行きて帰りし物語

ミスミ シン

文字の大きさ
上 下
12 / 13
三章

しゅうげき

しおりを挟む
 翌朝、一足早く起きてきたエードラムが昨日作り置いていたマッシュポテトでポテトサラダを作っていると、勇大が目を擦りつつ一人で起きてきました。
 しかし勇大の保育園準備を始めても彼が起きてくることはなく、モニターで確認をしてみると未だにぐっすりと眠っているようです。
 よっぽど昨日疲れたのでしょうか。
 横を向いて丸くなって眠っている姿は胎児のようで、再び産まれ直す準備をしているようにも見えます。
 ループの日が近付いているから、なのでしょうか……それだとしたら、何と悲しい寝姿であることか。
「アイツまーだ寝てんのか?」
「ねてるー?」 
「よし、勇大。兄貴を起こして来い。今日は三人で保育園だ」
「いっしょにいくの?」
「あぁ」
 一向に起きて来ない彼にエードラムも気付いたのか、準備をしつつ勇大を彼の部屋に送り込みやがりました。
 あ、いえ……送り込みました。
 一緒に登園というのが余程嬉しいのか、勇大は意気揚々と階段を上がっていきます。
 わたしのモニターに映し出される彼の部屋には小さな侵入者が出現し、ジャンプして彼を襲撃しました。
 そのドスンバタンという音は下まで聞こえてきており、保育園バッグに勇大の荷物を詰めていたエードラムが思わず笑みを見せました。
 勇大の存在は本当に救いであると、もう幾度確認し直したかわかりませんがまたその気持ちが新たになります。
 彼だってきっと、このループを何度も経験し、何度も大事な人との離別を経験したことでしょう。
 まだ幼いあの子にはそれが何だかは理解出来ていないでしょうし、綻びにすらも気付いていないのかもしれません。
 ですがそれでも、彼やエードラムが死んで悲しまないわけがありません。
 あんな小さいのにたった一人取り残されて何が出来るというのでしょうか。
 あの子のためにも、全員が揃った状態でループから脱出しなければなりません。
 そうでなくては、意味はないのです。
 ようやく起きてきた寝ぼけ眼の彼に抱っこされて大喜びの勇大を見て、胸が痛みます。
 勇大が涙するような事態になってはいけない。
 いえ、勇大だけではなく、誰が涙をしてもいけないのです。
「お前も、筒に入れるぞ」
『留守番はいらないのですか?』
「こっから先は、バラバラってのはダメだろ。多分」
 エードラムの言葉が重く響きます。
 ここから先、バラバラに行動をすることは確かに戦力の分散にしかならないかもしれません。
 勇大はきっと彼らからは離れていたほうが安全なのでしょうけれど、少なくともわたしと彼とエードラムが離れているのは得策ではないでしょう。
「……出来れば勇大も、どこかに預けるのがいいんだろうけどな」
 アテはあるかと、暗にエードラムが問い掛けてきます。
 わたしは少し悩んでから、パソコンの中に保存されている彼の記録したほかの【勇者】のデータを表示させました。
 翌檜とガーラハドを除外するとなると、残りはほんの数人だけです。
 徐々にコミュニケーションをとれなくなった彼でありますので仕方が無いのでしょうけれど、この中の誰かに勇大を預けられる人は居るのでしょうか。
 どちらにしても翌檜とガーラハドを介さないといけないでしょうが、この家に居るよりは安全なのかもしれません。
「じゅんび!できたー!」
「おー。じゃあ行くか」
「んー……」
 まだ眠そうな彼をエードラムと勇大が左右で挟み、ノロノロと家を出ます。
 わたしも専用のケースに入れられ彼の背中に揺られておりますが、つい笑いが零れそうになります。
 まったく平和な光景であることですが、この先のことを考えると物悲しさしか出てきません。
 この平和な日々を続けるために戦いを始めようとしているというのに、何故こんなにも悲観的なことばかりを考えてしまうのでしょうか。
 それではいけないとは思いつつも、ついつい意識が暗い方向へ向かってしまいます。
 必ず勝つ、勝とうと思っているのに、いつまでこの光景を続けられるのかと、そればかりを考えてしまうのです。
「あー!ねこー!」
 ゆっくりゆっくりと、まるで惜しむように歩いていると、跳ねるように歩いていた勇大がぴたりと足を止めて壁の上の丸い物体を指差しました。
 それは確かにふかふかとした長毛種の猫で、黒い体毛の所々に金色が混ざっているのが特徴的な猫でありました。
 動物の大好きな勇大は壁に近寄り猫に手を振ったり声を掛けたりをしておりますが、猫は退屈そうに壁を撫でるように尻尾を振りながらこちらに視線を向けるだけです。
 猫。
 黒に金色の毛並みの、猫。
 ゾクリと、身体の中を何かが駆け抜けるような感覚が走りました。
 いけない。
 これはいけないのだと、何かが訴えかけるようなそれに、わたしは状況も忘れて叫びそうになりました。
 同時に動いたのは、彼でした。
 背にしていたわたしをかなぐり捨てて、ほんの少しだけ離れている勇大に手を伸ばし、抱き寄せて、
 

 
 それから、血が、しぶきました。

 
 
『まったく愚かよ。何度経験しても、学習をしない』
 地面を叩く血にか、それとも脳に直接叩きつけられるその声にか、わたしは呆然と地面に転がっておりました。
 黒と金の毛の猫は、ゆらゆらと尻尾を振りながらこちらを見下ろしています。
 それは、まるで、かつてと逆の、ようで。
 かつて?とは?
いつのことなのでしょう?
 そうは思うのですけれど、思考はまるで動いてはくれませんでした。
 地面に伏す、身体があります。
 幼子を胸に抱くようにして蹲るその姿に、エードラムが悲鳴のような、怒号のような声をあげて駆け寄りました。
 その声は威嚇であったのか否かは、わたしには、判断が出来ません。
 が、猫は、スカーと呼ばれるのだろうその存在は、ひらりと彼等から離れ距離をとりました。
「おい!おいしっかりしろ!!」
 駆け寄り抱き起こした彼は、目を見開いて幼子を抱き締めておりました。
 その手には深い深い傷が穿たれ、穴でも開いているかのように見えるそれは彼の腕を貫通して勇大の体に突き刺さって、いました。
 その身を抱き締める彼の腕から放たれている光は、治癒の光。
 胸を喘がせる幼子の身体を包み込むそれを必死に放ち続ける腕は血を噴出し続けていて、わたしは滑稽なくらいに動揺をしておりました。
 咄嗟に、翌檜とガーラハドへの緊急回線を開きます。
 まさか、まさかスカーへの対策を話し合っていたほんの翌日に、こんなことになる、なんて、
 わたしは
 わたしは……
「テメェがスカーか……っ!」
『はじめまして、ではないのだがね』
 「知るか!何度会ったかなんてどうでもいいんだクソ野郎が!」
 彼と勇大をかばうように立ったエードラムは地面に転がっているケースのベルトを器用に足で手繰ると中からわたしを引き出して抜き放ちました。
 こんな往来で戦えば周囲に影響が及ぶこと必至ですが、一方的に攻撃を仕掛けてきた相手を前にして丸腰ではいられません。
 わたしも、動揺している感情を必死にセーブして対魔物用の機能を解放しました。
 対魔物用のこの機能を解放すればわたしは太古の魔術を身に帯び、魔物の存在そのものを消滅させる力を持つ一撃必殺の武器となります。
 その機能がエードラムにどう影響するのかは流石に確認をしてはおりませんが、勇大を抱えている彼が動けない以上はエードラムがわたしを持つしか、ないのです。
 彼は目を見開き真っ青な顔をしたまま、動きません。
 治癒魔術は魔術の中でも相当に高位に属するものであり、強い集中を必要とします。
 しかしそれ以上に、彼の心の中にとてつもないショックが渦巻いていることは明白でした。
 ここで勇大を失ったら、二人が生きていたとしても彼の心にはとてもとても大きな傷が残ったままになるでしょう。
 そうでなくても、こんな小さな命を目の前で失うなど、耐えられるものではありません。
 あぁ何故、もっと早くに行動を起こしておかなかったのか……悔いばかりが重なって積み重なって澱のように沈殿していくようです。
 その中にあって、エードラムはスカーを睨みつけながら戦う体勢をとっておりました。
 周囲に視線を走らせ誰も通らないのを確認しながら、勇大を抱えている彼をまた抱えるようにして徐々に距離をとります。
 攻撃をするには近付いているしかない。
 けれど、今の状態の彼をスカーに近づけているのが得策であるとは、思えませんでした。
『まったく、魔王たる者が人間を庇うなどとは情け無い』
「るっせぇ。関係ねぇだろうがっ」
『その者が、お前を手中にするためにお前の魔力の源を手折ったのだとしても、か?』
「あぁ?」
 スカーの言葉に、エードラムの眉間の皺が深くなり、彼の肩がびくりと揺れました。
 馬鹿を言うな、と言いかけて、わたしは何も言えずに無言を貫きました。
 確かに、彼のしようとしていた事を考えるとスカーの言うことは事実と相違ないのでしょう。
 彼はエードラムを生かすために、エードラムと共に生きるために、その魔力の源を奪い取ったのです。
 最初は故意ではなかったのかもしれませんが、それは事実ですから、言い訳は出来ません。
 「だから?」
 案の定、エードラムもそれがどうしたと言いたげな表情でスカーを見詰めました。
 スカーはほんの少しだけ眉間をピクリと動かしましたが、凡そ猫らしくない表情で彼を見ると高らかに笑い、
『なるほど、懐柔済みであったのか』
「懐柔じゃねぇ」
『まったく、弱々しいことよな。魔王よっ!』
 言葉と共に、スカーの背後に真っ黒な魔力が渦巻きまるで波打つようにゆらゆらと揺れ始めました。
 あまりに巨大すぎる魔力の奔流に、咄嗟にエードラムが彼と勇大を抱え込んでわたしを前にかざしました。
 直後に襲い来る、衝撃。
「ぐっ!」
『これはっ……』
 わたしは対魔物用に開発された兵器であり、闇の魔術に特段の耐性を持っている存在です。
 闇の魔術を切り裂くなどお手の物。
 闇の魔力に反応して防護壁を張るのもお手の物、だったはず、なのに……
『重すぎるっ……!』
 スカーの魔力は、圧倒的過ぎました。
 わたしの防護壁にヒビを入れ押し戻し、まるで濁流の中に小石を投げ込んでいるかのように些細な抵抗であるように翻弄し始めました。
 どうにも出来ない。
 これは、こんな強大な魔力を、わたしは、
 わたしはっ……
「頭を下げろ!!」
 困惑しただただ闇の魔力の奔流を見詰めているだけだったわたしは、轟々という音の合間に声が聞こえてきたと思った瞬間に地面に叩き落されておりました。
 何事か、と考えている猶予もありません。
 ただ、エードラムに思い切り地面に投げ捨てられたという事だけは、はっきりと分かりました。
「やれやれまったく、こんな往来でおっぱじめているとはなぁ」
 苦笑交じりの声が一体誰のものであるのかは、考えるよりも先に分かりました。
 センサーを上方に上げれば、我々の目の前に存在している輝く大きな盾。
 これが我々を囲う結界の一部であるのは、疑いようがありませんでした。
『貴様等は……』
「はっはっは、勇者さま登場だ」
「お待たせしました……大丈夫ですか」
 ガーラハドと、翌檜。
 我々を助け起こしてくる腕の主を確認して、わたしはがっくりと身体から力が抜けたような錯覚を覚えました。
 来てくれた、間に合ってくれた。
 安堵であるのか喜びであるのか分からない疲労に、エードラムもまた溜息を吐きつつ立ち上がっておりました。
 しかし彼だけは、じっと勇大を抱き締めたまま動きません。
 翌檜は彼の腕の中の勇大と彼の発している治癒魔術に気付いたのか、彼の肩をそっと抱いて少しずつ後方へと退避してくれました。
 ありがたい。
 今の彼では、恐らくは戦力にはなれないでしょうから。
『まったく、忌々しい勇者どもめ……』
「褒め言葉として受け取っておこうか」
 地面に立てていた身を覆うほどの盾を再び手に取り、ガーラハドはエードラムと共に翌檜たちを庇うように立ちました。
 スカーは実に忌々しげに唸ると、ほんの少しだけ前身を前に倒して警戒するようなポーズをとります。
 見れば、スカーの口からはボタボタと黒い血が流れ出しておりました。
 巨大な魔力の影響であるのか、それともそれをガーラハドと翌檜に弾き返された余波であるのか。
 その血の色は、まるで闇を吐き出しているかのように真っ黒で、やけに気味が悪く見えました。
「スカー、テメェはなんなんだ。何でオレを狙う?」
 援軍が来たことで少し余裕が出たのか、わたしを油断なく構えながらエードラムが問いました。
 なんなのだ、とは、あまりにも抽象的過ぎる問いではあります。
 しかし実際そう問うしかなく、そう問う以外には適切な言葉が見つからないのもまた現実でした。
 するとスカーは前に倒していた体を持ち上げると、本物の猫のようにシャンと座ると尻尾で壁を撫でるようにゆらゆらと揺らしながら、愛らしい動作にはまるで似合わぬ笑みで、笑いました。
『我はお前ぞ、魔王エードラム』
「あぁ?」
 口からぼたぼたと黒い血を吐き出しながら、黒い猫が不気味なくらいに低い声で笑いながら言いました。
『お前から抜け落ちた魔力こそが我、我の肉体こそがお前』
「なんっだ……そりゃあ……」
『良いのか?勇者よ。我を殺せばまた全てがやり直しになるぞ?お前はすでにそれを見たであろう』
 翌檜に肩を抱かれた彼が軽く息を呑み、唇を噛み締めるのがセンサーの端に見えました。
 そういえば、彼はスカーを倒したことがあると言っておりました。
 しかし、スカーが絶命する時にエードラムもまた死亡し、ループが発生したのだと。
 つまりは、つまりは……スカーを倒すことは出来ないという、ことなの、でしょうか。
 スカーとエードラムが同一の存在であり、スカーがエードラムの魔力であるという事は、そのままスカーこそがエードラムの命の源であるという事を意味しています。
 魔力で肉体を構成されている魔物は、魔力を全て失えば肉体を構築することが出来なくなり霧散する。
 それ故、魔物と戦う者はまず魔物の魔力の源を叩き壊し、人間で言う魔力回路の根本になるべき部位を切断するのです。
 それが頭部であったり腕であったりは様々ですが、エードラムの場合には魔力の源は両の角であり、その魔力の源がスカーであったと、そういう事になります。
 両の角が消失していればエードラムも恐らくは魔力そのものを失っていたことでしょうが、両の角は姿を変えてスカーとなって目の前に居る。
 だから、彼は魔力の源を失い人間のような姿に堕ちても魔力自体は失うことがなかったと、そういう事、なのでしょうか。
 そんな、それでは、どうすることも出来ない……
『わたしは再三お前に魔王へ戻り同化せよと申し伝えてきた。お前は、拒んだがね』
「ったりめぇだろうが。テメェみてぇなのと一緒になるとか気色わりぃ」
『人間となることのほうが、屈辱だと思うのだがね?』
「言ってろ」
 理解が及んで、きました。
 スカーがエードラムを狙ってきた理由は、再び肉体を得るため。
 しかしすでに彼と気持ちを通わせていたエードラムは再び闇の世界へ戻る事を拒み、その結果スカーは実力行使に出たのです。
 けれどそもそもの魔力を失っているエードラムが、自分の魔力そのものであるスカーに勝てるわけがありません。
 失敗した、と、翌檜が呟くのが聞こえました。
 わたしも同時に同じことを考えて、おりました。
 エードラムが昨日までしていた修行は魔力を取り戻すための修行であり、身の内の魔力を強化するための修行。
 ですがそれは、結果的に魔力タンクとも言えるあのスカーを強化することにしかならなかったのです。
 彼の膝が折れ、翌檜に支えられました。
 表情の変わらぬその顔にあるのは、はっきりとした絶望、でした。
 彼に残されているだろう唯一の感情は、悲しみ。
 その悲嘆の全てを身に抱き、どうしようもない絶望に苛まれているだろう彼の手から、太古の本が虚しく音をたてて、落ちました。
『愚かなりや太古の勇者よ。貴様は最期まで虚しく我に抵抗しながら魂そのものまで消滅をするのを待つだけなのだ』
 猫の姿とは思えぬ重圧で高笑いながら、スカーの全身から黒い魔力が放たれました。
 剣を持つエードラムと盾持つガーラハドがそれを弾きますが、しかしそれだけで全てを払いのけられるような量ではありません。
 翌檜が結界を張ってもその魔力はガラスに濁流でもぶち当たったかのような音を立てて結界を苛み、あまりの重さに絶句をするしかありませんでした。
 エードラム単体の放つ魔術はここまでの重さは持っていませんでした。
 彼の結界で弾ける程度、わたしの刃で切り裂ける程度。
 その程度であった魔力が、太古の秘薬によってエードラム本人の魔力回路が全開になっているというだけでここまでの重みを持つとは、流石のわたしも想像もしておりませんでした。
 人間の魔力回路とは根本的に異なる魔物の魔力の源。
 その意味を身体に刻まれたような心地になります。
「……そう何度も、弾けない」
「参ったなぁ、こりゃあ」
 翌檜の結界に退避しつつ、ガーラハドが魔力で砕かれた盾を捨てながら苦笑しました。
 ガーラハドの盾が砕かれるなど、わたしは今まで見たこともありません。
 それほどまでに強力な魔力。
 それを絶つには、その源を根絶するしか、ありません。
 しかしそれは結果的にエードラムの死を意味します。
 エードラムが死ねばループが起こり、あと数回か猶予も無いそれを繰り返せば、彼が消滅する。
 八方塞がりすぎて、泣きそうです。
 勝てる見込みが無さ過ぎて、希望が見出せない。
『エードラムよ、我が器に戻れ。さすれば、其処の者たちの命くらいは助けてやろう』
「はっ……よく言うぜ。どうせ今日は助けても明日には殺す、とかそんなんだろうが」
 エードラムも、それは分かっているのでしょう。
 じっとりと手に滲んだ汗で柄が滑り、何度も何度も握り直しています。
 こうなると、エードラムが人間のままループを脱却する方法はひとつ……このままループし続けて、彼の消滅を待つしかありません。
 彼が消滅すれば契約者不在による不履行が発生し、ループは消失することでしょう。
 恐らくは最近の彼が狙っていたそれは、しかし絶対に受け入れられないものでもあります。
 けれど他にループを抜ける方法は、ありません。
 ループの時間軸の中で生活をしていてもその世界自体の時間が進むのかも分からず、何年何十年を過ごせても彼等に寿命が来ればまた全てをやり直させられてしまう、終わりの無い世界が待つ事になります。
 そうして、結局は彼が消失し終わるのを待つしかない……結果は、同じです。
「僕、が……」
 スカーの魔力が止まるのとほぼ同じタイミングで、濁流を光の無い目で見詰めていた彼の唇が震えました。
「僕、が……願わなければ……」
「おいっ」
「僕、の……せい……」
 彼の腕の中の小さな身体はピクりとも動かず、傷が穿たれた腕からはまだ血が流れ続けています。
 これでは恐らく時間が経てばどちらの命も危ない。
 傷を侵食する闇の魔術は、生きる力すらも奪いじわじわと生命を脅かし始めておりました。
 しかしそれ以上に、絶望に塗られた彼の表情からは生気が薄れつつありました。
「お前の、じゃねぇだろ。あの家に住むのを決めたのはオレだっつーの」
「…………」
「冗談じゃねぇ。オレはお前等と暮らすって決めたんだ。人間になるって決断をするにも時間が掛かったつーのに、また戻って来いとかふざけんなっつんだ」
 来週は勇大の保育園のお遊戯会があるだろうが、みんなでちゃんと見に行くって約束した。
 作り置きの飯をとっとと食わないとテーブルの上に置きっ放しだからダメになっちまう。
 この間貰った取って置きの菓子をまだ少しも食ってねぇんだから戻らないわけにはいかない。
 まるで再確認をするように、エードラムの言葉は未来についてを話しながら止まりませんでした。
 そのひとつひとつはとても小さくて、とても素朴なものでしかありません。
 しかしそのどれもが希望に満ち、やりたいという願いで覆われておりました。
「知ってるか、おい。勇大のやつお絵かきの時間にお前とオレを描いたんだってよ。お遊戯会のときに保護者にお披露目で、その後持って帰っていいんだってな」
「ははは、そりゃあ是非とも見ないと勿体無い」
「羨ましいですね。我々も描いて欲しいくらいです」
 壊れた篭手も捨てて槍を持ち直しながら、ガーラハドが笑いました。
 彼の肩を支え杖を握りなおしながら、翌檜も笑いました。
 忌々しげに鼻の頭に皺を刻むスカーの喉からおぞましい声が上がり、しかし誰もがそれに少しも怯みませんでした。
 希望を持てるのは人間の特権。
 未来を夢見るのもまた、人間の特権。
 それを知った以上、エードラムを引き戻すものも、我々を止めるものも、最早ありませんでした。
『下らぬ人間風情が!よかろう、また絶望だけの過去へ引き戻してやるっ!』
「猫の姿で言われてもなー?」
『消えよ!!』
 再び、スカーの背におびただしい量の魔力が渦巻きました。
 それを見詰めながら、わたしはひたすらに己の中に存在する太古からの記憶を検索し続けておりました。
 エードラムが死ななくていいように、彼が消えなくていいように、スカーを倒せるように。
 そんな都合のいい呪文も武器も存在はしているはずがないのですけれど、それでも、神とも呼ばれた方々に縋りたくてたまらなかったのです。
 彼等は絶望しか抱けなかった人間に希望を与えました。
 勇気を奮い立たせた者たちに武器を与えました。
 今また、この世界の端っこで絶望に包まれている彼を守る希望を下さいと、そればかりを願っていました。
 三度目の、魔力の本流。
 闇に抗うわたしの輝きと翌檜の結界を重ねても肉を裂き心を萎えさせるそれに、エードラムの肩が深く傷を受けました。
 最早我々の中で無傷の者は居らず、結界を張るだけで魔力が失われていきます。
 何とかしなければ、全員死ぬ。
 わたしは、身にヒビが入る音を聞いたような、気がしました。
「あっ!」
 わたしとエードラムの背後で、翌檜の悲鳴が聞こえました。
 一体何だとセンサーをそちらに向けようとしたとき、視界の端を赤い影が走り抜けたことに気付きました。
 その影は闇の魔力の中に突っ込んで、驚くべき速度とパワーで魔力の渦を引き裂き突破しました。
 わたしの、勇者。
 止める間もなく、彼の硬く握られた拳が猫の身に埋め込まれ、その衝撃にか魔力にか猫の立っていた壁がハンマーでも食らったかのように粉砕されました。
「死なっ、ない!」
 死なせないっ
 そう叫びながら、再び振るわれた魔力を帯びた拳がスカーの頭部のほんの数ミリ隣を粉砕しました。
 恐らくコンマ数秒、スカーの回避が遅ければその頭部は彼の大きいとは言えない拳に叩き潰されていたでしょう。
 それをダメージも感じさせぬ身のこなしで回避したスカーは、闇の魔力を槍のように細く長く収束させると連続で彼に打ち出しました。
 しかし彼はやはり素手でそれを叩き落し回避すると、腕から流れる血はそのままに再びスカーに肉迫しました。
『す、凄い……』
「さ、流石は太古の勇者」
「馬鹿野郎!」
 押し付けられた勇大を抱えなおしながら呆然と呟くガーラハドに同調すると、それを叱咤したのはエードラムでした。
「あんな戦い方してたら潰れるに決まってんだろうが!あの馬鹿、全身から魔力噴き出してやがる!」
「あれでは、魔力回路がズタズタになってしまいますっ」
 戦闘に加わろうと反射的に駆け出したエードラムは、しかし襲い来る闇の魔力と彼の魔力の混ざり合った衝撃に押し流されてたたらを踏むしか出来ませんでした。
 危く弾かれそうになったわたしも、ただ見つめるしか出来ません。
 翌檜が言うようにあれではいずれ失血と魔力回路の使用過多で身体がダメになってしまうかもしれません。
 けれど、でも、ではどうやって止めればいいのか。
 止めたところで、何が出来るというのか……
 悩むわたしがそれに気付いたのは、再び突入をしようと自分の身の回りに結界を張ろうとしたエードラムがわたしを脇に抱えなおした時でした。
 視界の端でうっすらと光を放っていたそれは、彼が持っていた太古の本、でした。
 まるで彼の魔力に反応するように明滅を繰り返す太古の本は風でページをパラパラと自動で泳がせていて、そのどのページにも魔力が宿っているのが目に見えたのです。
 太古の本。
 太古の方々が魔力を持つ字で直接記した、それ自体が莫大な魔力を秘める伝説の書物。
 わたしは、ひとつのひらめきを得ました。
『我が勇者よ!!スカーを倒してください!』
「!」
「おいっ!」
『大丈夫です!そのまま、殺してしまってください!』
「バルィッ!?」
 エードラムが、ガーラハドが、翌檜が、驚愕しわたしを咎めるように視線を向けます。
 スカーを殺せと言うという事は、エードラムにも死ねと言っているのと同じ意味を持っているというのは流石のわたしにも分かっています。
 けれどそれだけではない。
 それだけでは、ないのです。
 魔力を放ちながら一度後退した彼の視線が、わたしに向けられました。
 表情はなく、血塗れの顔にあるのは困惑と、ある種の決意。
『大丈夫です、わたしを信じてください』
 その目に向けるように、今度は静かに、わたしは言いました。
 途端に視線を外されたのは、それ自体が返答だったのでしょうか。
 彼は着ていたジャケットの裏に装着していた銀の短剣を抜き放つと、再びスカーに相対しました。
『愚かななまくらが!我を殺せると思うておるのか!』
『愚かはお前です。我が勇者はお前になど負けはしないっ』
『言わせておけばっ!』
 膨れ上がる闇の魔力に、反射的にエードラムが翌檜の傍に退避をしました。
 彼が間に割って入って魔術が放たれる勢いを削いでも、普通の人間にとってはスカーの魔力は一撃必殺のもの。
 一人で防げるものではないのです。
 しかしこれはわたしにとっては僥倖でした。
『エードラム。その本を拾いなさい』
「あぁ?これか」
『そしてそれをわたしと重ねて、胸に抱いたままで居てくださいっ』
 わたしの声はエードラムに聞こえたのでしょうか。
 襲い来る闇の魔力の激突に膝をついたエードラムは、苦心しながら本を抱え込むのに精一杯といった表情でした。
 最早翌檜も立っていることが出来ず、ガーラハドと共に勇大を抱え込むようにして守るのが精々で。
 それでも、わたしは最奥から引きずり出してきた過去の知識を全身に行き渡らせながら、闇の魔力の向こうで戦う彼に視線を向けておりました。
 我が勇者。
 今尚心折れず、わたしを信じて刃を振るう勇気ある者。
 わたしは彼のためならば何でもしてあげたかったけれど、身体を持たぬ存在では何も出来なくて幾度臍を噛んだことか。
 だから、せめて、出来る事があるのならば存在をかけてでも達成をしなければならないのです。
 ひとつでも、彼のために出来ることがあるのならば、何だって。
「くっそ……!」
 血反吐を吐きながら、エードラムが本ごとわたしを自分の胸に抱きました。
 そうすると、本を挟んでいるというのにエードラムの心臓の音が確かにわたしに流れ込んで来るような錯覚に囚われます。
 それにしても、あぁ、太古の本の魔力の何とあたたかな事か。
 知らぬというのにまるで母の腕に抱かれているようなそのあたたかさに、わたしは存在しない腕を、本に向けて伸ばしているような感覚に陥りました。
 太古の人々は、人間の救いになるようにとわたしをお創りになられました。
 それを考えると、わたしにとってはこの本は母なる御手の一部であるのかも、しれませんが。
 また放たれようとしたスカーの魔術を、彼が懐に飛び込んで相殺しているのが視界の端で見て取れました。
 しかしその彼の身体は血で塗れ、最初に穿たれた腕は最早だらんと下がり彼の動きと共に情けなくぶらぶらと動くばかり。
 見ていられなかったのか、エードラムがわたしの柄をとって駆け寄ろうとしました。
 けれどその足は踏み出される事はなく、闇の重圧に負けてガクリと膝を折るだけで終わりました。
 闇の魔術はエードラムの魔力回路を通ってスカーによって放たれているために、その負荷はエードラムただ一人に掛かっているのでしょう。
 魔力回路と魔力の源を切り離す事で自分に負担を及ぼす事もなく強力な魔術を連発するだなんて、人間では考えられないことです。
 しかし、魔力の源が別にあり、それが命の根幹であるというのなら……
『エードラム、本を離さないで下さいね』
「何を……する気だ」
『さぁ、なんでしょうね』
 それはただの賭け、でした。
 存在自体が魔力の塊である魔王は、魔力の源を失えば消滅する。
 けれど今のエードラムは魔王でありながら人間でもあり、魔力の源以外でも自らの肉体を構成させる事が出来ている。
 しかしそれでも、魔力の源が存在している以上は、魔力の源が消失すれば、彼は道連れにされて死ぬ……
 ならばスカーが完全に消滅し、エードラムが完全に人間となるまでの間命を繋いでやれる、別の魔力の源を用意してやればよい。
 わたしは、太古の人々に刻まれた記憶の中から魔術文字に命を吹き込む魔術を、引っ張り出しました。
「!!」
 驚愕に、エードラムが身体を震わせます。
 元々わたしは対魔物用兵器であり、持ち手の魔力に反応して自らの刀身に対魔物用の魔力を帯びさせる能力しか有していない存在です。
 しかし、持ち手の魔力に反応する事が出来る機能のお陰で出来ることが、あるのです。
「バルィ!」
 彼の声が、聞こえてきました。
 あぁ我が勇者よ、貴方がこんなにも声を荒げるところを、わたしは一度も見たことがありません。
 そう、一度もです。
 貴方は今まで幾度戦いを経験しても、悲しみの慟哭すらも上げませんでした。
 それでも、我が身を案じ声を上げてくださいますのか。
 何と、嬉しいことなのでしょうか。
 エードラムの闇の魔力と、太古の人々の光の魔力。
 相反するふたつの魔力に反応を返せば、恐らくわたしは無事ではいられぬ事でしょう。
 わたしを掴んでいるエードラムの魔力に呼応して、わたしに触れている太古の本の魔力と同質のものへと変換をさせる。
 それが、わたしがこれから行おうとしている賭けで御座いました。
 わたしの中に記録されている様々な魔力への対応手段。
 その中のひとつに、闇の魔力に汚染された大地を浄化していくためのプロセスが残っていることを、思い出したのです。
 それは単純に泥水の中に真水を延々流し込んで徐々に透明度を上げていくような、気の長くなるような手段です。
 しかしエードラムの魔力と太古の本とを共鳴させる事が出来たなら、太古の本が彼の魔力の源の代わりとなってエードラムが生き延びられるかもしれません。
 出来ないかも、しれません。
 けれど、出来ない可能性に怯えている場合ではないのです。
 彼がずっと、ほんの小さな可能性に賭けて戦い続けていたように、わたしだってこの身を投げ打ってでも先へ進まなければならないのです。
 ビキリと、硬い物にヒビの入る音が聞こえた気がしました。
 それが身の内から発せられているのか、それとも違う所からなのか、それはわかりません。
 我が視界に入るのは最早太古の本から発せられる白い輝きと、エードラムの逞しい腕のみでしたので。
 あぁ我が勇者よ、誇らしく御座いました。
 貴方と戦ってきた日々は、貴方の腕にあった日々は、わたしにとっては何よりも誇らしい日々でありました。
 貴方がわたしを信じて戦ってくれたことは、何よりも喜ばしい事実でありました。
 ただ、惜しみます。
 今一度貴方の笑顔を見たかった。
 今一度、貴方の名を呼びたかった、のですけれど。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】イケメン騎士が僕に救いを求めてきたので呪いをかけてあげました

及川奈津生
BL
気づいたら十四世紀のフランスに居た。百年戦争の真っ只中、どうやら僕は密偵と疑われているらしい。そんなわけない!と誤解をとこうと思ったら、僕を尋問する騎士が現代にいるはずの恋人にそっくりだった。全3話。 ※pome村さんがXで投稿された「#イラストを投げたら文字書きさんが引用rtでssを勝手に添えてくれる」向けに書いたものです。元イラストを表紙に設定しています。投稿元はこちら→https://x.com/pomemura_/status/1792159557269303476?t=pgeU3dApwW0DEeHzsGiHRg&s=19

婚約破棄したら隊長(♂)に愛をささやかれました

ヒンメル
BL
フロナディア王国デルヴィーニュ公爵家嫡男ライオネル・デルヴィーニュ。 愛しの恋人(♀)と婚約するため、親に決められた婚約を破棄しようとしたら、荒くれ者の集まる北の砦へ一年間行かされることに……。そこで人生を変える出会いが訪れる。 ***************** 「国王陛下は婚約破棄された令嬢に愛をささやく(https://www.alphapolis.co.jp/novel/221439569/703283996)」の番外編です。ライオネルと北の砦の隊長の後日談ですが、BL色が強くなる予定のため独立させてます。単体でも分かるように書いたつもりですが、本編を読んでいただいた方がわかりやすいと思います。 ※「国王陛下は婚約破棄された令嬢に愛をささやく」の他の番外編よりBL色が強い話になりました(特に第八話)ので、苦手な方は回避してください。 ※完結済にした後も読んでいただいてありがとうございます。  評価やブックマーク登録をして頂けて嬉しいです。 ※小説家になろう様でも公開中です。

高嶺の花宮君

しづ未
BL
幼馴染のイケメンが昔から自分に構ってくる話。

モフモフになった魔術師はエリート騎士の愛に困惑中

risashy
BL
魔術師団の落ちこぼれ魔術師、ローランド。 任務中にひょんなことからモフモフに変幻し、人間に戻れなくなってしまう。そんなところを騎士団の有望株アルヴィンに拾われ、命拾いしていた。 快適なペット生活を満喫する中、実はアルヴィンが自分を好きだと知る。 アルヴィンから語られる自分への愛に、ローランドは戸惑うものの——? 24000字程度の短編です。 ※BL(ボーイズラブ)作品です。 この作品は小説家になろうさんでも公開します。

誰よりも愛してるあなたのために

R(アール)
BL
公爵家の3男であるフィルは体にある痣のせいで生まれたときから家族に疎まれていた…。  ある日突然そんなフィルに騎士副団長ギルとの結婚話が舞い込む。 前に一度だけ会ったことがあり、彼だけが自分に優しくしてくれた。そのためフィルは嬉しく思っていた。 だが、彼との結婚生活初日に言われてしまったのだ。 「君と結婚したのは断れなかったからだ。好きにしていろ。俺には構うな」   それでも彼から愛される日を夢見ていたが、最後には殺害されてしまう。しかし、起きたら時間が巻き戻っていた!  すれ違いBLです。 ハッピーエンド保証! 初めて話を書くので、至らない点もあるとは思いますがよろしくお願いします。 (誤字脱字や話にズレがあってもまあ初心者だからなと温かい目で見ていただけると助かります) 11月9日~毎日21時更新。ストックが溜まったら毎日2話更新していきたいと思います。 ※…このマークは少しでもエッチなシーンがあるときにつけます。 自衛お願いします。

陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 まったり書いていきます。 2024.05.14 閲覧ありがとうございます。 午後4時に更新します。 よろしくお願いします。 栞、お気に入り嬉しいです。 いつもありがとうございます。 2024.05.29 閲覧ありがとうございます。 m(_ _)m 明日のおまけで完結します。 反応ありがとうございます。 とても嬉しいです。 明後日より新作が始まります。 良かったら覗いてみてください。 (^O^)

そんなの聞いていませんが

みけねこ
BL
お二人の門出を祝う気満々だったのに、婚約破棄とはどういうことですか?

キミと2回目の恋をしよう

なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。 彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。 彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。 「どこかに旅行だったの?」 傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。 彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。 彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが… 彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?

処理中です...