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番外編

番外編:海鷲の贈り物 8

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「おはようございます、グレース様! ご気分はいかがですか?」

「おはよう……」

 シャッとカーテンが引かれ、眩い朝日に直撃されたグレースは、眠い目を擦りながら起き出した。
 いつになく、ぐっすり眠った感触があり、昨夜は重いドレスを着ていたはずなのに、身体も解れている。
 昨日は、色々と目まぐるしい一日だったが、今日は朝から気分も体調もよい。
 昨夜、とても嬉しい気持ちで眠りについたからだろう。 

 その原因を思い浮かべようとすると、かぁっと頬が熱くなるのを感じ、考えるのは後にしようと思い直した。酔っぱらったあたりから、昨夜の記憶はまったくないが、とても嬉しくて満たされていたことだけは覚えている。

「どこか痛むところや怠さなどはございませんか?」

「大丈夫よ。どこも痛くないわ。それどころか、なんだかとってもすっきりしているわ」

「さすがですわね……」

「え?」

 侍女の呟きを聞き漏らした気がしたが、三人の侍女たちに揃って満面の笑みを向けられる。

「さ、張り切って用意いたしましょう!」

 やる気に満ち溢れている侍女たちに促されるまま、寝間着を脱ぎ捨てると、何故か風呂に入れられた。
 朝から入るなど、今までしたことがないが、疲れ切って汚れを落とす前に寝てしまったからだろう。

 昨夜のアランは、これまでの数々の無礼な態度が嘘のように優しく紳士で、グレースも酔ってしまったものの、皇女らしく振舞えた。

 いつも、窓枠から落ちたり、池に落ちたりしているわけではないし、いつも、やる気のない格好をしているわけではない。

 アランがしばらくカーディナルにいるのならば、挽回することは可能なはずだ。

 大好きな柑橘系の香油で髪を整えて貰い、ひと通り薄い化粧をしてもらい、やる気に満ち溢れていざ着替えようとしたグレースは、用意されていた衣装を見て首を傾げた。

 何故かドレスではなく、滅多に着ない乗馬用の裾回りがあまり広がらないワンピースが用意されている。
 しかも、まさに乗馬用の長靴もある。

「……?」

「あら、まぁ……うふふ、さすがはリヴィエールの海賊ですわね。何とも際どいところに……」

 コルセットを締めていた侍女の含み笑いに気付き、首を傾げながら視線を落としたグレースは、無理やり盛り上げられた胸元に見慣れぬものを発見した。

 なけなしの谷間が出来ている右の乳房の内側に、小さな赤い痣が出来ている。
 襟が開いたドレスを着たら、見えるか見えないかという位置だ。

「あら。虫にでも刺されたのかしら……?」

 目立つ大きさではないが、ドレスを着ても見えそうだったら、白粉で隠した方がいいかもしれない。
 痒くはないし、腫れてもいないから薬を塗る必要はないだろうと言うと、侍女は信じられないものを見るような目で、グレースを見つめた。

「……あの、グレース様……」

「何かしら? 用意してくれた服は襟が詰まっているし、脱ぐ予定などないし、大丈夫だと思うけれど白粉をした方がいいかしら?」

「いえ、そんなことをすれば逆効果に……あの、昨夜はアラン様がエスコートされていたのですよね?」

「ええ。でも、あまり覚えていないの。初めて薄めずにお酒をいただいたせいで、酔ってしまったのだと思うわ。ダンスをした記憶はあるのだけれど、そこから先はさっぱり……後で、お詫びしなくては」

 グレースにとっては、とても嬉しい一夜だったが、アランには迷惑をかけてしまったかもしれない。
 酔って暴れるような性癖はないはずだと思うが、何にせよ、エスコートのお礼もしないまま熟睡してしまったことについては、詫びなくては。

「…………」

 しん、とその場が静まり返り、グレースは目を瞬く。

「どうかしたの?」

「いえ……なかなか手強いと思っただけです」
「骨折り損のくたびれもうけ、とかいう異国の言葉を思い出しました」
「ヤワな男性の場合、心もあちらも折れてし……コホン」

「とにかく、支度を急ぎましょう。朝食後、すぐに出発するとのことでしたから」

「え? どこへ?」

 出かける予定があるとは聞いていないし、そんな予定を立てた覚えもないと戸惑うグレースをよそに、侍女たちはテキパキと動き、グレースを頭のてっぺんから足の爪先まで、きちんと整えた。

 すっかり支度が終わった頃、「皇帝陛下が朝食をご一緒したいとお呼びです」などという珍しい呼び出しを受け、ますます困惑する。

 侍女たちは、とりあえず断ることなどできないからと、呼ばれるままに部屋を出ようとするグレースに、励ましなのか懇願なのかよくわからないことを囁いた。

「グレース様……グレース様が黙って微笑むだけで、アラン様は天にも昇るような気持ちになるとは思いますが、たまには、お優しくして差し上げてください。お願いいたします」
「ええ。ぜひお願いいたしますわ。あまりにも不憫で……」
「私からも、ぜひ。長い間、声をかけることもできず、庭からこっそり眺めていらっしゃったんですもの」

「え?」

 

 侍女たちの言葉の意味に首を捻りつつ、呼び出しに来た侍従の後を歩いていたグレースは、降り注ぐ陽光の眩しさで、案内された先が食堂ではなく温室であることに気付いた。

 カーディナルより温暖な地域で生息している植物を集めた温室には、爽やかな柑橘系の香りが漂っていて、木々の瑞々しい緑の葉の合間から、赤や黄、橙といった鮮やかな色の果実が覗いている。
 温室の一角には、大きな鳥籠があり、鮮やかな色とりどりの羽を持つ鳥たちが美しい歌声を披露していて、自然と笑みが浮かぶ。

 生い茂る植物の合間を縫って進んだ先、小さな噴水の傍にはテーブルが用意されており、既に父ともう一人、こちらに背を向けている男性の姿があった。 

「おはようございます、陛下。お待たせしてしまい、申し訳ありません」

「いや、かまわぬ。うむ……機嫌は良さそうだな?」

「……」

 目が合うなり、まずは皇帝である父に挨拶すれば、背を向けていた男性が立ち上がって振り返った。
 朝からずっと、脳裏をちらついて離れない人物が、そこにいた。

「おはようございます、グレース皇女」

 穏やかな笑みを浮かべたアランが、グレースのために椅子を引いてくれる仕草に、胸がぎゅっと引き絞られるような痛みで息苦しさを覚え、よろよろと腰を下ろす。

「今日はこの後すぐに、我々はラウィックに新造艦を見に行くのだが、おまえも一緒に行きたいだろうと思ってな。これまでは、むさくるしいと言って騎士や海軍の者たちを殊更に避けていたが、今なら興味があるだろう?」

「え、ええ、はい……」

 グレースは、父の話を聞いてはいたが、ほとんど右耳から左耳へと抜けていく。
 意識が全部、朝日を浴びて爽やかな笑みを浮かべているアランに集中しているからだ。

「これからは、言うなれば海賊の一員になるのだから、船や船乗りのことを知っておくに越したことはない。手綱ならぬ艫綱をしっかりと括りつける術も身に付けなければならん」

「ええ……」

 アランは、グレースのために何とお茶まで入れてくれている。
 グレースが感激しながらじっとその横顔を見つめていると、アランは苦笑いした。

「まだ半分眠っているようですね? グレース皇女」 

 アランの言う通り、これは夢かもしれないと思っていたグレースは、お茶をひと口啜ったアランが顔をしかめ、「東方産のお茶は身体にいいとわかっているんですが……」と言い訳しながら、角砂糖を三つも放り込むのを見て、我に返った。

 夢の中のアランは、非の打ちどころがないくらいに格好いいはずだ。
 苦いものが苦手だなんて、子供のようなところはない。

 これが現実だと気付いたグレースは、昨夜のお礼とお詫びを言わなくてはいけないと、背筋を伸ばした。

「おはようございます、アラン様。昨夜は色々とお世話になりました。あのように、はしたない姿をみせてしまったのは初めてでしたが、とても……その、とても、幸せな気分でした」 

 自分の失態を認め、更には感じたままを素直に口にするのは恥ずかしかったが、礼儀知らずにはなりたくない。
 顔が赤らむのを感じながらも、なんとか言い切った。

「ごふっ!? ……ぐ、グレース皇女!?」

「でも、その……私は堪能いたしましたが、ほとんど何もしないに等しい状況でしたので、アラン様にはご満足いただけなかったのではないかと……」 

 至らない点について、今後改めるためにも率直な意見と感想を聞いておきたかった。
 グレースが「どうぞ遠慮なく仰ってください」と言うと、アランは一層むせ返る。

 やがて、どうにか呼吸を整えたアランは、ようやく口を開いたものの、しどろもどろでさっぱり要領を得ない。

「何かされてたら、とてもじゃないが理性がもたな……いや、そうじゃなく、十分満足はし……本音を言えばお預けは苦……しかし、順番を狂わせるのも……」

 よほど言い難いのかとグレースが諦めかけたとき、額の生え際にくっつくのではないかと思うほど思い切り片眉を引き上げた父が、アランをひと睨みして黙らせた。

「つまりグレースは、アランのおかげで満たされたものの、不慣れなせいで、アランを十分楽しませることができなかったのではないかと、不安に思っている。そういうことだな?」

 つたない自分の説明を、父が的確に訳してくれ、グレースは大きく頷く。

「はい、そうです。私には経験がほとんどありませんので……」

「おまえはまだ、十六だ。百戦錬磨である方が、問題だ」

 父の寛大な言葉に感謝しつつも、その言葉に甘えてはいけないと、グレースは昨夜の反省を踏まえ、新たな決意を述べた。

「ありがとうございます、陛下。ですが、不甲斐ないままではカーディナルの皇女として恥ずかしいですわ。どんな状況にも対処できるよう、これからしっかり勉強いたします」

「どんな状況……グレース。無理はいかん」

 なぜか、父がやや慌てた様子で首を振るのに、グレースは微笑み返す。

「ですが、何事も経験ですので。とりあえず、経験してみないことには好きかどうかもわかりませんもの」

「……ううむ……一理ある。一理あるのだが、…………アラン?」

 じろり、とカーディナル皇帝の一瞥を受けたアランは、引きつった笑みを浮かべて即答した。

「ご安心ください。特殊な性癖はありません」

「今はなくとも、素質はありそうだ」

「……」

「初心なのをいいことに、あれこれ仕込もうなどと、邪なことを考えるなよ」

 アランは、さまよわせていた視線をグレースへ向けると、なぜかとても無念そうに呟いた。

「……心しておきます」
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