多忙な天使たち

ゆるりこ

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珠希の章

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 二ヶ月前の三月初め、神崎珠希は卒業式と前夜祭の準備に追われていた。
 前夜祭とは、ほとんど文化祭のノリで、在校生が卒業生をお祭り騒ぎで送り出すイベントである。
 北倫学園では、卒業式の前の三日間、毎年行われている学園三大イベントの一つだった。卒業生のほとんどがエスカレーター式に高等部に進むという、北倫学園ならではの脳天気な行事である。

 その日、一年生でしかも女子で副生徒会長になったのは学園発足以来、初の快挙だと言われていた神崎珠希は、放課後も遅くまで居残っていたため帰りがかなり遅くなった。生徒会長の水野から、送ろうかと言われたのだが、顔で当選したのではないかとまで言われる美形の水野に世話になると余計な敵を増やすことになるので丁重に断り、ひとりで駅に向かった。

 珠希は電車に乗り、ふたつ先の駅で降りた。
 まだ、寒い季節だ。
 珠希はマフラーを首に巻いて階段を駆け下りた。商店街の手前でマフラーがずり落ちてきたので勢いよく肩にかけ直した。

「痛てっ」

 突然男の声がして、振り返ると高校生くらいの男達が数人、立っていた。一人が目を押さえている。

「痛ってーな、目に入ったじゃねーか」

 自分のマフラーが当たったのか。珠希は一瞬そう思ったが、そんなはずはない。そんな間近には誰もいなかったのだ。絶対の自信を持って珠希は方向転換するとさっさと歩き出した。

「おい、待てよ」
「北倫じゃ、自分が悪くても謝らなくていいって教えてんのか?」
「何とか言えよ!」

 腕を掴まれて珠希は振り返った。払おうとしたが強く掴まれて、できない。

「本当に当たったのなら謝ります」

 切れ長の双眸は、男達の神経を逆なでするのには十分すぎるほど強い意志の光を放っていた。薄く、整った唇は何時でも自信に満ちて、微笑んでいるように口角が僅かに上がっている。

「バカにするな!」

 男の低い声が響いた。腕を掴まれたまま、細い路地に連れ込まれていく。周りは囲まれ、助けを求めようと見回しても誰も目を合わせようとはしなかった。

「少し、痛い目を見ないと判ってくれないみたいだな」

 男達は一方的に会話を続ける。

「あんた、北倫の中等部だろ? しかも初の女の副生徒会長」

 珠希は唇を咬んだ。こいつら、初めから知ってたんだ。それで因縁を付けてきた。
 男達はにやにやと笑っている。この中のひとりは、どこかで見覚えがあったが思い出せない。

「生意気なんだよなぁ、一年のくせに」

 あっと珠希は息を飲んだ。生徒会役員の選挙の時、一緒に立候補していた二年生だったのだ。確か、伊藤とかいう名前だった。

「水野と一緒に顔で当選したくせに。でかい面しやがって」

 いきなり襟元を掴まれて、反射的に珠希は身を引いた。胸元が広がり、伊藤が中を覗き込む。

「へぇ、案外でかいじゃん」

 空いていた手で珠希は胸元を隠した。背中を丸め、足の震えを止めようと目を閉じた。

「おい、こいつ、どうすんの?」
「結構、キレイだし、面白そうじゃんか」
「こいよ」

(誰か助けて)

 すくみ上がって動けなくなった珠希を引きずるように男達が歩き出したとき、その声がした。

「どこ行くの?」

 狭い路を塞ぐように、人影が真ん中に立っていた。

「な、なんだ?」

 驚きのあまり、珠希は声も出なかった。

 ふわりと長い髪を揺らし、満面に笑みを湛えた天使が、暗い路地で、僅かな灯りを全てそこに集めるように佇んでいたのだ。

 藤島弥生。

「その子とは、こっちが先約なんだけど」

 自分よりも頭一つ以上は大きな男達四人を相手に、その声は震えてもいないし、興奮しているようでもない。低く、一定の音域をなぞるように静かだった。

「ふ、藤島…」

 伊藤が震える声で呟いた。

「へぇ、誰だ、こいつ。知ってるのか?」

 興味津々、という感じで一番背の高い男が訊ねた。舐め回すように全身を見ている。

 柔らかな長い髪、細い首、濡れた瞳、そして、僅かに笑みを浮かべた形のいい桃色の唇。透き通るような白い肌。こんな女は今まで見たことがない。まるで宗教画の天使のようだ。

「うちの学校の一年生で…でも、どっちだかは…」
「どっち? どういう意味だ?」

「おいで、珠希」

 自分が標的に変わりつつあるのを知ってか知らずか、声は穏やかだった。
 手を差し伸べられ、引き込まれるように、珠希は動いていた。掴まれていた腕は、いつの間にか自由になっていた。ちらりと見ると、珠希の手首を掴んでいた男は、完全に藤島弥生に魅入っていた。魂を抜かれたようだ、とはこういうことをいうのではないか。

 天使は、静かに微笑んでいる。


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