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名馬の子でも、名馬にはなれません 2

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 早朝、起き出すなり、ビヴァリーはギデオンと共に屋敷の裏手にある厩舎へと向かった。

 重厚なレンガ造りの建物は、正面には美しい女性の彫刻から水が流れる噴水のような造りの井戸があり、厩舎というよりも人が住む館のようだ。

 ビヴァリーとマーゴットが暮らしていた貧民街のどの建物よりも立派で、馬房だってあの屋根裏部屋より遥かに居心地がいいだろう。

 中央のアーチを潜れば、柵に囲まれたよく整備された馬場や青々とした放牧地が遥か彼方まで広がっている。

 嵐の名残で、澄んだ空気に満ちる少し湿った土の香りを目いっぱい吸い込んだビヴァリーは、広々とした風景の中にのんびりと草を食んでいる一頭の黒鹿毛の馬を見つけ、呼びかけた。

「ドルトンっ!」

 パッと顔を上げた馬の額には白い星があり、長く細い脚の先は白かった。

 ビヴァリーの姿を捉えるなり、たてがみをなびかせ、泥を跳ね上げて疾走し、軽々と柵を飛び越える。
 力強い走りを見せる輝くような黒鹿毛の馬体は美しく、見ているだけでうっとりしてしまう。 

「ドルトンは早起きだ」

 ギデオンが、ドルトンはいつも夜が明けるなり馬房から出せと要求するのだと苦笑した。

 柵を飛び越えて馬場へ下りたビヴァリーに駆け寄ったドルトンは、押し倒さんばかりの勢いで鼻を押し付けた。

「元気そうだね? ドルトン」

 鼻梁からたてがみ、首筋から肩、滑らかな背を辿って尻尾まで撫でてやると反対側も撫でろと言うように、首を振る。

「とっても大事に世話されているね」

 毛並みには艶があり、もちろん馬体にはどこも傷や痛んでいる場所はない。

 反対側も撫でてやり、蹄や脚の具合を確かめ終えて、ギデオンを振り返った。

「ありがとうございます。ギデオンさま」

 ギデオンが大事にしてくれていないわけはないと思っていたけれど、こうして無事元気にしているドルトンを見ると、嬉しくて涙が滲みそうになる。

「礼を言うのはこちらのほうだ。素晴らしい馬を間近に見られるだけでも、幸せだ。その上、繁殖まで手掛けさせてもらえるのだから、感謝こそすれ文句などあろうはずがない」

 昨夜、ビヴァリーはギデオンにアルウィンのことやこれまでのレースのことなどをすっかり話した。

 ギデオンは、テレンスが『ビリー』について知らせる前から、ビヴァリーが何をしているのか知っていたようだけれど、まるで初めて聞く話のように熱心に耳を傾けてくれた。

「アルウィンの兄妹も三頭ほど生まれているが、まだ調教が終わっていない。ドルトンと同じく気位が高い馬ぞろいで、なかなか手こずっている。朝食の後で、見てやってくれないかね?」

「はいっ!」

 アルウィンのように、ドルトンの血を感じさせる馬たちに乗りたくて仕方がないと、ビヴァリーが興奮気味に訴えると、ギデオンは目を細めて頷く。

「おまえ、たくさん家族を作ってくれたんだね? ドルトン」

「ドルトンは、なかなか積極的だ。より、よほどレディの扱いを心得ている」

 ハロルドはまだまだ調教が必要だと嘆くギデオンに、ビヴァリーはくすりと笑ってしまった。

「ハルは……私のことをずっと男の子だと思っていたんです」

「そのようだな。女性に慣れていないのは、男ばかりの中で育ったせいもあるだろうが、思い込みが激しくていかん」

「でも、ハルにもいいところはあります」

「そうでなくては困る。が、まだまだ足りぬところが山ほどある。父親のように、偏見と狭量で凝り固まったままでは、幸福な結婚など望めまい」

 ハロルドがグラーフ侯爵領へやって来た理由をギデオンは知っていて当然だと、ビヴァリーはいまさらながらに気付いた。

 ギデオンがまるで五年の空白などなかったかのように接してくれたので、最初に話すべきだったことをすっかり忘れていた。

「ハルは……その……責任を取って結婚しなくてはならないって思っているんです。でも、私は貴族じゃないし、結婚しなくちゃならないなんて思っていないし、こ……子どもも、できていないから、そんなことをする必要はないんです。正しくないことかもしれないし、間違ったことをしたかもしれないけれど、でも、このまま結婚したらもっと間違ったことをすることになるんじゃないかと思うんです」

 ギデオンは、腰の後ろで手を組み、軽く首を傾げる。

「つまり、ハロルドとは結婚したくないということかね?」

 ビヴァリーは、返答に詰まった。

 結婚する必要があるかないか、できるかできないかだけを考えていたので、したいかしたくないかと問われると、それはまた別の答えになりそうな気がした。 

「……し、したくないというか……する必要はないというか……」

 ギデオンは、しどろもどろになるビヴァリーを一瞥し、二人の会話に割って入りたがるドルトンの鼻先を軽く撫でてやりながら、頷いた。

「ビヴァリーが、ハロルドと結婚したくないというのなら、私はあくまでもビヴァリーの意志を尊重しよう。だが……私は五年前、夜が明けるまで馬の話ができる、気のおけない大事な友人を失ってしまった。馬を愛し、馬について語り合える、優秀な調教師であり、優秀な騎手でもある人物を家族に迎え入れることができるなら、これほど喜ばしいことはない」

「でも、私は貴族ではないし、馬のこと以外は何もできない……」

「ビヴァリー。貴族の暮らしは窮屈で、くだらないしがらみも多い。だが、貴族という身分だからこそ、できることもある。ブレント競馬場で開かれるレースのうち、最も由緒あるレースに馬主として参加できるのは、貴族だけだと知っているかね?」

「……知ってます」

 ビヴァリーも貴族しか参加できないレースがあることはわかっていたが、まずは厩舎と馬を用意するのが先決だと思っていた。

 馬を持たずに馬主にはなれないし、乗る馬がなくては騎手にはなれない。

 爵位については、お金で買えるという話もあるし、きっとどうにかできるだろうと思っていた。

「ハロルドと結婚すれば、一番得るのが難しい条件はクリアできる。負け馬のビリーなら、あっという間に資金は調達できるし、素晴らしい馬も既に確保済みだ」

「でも……ハルには……競馬をしていることは言ってないんです」

 ビヴァリーが、ハロルドには競馬の騎手をしていることは言っていないと告白すると、ギデオンは珍しくやや驚いた表情をした。

「ハルは賭け事が嫌いだから、競馬でお金を稼いでいるって話したら嫌われると思って……だから、ギデオンさまもハルに言わずにいてくれたんですよね?」

「いや、それはそうだが……しかし……では、ハロルドはビヴァリーが何をしていたと思っているんだ?」

 はっきりと言われたわけではないが、酔ったハロルドが口走っていたことを思い出し、ビヴァリーは俯いた。

「たぶん……お金を貰って、男の人と……でも、そのう……今はどう思っているのかわかりません」

 あんなふうに言われて、傷つかなかったわけではないが、酔っ払いの言うことはまともに聞いてはいけないとパブで教えられた。
 
 ビヴァリーが男性を受け入れるのは初めてだったと知った後、ハロルドはビヴァリーが何をしていたのか問い詰めることはしなかった。

 初めてだったから、娼婦ではなかったということはわかったかもしれないが、ハロルドの考える『真っ当な』仕事をしていたとは思っていないだろう。

「あれの思い込みの激しさが、呪わしいな……」

 ギデオンは、こちらへやって来るテレンスとハロルドの姿をちらりと一瞥すると、ちょうど馬丁が持ってきてくれた鞍をビヴァリーへ手渡した。

 ビヴァリーが鞍を着けると、ドルトンはやる気に満ち溢れた様子で鼻を鳴らし、頭絡、ハミを付けて鐙に足をかけて勢いよく跨ると、すぐさま身を翻そうとする。

「ドルトンってば……」

 いきなり走り出してギデオンに泥をかけてはいけないと手綱を引いて落ち着かせる。 

 ギデオンはそんなドルトンの様子に「久しぶりの逢瀬を邪魔するなと言っているようだ」と苦笑した。

 柵から離れるようドルトンを促すビヴァリーの背に、ギデオンはとても冗談を言っているとは思えない、真剣な表情で告げた。

「ビヴァリー。大事な友人の遺してくれたひとり娘が、我が侯爵家のを選び、その血統に相応しい名馬となれるよう調教してくれるなら、光栄に思う」

「…………」

 返事に困るビヴァリーの代わりに、ドルトンが嘶き、早く二人きりになろうと言うように走り出す。

 馬場を横切り、あろうことか柵に突進していくドルトンに驚いたビヴァリーは、慌てて前を向いた。

 ぐっ、と一瞬速度が落ちて前脚が上がり、一緒に柵の向こうへ飛び込むように身体を伏せると振り落とされないようすぐに身体を起こした。

 綺麗に着地したドルトンは、一気に加速する。

 着地の衝撃だけではない、喜びと嬉しさで心臓は鼓動を早め、目の前の景色が一気に広がるような爽快感に、笑みがこぼれた。

 ドルトンの好きなように走らせながら、ビヴァリーはギデオンに言われたことを考えてみた。

 ギデオンのことは大好きだし、ビヴァリーが貴族じゃなくても歓迎すると言ってくれたのは嬉しかった。

 だが、ビヴァリーが競馬でお金を稼いでいると知って、ハロルドがどう思うかわからない。

 一度結婚が成立してしまえば、たとえ庶民であっても正式に離婚するのにはかなり面倒な手続きと時間を要するのだ。

(急ぐ必要もないんだから、慌てて結婚することはないと思うんだけど……)

 ハロルドが気にしていた婚外子という可能性もない今、急いで結婚する理由は見当たらない。

 物語のような大恋愛中の恋人たちとか、引き裂かれて再会した恋人たちなら、待ちきれないということもあるかもしれないけれど、ビヴァリーとハロルドはそんな関係ではない。

(マーゴットとテレンスは、ハルの初恋が『ビリー』だって言いたいみたいだけど、男の子だと思っていたわけだし……)

 ビヴァリーが集中していないことを覚ったのか、ドルトンが不満げに頭を振る。

「ごめん、ドルトン」

(ハルも、私と一緒で色んなことがいっぺんに起きて混乱しているだけかもしれない。素晴らしい景色の中、散歩させたら落ち着くかも……)

 ビヴァリーは、もあとで散歩させてみようと決め、軽くドルトンの首筋を叩いた。

「あとで、もう一度散歩に行くから……そろそろ帰ろうか。ドルトン」
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