行きて帰りし物語

ミスミ シン

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二章

すくうて

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 それからも、我々の生活は特には変化することはありませんでした。
 彼はいつものようにエードラムを無視して生活をし、勇大は不思議そうにしながらもエードラムに懐き甘えました。
 もしかしたら勇大の反応も、今まで培ったものがあったからこその甘えなのかもしれません。
 不思議と一度それと知ってしまうと、色々と納得のいくものが沢山存在しておりましたし、逆にすんなりと自分の感情を受け入れられたように思います。
 しかしそれで納得して日々を過ごしていたわけではありません。
 当然のこと、このまま過ごしていればエードラムは死へ向かうだけですし、エードラムが死んでしまえばもう幾度目かもわからぬ絶望を、彼は抱かなくてはならないからです。
 ですので、エードラムはまず少しでも魔力を取り戻すための修行を始めていました。
 エードラムは魔力の源を失っておりますが、身の内にある魔力が完全に失せたわけではありません。
 それは今までに比べてずっとずっと弱い力になっておりましたが、まずはそれを少しでも強めようと考えたのです。
 何をするかと言えば、ただ闇の中で集中を繰り返すというそれだけです。
 そもそも魔物と人間では魔力の質というものが違います。
 人間は太古の人々から与えられた魔力を練り構築することでひとつの魔術とし、扱います。
 強い魔術を使おうとすれば沢山の構築が必要となり、一本の糸を手で編んで縄にするように繊細で大変な労力を使ってしまうものです。
 ですが魔物はそもそもが身の内に魔力を持つ存在であり、身体自体を構成しているのもまた魔力なのです。
 それがゆえに、エードラムは自分の身体の状態を再確認することでほんの少しでも身の内の魔力を強くしようと考えたのでしょう。
 それに関しては、わたしは一切口出しを出来ませんでした。
 何しろわたしは魔物については知っていても、その生態についてはほとんどを知りません。
 例えば繁殖をどうしているのだとか、知能を持っている魔物と低知能の魔物の違いであるとか。
 けれど彼が、確かに生き延びようとしているのだけは痛いくらいに感じておりました。
 それが自分のためであるのか、それとも彼のためであるのか、その双方であるのかはわたしには分かりません。
 もしかしたら、エードラム本人にだって分からないのかもしれません。
 とにかく生き延びること。
 それが、このループから抜け出し、新たな未来へ進むための大事な一歩となるのですから。
「何か、隠してない?」
 そんな日々が七日ほど経過した頃でしょうか。
 珍しく午前の講義がないとかでのんびりと朝食をとっていた彼が、わたしを眺めつつそう言いました。
 わたしは思わず言葉を止め、時計に意識を向けます。
 今日の勇大のお見送りはエードラムが出ていて、帰宅まではあと一○分か一五分といったところでしょうか。
 時間ははっきりはしませんが、保母さんとお話をしていたらもう少し時間は掛かるかもしれません。
 彼と話すには、その時間は決して長い時間というわけではないでしょう。
 しかし、何もないと誤魔化すには長すぎる時間です。
『何か、とは?』
「そわそわ」
 独り言のように呟きながら、彼はゆっくりゆっくりと食事をしていました。
 元々彼はあまり食べるのが早い方ではありません。
 勇大と比べてもまだ遅く、時には食べ切れないままに残してしまうこともありました。
 戦う者としてそれで身体は大丈夫なのだろうかと考えこそすれ、食事くらいはゆっくりと摂って欲しいと思う部分もあり、その辺を我々は何も言った事はありません。
 しかしやはりこれも、小さな違和感のひとつでした。
 彼はもしか、この食事に関しても対価として差し出してしまっているのではないかと思うくらいには。
「仲良しなのは、いいことだけど」
『仲良し……ですか』
「僕抜きでも、ちゃんとやれるように、なってもらわないと」
 その言葉の意味を問う前に、彼は食事を全て食べきらないままに片付けを始めました。
 僕抜きでも、とは一体どういう意味、なのでしょうか。
 いえ、意味は分かるのです。分かりはするのです。
 でもそれは、分かってはならないもののような気がして仕方がないのです。
 わたしは思わず、全てを知っているのだとぶちまけたくなりました。
 彼の真意を聞いて、今後の対策を一緒にたてようと、言いたくなりました。
 しかしエードラムが自らそれを言い出さない以上は、わたしが言い出してもいいのかがわかりませんでした。
 そこまでわたしが立ち入ってもいいものなのかが、わかりませんでした。
 彼はそれ以上は何も言わず、瓶詰めにしてあるブラックオリーブを一粒だけ食べて部屋に戻りました。
 何もない、彼の存在すらもがない、自分の部屋です。
 彼は最近、勇大の世話もエードラムに任せて部屋にこもる事が増えてきておりました。
 そこで何をしているのか、何もしていないのかも、わかりません。
 まるで拒絶するようでもあり、何かの準備をしているようでもある姿に、わたしは何も言うことが出来ませんでした。
 ただわかるのは、夜中にこっそり家を出てどこかに行っているという事だけです。
 それが魔物退治であるのか、それ以外の用事を済ませているのかはわかりません。
 翌日に青白い顔をしている事があるので何かしら疲労をしてしまうようなことをしているのは確かですが、帯同させてもらえないわたしにはそれ以上はわかりませんでした。
 どうするべきか、わたしは悩みました。
 話すのであれば、あと一〇分も時間はありません。
 しかし話したところでどうなるというのでしょうか。
 話さないでいることにメリットはあるのでしょうか。
 進むには、何が必要なのでしょうか。
『我が勇者よ。お話したいことが、あるのですが』
 悩みに悩んで、わたしは彼の持つ携帯電話に外部からアクセスすると、自動でスピーカーモードに立ち上げて彼に声を掛けました。
 この家の中では、わたしは全ての機械にアクセスをする権限を所持していますので、こんなことだってお手の物です。
 普段は鍵の開閉以外にはあまり、使うことのない機能ではあるのですが。
 彼は少しばかり色の濃くなった赤い目で携帯端末を見ると、それを持って部屋から出てきてくれました。
 あぁ、彼の目はあんな色をしていたでしょうか。
 はっきりとは覚えていないけれど、やはり何となく違うような気がして、わたしは少しだけ胸が苦しくなるのを感じておりました。
「話、って?」
『はい……まずはコーヒーでも』
 言いながら、コーヒーメーカーを起動させてコーヒーを温めます。
 単純な時間稼ぎというわけではありませんが、まず何から話せばいいのかの判断を付けかねていた、から、です。
 この期に及んでまだ悩んでいる、というのもあるのかも、しれませんが。
「で?」
 彼の言葉はとても少なく、表情にも変化はありません。
 あたたかなコーヒーをカップに移している間にもこちらを見ることはなく、わたしの言葉を待つようにただ静かに、待っているようでした。
『……少し前、翌檜に会いました』
「そう」
『話を、聞いて参りました』
「全部?」
『……はい』
「そう」
 彼の返答は、それだけです。
 だから何だと言いたげなその眼差しは、もしかしたらすでに我々が翌檜に話を聞いていた事を察していたのかもしれません。
 そうなのだとしたら、随分と淡白な反応ですが……
「それで?」
『え?』
「それで、どうしたいの」
 どうしたいの、とは、どういう事なのでしょうか。
 コーヒーの湯気を吹きつつこちらに視線を向ける彼は、勇者は、その顔に何の表情も乗せてはおりません。
 あえて表情に出さないようにしているのか、それとも本当に何の感情の動きもないのかは、わたしにはわかりません。
 彼がどこまで感情というものを失っているのかも、わからないのです。
 正直な話、わたしはこの話を彼に振ったときにもっと動揺するのではと思っておりました。
 全てを察していたとしても、何らかの反応があるのではないかと、そう思っていたのです。
 しかし彼の反応はいたって淡白で、興味がない話を振られたかのような態度でしかありません。
 その反応には逆にわたしの方は戸惑ってしまいました。
『……貴方にも、彼にも、死んでほしくはありません』
「出れないから?」
『ループがなくとも、です』
「本当に、全部、聞いたんだ」
 わたしがループという単語を出すとやっと、彼は少しだけ反応を返しました。
 翌檜は口が軽い、とも呟いて。
『わたしに出来ることは、ありませんか……我が勇者よ』
「ない」
『ひとりで戦うおつもりか?』
「さぁ」
 彼の返答には抑揚もなければ内容もありません。
 わたしには何も言えないという事なのか、全てを自分でやろうとしているという事なのか。
 恐らくその両方を含んだその短い返答の意味を察してセンサーを向けると、彼は本当に少しだけ、よく見ていなければ分からない程度に小さく小さく、口の端を上げました。
 それはきっと、今の彼が出来る精一杯の微笑だったのでしょう。
 時間を戻すために自分を差し出した彼に出来る、唯一の感情から出た、表情だったのでしょう。
「心配しなくても、多分もう少しで終わる」
『終わる?勝つということですか?』
「逆。もうすぐ、僕はきっと消える」
『……消える?』
「綻びが起きた。君たちが気付いた。それはつまり、僕が薄れてるという事」
 長い言葉を紡ぐのが辛いのでしょうか、彼はゆっくり、区切りながら話をしました。
 思えば、彼と長い会話をしたことはあったでしょうか。
 いえ、あったはずです。
しかし今、今回は、彼とそこまで長い会話をしてはいなかったように思うのです。
 彼はいつも一言二言だけ言葉を返し、あるいは無視をして、会話自体をしていなかったのではないかと思い至りました。
 それは彼が無口であるから、無感情であるからとわたしは思っておりました。
 けれどもしかしたらそれは間違いであったのかもしれません。
 彼は、もしかしたら、それすらも……
「聞いたんでしょ、翌檜から。対価」
『えぇ……』
「対価は、そのうち尽きる。差し出すものにも、その重さにも、限界がある」
『それは……』
「最後には、出せるものは、この命しか、ない」
 翌檜は、彼の死が引き起こしたループもあると言っていました。
 けれど、では、そのループのために彼の命が失われたのだとしたら、ループはどうなるのでしょうか。
 その場合には、エードラムは……?
「ちゃんと、彼が生きていられるようには、したいね」
『……貴方はもしや、そのために……』
「最期には、アイツを殺して、死にたいな」
 あまりにも危なく、あまりにも切実なその希望を吐き出しながら、彼はまた本当に小さく小さく、口の端を上げました。
 アイツ、とは、わたしの想像が正しければ、エードラムを狙う別の魔王とやらでしょう。
 自分の命を投げ出し刺し違えてもエードラムを生かしたいというのは、今の彼の本心なのでしょう。
 そこにはすでに希望と言えるものはそれしかなく、自分も生きたいという希望はすでに無いように聞こえました。
 翌檜すらも知らないループを繰り返したのだろう彼の気持ちは、もしかしたら、このループの前のエードラムの裏切りによって萎えてしまったのかもしれません。
 愛すべき人を守るために自分を切り離し犠牲にしてきた彼の心を折るには十分の出来事であったの、かも。
 どうするべきなのか、どう反応を返していいのか、わたしはまた分からなくなりました。
 そんなことはしないで欲しいと言いたいけれど、今まで幾度もしてやられてきた魔王を倒すためには生半可な気持ちではいてはいけないのだという事は分かります。
 それはまさしく命懸けの願いで、命懸けの戦いなのかもしれません。
 ですがやはり、わたしは彼に死んで欲しくは無いのです。
 彼がループによってどんどんと自分の存在を失っているのだとしたら、消える前に何とか解決できればと、そう思うのです。
『その魔王とは、どのような者なのですか?』
「小さい」
『小さい、のですか』
「小さい。けれど、とても、大きい」
 小さく、大きい。
 相反するようなその単語の中にも何か得体の知れないものがあるようで、わたしは幾度かその言葉を繰り返し呟き、彼を見詰めました。
 太古の人間である彼と、魔王であるエードラム。
 そのふたりですら倒せなかった、小さく大きい、魔王。
「お前みたいなヤツだな」
 話し疲れた彼と、考え込むわたしと。
 その合間に割り込むように、突然エードラムがドンとテーブルに手をついて現れました。
 すっかりと思考の海に落ちていた我々は大層驚き、彼は思わず持っていたコーヒーカップをひっくり返してエードラムを見上げました。
 一体いつ帰宅したというのでしょうか、まるで気付きませんでした。
「驚いたなら少しくらいビビッた顔しろよ」
「おかえり」
「……いや、そうじゃなくてだな」
 驚きつつも無感情に言う彼に、エードラムは脱力しつつ倒れたカップを起こしました。
 幸いにして中にはほとんどコーヒーは残っておりませんでしたので、さっと台拭きで拭えばテーブルは元通りに綺麗になりました。
「僕みたい、とは」
「あぁ?あぁ、お前も小さいくせに、馬鹿みたいにデカイ」
「小さくない」
 憮然としているような口調ながらも、彼の表情には動きはありません。
 エードラムはそれに複雑そうな顔をしましたが、何も言わずにただ彼を見詰めました。
 ここ数日間で彼の中でどんな感情の動きがあったのかはわたしには分かりませんが、その目には確かに慈しみと思いやりと、ほんの少しの切なさが見て取れました。
「外見はどんなもんだよ?」
「……黒い」
「黒い?服装がってことか?」
「違う…けど、黒い。お前とは違う、人の形、じゃない……?いや、人の形、なんだけど……」
 説明に困っているのか、それともエードラムの帰還に動揺したままなのか、彼は悩み悩み言葉を続けました。
 人の形だけれど、人の形とは思えない、黒いもの。
 彼の言葉だけを受け取るのであればそういう形の魔王なのでしょうが、さっぱりよく分かりません。
 魔王という存在が決して全員エードラムのように人間と似たような姿をしているわけではないという事を、わたしは当然知っているのですけれど、それでも想像がつきません。
 むしろエードラムのように人間そっくりな姿である方が珍しく、竜のような姿であったり、巨大な獣のようであったりという方がずっと多いのです、が。
 それではまるで、人間の影のようではありませんか。
「……話すのに疲れた」
「おいおい。全然話してねぇだろうが」
「いっぱい、話した……話すこと、必要性も、無いから」
『それは……』
 言いかけて、やめました。
 話す必要性が無い、というのは、話す気もないという事ではなく、本質的に彼には"無い"のだと確信をしてしまったからです。
 決して面倒がっているわけではなく、ただ彼は「会話をする」というごく自然なものをすでに持っていない、のだと。
 翌檜が語った彼の差し出したもの、対価。
 翌檜が把握している以上に彼はどれだけのものを差し出してきたというのでしょうか。
 その機能を差し出した彼は、何を思ってそれを差し出したのでしょうか。
『では……我が勇者よ。首を振るだけで、良いのです。聞いては、くれますか』
 問い掛けに、彼はほんの少しだけわたしに視線を向けました。
 自分と彼に新しくコーヒーをいれたエードラムもその隣に座り、身体を傾けて彼を見詰めています。
『その者は、近いうちに現れるのですか』
 彼はひとつ、頷きました。
『我々も共に戦わせてくれはしませんか』
 今度は小さく、頭を振りました。
 その返答に眉間に深い皺を刻んだエードラムは、しかし何も言いません。
『ひとりで……戦うおつもりですか』
 またひとつ、彼が頷きます。
 頑ななその決意は、一体どうして、どのような決意から生まれてしまったものなのでしょうか。
 わたしは微かに悩んで、次の質問を考えました。
 当然我々は彼をひとりで戦わせるつもりなんかはありません。
 しかし彼の魔力をもってすれば我々を出し抜いてひとりで家を飛び出すことなんかは簡単なように思われるのです。
 エードラムに人間としての生活の仕方を教え込んできたと分かった以上は、余計にそうだと確信出来てしまいます。
 どうしたものかと、どう説得したものかと悩みましたが、しかしそれを吹っ飛ばすようにまた唐突に、エードラムがテーブルをガンと叩きました。
「関係ねぇな」
「……?」
「関係ねぇ。お前がこっちをほったらかしても、オレかお前は結局死ぬんだろ」
「…………」
 彼の首は動きません。
 ただ視線だけが、目の前のコーヒーカップに移りました。
「どっちかが死ぬなら、出来る限り足掻いて死んだ方が後腐れがなくていい」
『エードラム……』
「もう時間がねぇのなら、出来る限り暴れてやる。どんだけ周囲を巻き込んだって知るか」
 微かに、彼の睫毛が揺れました。
 ほんの小さな感情の揺れがを感じたのか、エードラムが彼に視線を向けます。
 表情の変化はほとんどないのです。
 感情が全て失せてしまっているように表情を固めたままの彼は、しかし己の膝の上でぎゅうと拳を握っておりました。
 その拳に無数の傷がついている事を、わたしは今気付きました。
 一体いつからあった傷なのでしょうか。
 それとも、今回だけではなく今までの数々のループで刻まれたものなのでしょうか。
 ぎゅうと丸められた傷だらけの拳がまるで彼の傷を負った心であるように見えて、胸に穴が開いたような心地になります。
 話をすることも、感情を表すことも出来なくなった彼は、一体何を支えに、どれだけひとりで戦ってきたのでしょう。
 もしも彼の望みが叶えられループから抜け出た時、彼の心は一体どうなっているのでしょうか。
「オレはやりたいようにやる。それが嫌なら、お前が手綱を握ってろ」
「……エードラム」
「お前が手綱を握っている限り、オレはお前を裏切らない」
   「…………」
 彼の手が、またぎゅうと握り締められました。
 表情は動かずとも、心が何も感じていなくとも、その拳が変わりに感情を表しているように思えて、わたしはまた自分に肉体がない事をとても悔やみました。
 その手に己の手を重ねてあげたい。
 すでにぬくもりの失せているように見える拳をあたためてやりたい。
 そうは願うのに、わたしにはその術がありません。
 変わりにその手を差し伸べてやれるエードラムはまだ迷いがあるのか、拳に視線を向けはしても触れる事はしませんでした。
 それがまたわたしの感情を掻き立てて、涙も出ないというのに無性に泣きたいような心地になりました。
 今までのループで、エードラムは幾度彼を慰めてきたのでしょう。
 幾度その手を握ってぬくもりを与えたのでしょう。
 そうやって触れ合えた日々が、幾度あったのでしょう。
 無言で立ち上がり、リビングを去る彼の背中を見詰めながら、わたしは小さく溜息を吐きました。
 いつになく、その背中は弱々しく見えて、何と言葉を掛けていいのかもわかりません。
 エードラムもまたその背中を止めるでもなく見送り、意味も無くわたしを指で弾いていました。
 二人の間に横たわる溝はすでに深く大きいものになっているのだという事は、分かっています。
 けれど、今こうして語らったほんの短い会話は決して無駄ではないのだし、ふたりにとっては大きな一歩であることに疑いはありません。
 彼は拒絶をしませんでした。
 そしてエードラムは、彼を裏切らないと誓いを立てました。
 それは彼が太古の人々に誓ったものとは違ってとても単純で弱々しい口約束ではありましたが、きっと彼にとっては重く重要なものであると、わたしは確信しています。
 ですがきっと、これからのことが今までよりももっと大事なものになるという、確信もありました。
 ほんの些細なミスでも状況が変化してしまう、ほんの小さな綻びが全てをダメにしてしまうのだと。
「……おい剣」
『何でしょう?』
「お前、あの翌檜ってヤツに連絡とれ」
『翌檜に、ですか?』
「あぁ」
 言いながらも、エードラムの視線は彼の去ったドアから外されてはおらず、その目はぎゅっと狭まった眉間と相俟ってまるで泣きそうなのを我慢しているようにも見えました。
『何を、する気です?』
「……魔力を取り戻すための道を模索する」
『まさか』
 お前が人間に頼るだなんて。
 思わずそう口に出せば、エードラムはニヤリと笑みを浮かべました。
 思わせぶりなその表情に、わたしは少しだけ苦笑をしたい心地で、リビングのパソコンを操作して気付かれないようにそっと翌檜にメールを送りました。
 翌檜が応じるかは分かりませんが、エードラムが手を求めれば拒絶はしないという確信が、わたしにはありました。
 きっとこのループを抜け出すためには当事者たちだけの努力ではどうにもならないのでしょう。
 素直に助けを求め、謙虚に教えを請う。
 その姿勢こそがきっと未来を開くための力に変わるのかもしれません。
 そう思いたかっただけ、なのかもしれません。
 まったく持って何故わたしには肉体というものがないのだろうかと、わたしは今日何度目かも分からぬ苦渋をじゅうと、舐めざるを得ませんでした。
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