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潮流 4
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メルリーナは、アデルの話をすぐには飲み込めなかったが、アデルの母がメルリーナの母ジゼルとは思えないから、ジョージアナから見て祖母にあたる人物がメルリーナと似ているということだろうと理解した。
「私の母は、私の父とは再婚でした。一度離縁していて、子供もいたそうですが、相手方が引き取り……その後亡くなったと聞いています」
離縁した相手との間には三歳になる女児がいたが、相手方が引き取ったものの、ウィスバーデンを離れる二人が乗った船が行方不明になり、消息がわからず、亡くなったものと思われていたと言う。
「もしも……もしもその子供が生きていたならば、私の異父姉ということになります。あなたの母親の名前は?」
アデルの強い眼差しに気圧されて、メルリーナはすぐには答えられなかった。
母の生い立ちについては、孤児だということ、祖父がよく顔を出していた港の食堂で働いていた縁で、イースデイルの邸で働くようになり、父に見初められたということしか知らない。
ウィスバーデンのことも、アデルの母のことも、聞いた記憶がない。
このことを祖父マクシムや父ギュスターヴは知っていたのかなど、まったく見当もつかない。
故意に語られなかったのか、それともアデルが言う人物とはまったくの別人なのかも、わからない。
「随分と昔の話だ。断片的な情報だけでは確証は得られないし、万が一にアデルの聞いた話のとおりだったとしても、それで何かが急に変わるわけでもない。ただ、真実を誤魔化そうとしても、明るみに出る可能性はある。母親の名は、何と言うのだ? メルリーナ」
ハワードは、まずは今ある情報を収集することが、真実へ辿り着くための一番の近道だと諭した。
「母……の名は、ジゼルです」
メルリーナが告げると、アデルの青銀の瞳から透明な涙が溢れた。
「ああ……そうよ、ジゼルよ。間違いないわ。いつも母は祈っていたの。自分が至らなかったせいで、死なせてしまったと後悔していたわ。だから、その子の分まで私を大事にしてくれたの。一度も会ったことはないけれど、私にとって『ジゼル』は本当の姉だったのよ」
メルリーナの手を握りしめ、涙を流すアデルに戸惑いながらも、誰かが母のことを想っていてくれたならば、素直に嬉しいと思った。
幼いメルリーナの手を引いて港へ行き、飽きもせずに海を眺めていたジゼルの胸に去来していたものは、もしかしたら遠い祖国や生き別れになった母のことだったのかもしれない。
「しかし、アデル……これは、少々込み入った話になりそうだな」
ハワードは、バリバリと大きな手で白いものが混じった褐色の髪を掻き、メルリーナを見遣ると下がり気味の目尻を更に下げた。
「おまえの母親は、末端とはいえリーフラント王家に連なる血筋の持ち主だ。その子供となれば、色々と、面倒なことになりかねない」
単にひょっこり親戚が見つかったという話ではないのかと目を瞬くメルリーナに、ハワードは詳しい話をする前に確認したいと言い出した。
「ブラッドフォードとゲルハルトは、おまえを前リヴィエール公爵から預かっていると聞いている。ここから先の話は、二人にも聞かせるべきだと思うのだが、構わないか?」
赤の他人に聞かせたくないというのなら、それでも構わないと言うハワードに、メルリーナは二人を呼んでほしいと頼んだ。
何が起こるとしても、そして何がわかるとしても、ヴァンガード号から下りない限り、ブラッドフォードの許可なく勝手な真似は出来ない身の上だ。
控えていた侍従に二人を呼んで来るよう言いつけた後、ハワードは今一度バリバリとその髪を掻きむしりながら、メルリーナに更なる頼みごとをした。
「それから……何せ、随分と昔の出来事だ。色んなことがあやふやになっているかもしれない。アデルの話が偽りだとは思わないが、証拠なり揺るぎない事実なりがない限り、確かなこととは言えない。確証を得られるまでは公言しないと約束してくれるか。アデルの回りが不必要に騒がしくなることは、望ましくない」
憶測や噂が飛び交うことで、ウィスバーデンではその中心となるであろうアデルを気遣うハワードに、アデルがそんなことは気にしなくていいと訴えた。
「私のことは構いません。メルリーナの、ジゼルの事情を優先してください」
アデルの優しい申し出に、メルリーナは微笑して首を横に振った。
「母は、既に亡くなりました。私も……イースデイル家を出奔しています。ですから、アデル様に迷惑が掛からないことだけを望みます」
「亡くなった……?」
呆然とするアデルに頷く。
「はい。私が七歳の時ですから……もう、十二年ほどになります」
「……ああ、何てこと……」
ジョージアナは、両手に顔を埋めたアデルの腕を摩り、母の嘆きを和らげようと優しく告げる。
「お母様。ジゼル様はお亡くなりになったとしても、こうしてメルリーナを遺したではありませんか。私、メルとはとても気が合って、他人の気がしませんでしたの。メルを本当にお姉様と呼べるなら、これほど嬉しいことはありませんわ」
「アナ……」
「こうして出会えたのも、きっと神のお導きですわ。ブラッドは、昔から海神様に気に入られているんです」
海で船が難破しても奇跡的に助かったり、勝ち目がないと思われる海戦でも風向きが急に変わって勝利したりと、ブラッドフォードには神がかり的な幸運が付きまとうのだと婚約者を絶賛するジョージアナに、ハワードは何やら不服そうだったが、数奇な巡り合わせであることは確かだと渋々頷いた。
「浜辺には、思いがけないものが打ち上げられることもある。偶然にしろ、必然にしろ、ここでこうして出会ったことに意味はあるのだろう」
◇◆
アデルの涙がようやく止まった頃、侍従に連れられてやって来たブラッドフォードとゲイリーは、目を赤くするアデルと困り顔のハワードを見て面喰ったようだが、何か不測の事態が発生したのだということをすぐに飲み込んだ。
「楽しんでいたところ、呼びつけてすまんな」
「いえ。そろそろ引き揚げようと思っていたところですので」
ブラッドフォードの一刻も早く帰りたいという様子に、ハワードは苦笑しながら、話が長引きそうだからと、メルリーナやジョージアナ、アデルのために摘まみやすい料理や菓子、自分とブラッドフォード、ゲイリーにはワインを用意して勧めた。
料理はどれも美味しそうでいい匂いをさせていたが、とても喉を通りそうになく、メルリーナはかろうじて果実酒で喉を潤すばかりだった。
ハワードは、ワインをひと口含んだ後、アデルを妃にするにあたってウィスバーデン国王として調査し、把握していたことを説明した。
「アデルの母親ロスヴィータは、先々代のリーフラント国王の兄から派生した家系の生まれだ。王家の血を引いてはいるが、政治的な意味合いでの結婚を求められる程、今の王家に近しくはなかった。生家と関りのあったパスラ出身の商人と結婚したのは、今から四十年ほど前だ。夫となった商人は、ウィスバーデンを主な拠点としていたが、ロスヴィータを娶ることでリーフラントとの取引が多少なりとも有利になるだろうという思惑があったようだ。ところが、逆にロスヴィータの生家から援助を無心される始末で、結局、結婚から四年ほどして離縁することになった」
ロスヴィータにはリーフラントへ戻るという選択肢があったが、アデルの父が後妻に迎えたいと求婚し、それを受け入れる形でウィスバーデンに根を下ろすこととなった。
アデルの父オーランドは、海洋貿易ではなく、東方の国々との陸路による貿易で財を成した商人で、ロスヴィータとは以前から顔見知りであり、ロスヴィータもその穏やかな為となりに魅かれ、離婚後間を置かずに再婚した。
オーランドの付き合いは、陸での貿易を主とした商人とのものが九割を占めていたが、時折海運業を営む商人たちの情報交換の場にも顔を出すこともあり、再婚から半年ほどして、ロスヴィータの別れた夫が行方不明になっていることを思いがけず耳にした。
ロスヴィータは離縁して以来、生き別れとなった娘のことをずっと気にかけてはいたが、オーランドに遠慮して、その行く末を尋ねることはせずにいた。
元夫へ、こっそりと手紙を出してはいたが、返事が来たことは一度もなかった。
オーランドは、元々ロスヴィータの娘への想いを理解しており、聞き知った彼らの消息をすぐに知らせた。
「元夫が娘を連れてパスラへ戻る途中、二人を乗せた船がアンテメール海で行方不明となったらしい」
「母は、とても自分を責めていました。何故、ジゼルを手放してしまったのか。行かせなければ、死なせずに済んだのではないかと、ずっと言い続けていました」
アデルは、ロスヴィータは海をとても嫌っていて、決して近寄ろうとしなかったと涙ぐみながら語った。
「ジゼルは、とても海が好きで、いつも商船に乗る父親について行きたがったそうです。ジゼルから、父親と海を取り上げることは出来ないと思い、手放すことを決めたと言っていましたが……王家の血を商売に利用しようと考えていた夫に屈してしまったと後悔していました」
「二人が乗った船は、おそらく商船『ラルス号』だと思われる。ウィスバーデンを離れ、リヴィエールに寄港した後、リーフラントに寄ってからパスラへ向かうはずだったが、リーフラントの港に現れず、近海を航行した別の船が、船の残骸らしきものを目撃したらしい。ただ、当時のアンテメール海は海賊の巣窟で、どの船がいつ沈んだか定かではないことの方が多かった」
記録はあれども、それが肝心のラルス号のことなのかどうかは不明だと、ハワードは両手を挙げてみせた。
「ラルス号を襲ったのが海賊船だったとすれば、もしかしたら積み荷と一緒に売り飛ばされたか、漂流していたところを運よく他の船に助けられたという可能性はあるでしょう」
ゲイリーは、生き残りがいてもおかしくはないと、ブラッドフォードをちらりと横目で見遣る。
「まぁ、そうだろうな。ブラッドの例もあることだし」
かつて、密航者として乗り込んだ船が運悪く海賊に襲われ、大破。漂流する羽目になったブラッドフォードは、ラザールとマクシムによって発見され、命拾いしている。
「ただ、そうだとしてもそれがメルリーナの母親であるという証拠はない」
顔が似ているというだけでは不十分だと言うハワードの言葉はもっともで、メルリーナとしても何か確証を得られる手掛かりはないのかと思った。
「母は、別れるときにジゼルに形見代わりに渡したものがあると言っていました。母は、亡くなるまでずっと、それと揃いの意匠で作られたものを身に着けていて、私が形見の品として持っています」
アデルは、今すぐにでも持って来るとばかりに立ち上がったが、眩暈を覚えたらしく、崩れ落ちるように座り込んだ。
「お母様っ!」
「アデルっ!……無理をするな。今日はもう、休め。メルリーナたちは、しばらく滞在する予定だ。日を改めて、おまえの離宮で会えるよう取り計らおう。すまない、メルリーナ」
ハワードは、萎れた花のようにくたりとしたアデルを即座に抱き上げ、慌ただしく去って行った。
「ゲイリー、メルを頼む! アナ!」
青い顔をして震えるジョージアナの手を取って、ブラッドフォードも後を追った。
「メル」
呆然と彼らを見送ったメルリーナは、ゲイリーの声にビクリと飛び上がった。
いろんなことが一度に押し寄せて、何から確かめればいいのか、何を考えるべきなのか、わからなかった。
アデルが、母のようにいなくなってしまったらと思うと、とても怖かった。
「大丈夫。感情が高ぶるとめまいを起こしたり、意識が遠のいたりするのは、アデル様にはよくあることなんだ。安静にしていれば、そのうち回復する。でも、今晩ブラッドは、アデル様に付き添うアナに付き合うだろうから、今日は僕のところに泊まろうか」
にこりともせずゲイリーに告げられてほっとしたメルリーナは、含まれていた理解できない言葉に瞬きした。
ゲイリーのところに泊まる、とはどういうことだろうか。
「主がいない邸に客だけが泊まるというのもおかしな話だし、何かあっても助けてあげられないからね。僕は邸を外に構えていないけれど、王城に顔を出さなくてはいけない場合は、空いている部屋を使っている。メルも今夜は王城に泊まればいい。これもいい経験だよね?」
ごく当たり前のことを言われているはずなのに、頭の片隅で警鐘が鳴っているような気がした。
「……は……い」
差し出された手を取るのは、とても危険な気がする。
でも、それ以外に選択肢はなかった。
メルリーナが、恐る恐る頷いてその手を取ると、ゲイリーがぼそっと呟く。
「捕まえた」
ぎゅっと握られた手に驚いて飛び上がったメルリーナを見て、ゲイリーは微笑した。
「冗談だよ、メル。僕は紳士だからね。無理強いはしない。今はまだ、その時ではないということはわかっているから、安心していいよ」
ゲイリーの場合、どこまでが冗談で、どこからが本気なのかわからない。
からかわれているだけだと思うけれど、時々、その瞳に過ぎる光はメルリーナを落ち着かなくさせる。
メルリーナが戸惑いながら見つめ返せば、ゲイリーは笑みを保ったまま恐ろしいことを告げた。
「でも、メルが自分で部屋まで歩けないと言うなら、このまま抱えて僕の部屋に担ぎ込む……」
「じ、自分で歩けますっ!」
弾かれたように立ち上がったメルリーナを見て、ゲイリーはくすりと笑って呟いた。
「それは……残念だ」
「私の母は、私の父とは再婚でした。一度離縁していて、子供もいたそうですが、相手方が引き取り……その後亡くなったと聞いています」
離縁した相手との間には三歳になる女児がいたが、相手方が引き取ったものの、ウィスバーデンを離れる二人が乗った船が行方不明になり、消息がわからず、亡くなったものと思われていたと言う。
「もしも……もしもその子供が生きていたならば、私の異父姉ということになります。あなたの母親の名前は?」
アデルの強い眼差しに気圧されて、メルリーナはすぐには答えられなかった。
母の生い立ちについては、孤児だということ、祖父がよく顔を出していた港の食堂で働いていた縁で、イースデイルの邸で働くようになり、父に見初められたということしか知らない。
ウィスバーデンのことも、アデルの母のことも、聞いた記憶がない。
このことを祖父マクシムや父ギュスターヴは知っていたのかなど、まったく見当もつかない。
故意に語られなかったのか、それともアデルが言う人物とはまったくの別人なのかも、わからない。
「随分と昔の話だ。断片的な情報だけでは確証は得られないし、万が一にアデルの聞いた話のとおりだったとしても、それで何かが急に変わるわけでもない。ただ、真実を誤魔化そうとしても、明るみに出る可能性はある。母親の名は、何と言うのだ? メルリーナ」
ハワードは、まずは今ある情報を収集することが、真実へ辿り着くための一番の近道だと諭した。
「母……の名は、ジゼルです」
メルリーナが告げると、アデルの青銀の瞳から透明な涙が溢れた。
「ああ……そうよ、ジゼルよ。間違いないわ。いつも母は祈っていたの。自分が至らなかったせいで、死なせてしまったと後悔していたわ。だから、その子の分まで私を大事にしてくれたの。一度も会ったことはないけれど、私にとって『ジゼル』は本当の姉だったのよ」
メルリーナの手を握りしめ、涙を流すアデルに戸惑いながらも、誰かが母のことを想っていてくれたならば、素直に嬉しいと思った。
幼いメルリーナの手を引いて港へ行き、飽きもせずに海を眺めていたジゼルの胸に去来していたものは、もしかしたら遠い祖国や生き別れになった母のことだったのかもしれない。
「しかし、アデル……これは、少々込み入った話になりそうだな」
ハワードは、バリバリと大きな手で白いものが混じった褐色の髪を掻き、メルリーナを見遣ると下がり気味の目尻を更に下げた。
「おまえの母親は、末端とはいえリーフラント王家に連なる血筋の持ち主だ。その子供となれば、色々と、面倒なことになりかねない」
単にひょっこり親戚が見つかったという話ではないのかと目を瞬くメルリーナに、ハワードは詳しい話をする前に確認したいと言い出した。
「ブラッドフォードとゲルハルトは、おまえを前リヴィエール公爵から預かっていると聞いている。ここから先の話は、二人にも聞かせるべきだと思うのだが、構わないか?」
赤の他人に聞かせたくないというのなら、それでも構わないと言うハワードに、メルリーナは二人を呼んでほしいと頼んだ。
何が起こるとしても、そして何がわかるとしても、ヴァンガード号から下りない限り、ブラッドフォードの許可なく勝手な真似は出来ない身の上だ。
控えていた侍従に二人を呼んで来るよう言いつけた後、ハワードは今一度バリバリとその髪を掻きむしりながら、メルリーナに更なる頼みごとをした。
「それから……何せ、随分と昔の出来事だ。色んなことがあやふやになっているかもしれない。アデルの話が偽りだとは思わないが、証拠なり揺るぎない事実なりがない限り、確かなこととは言えない。確証を得られるまでは公言しないと約束してくれるか。アデルの回りが不必要に騒がしくなることは、望ましくない」
憶測や噂が飛び交うことで、ウィスバーデンではその中心となるであろうアデルを気遣うハワードに、アデルがそんなことは気にしなくていいと訴えた。
「私のことは構いません。メルリーナの、ジゼルの事情を優先してください」
アデルの優しい申し出に、メルリーナは微笑して首を横に振った。
「母は、既に亡くなりました。私も……イースデイル家を出奔しています。ですから、アデル様に迷惑が掛からないことだけを望みます」
「亡くなった……?」
呆然とするアデルに頷く。
「はい。私が七歳の時ですから……もう、十二年ほどになります」
「……ああ、何てこと……」
ジョージアナは、両手に顔を埋めたアデルの腕を摩り、母の嘆きを和らげようと優しく告げる。
「お母様。ジゼル様はお亡くなりになったとしても、こうしてメルリーナを遺したではありませんか。私、メルとはとても気が合って、他人の気がしませんでしたの。メルを本当にお姉様と呼べるなら、これほど嬉しいことはありませんわ」
「アナ……」
「こうして出会えたのも、きっと神のお導きですわ。ブラッドは、昔から海神様に気に入られているんです」
海で船が難破しても奇跡的に助かったり、勝ち目がないと思われる海戦でも風向きが急に変わって勝利したりと、ブラッドフォードには神がかり的な幸運が付きまとうのだと婚約者を絶賛するジョージアナに、ハワードは何やら不服そうだったが、数奇な巡り合わせであることは確かだと渋々頷いた。
「浜辺には、思いがけないものが打ち上げられることもある。偶然にしろ、必然にしろ、ここでこうして出会ったことに意味はあるのだろう」
◇◆
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「いえ。そろそろ引き揚げようと思っていたところですので」
ブラッドフォードの一刻も早く帰りたいという様子に、ハワードは苦笑しながら、話が長引きそうだからと、メルリーナやジョージアナ、アデルのために摘まみやすい料理や菓子、自分とブラッドフォード、ゲイリーにはワインを用意して勧めた。
料理はどれも美味しそうでいい匂いをさせていたが、とても喉を通りそうになく、メルリーナはかろうじて果実酒で喉を潤すばかりだった。
ハワードは、ワインをひと口含んだ後、アデルを妃にするにあたってウィスバーデン国王として調査し、把握していたことを説明した。
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ロスヴィータにはリーフラントへ戻るという選択肢があったが、アデルの父が後妻に迎えたいと求婚し、それを受け入れる形でウィスバーデンに根を下ろすこととなった。
アデルの父オーランドは、海洋貿易ではなく、東方の国々との陸路による貿易で財を成した商人で、ロスヴィータとは以前から顔見知りであり、ロスヴィータもその穏やかな為となりに魅かれ、離婚後間を置かずに再婚した。
オーランドの付き合いは、陸での貿易を主とした商人とのものが九割を占めていたが、時折海運業を営む商人たちの情報交換の場にも顔を出すこともあり、再婚から半年ほどして、ロスヴィータの別れた夫が行方不明になっていることを思いがけず耳にした。
ロスヴィータは離縁して以来、生き別れとなった娘のことをずっと気にかけてはいたが、オーランドに遠慮して、その行く末を尋ねることはせずにいた。
元夫へ、こっそりと手紙を出してはいたが、返事が来たことは一度もなかった。
オーランドは、元々ロスヴィータの娘への想いを理解しており、聞き知った彼らの消息をすぐに知らせた。
「元夫が娘を連れてパスラへ戻る途中、二人を乗せた船がアンテメール海で行方不明となったらしい」
「母は、とても自分を責めていました。何故、ジゼルを手放してしまったのか。行かせなければ、死なせずに済んだのではないかと、ずっと言い続けていました」
アデルは、ロスヴィータは海をとても嫌っていて、決して近寄ろうとしなかったと涙ぐみながら語った。
「ジゼルは、とても海が好きで、いつも商船に乗る父親について行きたがったそうです。ジゼルから、父親と海を取り上げることは出来ないと思い、手放すことを決めたと言っていましたが……王家の血を商売に利用しようと考えていた夫に屈してしまったと後悔していました」
「二人が乗った船は、おそらく商船『ラルス号』だと思われる。ウィスバーデンを離れ、リヴィエールに寄港した後、リーフラントに寄ってからパスラへ向かうはずだったが、リーフラントの港に現れず、近海を航行した別の船が、船の残骸らしきものを目撃したらしい。ただ、当時のアンテメール海は海賊の巣窟で、どの船がいつ沈んだか定かではないことの方が多かった」
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ゲイリーは、生き残りがいてもおかしくはないと、ブラッドフォードをちらりと横目で見遣る。
「まぁ、そうだろうな。ブラッドの例もあることだし」
かつて、密航者として乗り込んだ船が運悪く海賊に襲われ、大破。漂流する羽目になったブラッドフォードは、ラザールとマクシムによって発見され、命拾いしている。
「ただ、そうだとしてもそれがメルリーナの母親であるという証拠はない」
顔が似ているというだけでは不十分だと言うハワードの言葉はもっともで、メルリーナとしても何か確証を得られる手掛かりはないのかと思った。
「母は、別れるときにジゼルに形見代わりに渡したものがあると言っていました。母は、亡くなるまでずっと、それと揃いの意匠で作られたものを身に着けていて、私が形見の品として持っています」
アデルは、今すぐにでも持って来るとばかりに立ち上がったが、眩暈を覚えたらしく、崩れ落ちるように座り込んだ。
「お母様っ!」
「アデルっ!……無理をするな。今日はもう、休め。メルリーナたちは、しばらく滞在する予定だ。日を改めて、おまえの離宮で会えるよう取り計らおう。すまない、メルリーナ」
ハワードは、萎れた花のようにくたりとしたアデルを即座に抱き上げ、慌ただしく去って行った。
「ゲイリー、メルを頼む! アナ!」
青い顔をして震えるジョージアナの手を取って、ブラッドフォードも後を追った。
「メル」
呆然と彼らを見送ったメルリーナは、ゲイリーの声にビクリと飛び上がった。
いろんなことが一度に押し寄せて、何から確かめればいいのか、何を考えるべきなのか、わからなかった。
アデルが、母のようにいなくなってしまったらと思うと、とても怖かった。
「大丈夫。感情が高ぶるとめまいを起こしたり、意識が遠のいたりするのは、アデル様にはよくあることなんだ。安静にしていれば、そのうち回復する。でも、今晩ブラッドは、アデル様に付き添うアナに付き合うだろうから、今日は僕のところに泊まろうか」
にこりともせずゲイリーに告げられてほっとしたメルリーナは、含まれていた理解できない言葉に瞬きした。
ゲイリーのところに泊まる、とはどういうことだろうか。
「主がいない邸に客だけが泊まるというのもおかしな話だし、何かあっても助けてあげられないからね。僕は邸を外に構えていないけれど、王城に顔を出さなくてはいけない場合は、空いている部屋を使っている。メルも今夜は王城に泊まればいい。これもいい経験だよね?」
ごく当たり前のことを言われているはずなのに、頭の片隅で警鐘が鳴っているような気がした。
「……は……い」
差し出された手を取るのは、とても危険な気がする。
でも、それ以外に選択肢はなかった。
メルリーナが、恐る恐る頷いてその手を取ると、ゲイリーがぼそっと呟く。
「捕まえた」
ぎゅっと握られた手に驚いて飛び上がったメルリーナを見て、ゲイリーは微笑した。
「冗談だよ、メル。僕は紳士だからね。無理強いはしない。今はまだ、その時ではないということはわかっているから、安心していいよ」
ゲイリーの場合、どこまでが冗談で、どこからが本気なのかわからない。
からかわれているだけだと思うけれど、時々、その瞳に過ぎる光はメルリーナを落ち着かなくさせる。
メルリーナが戸惑いながら見つめ返せば、ゲイリーは笑みを保ったまま恐ろしいことを告げた。
「でも、メルが自分で部屋まで歩けないと言うなら、このまま抱えて僕の部屋に担ぎ込む……」
「じ、自分で歩けますっ!」
弾かれたように立ち上がったメルリーナを見て、ゲイリーはくすりと笑って呟いた。
「それは……残念だ」
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※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。
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