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荒波

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「おはよう」

 気になることがありすぎて眠れないかもと思っていたのが嘘のように、熟睡してしまったメルリーナは、船上にいるときと同じく朝早くに目が覚めた。
 しばらく寝台の上でゴロゴロしていたが二度寝は出来そうにないと諦めて、朝焼けが止み、晴れた空が薄い水色を帯び始めた頃に、寝台を出た。
 手早く顔を洗って髪を束ね、清潔な服のうち、ツギハギの少ない比較的マシなものを着込む。
 実家に顔を出すのに着飾る必要があるとは思えなかったけれど、礼儀としてあまりに小汚い格好で訪れるのは気が引けた。
 履き慣らしたブーツに足を通し、護身のためというよりも、お守り代わりのマクシムの短剣を腰にぶら下げて、港に面した比較的小さな宿の階下にある食堂へ下りると、忙しく立ち働く顔見知りの給仕係にぶっきらぼうではあるが、挨拶された。

「おう、はよ。メル」
「おはようございます」

 夜明け前に海へ出た漁師たちが戻って来るのを見計らって、店は既に開いており、厨房からはいい匂いが漂っている。
 ヴァンガード号の乗組員たちは、昨夜はさんざん羽目を外したらしく、誰もまだ起き出していない。
 ほっとする反面、ちょっと寂しいと思ったメルリーナは、いきなり背後から声を掛けられて飛び上がった。

「おはよう、メル」

 驚きながら振り返れば、きちんと軍服を着込み、朝から爽やかな笑みを浮かべたゲイリーだった。

「お、おはよう、ございます……ゲイリーさ……げ、ゲイリー」

 緑の瞳に、呼び捨てにしろと有無を言わせぬものを見て、小さく呟いた。

「ん? 何て言ったのかな?」

 絶対に聞こえていたに違いないのに、わざと聞き返すゲイリーに、メルリーナはむっとした。

「んー、メルは朝から可愛いね」

 にっこり笑ってすかさず屈みこんで来たので、素早く身を引けば、眉尻を下げてしゅんとした表情になる。

「そんなにあからさまに避けられると傷つくんだけど」

「さ、避けたわけじゃ……」

「昨夜、一緒に寝てあげられなかったことを怒っているのかな?」

 ゲイリーの背後で、給仕係が驚きに目を見開いているのを見て、メルリーナは慌てた。
 この店には、ディオンと何度か来たことがあるし、マクシムも常連だった。
 メルリーナの正体など、バレバレだ。

「そ、そんなこと、ないですっ!」

 思い切り否定したのは、誤魔化すためではない。
 昨夜、ゲイリーはメルリーナが望むなら一緒に寝ると言ったけれど、もちろん丁重にお断りした。
 もちろん、部屋も別々だった。

「うわ。そんなに力いっぱい否定しなくても……」

「と、とにかく、あ、朝からするような、話じゃないと思います」

「昨夜のことを朝話さずに、いつ話すんだい? 恋人同士は一夜を共に明かした後、目が覚めたら再び昨夜の余韻を楽しむものだよ」

 昨夜の余韻も何も、一夜を共に明かしてなどいない、とメルリーナが羞恥と混乱で涙目になって睨むと、ゲイリーはうっとりしたように微笑む。

「メル。そんな顔したら食べちゃうよって、言ったのに」

「……っ!」

 ゲイリーは、いきなり手を伸ばして後退りしかけたメルリーナを軽々と抱き上げると、店を出て通りに並べられたテーブルへと運び出し、大口を開けてパンに齧りつこうとしていたブラッドフォードの目の前の席に下ろした。

「おう。早えぇな、メル」

「僕との一夜を夢見て、胸がドキドキして眠れなかったんだよね? メル」

 驚き過ぎて顔を強張らせたメルリーナは、隣に腰を下ろしたゲイリーに同意を求められたものの、違うときっぱり首を横に振った。

「いいえっ」

「ぶっ……」

 ブラッドフォードは、何故かパンを喉に詰まらせかけたらしく、咳き込みながら朝からワインをグビグビと飲んでいる。

「メルは、何でそんなにツレないのかなぁ……少しもドキドキしない?」

 テーブルに肘を付いてメルリーナを見つめながら、ブラッドフォードのワインを一口奪ったゲイリーは、大げさに嘆いてみせる。

「ド、ドキドキは、します。でも、私以外のひとも、ドキドキすると思います」

 ゲイリーの思わせぶりな仕草や行動は、メルリーナの鼓動を速めたり、恥ずかしさに身体を熱くさせたりするけれど、自分だけがそうだとは思わなかったし、自分だけにそうしているのだとも思わなかった。
 ジョージアナのためのお芝居が、もしかしたらお芝居じゃないのかも、ということはチラリと頭の片隅を過ったけれど、ゲイリーに対して特別な思いを抱く以前の問題で、戸惑いの方が大きい。

「日頃の行いのせいだな。手慣れているから、警戒されるんだ」

 面白いと笑うブラッドフォードに、ゲイリーが低い声で警告する。

「ブラッド。それ以上余計なことを口にすると、アナに色々とブラッドの秘密を教えるよ? 例えば、毎回土産物を山ほど買っているけれど、実は未来の花嫁のために、もう少し成長したアナの姿を思って買っているものが邸に山とあるとか。その中には、物凄い派手な下着とかもあるとか」

 メルリーナは、借りた寝間着のことや寄港地で着せ替え人形にさせられたことを思い出し、やはりそうだったのかと納得した。
 下着については知らなかったけれど、あり得ることだと思った。

「ゲイリー!」

「僕は、妄想で楽しむような変態じゃないからね。一緒に行って、試着したメルを確かめてから買うよ」

「……」

 それは下着をということだろうかと、メルリーナはじわじわ頬が熱くなるのを感じて、ゲイリーから顔を背けた。
 ゲイリーは、そんなメルリーナを見て笑った。

「メル。さすがに、いきなり下着はないよ。まずはドレスからだよ」

 紛らわしい、と抗議の眼差しを向ければ、ゲイリーは肩を竦めて運ばれてきた大皿に乗った朝食をメルリーナのために取り分ける。

「今日は忙しくなるからね。しっかり食べて、力を付けないと」

「メルのお守はおまえに任せた。こっちは、いつでも出港できるよう準備を進める」

 ブラッドフォードは、船へ積み込む食料などの手配、エナレスの動きについての情報収集などで忙しいと言ったが、出来る限りリヴィエール宮殿から離れていたいというのが本音だろう。

「ああ。メルのことは僕に任せてくれていいよ」

「おい。メルが望むようにするという意味で、だぞ」

「もちろん」
 
 心配する必要はないと微笑むゲイリーを胡散臭そうな目で見遣り、ブラッドフォードはメルリーナに向き直った。

「イースデイルの家に顔を出すんだろう? 邪魔だと思うかもしれないが、番犬としてゲイリーを連れて行け。うるさいようなら、門の外に繋いでおけばいい」

「門の外はないよ? メル。わかっているとは思うけど、常に傍にいなくては、番犬の役目を果たせないからね?」

「あの……でも、私、ひとりで……」

 家族の問題に、ゲイリーたちを巻き込みたくないという気持ちと、きっと不愉快な気分にさせてしまうことを思って、ひとりで行くつもりだと言うメルリーナに、ブラッドフォードは「駄目だ」と言った。

「エナレスがリーフラントの王女を狙っているというのなら、メルもそのうちのひとりと言えなくもない。情報は、どこから漏れるかわからない。それに、勝算もなく丸腰で敵地に乗り込むなど阿呆のすることだ。使えそうな武器は何でも持って行け。いいな? これは、船長命令だ」



◇◆



 ブラッドフォードに命ぜられ、メルリーナがゲイリーを連れてイースデイルの邸へ向かったのは昼時を過ぎた頃だった。

 当初の予定では、朝食後すぐに訪ねるつもりだったのだが、何故かゲイリーによって仕立て屋を巡り、ドレス一式を買い揃え、美しく着飾ることになったため、時間が掛かってしまったのだ。
 しかも、港からイースデイルの邸まではそう遠くはないが、ドレスを着て歩いて行くには距離があるため馬車に乗っての移動だ。

「こんな格好、しなくても……」

 既製品を少し手直ししてもらった程度ではあるが、胸元から裾へ向かって濃い青色が薄くなっていくドレスは、特別フリルやレースの装飾は控えめに開いた襟元や袖口にある程度という質素なものでありながら、あまり肉付きのよくないメルリーナのほっそりした身体を引き立て、上品さを感じさせる。

 ゲイリーは、ドレスを少し手直ししてもらっている間に、店員にメルリーナの髪結いを頼み込み、化粧までさせた。

 そうして出来上がった姿は、メルリーナにしてみれば大袈裟だった。

「装いは、対人関係では武器のひとつにもなるんだ。メル」
 
 戸惑いを見透かされ、ぎゅっと膝の上に置かれていた手を握りしめる。

「女性は、美しく装うことで相手の目を楽しませるだけでなく、自信を持てるようになったり、気分が上向いたりもする。女性であることも楽しめる。しかも、これから手強い相手と対峙するというときには、気合を入れて装うものだとジョージアナは言っていた」

 騎士が鎧を纏うように、女性も戦場である社交の場でドレスと言う鎧を纏う。
 
「自信は人から与えて貰うものではないからね。自分で持てるようになるしかない。そのためにはまず、自分自身を好きになることが一番だよ」

 もしも、容姿に劣等感を抱いているのなら、それを補い、克服する技術や道具を使えばいい。
 絶世の美女ではなくとも、悪くはないと思えるようになれればしめたものだというゲイリーに、メルリーナは今すぐ全部は出来なくとも、少しずつ試してみたいと思った。

「もちろん、メルは文句なしに美しいけどね?」

 こういうとき、きっとフランツィスカなら余裕たっぷりに微笑んで「ありがとう」と言うのだろう。
 でも、メルリーナにはとてもそんな真似は出来そうにない。
 熱くなる頬を両手で押さえ、視線を彷徨わせて、オドオドしてしまう。

「メルにはメルの美しさがあるし、メルにはメルの良さがある。王女様を目指す必要はないと思うよ」

 目指そうと思っても無理だろうと思いながらも、ゲイリーがメルリーナのなけなしの自信を鼓舞してくれようとしていることは感じ取れたので、素直に頷いた。

 ほどなくして馬車が止まり、先に降りたゲイリーの手を取って懐かしの我が家の前に降り立ったメルリーナは、そこに意外な人物を見て驚いた。

 門のところに、灰色の混じった黒髪と灰色の瞳をした細身の男性が立っていた。

「お、とうさま……」

 どうして、とゲイリーを仰げば、柔らかな笑みを向けられた。

「折角訪ねても、捕まらなかったら困るだろう?」

「……」

 事前に知らせておいたのだと言われ、驚きのままもう一度父を見遣れば、見慣れた表情の乏しい顔が微かに歪んだ気がした。

「どうぞ中へお入り下さい。ゲルハルト殿下」

 ギュスターヴは、ゲイリーの手前追い返すことが出来ないのだろう。
 しかし、ゲイリーの手が背中に添えられ、促されるままに震える足を一歩踏み出したとき、ギュスターヴが振り返って付け加えた。

「無事の戻り、何よりだ。メルリーナ」

 久しぶりに名を呼ばれたメルリーナは、驚きに顔を上げ、じっと見つめる灰色の瞳と出会った。
 冷たいだけだと思っていたそこに、これまで気付かなかった何かが秘められている気がした。

 それが何なのかを知るために、メルリーナは一年ぶりに邸へ足を踏み入れた。
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