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嵐のような日々

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 その夜、夕は悪夢にうなされて、携帯のアラームで起きたとき、まったく寝た気がしなかった。
 どんな悪夢だったかは覚えていないが、ザラっとした舌触りの悪さが、胸に残っていた。

「単なる食べすぎだろ」

 脇田の一言に、夕は抗議の意を込めて顔をしかめる。

「おまえ、昼も夜も荒川大佐の食べ残し食ってただろ」

 そういえば、そうだった。
 もともと、悩みを引きずらないタイプである。
 だが、それを維持出来るのか、昨日から疑問に思うようになってはいたが。

「それよりお前、走らなくていいのか?」

 夕が怪訝な顔をすると、脇田は無精ひげの生えている顎を撫でながら説明した。

「いや、俺が四時頃に起きたとき、グランドを走ってるやつがいてさ。珍しいと思って見てたんだけど、その人影、宿泊棟へ戻っていったんだよな」

「げ」

「いやぁ、しっかし早かったぜ。並の男じゃ勝ち目ないな。本当に市ヶ谷エリートか?」

 現場の隊員ならいざ知らず、デスクワークを任務とする者は、概して体が緩むと教育係の自衛官たちは口を揃える。
 女性はなおさらで、しかしかといって鍛えすぎても、逆に着られる服がなくなると、色々と大変な様子である。
 昨夜見た荒川の体は、非常にバランスが良く、それは間違いなく戦うための体だった。
 よほど自己管理に気を使っているのか、それとも……。

「もしかして、抜き打ちで調査に来た国連査察官だったりしてな」

 はは、と笑う脇田に、夕はなぜか同調出来なかった。


 その数時間後。

 誰が、査察官だって?
 夕は今、脇田のたわ言を鼻で笑う気分で一杯だった。

「あー、ちょっと痛いかもよ。ごめんねー」

 ドスの効いた声で、かわいらしい言葉を吐きながら、同期の軍医である山本は、ごつい手で夕の頭をがっちりと押さえ込んだ。

「いでででででっ!」

「暴れないのっ!」

 左側の額に、しっかり焼いた串を刺されるような痛みが襲う。
 涙目になるのは、生理現象上仕方がないだろう。

「イッテェンだよ!!!」

「もう終わったから、そう怒らないの! まったく、なんで朝礼ごときでこんなケガしてんの?」

 呆れた口調で言いながら、ぱっくり切れた傷口を消毒し終えると、ガーゼを当ててテープで止めていく。

 山本は、演習中に骨折して入院していた者を病院から引き取ってから出勤したので、朝礼で起こった事件を見ていなかった。

 そう、事は朝礼で起こった。

 荒川和生大佐は、隊長代理着任の挨拶をするべく、グラウンドの朝礼台に立った。

 北国の朝の風は、冷たく強い。
 着任の辞は、「取りあえず、一、二ヶ月の代理ということですので、行き届かない点もあるかとは思いますがよろしくお願いします」といった、あっけないほどに短くありきたりな話で無事に終了したが、荒川大佐が朝礼台を降りようとしたとき、突風が吹いた。

 マイクスタンドが倒れかかり、それを止めようとした荒川大佐のパンプスがどういう具合か朝礼台を踏み外し、マイクスタンドもろとも落下。

 朝礼台の横に控えていた夕は、反射的に落下する荒川大佐を受け止めて、その上に落ちてきたマイクスタンドをも、自分の額で受け止めたというわけだ。

 現場はかなりの流血の惨事となり、大量の自分の血を見た夕は貧血を起こし、駆けつけた兵士たちによって、医務室に担ぎこまれたのだった。

 一通り説明して、最後に付け加えた。

「……俺のせいじゃないことだけは、確かだ」

「まぁね。でも、兵士の鏡じゃない。上官を守って負傷なんて」

「正しくは、上官のドジのせいで、犬死ってところだ」

「それは言いすぎよ。もしそれがオヤジだったら、あんた助けたの?」

「う……それは」

 夕が言葉に詰まったとき、医務室のドアをノックする音が聞こえた。

「はーい、どうぞ!」

「失礼します……」

 小さな声と共にドアが開き、恐る恐るといった様子で入ってきたのは、荒川大佐、夕の負傷の原因であった。
 山本は飛び上がって敬礼しようとしたが、そのままでいいと言われ、丸椅子に座りなおす。

「あの、傷はどうですか?」

「大したことありません。安静にしていれば、二、三日で傷口も塞がります。傷跡は、ちょっとは残るかもしれませんが、なんせ名誉の負傷ですからね。ハクがつくってもんでしょう」

 にこやかに説明する山本だったが、荒川は夕の潤んだ目を見て、非常に申し訳ないという顔をした。

「私が粗忽なばっかりに……本当に、ごめんなさい。城崎准尉が女の子なら、責任とって結婚するって話にもなるんだろうけど……」

「あら、良かったじゃない!」

 山本にどつかれて、夕はあやうく椅子から転げ落ちるところだった。

「貰ってやってください!」

「そうね。城崎准尉の貰い手が見つからなかったら、そうします」

「まー! ステキ!」

「……どこが」

 ぼそっとつぶやいた夕に近づいた荒川が、耳打ちする。

「今日は、絶対安静ということで、営内待機にします。勤務しなくていいですから」

 その心遣いは、非常にありがたいものだった。だったが、営内待機で心休まるわけがないと思う。
 絶対に、何かが起きて呼び出されるという確信が、夕にはあった。

「お気遣いはありがたいのですが、大丈夫ですから」

「本当に大丈夫?」

「大丈夫ですよ。自分の血を見て貧血起こしただけですから。男はダメですねー、ほんと」

 山本の余計な説明に、荒川の表情はやや明るくなる。

「私もびっくりしました。城崎准尉が真っ青だったから……」

「見た目よりかは、繊細なんですよ」

 がはは、と笑う山本をド突き倒したい気持ちで一杯だった夕は、素早く立ち上がった。

「行きましょう」

「え、もういいの?」

 荒川は、夕ではなく、山本に伺いを立てる。

「大丈夫ですよ。でも、一応鎮痛剤を渡して置こうかな。飲んだら、運転はしないこと! あと、風呂もだめよ」

 山本の寄越した薬袋をひったくるようにして、荒川の先に立って、夕は医務室を出た。

「お世話になりました」

 荒川はバカ丁寧に一礼して、医務室のドアを閉めた。

「ふう。大事にいたらなくって、本当に良かった。いきなり自分のせいで、貴重な兵士を一人殺しちゃったらと思うと……ああ、びっくりした」

「お騒がせして、すみません」

「謝るのはこっちの方よ。勤務中の傷害だから、保険使えると思うわよ」

「面倒ですよ」

「そう? でも……」

 続けて何かを言おうとした荒川は、かすかな振動音に口をつぐみ、ポケットから携帯を取り出した。

「はい、荒川です」

 ハキハキした受け答えから、電話の相手は仕事関係と推測されるが、何故通常の回線にかけてこないのか、夕は少し不思議に思った。
 荒川の受け答えは、ほとんど「はい」か「いいえ」に限られており、その内容はうかがい知ることが出来ない。
 隊長室にたどり着くと同時に電話を切り、荒川は短く吐息をついた。
 その表情は、いつになく暗い。
 そのままドアを開けようとして、ふと思い出したように夕を振り返った。

「購買って、どこにあるの?」

「食堂の手前ですが」

「ええと……ちょっと買い物に行って来るから、お湯を沸かしておいてくれる?」

「はい」

 鍵を受け取って、執務室に入った夕は、そこに広がる惨状に、めまいを覚えた。

 まるで、嵐が過ぎ去った後のように、荒れ果てた部屋。
 書類が散らばり、いつ持ち込んだのかノートパソコンが一台、業務机に陣取っている。
 応接セットには、脱ぎ散らかしたジャージ。
 お湯を沸かせと言った。
 お茶を飲む気なのだろう。

 だがどこで?

 夕は、頭痛を覚え、鎮痛剤を飲もうと決めた。
 薬を飲み、お湯を沸かし、それから……片付ける。
 やるべきことの流れを決めると、動き出す。
 とりあえず、何かを深く考える気力はもうなかった。
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