伝手を使って確かめたが、二人の署名がされた結婚証明書はないし、結婚許可証を用意した形跡もない。パウエル伯爵家の弁護士も二人は結婚していないと明言した。ロレインは伯爵夫人ではないんだ。表向きそのように振る舞っていても、実際は愛人にすぎなかった」
「どうしてそんな真似を……?」
「パウエルは、五年以内に跡継ぎができれば結婚する、できなければ別れるという契約をロレインと交わしていたようだ。ロレインは、一人や二人は産めると思っていたんだろう。だが、五年経っても妊娠しなかった。パウエルの前妻も子供を設けないまま亡くなっているし、そもそもパウエル自身に原因があったのかもしれないが」
「それで……どうして、ロレインはパウエルにコールダーから金を借りさせたんだ?」
「コールダーにパウエルの事業を乗っ取らせるためだ。コールダーの遺言では、その財産はロレインに渡るようになっていた。もっとも、その遺言がコールダー本人によって書かれたものかどうかは疑わしいが。パウエルが死に、コールダーも死んだ。二人がほぼ同時に死んで得をしたのは、ロレインだ」
クリフォードは溜息を吐き、額に滲む汗を拭った。
心臓が早鐘を打ち、ドクドクと熱い血を送り出しているはずなのに、全身が氷漬けになったかのごとく冷え切っていた。
「しかし……証拠はない」
「ああ、そうだ。みすみす逃すのは悔しいが、このままキルケイクを離れて二度と戻って来ないのなら、下手に刺激しないほうがいいかもしれない。もしもパウエルと娼婦を殺したのがロレインだとしたら……とても正気とは思えない所業だからな。すでに十分な財産を手に入れたんだ。この期に及んでネックレスを狙うことはないはずだ」
「だが、永遠にキルケイクを離れているとは限らないだろう?」
ドノヴァンは、あらゆる危険の芽を潰したいと訴えるクリフォードに言い聞かせる。
「だが、戻って来られなくすることはできる。たとえ片方の足でも再びキルケイクの大地に乗せた日には、命が危ういと思わせる。秘密を知っていると仄めかすだけで十分だろう」
「返り討ちに遭うかもしれないぞ」
「俺は、そんなヘマはしない」
「ドノヴァン!」
自分がやると言おうとしたクリフォードに、ドノヴァンは苦い笑みを向けた。
「パウエルをそそのかしたのは、俺だ。ロレインの嘘に乗じて愛人にすればいいと耳打ちしたんだ。別に同情はしていないが、多少の意趣返しをしてやるくらいの義理はある」
「…………」
「ロレインもぐずぐずしているつもりはないだろう。数日の辛抱だ。あとは……ドラゴンの怒りで丸焦げにならないよう気を付けるだけでいい」
クリフォードは、ドノヴァンへの大きな借りを返すには、マーガレット・グレインストーンの愛情と尊敬を勝ち取れるよう力になるしかないと思った。
本人が何と言おうと関係ない。自分のことは見えなくとも、他人のことはよく見えるのだということは、すでにドノヴァン自身が証明している。
それに……ドノヴァンが結婚するとなれば、ドラゴンの注意はそちらのほうへ向くだろう。
「ドノヴァン。何もかも……恩に着る」
「礼は……そうだな。俺好みの美女を紹介してくれればいい」
クリフォードは、さっそく借りを返す機会が訪れたことに感謝しながら、にやりと笑うドノヴァンに同じくにやりと笑い返した。
「任せてくれ。一人、おまえにぴったりの美女に心当たりがある……」
曇天に鳴り響く弔鐘にかき消されまいと、ドノヴァンはクリフォードの耳元に口を寄せて、嘲った。
朝から行われたパウエル伯爵の葬儀は、残すところ埋葬だけだ。
夫の棺が土に埋もれていく様子を見守るロレインは、白いレースのハンカチを目に押し当て、美しい泣き顔を維持していた。
何も知らなければ、夫の死を心から悼んでいるように見えるだろう。
しかし、クリフォードの目には、嬉し涙を流しているようにしか見えなかった。
五年前の裏切りから、穿った見方をしているのではない。コールダー・メイソンとパウエル伯爵、双方に関わりがある人物を探せば、どうしたってロレインに行き当たる。
パウエル伯爵と刺し違えて死んだ娼婦は、確かに仮面を被り、金髪だったが瞳の色は青。薄暗くとも黒っぽく見えるとは言えない。
ピーター・バーンズを誘惑した女と同一人物だと断定するには、疑問が残る。『ヴァニタス』の店主は、いちいち仮面の下の顔を検めていたわけではないだろうし、ピーター・バーンズも仮面の下の素顔は知らない。
女の正体を知っていたと思われるコールダー・メイソンは、パウエル伯爵の墓からさほど離れていない場所に埋められ、二度と沈黙を破ることはない。
元凶のコールダーが死んですべてが解決したはずだが、なんとも言えない後味の悪さが残っている。
あれ以来、何も不審な出来事は起きていなくとも不安が拭えない。
「挨拶くらいはしておくか? クリフ」
「ああ。それくらいは、すべきだろう」
ロレインを慰めたいとは思わないが、何かを暴けるかもしれない。
会葬者たちが去っていくのを待って声をかけた。
「パウエル伯爵未亡人」
「クリフ! 来てくれたのね、ありがとう」
目を潤ませ、手を伸ばそうとしたロレインを避け、クリフォードはドノヴァンを前へ押しやった。
「あー、我々からもお悔やみ申し上げる。悲劇的な最期だったとお伺いしているが……」
「ドノヴァンさま……ええ、パウエルにとっては悲劇かもしれませんけれど、他人から見たら愚かのひと言に尽きるでしょうね。私も、愚かな妻だと思われている」
ロレインは眉根を寄せ、悲しげな表情を作った。
「夫の喪に服さずとも、世間はあなたに同情するでしょう。辛い記憶はさっさと忘れて、次の幸せを探しては?」
「ドノヴァンさまらしい言い分ね。ええ、私もそう考えているんです。こちらでやるべきことを片付けたら、早々にキルケイクを離れるつもりです。親しい友人もこちらにはいませんし……もしも誰かが私の心を慰めてくれるなら、残るかもしれませんけれど……」
思わせぶりな眼差しを寄越すロレインに、クリフォードは微笑み返した。
「他の男がどう思うかは知らないが、私は欲しくもないものを差し出されても喜べないな」
ロレインの顔色が変わり、その赤い唇がほんの少しだけ歪められる。
だが、それも一瞬のことだった。すぐに計算され尽くした笑みを浮かべ、話題を変えた。
「ねえ、クリフ。あなたのかわいい羊飼いの怪我は? 結婚が延期になったのなら、残念ね」
「ハリエットの怪我は大したことはなかった。だが、犯人が捕まるまでは慎重に行動させるつもりだ」
「あら……犯人は捕まったのではなくって?」
「ああ。撃った犯人は捕まえた。だが、どうも怪しい女がその裏にいるらしい」
クリフォードは、ロレインのどんな表情の変化も見逃さないようじっと見つめた。
「殺人をそそのかすなんて、ずいぶん大胆な女性ね? でも、どうしてあなたの羊飼いが狙われるのかしら? 実は、ただの羊飼いではなくて……莫大な持参金があるとか?」
ロレインは驚き、冗談めかした推察を口にして首を傾げてみせる。
「ハリエットも私も、金が目当てで結婚するわけではない」
心なしか、ロレインの目元が引きつったようだが、淑女の仮面を剥がすには至らなかった。
「キルケイクを離れる前に、結婚式で直接お祝いを伝えられたらよかったのだけれど、無理そうね。もうそろそろ行かなくては……。二人とも、今日はわざわざ来てくださってありがとう」
そそくさと立ち去るロレインが十分離れてから、ドノヴァンは声を上げて笑った。
「おまえ、ずいぶん嫌みな男だな? クリフ」
「そんなつもりはない」
墓地を出たドノヴァンは、速さと扱いやすさから気に入って乗り回している二輪馬車の手綱を自ら握り、なぜかフィッツロイの屋敷とは逆方向へ向かう。
「ドノヴァン? どこへ行くつもりだ?」
「今日の葬儀の様子を含め、おばあさまが一連の事件について詳細な報告を待っている」
一昨日、ハリエットをフィッツロの屋敷に移したが、結婚を承諾してくれたことを含めて何一つ、クリフォードの口からはモードリンに説明していなかった。
そうしなくてはいけないとは思っていたが、できるだけ先延ばししたいというのが本音だ。
「おまえが説明すればいいだろう」
「当事者から話を聞きたいそうだ。たぶん、結婚式の手配についてあれこれ口出ししたいんだろう」
クリフォードは深々と溜息を吐いた。
そうなることを恐れて、黙っていたのだ。
ハリエットが結婚を承諾してくれたことは嬉しいし、一刻も早く結婚したかったが、貴族社会の面倒な慣習をいきなり押し付けて、彼女を戸惑わせたくなかった。
挙式はもちろんするつもりだ。が、大々的に公表はせず、フィッツロイの領地かヘザートンで済ませてしまおうと思っていた。
「逃げても無駄だ。いきなり横槍を入れられるよりは、牽制しておいた方がいい」
「おまえの時もそうするつもりか?」
「俺の時は、たぶん口を出すことすら許されない」
ドノヴァンはげんなりした様子で呟く。
「そう言えば……マーガレット・グレインストーンの結婚相手は誰だったんだ?」
コールダー・メイソンの話を思い出したクリフォードが尋ねると、ドノヴァンはなぜか咳き込み、唐突に話題を変えた。
「クリフ。実は、パウエル伯爵の財産について、なかなか興味深いことがわかった」
ドノヴァンを問い詰めたいところだが、どうせ素直に吐きはしないだろう。あとでモードリンに尋ねてみることにして、興味深いという話に耳を傾けることにした。
「財産という名の借金しかないと言われても、驚きはしないが?」
「パウエルが資金繰りに行き詰まっていたのは知っているな?」
「ああ、そういう噂が流れていた」
「コールダー・メイソンからかなりの額を借りていたのは事実だ。パウエルがキルケイクに帰国したのは、コールダーに新たな融資を頼むためだった。しかし、逆に返済を迫られて、コールダーからネックレスのことを聞き、借金を返済して再び金を借りるために死んだ娼婦と共謀して奪った……というのが、コールダーの描いた筋書だったが、実際はちょっと違う」
「違う?」
「パウエルの手がけていた事業は、噂ほど低迷してはいなかった」
「だが、投資家たちは手を引いていただろう?」
「ああ。だが、投資家たちが手を引いたからコールダーが融資したのではなく、コールダーが融資するために手を引かせたのだとしたら?」
クリフォードは、そちらの視点からは考えていなかった自分の迂闊さに舌打ちした。
「可能性はあるな……。だが、どうしてそう思ったんだ?」
「パウエルに、コールダーから金を借りるよう口添えしたのはロレインだったかもしれないとわかったからだ。パウエル伯爵家の財産は、ロレインには一切渡らない」
「一切、渡らない?」
「パウエル伯爵家の財産のうち、土地や屋敷などは限嗣相続だが、パウエル自身が築いた財産は、妻が相続することも可能だ。だが、ロレインには法的に相続する権利がまったくない。二人は結婚していなかったんだ」
「結婚……していない? まさか」
ドノヴァンは真顔で本当のことだと言い切った。
「あらゆる伝手を使って確かめたが、二人の署名がされた結婚証明書はないし、結婚許可証を用意した形跡もない。パウエル伯爵家の弁護士も二人は結婚していないと明言した。ロレインは伯爵夫人ではないんだ。表向きそのように振る舞っていても、実際は愛人にすぎなかった」
「どうしてそんな真似を……?」
「パウエルは、五年以内に跡継ぎができれば結婚する、できなければ別れるという契約をロレインと交わしていたようだ。ロレインは、一人や二人は産めると思っていたんだろう。だが、五年経っても妊娠しなかった。パウエルの前妻も子供を設けないまま亡くなっているし、そもそもパウエル自身に原因があったのかもしれないが」
「それで……どうして、ロレインはパウエルにコールダーから金を借りさせたんだ?」
「コールダーにパウエルの事業を乗っ取らせるためだ。コールダーの遺言では、その財産はロレインに渡るようになっていた。もっとも、その遺言がコールダー本人によって書かれたものかどうかは疑わしいが。パウエルが死に、コールダーも死んだ。二人がほぼ同時に死んで得をしたのは、ロレインだ」
クリフォードは溜息を吐き、額に滲む汗を拭った。
心臓が早鐘を打ち、ドクドクと熱い血を送り出しているはずなのに、全身が氷漬けになったかのごとく冷え切っていた。
「しかし……証拠はない」
「ああ、そうだ。みすみす逃すのは悔しいが、このままキルケイクを離れて二度と戻って来ないのなら、下手に刺激しないほうがいいかもしれない。もしもパウエルと娼婦を殺したのがロレインだとしたら……とても正気とは思えない所業だからな。すでに十分な財産を手に入れたんだ。この期に及んでネックレスを狙うことはないはずだ」
「だが、永遠にキルケイクを離れているとは限らないだろう?」
ドノヴァンは、あらゆる危険の芽を潰したいと訴えるクリフォードに言い聞かせる。
「だが、戻って来られなくすることはできる。たとえ片方の足でも再びキルケイクの大地に乗せた日には、命が危ういと思わせる。秘密を知っていると仄めかすだけで十分だろう」
「返り討ちに遭うかもしれないぞ」
「俺は、そんなヘマはしない」
「ドノヴァン!」
自分がやると言おうとしたクリフォードに、ドノヴァンは苦い笑みを向けた。
「パウエルをそそのかしたのは、俺だ。ロレインの嘘に乗じて愛人にすればいいと耳打ちしたんだ。別に同情はしていないが、多少の意趣返しをしてやるくらいの義理はある」
「…………」
「ロレインもぐずぐずしているつもりはないだろう。数日の辛抱だ。あとは……ドラゴンの怒りで丸焦げにならないよう気を付けるだけでいい」
クリフォードは、ドノヴァンへの大きな借りを返すには、マーガレット・グレインストーンの愛情と尊敬を勝ち取れるよう力になるしかないと思った。
本人が何と言おうと関係ない。自分のことは見えなくとも、他人のことはよく見えるのだということは、すでにドノヴァン自身が証明している。
それに……ドノヴァンが結婚するとなれば、ドラゴンの注意はそちらのほうへ向くだろう。
「ドノヴァン。何もかも……恩に着る」
「礼は……そうだな。俺好みの美女を紹介してくれればいい」
クリフォードは、さっそく借りを返す機会が訪れたことに感謝しながら、にやりと笑うドノヴァンに同じくにやりと笑い返した。
「任せてくれ。一人、おまえにぴったりの美女に心当たりがある……」
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