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第三章
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暗くなったら眠り、明るくなったら起きる。そんな生活をずっとしてきたハリエットが、夜眠れないという経験をしたのは一度だけ。メリンダが亡くなった時だけだった。
それなのに、今夜はちっとも眠れない。
ベッドの上でゴロゴロ転がったり、伸びをしたり、丸くなったり、うつ伏せになったり。
いろんな体勢をとってみたが、目をつぶるとクリフォードの指が唇に触れたことやロレインのことを思い出して、眠くなるどころか目が冴えてしまう。
「ああ、もう無理……」
寝るのを諦めて起き上がったハリエットは、絹のガウンを羽織り、燭台のろうそくに火を点けた。
眠れないのは、お腹が空いているからかもしれない。
夕食は、お腹がはちきれそうなほどたくさん食べたけれど、こっそり明日の朝食の仕込みを手伝ったので、消化してしまったのだろう。
(真夜中に厨房に忍び込むのはいけないことだけれど……どうしても眠れないんだもの)
デザートのプディングは残っていなくとも、パンのひとかけらくらいはあるだろう。いや、あってほしい。何もなくとも、ミルクくらいは……。
「レヴィ、ちょっとだけ厨房に行こうかと思うんだけれど……」
足下で丸くなっていたレヴィは面倒くさそうに起き上がり、ピンと耳を立てた。
「どうかしたの?」
ハリエットの問いに答えるようにベッドから飛び降り、部屋の隅の窓へ駆け寄るといきなり吠え始める。
「レヴィ! しーっ! 静かにしてっ!」
屋敷中の人を起してしまう。慌てて大人しくさせようと駆け寄ったハリエットは、もしかしたら窓の向こうに何かあるのかもしれないと思った。
「何かあるの? それとも、誰かいるの?」
再びレヴィが勢いよく吠えた。
ハリエットは恐る恐る窓を開け、不審に思いながら下を覗き込み……。
全身黒づくめの限りなく怪しい人物を発見した。
ぎょっとしたものの、歪んだ顔には特徴的なひげがある。
「スピネッリさん?」
「た……すけて……くだ、さ……い」
スピネッリは、あと少しで窓枠に手が届くというところで壁にしがみついていた。
足場がないらしく、腕の力だけでぶら下がっていて、いまにも落ちてしまいそうだ。
「掴まって!」
慌てて手を差し伸べたが、スピネッリに手を取られた瞬間、がくんと身体が傾いだ。
「きゃっ」
窓枠がお腹に食い込む痛みに歯を食いしばり、なんとか落ちないよう足を踏ん張る。
(ち、小さいのに、意外と重い!)
スピネッリは、掴まったあとで、手を差し伸べたのがハリエットだと気づいたらしい。
「は、ハリエットさま? む、無理です! 放してください」
「だ、だめっ! お、落ちちゃうっ!」
必死になってその手を掴み寄せると、スピネッリは悲鳴のような声で訴えた。
「ひとりで落ちて死ぬか、ハリエットさまと一緒に落ちて伯爵さまに嬲り殺されるか、どちらかしか選べないなら、ひとりで落ちて死ぬほうを選びますっ!」
「でも、落ちなければ……死なずに……済むんじゃ……」
「……そ、そうは思いませんっ! 殺されたほうがマシだという目に遭う可能性が……」
悲観的なスピネッリに、這い上がる気があるのか疑わしいとハリエットが思った時、バン、と大きな音を立てて部屋の扉が開き、クリフォードの大きな体に背後から包み込まれた。
「ハリエット! 何をしてい……スピネッリ!?」
窓の下を覗き込んだクリフォードが驚く。
「は、伯爵さま……すみません、昔取った杵柄でスイスイと壁を登れるはずが……」
「なんだって、壁を登る必要があるんだっ! 玄関から来ればいいだろうっ!?」
「こんな真夜中に、玄関から訪問するのは非常識……」
「壁を登って侵入するほうが非常識だっ!」
「これにはやんごとなき理由がありまして……ところで、私を助けてくださる気はあるんでしょうか? 伯爵さま」
クリフォードは唸り声を上げ、身体を横向きにしてハリエットと窓枠の間に入り込んだ。
腕を伸ばしてなんとかスピネッリのうしろ襟を掴む。
「ハリエット。合図をしたら、思い切り引き上げるんだ」
「は、はいっ」
「一……二……三っ!」
腕がちぎれそうな痛みを感じながら思い切り引っ張る。
クリフォードの力も加わって、スピネッリの上半身は窓枠まで引き上げられた。
「た、助かった……」
九死に一生を得たスピネッリは、窓枠の上で二つ折りになったまま気を失った。
「バーナード、引き下ろして私の部屋へ連れて行け。まったく人騒がせな……」
倒れ込むようにして床に尻もちを着いたハリエットは、今頃になってぞっとした。
クリフォードが来てくれなければ、スピネッリと一緒に落ちていたかもしれない。
心臓がバクバク音を立てて激しく打ち始める。
「ハリエット、怪我は?」
「だ、大丈夫です……」
クリフォードに抱きかかえられた状態で覗き込まれ、今度は別の理由で心臓が口から飛び出しそうになった。
「腕が赤くなっている。それに……」
大きく温かな手で腹部に触れられ、痛みではない別の何かを感じてビクリとした途端、クリフォードが眦を吊り上げた。
「大丈夫ではないだろうっ!? アデラっ!」
「きゃっ」
いきなり抱き上げられ、ハリエットは思わずその首にしがみついた。
「ハリエットが怪我をしているんだ。手当てを……」
「抱いたままでは、手当てができません」
いつの間にか部屋にやって来ていた家政婦長は、呆れ顔でクリフォードにハリエットをソファーへ下ろすよう命じた。
「痕が残ったりはしないだろうな? 治せるだろうな?」
クリフォードは、薄い寝間着の袖をまくり上げ、赤く擦れたハリエットの腕を確かめるアデラに詰め寄る。
「大丈夫でしょう。深く削れているわけではありませんから」
「腹部も、窓枠に押し付けられていた。痣になっているかもしれない。もしかしたら、腕より酷いかもしれない」
「ええ、そうですね」
「アデラ、どうして確かめないんだっ!? 見なければ、どれほど酷いかわからないだろうっ!?」
自分で確かめると言い出しそうなクリフォードに、アデラは冷ややかな眼差しを向けた。
「確かめますとも。クリフォード坊ちゃまが部屋を出て行ったら、すぐに」
「…………」
「手当てが終わったら、ご報告いたします。それまで、ご自分のお部屋で、大人しくお待ちください。よろしいですね?」
アデラに叱られたクリフォードは不満そうだったが、手当てをさせない気かと言われ、すごすごと引き下がった。
「……わかった。あとは、頼む」
「ええ、お任せください」
スピネッリを引きずるバーナードのあとに続いてクリフォードが出て行き、ドアが閉まるのを見届けたアデラは、なぜか小刻みに震え出した。
「……アデラさん?」
「くっ……ふっ、あーっ!」
アデラは堪え切れないというように声を上げて笑い出した。
「く、クリフォード坊ちゃんのあの顔! 小さい頃から、ちっとも変わらないんだから……」
「あの……?」
いったい何がおかしいのかわからずに、ハリエットは首を傾げた。
「旦那さまの無作法を許してあげてくださいね? ハリエットさまが窓から落ちてしまうんじゃないかと、死ぬほど心配したせいですから」
「はい、あの……ごめんなさい。こんな夜遅くに騒がしくして……」
「何を言うんですか! 人助けをして、怪我までして、謝ることなんかちっともありません! それにクリフォード坊ちゃま……旦那さまにとっても、必要な出来事だったんですから」
「クリフォードさまに必要?」
アデラは、ポケットから取り出した、甘い匂いのする軟膏をハリエットの赤くなった腕とお腹に塗りながら、世間の人々は知らない伯爵さまの姿を話してくれた。
「いまの旦那さまは……ハリエットさまと一緒にいる時の旦那さまは、伯爵さまではなくて、二十一歳の若者です。ちょっと無分別だったり、短気になったり、笑い転げたり、とても自然体でのびのびしているんです」
ハリエットにしてみれば、自分といる時のクリフォードだって、十分伯爵さまらしいと思ったけれど、話の腰を折りたくなかったので口にはしなかった。
「先代の伯爵さま夫妻が亡くなった時、旦那さまはまだ十六歳でした。いつか爵位を継ぐことはわかっていらしたでしょうけれど、そんな急に伯爵になるとは思っていなかったはずです。だから、立派な伯爵として認められようと寝る間も惜しんで働いた。フィッツロイの名を――領民や私たち使用人を守るために。同じ年頃の若者たちが、競馬やカードに女性と、色んな楽しみに耽っていても、ちょっとした息抜きさえご自分に許そうとしなかったんです」
「伯爵の義務で、責任だから……?」
「ええ。クリフォード坊ちゃんは、とても責任感が強いんです。ご自分の肩に、多くの人の人生が掛かっていることをよくご存知ですからね。でも……いくら優秀有能でも、人間です。時々は、その重荷を下ろして休む必要がある」
「でも……」
きっと、クリフォードは拒むだろう。
鶏につつかれて、絶対痛いはずなのに痛いと言わない伯爵さまは、どんなに辛くとも弱音を吐かないはずだ。
「確かに、面と向かって休めと言っても聞く耳を持たないでしょうね」
ハリエットの言いたいことを察したアデラは苦笑した。
「でも、ハリエットさまが足を止めたら、きっと一緒に足を止めるでしょうし、ハリエットさまが休もうと言えば、岩に腰掛けて、二人で美しい風景を眺めるでしょう。だから……旦那さまがいつもよりちょっと紳士でなくとも、驚かないでくださいね?」
軟膏を塗った上から包帯を巻き、くしゃくしゃになったハリエットの髪を軽くブラッシングまでしてくれた主人想いの家政婦長は、謎めいた笑みを浮かべた。
いつもと違うクリフォードとは、いったいどんなクリフォードなのかよくわからない。
けれど、ハリエットを傷つけたりしないとわかっている。
「大丈夫です」
「嫌なら、きっぱりやめるよう言えば、旦那さまはそれ以上何もしないはずです。ドラゴン仕込みの紳士ですからね」
ほっとしたように微笑んだアデラは、またしてもよくわからないことを言い、「それにしても……あのスピネッリという人。どうして壁を登ろうとしたんでしょうねぇ?」と首を傾げた。
ハリエットもその理由をぜひ知りたかった。
それなのに、今夜はちっとも眠れない。
ベッドの上でゴロゴロ転がったり、伸びをしたり、丸くなったり、うつ伏せになったり。
いろんな体勢をとってみたが、目をつぶるとクリフォードの指が唇に触れたことやロレインのことを思い出して、眠くなるどころか目が冴えてしまう。
「ああ、もう無理……」
寝るのを諦めて起き上がったハリエットは、絹のガウンを羽織り、燭台のろうそくに火を点けた。
眠れないのは、お腹が空いているからかもしれない。
夕食は、お腹がはちきれそうなほどたくさん食べたけれど、こっそり明日の朝食の仕込みを手伝ったので、消化してしまったのだろう。
(真夜中に厨房に忍び込むのはいけないことだけれど……どうしても眠れないんだもの)
デザートのプディングは残っていなくとも、パンのひとかけらくらいはあるだろう。いや、あってほしい。何もなくとも、ミルクくらいは……。
「レヴィ、ちょっとだけ厨房に行こうかと思うんだけれど……」
足下で丸くなっていたレヴィは面倒くさそうに起き上がり、ピンと耳を立てた。
「どうかしたの?」
ハリエットの問いに答えるようにベッドから飛び降り、部屋の隅の窓へ駆け寄るといきなり吠え始める。
「レヴィ! しーっ! 静かにしてっ!」
屋敷中の人を起してしまう。慌てて大人しくさせようと駆け寄ったハリエットは、もしかしたら窓の向こうに何かあるのかもしれないと思った。
「何かあるの? それとも、誰かいるの?」
再びレヴィが勢いよく吠えた。
ハリエットは恐る恐る窓を開け、不審に思いながら下を覗き込み……。
全身黒づくめの限りなく怪しい人物を発見した。
ぎょっとしたものの、歪んだ顔には特徴的なひげがある。
「スピネッリさん?」
「た……すけて……くだ、さ……い」
スピネッリは、あと少しで窓枠に手が届くというところで壁にしがみついていた。
足場がないらしく、腕の力だけでぶら下がっていて、いまにも落ちてしまいそうだ。
「掴まって!」
慌てて手を差し伸べたが、スピネッリに手を取られた瞬間、がくんと身体が傾いだ。
「きゃっ」
窓枠がお腹に食い込む痛みに歯を食いしばり、なんとか落ちないよう足を踏ん張る。
(ち、小さいのに、意外と重い!)
スピネッリは、掴まったあとで、手を差し伸べたのがハリエットだと気づいたらしい。
「は、ハリエットさま? む、無理です! 放してください」
「だ、だめっ! お、落ちちゃうっ!」
必死になってその手を掴み寄せると、スピネッリは悲鳴のような声で訴えた。
「ひとりで落ちて死ぬか、ハリエットさまと一緒に落ちて伯爵さまに嬲り殺されるか、どちらかしか選べないなら、ひとりで落ちて死ぬほうを選びますっ!」
「でも、落ちなければ……死なずに……済むんじゃ……」
「……そ、そうは思いませんっ! 殺されたほうがマシだという目に遭う可能性が……」
悲観的なスピネッリに、這い上がる気があるのか疑わしいとハリエットが思った時、バン、と大きな音を立てて部屋の扉が開き、クリフォードの大きな体に背後から包み込まれた。
「ハリエット! 何をしてい……スピネッリ!?」
窓の下を覗き込んだクリフォードが驚く。
「は、伯爵さま……すみません、昔取った杵柄でスイスイと壁を登れるはずが……」
「なんだって、壁を登る必要があるんだっ! 玄関から来ればいいだろうっ!?」
「こんな真夜中に、玄関から訪問するのは非常識……」
「壁を登って侵入するほうが非常識だっ!」
「これにはやんごとなき理由がありまして……ところで、私を助けてくださる気はあるんでしょうか? 伯爵さま」
クリフォードは唸り声を上げ、身体を横向きにしてハリエットと窓枠の間に入り込んだ。
腕を伸ばしてなんとかスピネッリのうしろ襟を掴む。
「ハリエット。合図をしたら、思い切り引き上げるんだ」
「は、はいっ」
「一……二……三っ!」
腕がちぎれそうな痛みを感じながら思い切り引っ張る。
クリフォードの力も加わって、スピネッリの上半身は窓枠まで引き上げられた。
「た、助かった……」
九死に一生を得たスピネッリは、窓枠の上で二つ折りになったまま気を失った。
「バーナード、引き下ろして私の部屋へ連れて行け。まったく人騒がせな……」
倒れ込むようにして床に尻もちを着いたハリエットは、今頃になってぞっとした。
クリフォードが来てくれなければ、スピネッリと一緒に落ちていたかもしれない。
心臓がバクバク音を立てて激しく打ち始める。
「ハリエット、怪我は?」
「だ、大丈夫です……」
クリフォードに抱きかかえられた状態で覗き込まれ、今度は別の理由で心臓が口から飛び出しそうになった。
「腕が赤くなっている。それに……」
大きく温かな手で腹部に触れられ、痛みではない別の何かを感じてビクリとした途端、クリフォードが眦を吊り上げた。
「大丈夫ではないだろうっ!? アデラっ!」
「きゃっ」
いきなり抱き上げられ、ハリエットは思わずその首にしがみついた。
「ハリエットが怪我をしているんだ。手当てを……」
「抱いたままでは、手当てができません」
いつの間にか部屋にやって来ていた家政婦長は、呆れ顔でクリフォードにハリエットをソファーへ下ろすよう命じた。
「痕が残ったりはしないだろうな? 治せるだろうな?」
クリフォードは、薄い寝間着の袖をまくり上げ、赤く擦れたハリエットの腕を確かめるアデラに詰め寄る。
「大丈夫でしょう。深く削れているわけではありませんから」
「腹部も、窓枠に押し付けられていた。痣になっているかもしれない。もしかしたら、腕より酷いかもしれない」
「ええ、そうですね」
「アデラ、どうして確かめないんだっ!? 見なければ、どれほど酷いかわからないだろうっ!?」
自分で確かめると言い出しそうなクリフォードに、アデラは冷ややかな眼差しを向けた。
「確かめますとも。クリフォード坊ちゃまが部屋を出て行ったら、すぐに」
「…………」
「手当てが終わったら、ご報告いたします。それまで、ご自分のお部屋で、大人しくお待ちください。よろしいですね?」
アデラに叱られたクリフォードは不満そうだったが、手当てをさせない気かと言われ、すごすごと引き下がった。
「……わかった。あとは、頼む」
「ええ、お任せください」
スピネッリを引きずるバーナードのあとに続いてクリフォードが出て行き、ドアが閉まるのを見届けたアデラは、なぜか小刻みに震え出した。
「……アデラさん?」
「くっ……ふっ、あーっ!」
アデラは堪え切れないというように声を上げて笑い出した。
「く、クリフォード坊ちゃんのあの顔! 小さい頃から、ちっとも変わらないんだから……」
「あの……?」
いったい何がおかしいのかわからずに、ハリエットは首を傾げた。
「旦那さまの無作法を許してあげてくださいね? ハリエットさまが窓から落ちてしまうんじゃないかと、死ぬほど心配したせいですから」
「はい、あの……ごめんなさい。こんな夜遅くに騒がしくして……」
「何を言うんですか! 人助けをして、怪我までして、謝ることなんかちっともありません! それにクリフォード坊ちゃま……旦那さまにとっても、必要な出来事だったんですから」
「クリフォードさまに必要?」
アデラは、ポケットから取り出した、甘い匂いのする軟膏をハリエットの赤くなった腕とお腹に塗りながら、世間の人々は知らない伯爵さまの姿を話してくれた。
「いまの旦那さまは……ハリエットさまと一緒にいる時の旦那さまは、伯爵さまではなくて、二十一歳の若者です。ちょっと無分別だったり、短気になったり、笑い転げたり、とても自然体でのびのびしているんです」
ハリエットにしてみれば、自分といる時のクリフォードだって、十分伯爵さまらしいと思ったけれど、話の腰を折りたくなかったので口にはしなかった。
「先代の伯爵さま夫妻が亡くなった時、旦那さまはまだ十六歳でした。いつか爵位を継ぐことはわかっていらしたでしょうけれど、そんな急に伯爵になるとは思っていなかったはずです。だから、立派な伯爵として認められようと寝る間も惜しんで働いた。フィッツロイの名を――領民や私たち使用人を守るために。同じ年頃の若者たちが、競馬やカードに女性と、色んな楽しみに耽っていても、ちょっとした息抜きさえご自分に許そうとしなかったんです」
「伯爵の義務で、責任だから……?」
「ええ。クリフォード坊ちゃんは、とても責任感が強いんです。ご自分の肩に、多くの人の人生が掛かっていることをよくご存知ですからね。でも……いくら優秀有能でも、人間です。時々は、その重荷を下ろして休む必要がある」
「でも……」
きっと、クリフォードは拒むだろう。
鶏につつかれて、絶対痛いはずなのに痛いと言わない伯爵さまは、どんなに辛くとも弱音を吐かないはずだ。
「確かに、面と向かって休めと言っても聞く耳を持たないでしょうね」
ハリエットの言いたいことを察したアデラは苦笑した。
「でも、ハリエットさまが足を止めたら、きっと一緒に足を止めるでしょうし、ハリエットさまが休もうと言えば、岩に腰掛けて、二人で美しい風景を眺めるでしょう。だから……旦那さまがいつもよりちょっと紳士でなくとも、驚かないでくださいね?」
軟膏を塗った上から包帯を巻き、くしゃくしゃになったハリエットの髪を軽くブラッシングまでしてくれた主人想いの家政婦長は、謎めいた笑みを浮かべた。
いつもと違うクリフォードとは、いったいどんなクリフォードなのかよくわからない。
けれど、ハリエットを傷つけたりしないとわかっている。
「大丈夫です」
「嫌なら、きっぱりやめるよう言えば、旦那さまはそれ以上何もしないはずです。ドラゴン仕込みの紳士ですからね」
ほっとしたように微笑んだアデラは、またしてもよくわからないことを言い、「それにしても……あのスピネッリという人。どうして壁を登ろうとしたんでしょうねぇ?」と首を傾げた。
ハリエットもその理由をぜひ知りたかった。
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