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第一章
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九十七、九十八、九十九……百。
訪問先の立派なお屋敷の立派な玄関扉をノックしていたハリエットは、なんの返事もないまま百回目を数えたところで手を止めた。
ずっとノックしていたから、キツツキだと勘違いされたのかもしれないという考えがちらりと脳裏をよぎる。
(でも、百回もノックすれば十分礼儀正しく振る舞ったことになるわよね? 待ってるだけじゃ、どうにもならないもの……)
心の中で言い訳しながら次の行動へ移ることにして、いかめしい扉を押してみればあっけなく開いた。
「誰かいるのは確かだわ。ね? レヴィ」
黒と白の毛並みを持つレヴィは、先の白い尾を振って同意してくれた。レヴィは大事な仕事の相棒であり親友でもあり、世界一賢い牧羊犬だ。その判断に間違いはない。
「ごめんくださーい。お邪魔しま……」
一応、断りの言葉を口にしながら押し開けた扉の隙間から、屋敷の中へ足を踏み入れる。
立派な外観の屋敷は中も立派だろうと予想はしていたけれど、ハリエットは目に飛び込んで来た光景に茫然としてしまった。
金細工模様が浮き彫りになった高い天井。壁を埋め尽くす絵。白く輝く大理石の床。真正面にある階段は優美な曲線を描いて二階へと続いている。
この屋敷にどれくらいの価値があるのかはわからないが、高価なものであふれていることだけはわかった。
ハリエットはぽかんと口を開けたまま、しばらく惚けたように突っ立っていたが、ふと物音一つしないことに気がついた。
ひんやりした空気に満ちた屋敷は人が住んでいる気配がない。まるで幽霊屋敷のようだ。
もしもここが訪ねようとしているホワイト伯爵未亡人の家ではなかったら……。
そんな可能性を思い、青ざめた。
一度も会ったことのない後見人を訪ねて王都へやって来たのは、大事な相談をするためだから、簡単に諦めるつもりはない。けれど、再び駅馬車を降りたところからホワイト伯爵未亡人の住まいを探し直すなんてとてもできそうになかった。
王都の複雑に入り組んだ道で何度も迷い、羊飼いとしての自尊心はズタズタだし、歩き回った足は棒のようだ。親切な靴磨きの少年が道案内を申し出てくれなければ、いまもまだ王都をさまよっていただろう。それに、重いトランクを持ち歩いていたので腕も痛い。乗り心地の悪い馬車に乗っていたせいで腰も痛い。
故郷のヘザートンから王都に来るまでの五日間。初めてのひとり旅は緊張の連続で、常にあれこれ警戒していなくてはならなかった。
つまり……いますぐ床に転がって眠れそうなほど、クタクタだ。
(悪いことばかり考えちゃだめ! とにかく誰かいるはずなんだから、もし間違っていたとしても、正しい場所を訊けばいいだけ……)
疲れている時は、つい悪いことばかり考えてしまう。ハリエットは自分を励まし、レヴィの揺れる尾を追って屋敷の奥へと進んだ。
つい無意識に足音を忍ばせ、息を殺して歩いていると、突然「くるッポー」という間の抜けた鳩の鳴き声が静寂を突き破った。
「ぶふっ」
思わず笑いそうになって、慌てて手で口を塞ぐ。
―……クるっポー、くるっぽー、クルッぽー
音痴な鳩は四回鳴くとぴたりと大人しくなった。
鳴き声が止むと、かすかに話し声らしきものが聞こえてきた。
レヴィが扉の前で座り込んでいる廊下の端の部屋に、誰かいるようだ。わずかに開いた扉の隙間から覗けば、二つの人影が見えた。
(誰かわからないけれど、話はできそう……)
生きている人間に出会えたことにほっとながら、トランクを置き、ノックする前に身だしなみを整えるべく外套の埃を払おうとした。
ところが、身だしなみを整える必要がないレヴィは、いきなり鼻先でドアを押し開け、威勢よくひと吠えした。
「…………」
「…………」
部屋にいた二人が、振り返る。
ひとりは、美しい銀髪の初老の男性。背中に棒でも差し込んでいるのかと思うほど姿勢が良い。もうひとりは、これまでハリエットが見た男性の中で、ダントツに美しい青年だった。
陽光に眩く輝く金髪は少し長めに整えられ、乱れた前髪が凛々しい眉にわずかにかかっている。長い睫毛に覆われたダークブルーの瞳、細くまっすぐ通った鼻。引き締まった頬と顎は男性らしい硬質さを漂わせている。血色のよい唇は、下が少し厚く……柔らかそうだ。
引き締まった身体を仕立てのいい絹(たぶん)の服に包み、アンバーとサファイアの瞳をした白い猫を担いでいても違和感がない。非の打ち所のない美貌は、何をしていても様になる。
なぜ猫を担いでいるのか、その理由はまるで見当がつかないけれど。
(とりあえず、挨拶しなくちゃ……)
ごくりと唾を飲み込んで口を開きかけたハリエットは、青年とまともに目が合うなり、いままで経験したことのない症状に襲われた。
頬が燃えるように熱くなり、心臓が口から飛び出しそうなくらい胸が高鳴る。
息が苦しくなり、頭がぼうっとして……「シャーッ」という猫の雄叫びを聞いた。
訪問先の立派なお屋敷の立派な玄関扉をノックしていたハリエットは、なんの返事もないまま百回目を数えたところで手を止めた。
ずっとノックしていたから、キツツキだと勘違いされたのかもしれないという考えがちらりと脳裏をよぎる。
(でも、百回もノックすれば十分礼儀正しく振る舞ったことになるわよね? 待ってるだけじゃ、どうにもならないもの……)
心の中で言い訳しながら次の行動へ移ることにして、いかめしい扉を押してみればあっけなく開いた。
「誰かいるのは確かだわ。ね? レヴィ」
黒と白の毛並みを持つレヴィは、先の白い尾を振って同意してくれた。レヴィは大事な仕事の相棒であり親友でもあり、世界一賢い牧羊犬だ。その判断に間違いはない。
「ごめんくださーい。お邪魔しま……」
一応、断りの言葉を口にしながら押し開けた扉の隙間から、屋敷の中へ足を踏み入れる。
立派な外観の屋敷は中も立派だろうと予想はしていたけれど、ハリエットは目に飛び込んで来た光景に茫然としてしまった。
金細工模様が浮き彫りになった高い天井。壁を埋め尽くす絵。白く輝く大理石の床。真正面にある階段は優美な曲線を描いて二階へと続いている。
この屋敷にどれくらいの価値があるのかはわからないが、高価なものであふれていることだけはわかった。
ハリエットはぽかんと口を開けたまま、しばらく惚けたように突っ立っていたが、ふと物音一つしないことに気がついた。
ひんやりした空気に満ちた屋敷は人が住んでいる気配がない。まるで幽霊屋敷のようだ。
もしもここが訪ねようとしているホワイト伯爵未亡人の家ではなかったら……。
そんな可能性を思い、青ざめた。
一度も会ったことのない後見人を訪ねて王都へやって来たのは、大事な相談をするためだから、簡単に諦めるつもりはない。けれど、再び駅馬車を降りたところからホワイト伯爵未亡人の住まいを探し直すなんてとてもできそうになかった。
王都の複雑に入り組んだ道で何度も迷い、羊飼いとしての自尊心はズタズタだし、歩き回った足は棒のようだ。親切な靴磨きの少年が道案内を申し出てくれなければ、いまもまだ王都をさまよっていただろう。それに、重いトランクを持ち歩いていたので腕も痛い。乗り心地の悪い馬車に乗っていたせいで腰も痛い。
故郷のヘザートンから王都に来るまでの五日間。初めてのひとり旅は緊張の連続で、常にあれこれ警戒していなくてはならなかった。
つまり……いますぐ床に転がって眠れそうなほど、クタクタだ。
(悪いことばかり考えちゃだめ! とにかく誰かいるはずなんだから、もし間違っていたとしても、正しい場所を訊けばいいだけ……)
疲れている時は、つい悪いことばかり考えてしまう。ハリエットは自分を励まし、レヴィの揺れる尾を追って屋敷の奥へと進んだ。
つい無意識に足音を忍ばせ、息を殺して歩いていると、突然「くるッポー」という間の抜けた鳩の鳴き声が静寂を突き破った。
「ぶふっ」
思わず笑いそうになって、慌てて手で口を塞ぐ。
―……クるっポー、くるっぽー、クルッぽー
音痴な鳩は四回鳴くとぴたりと大人しくなった。
鳴き声が止むと、かすかに話し声らしきものが聞こえてきた。
レヴィが扉の前で座り込んでいる廊下の端の部屋に、誰かいるようだ。わずかに開いた扉の隙間から覗けば、二つの人影が見えた。
(誰かわからないけれど、話はできそう……)
生きている人間に出会えたことにほっとながら、トランクを置き、ノックする前に身だしなみを整えるべく外套の埃を払おうとした。
ところが、身だしなみを整える必要がないレヴィは、いきなり鼻先でドアを押し開け、威勢よくひと吠えした。
「…………」
「…………」
部屋にいた二人が、振り返る。
ひとりは、美しい銀髪の初老の男性。背中に棒でも差し込んでいるのかと思うほど姿勢が良い。もうひとりは、これまでハリエットが見た男性の中で、ダントツに美しい青年だった。
陽光に眩く輝く金髪は少し長めに整えられ、乱れた前髪が凛々しい眉にわずかにかかっている。長い睫毛に覆われたダークブルーの瞳、細くまっすぐ通った鼻。引き締まった頬と顎は男性らしい硬質さを漂わせている。血色のよい唇は、下が少し厚く……柔らかそうだ。
引き締まった身体を仕立てのいい絹(たぶん)の服に包み、アンバーとサファイアの瞳をした白い猫を担いでいても違和感がない。非の打ち所のない美貌は、何をしていても様になる。
なぜ猫を担いでいるのか、その理由はまるで見当がつかないけれど。
(とりあえず、挨拶しなくちゃ……)
ごくりと唾を飲み込んで口を開きかけたハリエットは、青年とまともに目が合うなり、いままで経験したことのない症状に襲われた。
頬が燃えるように熱くなり、心臓が口から飛び出しそうなくらい胸が高鳴る。
息が苦しくなり、頭がぼうっとして……「シャーッ」という猫の雄叫びを聞いた。
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