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波間 2

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「おう、ここにいたのか。メル」

 白い砂浜に立ち、波の音を聞きながらじっと朝焼けが消えた水平線を眺めていたメルリーナは、突然背後からドスの効いた声で呼びかけられて飛び上がった。

 振り返った先には、仏頂面の頬に大きな傷のある大男がいる。

「お、おはっ、おはよう、ございます。ハルシュさん」

 シャツにトラウザーズを着ただけで、剣も銃も持っていないけれど、どう見ても悪漢。船に乗っていたら海賊だ。

 黒々とした髪は短いながらもゴワゴワしており、ぎょろりとした瞳も黒。
 頬の傷ははっきり見えるが、顎回りと鼻の下には髭が生えていて、表情を隠している。
 首は、メルリーナの腕で抱えられるかどうか不安なほど太く、腕もマストのごとく太くて逞しい。
 身体の厚みは、ゆうにメルリーナの三倍くらいはありそうだ。
 
 何度見ても見慣れない威圧感たっぷりの風貌に、ついオドオドしてしまうメルリーナを見て、その横にいた小柄なハルシュの妻ザイラがその脇腹を肘で突く。

「まった、あんたは! タダでさえ強面なんだから、ちっとはニコッと笑いなよ!」

「お、おう……」

 しゅんと項垂れるハルシュに、メルリーナは慌てて怖がっているわけではないと言い訳した。

「あ、あの、び、びっくりしただけですからっ!」

「びっくりさせる方が悪いのさ! あー、そろそろ、偵察に出た船が戻るんじゃないかと思うんだけどねぇ……」

 ザイラは、メルリーナの横に立って眉の上に手をかざして水平線を見遣り、心配するなと微笑んだ。
 
 ヴァンガード号から海へ落ちたものの、九死に一生を得たメルリーナが辿り着いたのは、アンテメール海がその東側で一番狭くなる場所に位置する、小さな漁村カエルムだった。

 岸が見えたところで気を失ったメルリーナは、カエルムの漁師たちによって救出された。
 疲れ切ってはいたものの、打ち身のほか怪我はなく、その日の夕方にはすっきりと目覚めたのだが、目を開けた途端ハルシュの強面が視界を埋め尽くしていたため、悲鳴を上げてしまった。

 物騒なハルシュの顔は、パスラで一度見ただけでもはっきりしっかり覚えていて、海賊村に辿り着いてしまったと青くなったが、悲鳴を聞きつけたザイラがすぐに来て、ハルシュの後頭部を引っぱたいてメルリーナから引き剥がし、ここが半分は漁師、半分は海賊まがいのことをする者たちがひっそりと暮らす村だと教えてくれた。
 村の入り江には、近海の漁に使う小さなボート程度しかないが、普段帆船は村のある入り江から少し離れた岩場にある海の洞に隠してあるらしい。

 遠くまで出かけて海賊行為をすることはないが、年に何度か、村で加工した魚の干物や酢漬け、女性たちが貝殻で作った装飾品などを自由都市パスラの商人へ持ち込んだ後、ちょっとだけ甘い蜜を吸うこともあるとのことだった。
 
 つまり、メルリーナが迷子になって、パスラの港で途方に暮れているのを見て声をかけたハルシュは、ちょうど村の商品を売り込みに来ていたのだ。

 あの時、メルリーナは見知らぬ土地で置いてけぼりを食らった恐怖のあまり、確かめもせずハルシュを悪者扱いしてしまったのだが、純粋に心配してくれていたのだと知って、本当に悪いことをしたと思った。
 偶然とは言えこうして助けてくれたのだから、悪人面に反し、間違いなく善人だ。

「ただ、戻るにゃ、戻るだろうが用を足して来られるかどうかはわからん。まだ、派手にドンパチやってはいないが、リヴィエールに近づくことすら出来ないかもしれない。リヴィエールの軍艦は、容赦なく海賊を根絶やしにしているって聞くしな……」

 ハルシュが色んな伝手を使って集めた情報によれば、カーディナルが動くという噂が流れると同時に、リヴィエールがリーフラント近海へ軍艦を進めているらしい。
 ウィスバーデンも、一歩遅れて、陸の上でリーフラントとの国境に軍を進め、守りを固めるというより、攻め入る隙を伺っているようだ。
 エナレスの皇帝が危篤だという話もあり、皇帝崩御ともなると派閥争いの激しいエナレスでは、他国に戦を仕掛けている場合ではなくなるほど揉めるのは必須。逆に攻め入る好機と見做している国は、カーディナルやウィスバーデンだけではないだろう。
 今のアンテメール海とエナレス周辺は、まさに一触即発の状態だった。

「まぁ、無理に動かないのが得策だ。取り敢えず、無事でいることがわかれば、あっちも安心だろう」

「はい、ありがとうございます」

 ハルシュたちは、メルリーナの首飾りにくっ付いていた指輪とラザールの名の刻まれた羅針盤を見て、リヴィエール公爵家に知らせた方がいいと判断し、即座に偵察を兼ねてリヴィエールへ船を出してくれたらしかった。
 それから十日があまり過ぎているが、まだ何の音沙汰もない。
 そもそも、リヴィエールは、表向き海賊を容認していないし、カエルムのあるアンカーシュ王国とは国交もない。大丈夫なのか、後からアンカーシュ国王に咎められるのではないかと尋ねれば、リヴィエール相手に恩を売った方が余程徳になる。ちゃんと計算ずくだと、ザイラは苦笑した。

「この辺りは、一応アンカーシュ王国ってことにはなっているけれど、しょっちゅう王様の首はすげ替えられるし、ちゃんと治めていると言えるのは王様のいる大きな町くらいのものだ。私らのいるような、隅っこの小さな村なんて忘れられている存在さ」

 アンカーシュはリヴィエールよりも広い領土を保有しているが、発展しているのは王のいる中心部の都だけで、荒野の中や海岸にぽつぽつと点在する小さな漁村や農村を支配しているとはとても言い難い。
 横暴な君主に支配されるよりはマシではあるが、安定しない政情の中、小さな村が自力で発展するには限界があり、海賊業を辞めてしまったら、村はたちまち駄目になるだろうとザイラは溜息を吐いた。

「せめて、パスラの商人に足元見られた取引をせずに稼げるようになれば、いいんだけどな……」

 リヴィエールやリーフラントで品物を売りさばけるようになれば、もう少し儲けられるだろうとハルシュも苦い表情になる。

 大きな町になればなるほど、商人を介さずに品物を売買するのは難しくなる。
 リヴィエールにしろリーフラントにしろ、多くの商船が出入りしているが、一介の漁村の船が直接品物を売り込むというのは聞いたことがない。
 国同士の軋轢を生まぬためにも、各国の、または自由都市パスラの商人を介して取引するのが一般的だが、そうすると少なくない上前をハネられるのだという。

 特に、パスラの商人はがめついのだと毒づいたハルシュの顔があまりにも恐ろしくてメルリーナがビクリとすると、それを見たザイラが「またそんな顔をして!」と叱りつけ、にっこり笑った。

「ま、とにかく今日は漁も休みだし、のんびりするといいよ」

 カエルムでは、七日に一度、みんな一時に漁を休み、家族とのんびり過ごす日があるとのことで、今日は何もしなくていいと言われたメルリーナは、戸惑いながらも頷いた。

 助けてもらった翌日から、恩返しをすべくあれこれ漁師の妻の仕事を手伝っていたものの、のんびりしていいほど役に立っていたとは思えない。
 村から少し離れたもう少し大きな町の市場へ売りに行くために魚を仕分け、網を干したり繕ったり、早朝から仕事をして空腹で戻って来る漁師たちに振舞う料理を作ったりと、どれも経験したことのないことばかり。みんな気さくで親切な人ばかりで、器用とは言えないメルリーナにも丁寧に教えてくれたけれど、とても上手く出来たとは言えない有様だった。

 ハルシュの妻であるザイラには、二人の家に滞在させてもらっていることもあり、文字通り朝から晩まで一日中世話になっていた。
 
 まだ結婚して一年だという二人は、甘い雰囲気はないものの、とても仲が良い。
 ポンポンと物を言うザイラの尻にハルシュが敷かれているようだが、ハルシュはそんなことは一向に気にしていない。
 コマネズミのように働き者のザイラを溺愛していて、何を言われても嬉しそうに頷き、叱られると子犬のごとくしゅんとする。

 そのわかりやすさが、どことなくディオンを思わせ、メルリーナは二人の遣り取りを見るたびに、早くリヴィエールに帰りたいと思ってしまうのだった。

「何だったら、ウィスバーデンにも連絡するか?」

 ハルシュは、黙り込んだメルリーナが不安がっていると思ったのか、パスラでメルリーナを探しに来たゲイリーたちは、ウィスバーデンのヴァンガード号に乗っているのだろうと尋ねた。

「確かに私はヴァンガード号に乗っていたんですけれど、一年だけという約束なので……」

「こっからだと、海流の関係もあって、どっちかというとウィスバーデンの方が行きやすい。リーフラントとは逆だから目立ちはしないだろう」

 メルリーナが望めば、船が戻り次第送り届けてやろうと言うハルシュに、首を横に振った。

「でも、それでも、危ないと思います。だから……あの、ご迷惑だとは思うんですが、もう少しここに居させてもらえませんか?」

 もう二度と、自分の軽率な行動のせいで誰かに迷惑を掛けたくなかった。
 ヴァンガード号の乗組員たちのこと、とりわけ心配してくれているに違いない、ブラッドフォード、エメリヒ、そしてゲイリーのことを思いながらも、ハルシュたちをこれ以上危険な目に遭わせたくなかった。
 もしも、自分のせいでヴァンガード号が襲われたのだとすれば、今度はハルシュたちの船が襲われてしまうかもしれない。

「迷惑なんてことはないさ! 大歓迎だよ! メルがいてくれると、私も休めるしね」

 ザイラは、少し膨らんでいる腹部を愛おしそうに撫で、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。 

「この子が生まれるまで居てくれて、全然かまわないよ!」

 子供が生まれるまでは、まだ半年程度かかるらしいが、ザイラもハルシュも待ちきれないようだ。
 幸せそうな夫婦を見て、自分とディオンもこんな風になれるだろうかとメルリーナは思った。

 母ジゼルと父ギュスターヴのように、すれ違い、顔を背けるのではなく、寄り添って、ちゃんと向き合っていけるだろうか。
 片方だけの努力では、どうにもならないことはきっとたくさんある。
 海の中で聞いた母の言葉は、偽りのないものかもしれないが、メルリーナにはやっぱり理解しきれなかった。

 胸の中で想いを噛み締めるより、傍にいて、触れ合って、ちゃんとお互いが見える距離がいい。
 何よりも、チェスが出来る距離がいい。

「おっ!……もしかして、噂をすれば……」

 デレデレとにやけてザイラの腹を撫でていたハルシュが、何かを聞きつけた犬のごとく、振り返って水平線を指さした。
 メルリーナには全然見えないが、ザイラにも何かが見えるらしい。

「そうだね! ありゃ、商船にしちゃゴツイね」

 やや暫くして、ようやくメルリーナの視界にもひとつの船影が見えて来た。

 ぐんぐん近づいてくる堂々とリヴィエールの旗を掲げた船は、通常の軍艦よりもひと回り小さいものだったが、もちろん単なる商船ではない。

「おいおい、砲門開いてるとか冗談だろ」

 まさかの艦砲射撃でもする気かと目を剥くハルシュに、ザイラは覚悟が必要だと脅す。

「ああ、場合によっちゃ、そうする気だろう。でも……ボートがこっちへ来るね」

 ザイラの言葉を聞いてからしばらくして、メルリーナは波間を進んでくるボートを見つけた。

「……まさか、だろ?」

 ボートに乗っている人物を見たハルシュが呆然とした表情で呟く。

「そのまさか、じゃないかねぇ」

 ザイラは、わらわらと浜辺に集まって来た村人たちに「リヴィエールの大御所のお出ましだ」と叫んだ。

 やがてボートが砂浜に乗り上げ、そこから下り立った人物は、とても寝台を離れられずにいた病人とは思えぬほど、しっかりとした足取りで呆然として立ち尽くすメルリーナの目の前までやって来るなり、にやりと笑った。

「迎えに来たぞ、メルリーナ。ディオンのようなヒヨッコには、颯爽と助けに現れるなんていう役は、まだまだ早いからな」

 思わず笑ってしまったメルリーナは、かつてはぴったりとその逞しい身体に張り付いていた軍服も緩く、大きく見えるようになってしまった身体に抱きついた。

「ら、ラザール、さまっ……」

 すっかり痩せてしまってはいるものの、その広い胸はディオンと同じくらい、メルリーナをしっかりと受け止めてくれる。

 泣いてはいけないと思いながらも溢れる涙でその胸を濡らしていると、ラザールはくつくつと笑う。

「こんな熱い抱擁を見たら、ディオンが歯噛みしてのたうち回るに違いない」

「ふふっ……」

 笑いながら涙を拭ったメルリーナは顔を上げ、遠巻きにしていた村人たちの中にいたハルシュとザイラを手招きした。

「ハルシュさんと、ザイラさんです。リヴィエールに知らせるために船を出してくれて、村でずっとお世話になっていました」

「ラザール・リヴィエールだ。知らせをくれたのは、貴殿たちか。途中の港で受け取った。大事な孫娘の命を――未来の公爵夫人の命を救ってくれたことに、礼を言う」

「なに、救ったというほどのことでもない。勝手に流れ着いたのを拾っただけだ」

 照れているのか謙遜するハルシュに、ラザールが声を上げて笑う。

「拾ってみたらリヴィエールのお宝だったというわけか。幸運なヤツだ」

「まぁな。ウィスバーデンに知らせるか迷ったんだが、あんたの名前の入った羅針盤と大層な指輪を持っていたから、リヴィエールにした。大金はいらねぇが、それなりの礼をくれるってんなら、貰うのもやぶさかではない」

「引退したジジイに出来ることは限られているが……何が望みだ?」

 ラザールがすっとその目を細め、メルリーナはその場の空気が一瞬で引き締まるのを感じた。

「何って……」

 具体的に望みを言えと求められたハルシュは、ラザールから滲み出る威圧感に圧倒されたのか、口ごもる。
 元が口下手な亭主に代わり、ザイラが口を開いた。

「リヴィエールの港に出入りして、そこで商売をしたいんだ。見ての通り、ここは寂れた漁村でね。カツカツの生活さ。リヴィエールのようになりたいなんて贅沢は言わないが、せめて生まれてくる子供には、十分な食事を与えられる暮らしがしたい」

「……なるほどな。売り物になるようなものはあるのか?」

「魚と貝殻細工」

「ふむ……それだけでは難しいかもしれないが……海賊業もしているのだろう?」

 ハルシュとザイラは顔を見合わせ、ラザール相手に誤魔化しても無駄だと悟ったのだろう。渋々頷いた。

「このあたりの海域は危険な箇所が多く、商船も敬遠しがちだ。物を売るのではない、別の仕事が出来るかもしれんな。今のゴタゴタが治まったら、リヴィエールまで来い。この老いぼれがいなくとも、未来の公爵夫人がちゃんと取り次いでくれるだろう」

 自分のことかと驚いたメルリーナが振り仰げば、ラザールは太い眉を片方だけ引き上げ、いかにも厳めしい顔をしてみせた。

「借りも恩も、出来る限り自分で返すものだぞ、メルリーナ。何にせよ、貰いっぱなしはいかん」

「は、はい……」

 ラザールは、あまり長居をしては逆に村に迷惑が掛かるだろうと、メルリーナが大事なものはすべて身に着けているのを確かめると、さっさとボートに乗るよう命じた。

「リヴィエール人は、海で受けた恩は一生忘れない。心から、感謝している。この村に、幸あらんことを」

 改めてハルシュらカエルムの村人たちに礼を述べたラザールは、ボートを出すように命じた。

「あ、あのっ! あり、ありがとうございましたっ! ハルシュさんっ! ザイラさんっ!」

 慌てて手を振るメルリーナに、ハルシュたち村人が手を振り返す。
 あっという間に遠ざかる浜辺に、ほんの十日あまりしかいなかったのが嘘のように寂しさが湧き起こる。

「メルリーナ。楽しかったか?」

 漁村での生活は、何もかもが目新しくて楽しかったと頷きかけたメルリーナは、難しい顔をしているラザールに気付いてハッとした。

「は、……い、いえっ……ご、ごめんなさい……」

 ゲイリーやブラッドフォードの言いつけを守らず、無謀な真似をして海に落ち、病気で寝込んでいたラザールにわざわざ迎えに来てもらうなんて、とんでもない。
 とても、楽しいなんて言える身ではない。
 
「ごめんなさい、ラザール様……」

 じわりと滲む涙を目を瞬いて払いながら謝れば、ラザールはふっと息を吐く。

「うむ。二度と船長の命令に逆らってはいかん」

「はい」

「船から落ちて助かるのは、万に一つの奇跡のようなものだ。誰が助けに来た?」

「え?」

 ラザールの問いに違和感を覚えて顔を上げたメルリーナに、ラザールは優しい笑みを見せた。

「アンテメールには、マクシムとジゼルがいる」

 あれは夢ではなかったのかと驚く耳に、覚えのある鋭い鳴き声を聞いた。

 空を見上げれば、尾の白い鷲が悠々と旋回している。

「ふむ。リヴィエールの守り神にも気に入られたようだな」

 一体どういうことなのかわからない、と首を傾げるメルリーナに、ラザールはにやりと笑った。

「メルリーナ。せっかく散歩に出たからには、もう少し足を延ばしたい。付き合うか?」

 足を延ばしてどこへ行こうというのか不明だが、メルリーナはもちろんだと頷いた。

「マクシムへの土産話を仕入れんとな」

 そう言うラザールは、実に嬉しそうだった。
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