菊花・零

春月 黒猫

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菊花・零

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御所、清涼殿・天皇の居室
「主上。お呼びでしょうか」
「ああ、恒矩つねのり。近う…人払いを」

女房の衣が板敷の床を軽やかに摺って去る音が消え、主上は重い口を開いた。

「恒矩…私がこのような事を頼めるのはそなたしかおらぬ」
「急に何を申されるかと思えば…どうなされたのです」

いつも強気なこの天皇、恒矩の母方の従兄弟でもある男がこの様にしおらしい事を言う時は、ろくでもない事を頼まれると恒矩は重々承知していた。
とても嫌なのだが、頼まれて拒める相手でもない。
…確信犯なのである。

「私の弟宮の事なのだが…」
實倖さねゆき親王様がどうされたのですか」

天皇には腹違いの弟宮が一人いる。
妹宮である内親王は五人ほどいるのだが
一緒に駆け回って遊べるのは弟宮だけということもあり、幼い頃はいつも一緒に女官の目を盗んで泥だらけになって遊んでいたと聞いていた。
しかし元服以来、すっかりおとなしくなってしまい参内もあまりしないので臣下の中では体が丈夫ではないのだという話になっていた。

「…此処だけの話なのだが…身持ちが宜しくないのだ」
「…はぁ」
「そう間の抜けた顔をするな。私も悩んでおるのだ…
これが世に知られればと思うと頭が痛い」

話によると、数年来おとなしくなったのは夜な夜な近侍のものや面識の無い町人や里の者を相手に享楽に耽っているという。
その相手が女房というのならまだしも、どうやら男だというのだ。

「…で、私に相談と言うのは…」

恒矩は頭の中にある實倖親王の印象が音を立てて崩壊していくのを感じながら、何とか言葉を紡いだ。
早く終わらせてしまいたかった。

「今まで同じ者を相手にする事は無かったし、そのような危険を冒すことも無かったのだが…
見張らせている者によるとここ三日立て続けに同じ殿上人の元に通っているというのだ」
「…良かったですね」
「ああ。…そこでだ。その相手というのが…そなたと親しくしておる右大将なのだ」
「!!」

右大将・藤原雅貴ふじわらのまさたかは一番親しくしている竹馬の友であった。
雅貴もまた、従兄弟にあたるので幼い頃よりの仲である。

「…まさか…雅貴が何か粗相でも?」
「粗相?…そうではない、それと知られずに二人の仲をより良くする為橋渡しして欲しいのだ。
どうやら實倖が本気のようでな。しかし何故か正体を明かしていないらしいのだ」

そういえば。
恒矩には思い当たる事があった。
二日程前、参内してこなかった雅貴を訪ねると、昨夜河原で出会った高貴な風情のある男と契ってしまったという。
誰かは解らないがどうやら殿上人のようだ、上等の菊花を焚き染めていたとも言っていた。

そのことを打ち明けると、主上は少し目を輝かせ、他には何と言っていた、と尋ねてきた。

「そうですね…どうやらその方の事で頭が一杯になって何も手につかないようです」

そう言うと満足そうに頷いていた。
恋煩いで参内をずる休みしてもこの際もう良いらしい。

「…恒矩。こういう策はどうであろうか。
そなたが調べてやったようなふりをして菊花の名手を手がかりとして右大将の鼻先にちらつかせてやるのだ」
「…楽しそうですね」
「楽しいとは…私はただ實倖に幸せになってほしいだけじゃ」

扇で隠した口の端が三日月のように笑んでいるのが解り、恒矩は溜め息をついた。

「…橋渡しだけですよ」
「さすが恒矩じゃ。頼りになる」

「私も…幸せになって頂きたいだけですから」

大切な存在には色々な形がある。
その幸せを願うのは当たり前だろう。

ならば、幸せを叶える方法も色々あるのだ。

傍に居ること
影から支えること
見守ること

どれを選ぶかも、また。
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