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妖精の王女とヘタレな王子 2
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「いい加減、邪魔だ。ジェフ」
腐れ縁の友人であるハロルドの冷たい言葉に、ソファに寝転がっていたジェフリーは、抱えていたクッションをぎゅうっと抱き潰した。
ビヴァリーの友人であるテレンスの妻が作ったという馬の形をしたクッションは、憎たらしいほどに抱き心地が良い。
今朝、ブリギッドに婚約者がいたという衝撃の事実を新聞記事で知ったジェフリーは、自分でもよくわからないまま離婚の話をし、そのまま王宮へやって来た。
父である国王や大司教に「離婚」の話をする前に、ブリギッドとの結婚話を持ち出したハロルドにひと言抗議しようと思って執務室へ押しかけたのだが、話をする前に気付けが欲しいと思ってりんご酒を飲み出したら止まらなくなり、すっかりぐでんぐでんだ。
仕事の邪魔をしているとわかっているが、そもそもの元凶であるハロルドは甘んじて耐え忍ぶべきだと思う。
「友人に……王子に向かって、なんて酷いことを言うんだ」
「人が仕事をしている傍で、グダグダと愚痴をこぼしながら酒を飲んでいるのは酷い行為ではないとでも言う気か? さっさと妃殿下に動揺のあまり離婚などと口走ったことを詫びに行け」
「ビヴァリーの捕獲に成功し、毎晩イチャついている幸せいっぱいのおまえには、わからないだろう。いつか自分のものになると思っていたものが、とっくの昔に他人のものだったと知ったときの絶望なんて……わかるはずがないっ!」
「自分のものになるかどうか、事前に調べなかったのが悪いんだろう」
そっけないハロルドの言葉に、ジェフリーはガバッと起き上がった。
「おまえが、ブリギッドに婚約者はいないと言ったんじゃないかっ!」
執務机に向かって書類を眺めていたハロルドは、凛々しい眉を引き上げ、首を捻り、「ああ、あれか」と呟いた。
「あらかじめ言ったはずだ! 想う相手がいるようなら、結婚できないと。私は博愛主義者なんだ! 女性を奪い合うなんて無理なんだ。別の男を好きな女性に言い寄って、自分のほうを向かせるのだって、無理だ。私は絶世の美男でもないし、第三王子だし、これといった特技もないし、そこまで……魅力的な男ではない」
「自覚はあったんだな」
「ハロルドっ……!」
容赦のない感想に抗議しようとしたが、天使のごとき美貌を誇る友人の冷ややかな眼差しを受け、口をつぐんだ。
「新聞記事の件なら、あれは元宰相がわざと書かせたものだ」
「は?」
溜息を吐き、立ち上がったハロルドは、ジェフリーに一枚の紙を差し出した。
「その、ダドリー・ヘザートンからだ」
今、一番聞きたくない名前につい顔が強張り、受け取るのをためらってしまう。
「いいから読め」
ぐしゃっと顔に押し付けられた。
忌々しいほど美しい文字を書くというだけで舌打ちしたくなったが、ざっと目を通すと忌々しさは腹立たしさへと変わった。
「おまえたちの不仲説で、大変迷惑しているそうだ。ブリギッドさまとの婚約話は正式なものではない。ただ、コルディアではそうなるだろうと誰もが思っていたので、反ブレントリー派がありもしない恋心を邪推してうっとうしいとのことだ」
手紙には、ジェフリーが不甲斐ないせいでブリギッドが辛い思いをしているという、耳の痛い話はもちろんだが、ジェフリーではなく第二王子に嫁ぎ直させるか、もしくは最悪の場合自分が引き受けると書かれていた。
ブリギッドの行く末を亡き王子たちにも託されているし、小娘の機嫌を取って丸め込むことくらい何でもない。調教すればそれなりに妻の役目もこなせるだろうし、愛情などなくとも満足させられるという、まるで、ブリギッドを物扱いしているとしか思えない言い草だった。
「これ以上モタモタしているようなら、本当に妃殿下を引き取るつもりだろう。その布石として、わざと元婚約者と書かせたんだ」
「……こんなゲスは、ブリギッドに相応しくない」
「ダドリー・ヘザートンは有能優秀な男だと、おまえも認めていたはずだろう?」
「それとこれとは、話が別だっ! ブリギッドは、気が強くてじゃじゃ馬だが、繊細なところがある。自分を愛しているかどうかくらい、すぐにわかるだろう。それなのに、丸め込むなんて……」
ジェフリーが、ブリギッドに対して強引に迫らずにいるのは、心の底から信頼し、安心して身を預けてほしかったからだ。
子供を作ることは義務ではあるが、「義務だけ」ではないと思えば辛さも半減するのではないかと思った。
ブリギッドは自分の好きな相手を夫として選べないという大きな犠牲を払っている。
せめて、これ以上何かを犠牲にすることのないように、できる限りブリギッドの気持ちを尊重したかった。
「だったら、誰が相応しいと思うんだ? 第二王子殿下か? まぁ、あちらのほうが馬も好きだし、ぐいぐいと引っ張っていくタイプだから、気が合うかもしれない。愛妾の一人や二人、目をつぶるのも妃の務めだと割り切れば、それなりに幸せになれるだろう」
「それは……」
すぐ上の兄は、ジェフリーとは正反対のタイプだ。
やや強引ではあるが陽気で、カリスマ性があり、人に好かれる。
緻密さには欠けるが、大胆で判断が早く、好奇心旺盛で行動力がある。
ブリギッドとは気が合うだろう。
そもそも、自分とブリギッドは正反対だ。
だからこそ惹かれたのだろうが、一方通行では夫婦としては成り立たない。
「でも、俺はおまえのほうが、ブリギッドさまと上手くやっていけると思ったんだ。少なくとも、おまえには、相手の気持ちを無視できない甘さがあるからな」
「優柔不断だと言いたいんだろう……」
ことあるごとに、兄や父に言われる言葉を呟けば、ハロルドもあっさり認めた。
「そうだな」
王子らしく我儘を貫き通すこともなくはないが、ジェフリーは基本的に争い事が嫌いだった。
必要に迫られて強引に振舞っても、あとからくよくよしてしまう。
軽々しく前言を撤回するようなことはさすがにしないが、後味の悪さは忘れられないのだ。
「でも、迷うのはそれだけ考えているという証拠でもある。少なくとも、相手のことを慮ろうと努力しているんだから、悪いことばかりじゃない。とにかく、ちゃんとブリギッドさまと話し合え。おまえは余計なことばかりぺらぺら喋って、肝心なことをいつも言い忘れる」
「ハ……ハルぅ……」
傲慢で偉そうな友人の滅多に聞かない優しい言葉に、ジェフリーは涙が出そうだった。
「抱きつくなっ! そのクッションも、ビヴァリーが俺にくれたものだっ! 汚すなっ!」
腰に抱きつこうとすると思い切り押し退けられ、抱えていた馬のクッションを取り上げられた。
「おまえ……本当に、ビヴァリーのこととなると心が狭いな?」
妻を溺愛し、すっかり振り回されている様子に、潔癖堅物男と呼ばれていたのが遠い昔のような気がすると揶揄すれば、ハロルドは顔を赤らめて言い返す。
「おまえに言われたくないっ! とにかく、相応しい男がどこにもいないと思うなら、自分がそうなればいいだろうがっ」
「どうすればなれると思う? どんな男が相応しいと思う?」
「本人に聞けっ! ついでに、教育もしてもらえっ! おまえの場合、やることなすことすべてが、的外れになる。調教してもらうのが一番だ」
「なるほど……」
頼りになる友人のアドバイスに、ジェフリーはふと気になって尋ねてみた。
「おまえも調教されたのか?」
「…………」
◇◆◇
ハロルドに執務室から叩き出されたジェフリーは、千鳥足一歩手前でふらつきながら、馬車に乗り込んだ。
久方ぶりに、友人たちが集まる紳士クラブ『ブランカ』へ向かうことにした。
葉巻でも吸って、今流行の文学や遊びの情報を交換し、チェスやらくだらぬ賭け事やらをして気を紛らわすことで、少しは落ち着けるだろう。
ブリギッドときちんと話をしなければいけないとわかっているが、落ち着いて振舞える自信がない。
獣にはなりたくないが、無理やり離婚できないようにしてしまいそうで、怖い。
とにかく冷静になるための時間が欲しいと思って向かった『ブランカ』の前で馬車を降りたジェフリーは、入り口に繋がれた二頭の馬を見て首を傾げた。
二頭のうち一頭は、馬車を降りた瞬間からこちらをじっと見ている。
見覚えのある馬だ。
「アルウィン……?」
ガッという音と共に前脚を石畳に打ち付けたアルウィンは、頭を高く掲げ、威嚇するようにジェフリーを睨みつけた。
通訳すると「ああん? 貴様ごときが、軽々しく俺様の名を呼び捨てにするな!」と言っているのだろう。
「あ! ジェフリーさま!」
どうしてアルウィンがここにいるのだろうと思っていると、もう一頭の馬の陰からひょこっとビヴァリーが顔を出した。
「ビヴァリー?」
マクファーソン侯爵らが捕らえられてから、ビヴァリーは離宮ではなくグラーフ侯爵家のタウンハウスで暮らしている。
時折、ブリギッドの乗馬に付き合うために離宮を訪れるほかは、騎乗の依頼を受けてあちこちの競馬場へ出かけ、とても忙しいと聞いていた。
「久しぶりに、ブリギッドさまと乗馬を楽しもうと思って離宮を訪れたら、ジェフリーさまが『ブランカ』のところへ行っているか確かめたいというので、ご案内したんです」
にっこり笑うビヴァリーは、ブリギッドが以前から『ブランカ』のことを知りたがっていたので、ハロルドから場所を聞いていたし、ちょうどいいと思ったのだと言う。
「ブリギッドが……?」
「女性は入れないかもしれないと思ったんですけれど、ブリギッドさまだから大丈夫かなと思って」
紳士クラブは、紳士のものだ。
通常ならば、女性は入れない。
しかし、さすがに王子妃を追い返すことはできないだろう。
「ブリギッドは、中に……?」
恐る恐る尋ねると、ビヴァリーはそうだと頷く。
「ついさっき入ったばかりです」
慌ててドアを開けて中へ飛び込んだジェフリーは、奥の部屋で男性たちに囲まれて葉巻を試そうとしているブリギッドを目撃した。
ストロベリーブロンドの髪も垂らしたままで、王子妃らしくもない飾り気のない乗馬服という恰好のブリギッドは、退廃的な雰囲気との落差で一層無垢に見える。
「ブリギッドっ!」
周りを取り囲む男どもを押し退けて、その手から葉巻を取り上げ、横にいた男の開いた口に突っ込む。
「こんなところに来るべきじゃない。帰るんだっ!」
「嫌ですっ!」
腕を掴んで引っ張り上げ、そのまま引き摺って行こうとすると抵抗される。
あまりに暴れるので、仕方なく担ぐようにして抱き上げたが、生きた魚のように暴れまくるので、危うく取り落としそうになり、外へ出たところでつい叱ってしまった。
「ここは、子供が来るところじゃないっ!」
「私は、子供ではありませんっ!」
悲鳴のような声で言い返され、ジェフリーは己の失言を悟った。
「あ……いや、その……」
「私は、きちんと話ができるくらいには……大人です。いつも殿下が私に説明してくださらないのは、子供だと思っていたからなんですね」
震える唇でそう言ったブリギッドのグレイッシュグリーンの瞳が潤んでいるのを見て、ジェフリーは大いにうろたえた。
「ブ、ブリギッド? そうじゃない。子供だとは思っていないし、怒っているわけではない。男性ばかりのところにいるのは危ないと心配だっただけで……」
「離婚する妻がどこで何をしていようと、かまわないのでは?」
「いや、でもまだ離婚していな……」
「離婚すると仰ったでしょうっ!? 冗談で済まされるとでもっ!?」
「そ、そうじゃない。でも、ブリギッドがそうしたいんじゃないかと思って……」
ジェフリーは、我ながら情けない言い訳だと思った。
ブリギッドに本当のところを確かめるのさえ怖くて、逃げ出したのだ。
「私は、馬から転げ落ちそうになった殿下を見て、ひと目惚れしたと言ったはずですっ! それなのに、あんな本当か嘘かもわからない新聞記事くらいで……」
ジェフリーは何もかも自分が悪いと思った。
自分のちっぽけな自尊心を守るために、ブリギッドを傷つけてしまったことは、万死に値する。
妖精のように可愛らしくて美しい妻を泣かせるなんて、極悪人以外の何ものでもない。
泣きそうな顔をしているブリギッドも可愛いし、泣いている顔もきっと可愛いし、あらゆる姿を見てみたいという欲求は果てしなくあるが、加虐趣味はないのでできれば笑ってくれているほうがいい。
今すぐひれ伏し、体も自尊心もなげうって、鞭打たれてでもブリギッドに許しを乞いたいが、一応ブレントリー王国の第三王子の身としては、山のような人だかりの中でやるのは憚られる。
「あの、ジェフリーさま。アルウィンは私が連れて帰りますから、馬車でお戻りになっては?」
「すまない、ビヴァリー」
早くここから逃げ出した方がいいと囁くビヴァリーの厚意に甘えることにして、ブリギッドを抱えたまま馬車に乗り込んだ。
酔いはすっかり醒め、またしても失態を犯した自分を殴り殺したい気持ちでいっぱいだった。
「私……婚約など、していません」
馬車が走り出してしばらく経ってから、抱えていたブリギッドがぽつりと呟いた。
「ハロルドから聞いた。あの記事は、ダドリー・ヘザートンがわざと書かせたと……その、申し訳ない。今朝は、ブリギッドの気持ちがほかの男にあるのではないかと動揺して、心にもないことを言ってしまった。許してほしい」
「離婚は……」
濡れた睫毛を瞬かせて見上げるブリギッドに、理性の限界を試されていると思いながら、何とか獣化しないよう王子様らしく微笑む。
「しないし……したくない。妖精を捕まえるのは、簡単なことではないからね。でも……今回のように、私はいつも的外れなことをしがちだ。だから、どうすればいいのか、ブリギッドに教えてほしい」
「教えるとは……調教ということでしょうか?」
危険な領域に足を踏み入れている気がしたが、ここであれこれ言って再び泣かれたくないという気持ちが勝り、ジェフリーは頷いた。
腐れ縁の友人であるハロルドの冷たい言葉に、ソファに寝転がっていたジェフリーは、抱えていたクッションをぎゅうっと抱き潰した。
ビヴァリーの友人であるテレンスの妻が作ったという馬の形をしたクッションは、憎たらしいほどに抱き心地が良い。
今朝、ブリギッドに婚約者がいたという衝撃の事実を新聞記事で知ったジェフリーは、自分でもよくわからないまま離婚の話をし、そのまま王宮へやって来た。
父である国王や大司教に「離婚」の話をする前に、ブリギッドとの結婚話を持ち出したハロルドにひと言抗議しようと思って執務室へ押しかけたのだが、話をする前に気付けが欲しいと思ってりんご酒を飲み出したら止まらなくなり、すっかりぐでんぐでんだ。
仕事の邪魔をしているとわかっているが、そもそもの元凶であるハロルドは甘んじて耐え忍ぶべきだと思う。
「友人に……王子に向かって、なんて酷いことを言うんだ」
「人が仕事をしている傍で、グダグダと愚痴をこぼしながら酒を飲んでいるのは酷い行為ではないとでも言う気か? さっさと妃殿下に動揺のあまり離婚などと口走ったことを詫びに行け」
「ビヴァリーの捕獲に成功し、毎晩イチャついている幸せいっぱいのおまえには、わからないだろう。いつか自分のものになると思っていたものが、とっくの昔に他人のものだったと知ったときの絶望なんて……わかるはずがないっ!」
「自分のものになるかどうか、事前に調べなかったのが悪いんだろう」
そっけないハロルドの言葉に、ジェフリーはガバッと起き上がった。
「おまえが、ブリギッドに婚約者はいないと言ったんじゃないかっ!」
執務机に向かって書類を眺めていたハロルドは、凛々しい眉を引き上げ、首を捻り、「ああ、あれか」と呟いた。
「あらかじめ言ったはずだ! 想う相手がいるようなら、結婚できないと。私は博愛主義者なんだ! 女性を奪い合うなんて無理なんだ。別の男を好きな女性に言い寄って、自分のほうを向かせるのだって、無理だ。私は絶世の美男でもないし、第三王子だし、これといった特技もないし、そこまで……魅力的な男ではない」
「自覚はあったんだな」
「ハロルドっ……!」
容赦のない感想に抗議しようとしたが、天使のごとき美貌を誇る友人の冷ややかな眼差しを受け、口をつぐんだ。
「新聞記事の件なら、あれは元宰相がわざと書かせたものだ」
「は?」
溜息を吐き、立ち上がったハロルドは、ジェフリーに一枚の紙を差し出した。
「その、ダドリー・ヘザートンからだ」
今、一番聞きたくない名前につい顔が強張り、受け取るのをためらってしまう。
「いいから読め」
ぐしゃっと顔に押し付けられた。
忌々しいほど美しい文字を書くというだけで舌打ちしたくなったが、ざっと目を通すと忌々しさは腹立たしさへと変わった。
「おまえたちの不仲説で、大変迷惑しているそうだ。ブリギッドさまとの婚約話は正式なものではない。ただ、コルディアではそうなるだろうと誰もが思っていたので、反ブレントリー派がありもしない恋心を邪推してうっとうしいとのことだ」
手紙には、ジェフリーが不甲斐ないせいでブリギッドが辛い思いをしているという、耳の痛い話はもちろんだが、ジェフリーではなく第二王子に嫁ぎ直させるか、もしくは最悪の場合自分が引き受けると書かれていた。
ブリギッドの行く末を亡き王子たちにも託されているし、小娘の機嫌を取って丸め込むことくらい何でもない。調教すればそれなりに妻の役目もこなせるだろうし、愛情などなくとも満足させられるという、まるで、ブリギッドを物扱いしているとしか思えない言い草だった。
「これ以上モタモタしているようなら、本当に妃殿下を引き取るつもりだろう。その布石として、わざと元婚約者と書かせたんだ」
「……こんなゲスは、ブリギッドに相応しくない」
「ダドリー・ヘザートンは有能優秀な男だと、おまえも認めていたはずだろう?」
「それとこれとは、話が別だっ! ブリギッドは、気が強くてじゃじゃ馬だが、繊細なところがある。自分を愛しているかどうかくらい、すぐにわかるだろう。それなのに、丸め込むなんて……」
ジェフリーが、ブリギッドに対して強引に迫らずにいるのは、心の底から信頼し、安心して身を預けてほしかったからだ。
子供を作ることは義務ではあるが、「義務だけ」ではないと思えば辛さも半減するのではないかと思った。
ブリギッドは自分の好きな相手を夫として選べないという大きな犠牲を払っている。
せめて、これ以上何かを犠牲にすることのないように、できる限りブリギッドの気持ちを尊重したかった。
「だったら、誰が相応しいと思うんだ? 第二王子殿下か? まぁ、あちらのほうが馬も好きだし、ぐいぐいと引っ張っていくタイプだから、気が合うかもしれない。愛妾の一人や二人、目をつぶるのも妃の務めだと割り切れば、それなりに幸せになれるだろう」
「それは……」
すぐ上の兄は、ジェフリーとは正反対のタイプだ。
やや強引ではあるが陽気で、カリスマ性があり、人に好かれる。
緻密さには欠けるが、大胆で判断が早く、好奇心旺盛で行動力がある。
ブリギッドとは気が合うだろう。
そもそも、自分とブリギッドは正反対だ。
だからこそ惹かれたのだろうが、一方通行では夫婦としては成り立たない。
「でも、俺はおまえのほうが、ブリギッドさまと上手くやっていけると思ったんだ。少なくとも、おまえには、相手の気持ちを無視できない甘さがあるからな」
「優柔不断だと言いたいんだろう……」
ことあるごとに、兄や父に言われる言葉を呟けば、ハロルドもあっさり認めた。
「そうだな」
王子らしく我儘を貫き通すこともなくはないが、ジェフリーは基本的に争い事が嫌いだった。
必要に迫られて強引に振舞っても、あとからくよくよしてしまう。
軽々しく前言を撤回するようなことはさすがにしないが、後味の悪さは忘れられないのだ。
「でも、迷うのはそれだけ考えているという証拠でもある。少なくとも、相手のことを慮ろうと努力しているんだから、悪いことばかりじゃない。とにかく、ちゃんとブリギッドさまと話し合え。おまえは余計なことばかりぺらぺら喋って、肝心なことをいつも言い忘れる」
「ハ……ハルぅ……」
傲慢で偉そうな友人の滅多に聞かない優しい言葉に、ジェフリーは涙が出そうだった。
「抱きつくなっ! そのクッションも、ビヴァリーが俺にくれたものだっ! 汚すなっ!」
腰に抱きつこうとすると思い切り押し退けられ、抱えていた馬のクッションを取り上げられた。
「おまえ……本当に、ビヴァリーのこととなると心が狭いな?」
妻を溺愛し、すっかり振り回されている様子に、潔癖堅物男と呼ばれていたのが遠い昔のような気がすると揶揄すれば、ハロルドは顔を赤らめて言い返す。
「おまえに言われたくないっ! とにかく、相応しい男がどこにもいないと思うなら、自分がそうなればいいだろうがっ」
「どうすればなれると思う? どんな男が相応しいと思う?」
「本人に聞けっ! ついでに、教育もしてもらえっ! おまえの場合、やることなすことすべてが、的外れになる。調教してもらうのが一番だ」
「なるほど……」
頼りになる友人のアドバイスに、ジェフリーはふと気になって尋ねてみた。
「おまえも調教されたのか?」
「…………」
◇◆◇
ハロルドに執務室から叩き出されたジェフリーは、千鳥足一歩手前でふらつきながら、馬車に乗り込んだ。
久方ぶりに、友人たちが集まる紳士クラブ『ブランカ』へ向かうことにした。
葉巻でも吸って、今流行の文学や遊びの情報を交換し、チェスやらくだらぬ賭け事やらをして気を紛らわすことで、少しは落ち着けるだろう。
ブリギッドときちんと話をしなければいけないとわかっているが、落ち着いて振舞える自信がない。
獣にはなりたくないが、無理やり離婚できないようにしてしまいそうで、怖い。
とにかく冷静になるための時間が欲しいと思って向かった『ブランカ』の前で馬車を降りたジェフリーは、入り口に繋がれた二頭の馬を見て首を傾げた。
二頭のうち一頭は、馬車を降りた瞬間からこちらをじっと見ている。
見覚えのある馬だ。
「アルウィン……?」
ガッという音と共に前脚を石畳に打ち付けたアルウィンは、頭を高く掲げ、威嚇するようにジェフリーを睨みつけた。
通訳すると「ああん? 貴様ごときが、軽々しく俺様の名を呼び捨てにするな!」と言っているのだろう。
「あ! ジェフリーさま!」
どうしてアルウィンがここにいるのだろうと思っていると、もう一頭の馬の陰からひょこっとビヴァリーが顔を出した。
「ビヴァリー?」
マクファーソン侯爵らが捕らえられてから、ビヴァリーは離宮ではなくグラーフ侯爵家のタウンハウスで暮らしている。
時折、ブリギッドの乗馬に付き合うために離宮を訪れるほかは、騎乗の依頼を受けてあちこちの競馬場へ出かけ、とても忙しいと聞いていた。
「久しぶりに、ブリギッドさまと乗馬を楽しもうと思って離宮を訪れたら、ジェフリーさまが『ブランカ』のところへ行っているか確かめたいというので、ご案内したんです」
にっこり笑うビヴァリーは、ブリギッドが以前から『ブランカ』のことを知りたがっていたので、ハロルドから場所を聞いていたし、ちょうどいいと思ったのだと言う。
「ブリギッドが……?」
「女性は入れないかもしれないと思ったんですけれど、ブリギッドさまだから大丈夫かなと思って」
紳士クラブは、紳士のものだ。
通常ならば、女性は入れない。
しかし、さすがに王子妃を追い返すことはできないだろう。
「ブリギッドは、中に……?」
恐る恐る尋ねると、ビヴァリーはそうだと頷く。
「ついさっき入ったばかりです」
慌ててドアを開けて中へ飛び込んだジェフリーは、奥の部屋で男性たちに囲まれて葉巻を試そうとしているブリギッドを目撃した。
ストロベリーブロンドの髪も垂らしたままで、王子妃らしくもない飾り気のない乗馬服という恰好のブリギッドは、退廃的な雰囲気との落差で一層無垢に見える。
「ブリギッドっ!」
周りを取り囲む男どもを押し退けて、その手から葉巻を取り上げ、横にいた男の開いた口に突っ込む。
「こんなところに来るべきじゃない。帰るんだっ!」
「嫌ですっ!」
腕を掴んで引っ張り上げ、そのまま引き摺って行こうとすると抵抗される。
あまりに暴れるので、仕方なく担ぐようにして抱き上げたが、生きた魚のように暴れまくるので、危うく取り落としそうになり、外へ出たところでつい叱ってしまった。
「ここは、子供が来るところじゃないっ!」
「私は、子供ではありませんっ!」
悲鳴のような声で言い返され、ジェフリーは己の失言を悟った。
「あ……いや、その……」
「私は、きちんと話ができるくらいには……大人です。いつも殿下が私に説明してくださらないのは、子供だと思っていたからなんですね」
震える唇でそう言ったブリギッドのグレイッシュグリーンの瞳が潤んでいるのを見て、ジェフリーは大いにうろたえた。
「ブ、ブリギッド? そうじゃない。子供だとは思っていないし、怒っているわけではない。男性ばかりのところにいるのは危ないと心配だっただけで……」
「離婚する妻がどこで何をしていようと、かまわないのでは?」
「いや、でもまだ離婚していな……」
「離婚すると仰ったでしょうっ!? 冗談で済まされるとでもっ!?」
「そ、そうじゃない。でも、ブリギッドがそうしたいんじゃないかと思って……」
ジェフリーは、我ながら情けない言い訳だと思った。
ブリギッドに本当のところを確かめるのさえ怖くて、逃げ出したのだ。
「私は、馬から転げ落ちそうになった殿下を見て、ひと目惚れしたと言ったはずですっ! それなのに、あんな本当か嘘かもわからない新聞記事くらいで……」
ジェフリーは何もかも自分が悪いと思った。
自分のちっぽけな自尊心を守るために、ブリギッドを傷つけてしまったことは、万死に値する。
妖精のように可愛らしくて美しい妻を泣かせるなんて、極悪人以外の何ものでもない。
泣きそうな顔をしているブリギッドも可愛いし、泣いている顔もきっと可愛いし、あらゆる姿を見てみたいという欲求は果てしなくあるが、加虐趣味はないのでできれば笑ってくれているほうがいい。
今すぐひれ伏し、体も自尊心もなげうって、鞭打たれてでもブリギッドに許しを乞いたいが、一応ブレントリー王国の第三王子の身としては、山のような人だかりの中でやるのは憚られる。
「あの、ジェフリーさま。アルウィンは私が連れて帰りますから、馬車でお戻りになっては?」
「すまない、ビヴァリー」
早くここから逃げ出した方がいいと囁くビヴァリーの厚意に甘えることにして、ブリギッドを抱えたまま馬車に乗り込んだ。
酔いはすっかり醒め、またしても失態を犯した自分を殴り殺したい気持ちでいっぱいだった。
「私……婚約など、していません」
馬車が走り出してしばらく経ってから、抱えていたブリギッドがぽつりと呟いた。
「ハロルドから聞いた。あの記事は、ダドリー・ヘザートンがわざと書かせたと……その、申し訳ない。今朝は、ブリギッドの気持ちがほかの男にあるのではないかと動揺して、心にもないことを言ってしまった。許してほしい」
「離婚は……」
濡れた睫毛を瞬かせて見上げるブリギッドに、理性の限界を試されていると思いながら、何とか獣化しないよう王子様らしく微笑む。
「しないし……したくない。妖精を捕まえるのは、簡単なことではないからね。でも……今回のように、私はいつも的外れなことをしがちだ。だから、どうすればいいのか、ブリギッドに教えてほしい」
「教えるとは……調教ということでしょうか?」
危険な領域に足を踏み入れている気がしたが、ここであれこれ言って再び泣かれたくないという気持ちが勝り、ジェフリーは頷いた。
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