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五章 『運命の糸』
240話 『罪と罰』
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「ここ?」
「うん。ここだよ」
かつて学校として使われていた、その二階。昔は校長室として使われていたらしきその部屋は、その今でもその名の名札が掛けられていた。
その部屋の前。愛香は、ドアノブに手を掛けて静かにしている。
その背中を見ながら、首を傾けたエミリ。
「どうしたの?」
「────」
息を大きく吸い込んで、愛香はドアを引いて中へ入って行く。その後ろをついて行って中に入ったエミリは、外とはまるで違うその空気に無表情のままそっと息を詰めた。
「……ここの空気は、むさ苦しいなあ」
窓を開くと、冷たい空気が部屋の中に入り込んでくる。
バタン、と激しい音を立てて閉まった背後の扉を振り向き見て、それからすぐに正面に向き直った。彼女は、一番奥の革製らしき椅子に座り、足を組んで、肘掛けに手を乗せて頬杖をついていた。浮かべられたその笑みは、冷たく壁を感じるように覚えた。
それはさながら女王のようで──
「ねえ、エミリちゃん」
「なに?」
「一つお願いがあるの。いいかな?」
「お願いによる」
その答えに少しの間、黙り込む。
ひゅるひゅると外から突き刺すような風が入り込んできた。
「──エミリちゃん。私の配下にならない?」
「はいか? ──いいえ、ってこと?」
「違う。配下。部下。下っ端。私の命令を聞く人のこと」
そう言われて、エミリは周囲を見回す。
どうりで、と思った。そこには四人の若い男達が、拳銃をその腰に装備し、軍隊さながらの姿勢で入り口から見て左右に二人ずつ、石像のように立っていた。
「この人達は、それ?」
「そう。この人達は、私の配下。エミリちゃんも、やってくれるでしょう?」
少し、頬が赤くなっていた。
それを見つめて、エミリはふるふると首を左右に振る。左右で色の違うエミリの両目が恍惚とした表情の愛香に向けられる。
「ボクは、愛香の配下にはならない」
「……どうして?」
冷たいを通り越して、凍えた低い声が、エミリの耳を突いた。
浮かべられていた笑みが無くなり、そこには代わりに焦りとか、驚きに満ちた表情が浮かべられていた。それはまるで、夢が現実に見えているかのような、そんなものだった。
「どうしてそんな事を聞くの?」
質問を返すが、愛香はそれに取り合わない。組んでいた足も、今は解かれて床から浮いて宙ぶらりんになっていた。そんな自分の足を見つめながら、愛香は黙り込んでいる。
「も一回聞くよ。どうして、そんな事を、聞くの?」
「……私の力が、どうして効かないの……?」
「知らない。答えて」
「私の願いは、叶わないの……?」
「知らない。答えて」
「答えるのは、お兄ちゃんの方だよっ!」
冷たい空気が、ひゅうう、と音を立てて部屋の中に入り込んでくる。
それを背景に、愛香は涙を堪えるような顔で、エミリに向けて訴えてきた。
しかし『お兄ちゃん』と呼んで。
「……昔のボクを、知ってる?」
それはエミリにとっても聞き逃せない案件だった。何も手掛かりのないこの状況で、昔の自分を知っているらしき愛香の言動。彼女の感情の爆発とは別に、エミリは片眉を上げる。その、なんにも分かっていないエミリの顔に、今にも泣き出しそうな顔で、愛香は体を前屈みにしてエミリに顔を近づけながら続けた。
「いじめられてた私に優しくしてくれて、心配してくれて、何度も何度も『大丈夫』て言ってくれて、嬉しかった! イジメを見て見ぬふりをする大人達も、巻き込まれたくないからって無視してくる子供達も皆みんな大ッキライ! そんな私に優しくしてくれたお兄ちゃんだけが、心の支えだった! ──なのに、知らない女の子と歩いてて、苦しくて、今度は、何もかも忘れて女の子になって戻って来るなんて! ひどいひどいヒドいヒドイ酷い非道い!」
「────」
「また会いに来るって言ったのに! それだけで良かったのに! 私はずっと待った! でも、約束なんてこれっぽっちも守ってくれない! ほんとは私の事なんかどうでもいいんだぁッ!」
激情を吐き捨て終わったのか、愛香は息を切らして、椅子の背もたれに背中を預けて俯いてしまう。その荒波にも似た気迫に気圧されていたのか、これまで押し黙っていたエミリが小さな声でそっと、声を出す。
「……ない」
「……へぁ?」
上手く聞き取れなかった愛香は、眉を上げて正面を見た。
涙の浮かぶ目で見たそこには、エミリが立っている。
「知らない」
無機質な、そんな答えが返ってきて、愛香は、激情が冷水に流されていく感覚に陥り、眉尻を下げてぎしぎしと歯を食い縛った。震える瞳孔は、濡れた瞳は、無機質な表情しか浮かべない、エミリに向けられ続けている。
「なん、なの……?」
「ボクは、エミリ。『お兄ちゃん』は、知らない」
かつての自分がなんなのか。それは、無視できない案件ではあるが、既に答えを固めたものに対しては、既に用意した回答を述べる事しかできない。
今、エミリは彼女に対して何も感じていない。だから、何かが変わる兆候もない。
だとしたらそれは、きっと、他人ということになるんだろう。
知人でも、友達でも、家族でも、親戚でも無い。お互いに面識の無い、初めての出会い。
『それならば、覚えていない過去に縋るよりも今を生きた方が良い』
それが、答えだった。
「覚えてない昔は、知らない。ボクは、今しか知らない」
「お兄ちゃんと同じ、魔力を持ってるのに……」
「それが昔のボクだとしても、今はエミリがボク」
「……お兄ちゃんを、乗っ取った?」
ふと、まるで天啓を与えられたかのように、希望の光に似たものがその瞳に宿る。
顔を上げた愛香は、その目でエミリをジッと見つめる。
「知らない」
やはり返る無機質な答えには耳を貸さず、愛香は一人ブツブツと言いながら頷く。
「お兄ちゃんの魔力なのに、この子なのはおかしい」
「この子を倒せば、お兄ちゃんは元に戻る?」
「間違いを正すだけ。何も、間違ってない。うん、間違ってない」
不気味なその様子をただただ眺めているエミリを震えた指で指して、嫌に確信した顔で歪な、深々とした笑みを浮かべた愛香は小さく息を吸い込み、女王としての役目を果たす。
「この子を、捕えて」
救われたかのような顔をしていた。
「──がッ、かはっ」
首根っこを鷲掴みにされ、高く掲げられたエミリは気道を外から無理やり閉じられた窒息の苦しみを味わわされていた。強行して呼吸しようとする口がぱくぱくと魚のように動く。
断続的に吐き出された空気に連れられてぽたぽたと、唾液が外に溢れる。
ジタバタと暴れるブーツの脱げた両足が。薄かった手袋の内側でガリガリと引っ掻く爪が割れた、赤くて白い、細っこい指が。生を渇望して、生きるために藻掻いていた。
エミリの首を掴むその青年の目には生物の灯火を感じない。
生きる者が持つ特有の光が、これっぽっちも無かった。
「殺したらお兄ちゃんがその体に戻って来れなくなるから、殺しちゃダメだよ。丁寧に、その子の部分だけを殺しちゃえば、後に残るのは、きっとお兄ちゃんだけ。そうしたら、お兄ちゃんが戻って来る」
耳鳴りの向こう側からぼやけて耳に響くその絵空事。
かつての自分は、一体何者で、どこで何をしていたのか。ふと、そんな事を考えた。
益体の無い考えではあったが、少しは気が紛れた。
かつて、自分はヒーローか何かだったのだろうか。悪から、弱い人達を助ける、立派な人間だったのだろう。そして、男だったらしい。
今となっては知らない、とても凄い事を成し遂げたり、したのかもしれなかった。
──ただそれは、自分では無いのだ。
このエミリと言う人間は、弱く非力で、何も覚えておらず、世界への認識は赤ちゃんに等しい。もし仮にもヒーローだったならば、こんな困難はいとも簡単に打ち砕けただろう。
しかし、それはできない。エミリは、小さく、か弱く、誰かに助けてもらわねば何もできない、何も知らない、ただの女の子なのだ。
「ぅ、が、ハッ」
喉がピッタリと貼り付いたような心地に気持ちの悪さが増す。
思考が阻害され、被害が外側から侵食されるように真っ暗になっていく。
目が、大きく見開かれる。
「ぁっ、ぁぁが、はっ」
何も見えなくなって、意識が汚濁され、希薄になってゆく。
見えず、聞こえず、何も触れることのできない、闇だけがそこにはあった。
ふと、思う。
人は、感覚を奪われれば、こんなにも自分を保てないのかと。
直後、エミリの四肢から力が抜けた。
「うん、いいよ。放して」
エミリの首根っこを掴んでいた青年は掌を広げて腕をだらりと真っ直ぐ下ろした。
どさっと意識を失ったエミリが床に倒れ伏す。
「──ああ、お兄ちゃんにいつになったら会えるんだろう」
その女王の言葉に、何か反応を示す者は一人としていない。
ただ、青年の手の甲からぽたぽたと、滴り落ちる血だけがこの部屋の中で唯一動いていた。
床に倒れ伏す少女を見下ろして、愛香は疲れたような吐息をつく。
「『怠惰』かあ……。その通りだよね」
ぼんやりとした、自嘲めいた笑みを浮かべた愛香はそっと目を閉じた。
黒髪、眼帯のかつての姿が、瞼の裏側にぼんやりと映る。三年の年を経て、徐々に鮮明さが消えていくその残影に縋りながら、千回以上訪れた一人寂しい夜を明かしてきた。
だが、目の前の彼女の存在は、それを終わりにする事ができる。
彼女の体は、おそらく元々、彼の体だったのだ。どういう経緯でかは分からないが、こんな世の中だ。多少、あり得ないことが起こっても不思議じゃない。あの体の中に、彼女の魂と彼の魂とがあるとして、それならば、彼女の魂を取り除けば『百パーセントのお兄ちゃん』が出来上がる。そう、考えていた。
しかし、どうすれば良いのか。
意識を刈り取るのは簡単だ。しかし、それで魂がどうなる訳でもないと、知っている。
意識が無くなろうと、死にはしない。人の魂だけを殺すのは、とても、難しい事だった。
「……あれ?」
倒れている少女をもう一度見直す。
彼女は雪のように白い肌と、純白の髪を持っていた。
黒。しかし目の前にあったのは、黒くて淀んだ、暗黒にも似た黒い髪だった。
「──何、これ」
がハッ、と。盛大な咳が出た後、何事も無かったかのように、彼女は動かなくなった。
何も起きない。その状況に焦れたのか、愛香は椅子から下りて、彼女へと近づいていく。
「──ッ!」
前触れも無く、ふらりと彼女が糸に吊られたように立ち上がった。
「はぁ、はぁはぁ」
大きく目を見開いて、彼女は浅い呼吸を繰り返している。瞳孔が開いたり閉じたりしながら、左右で色の違う瞳を、床を穿つようにまじまじと向けていた。
手足が震えている。口から溢れていた唾液が、ぽたぽたと落ちる。涙がぽろぽろとその目からこぼれ落ちていく。明らかに様子のおかしい彼女に、愛香は眉をひそめて部屋で静かに佇んでいた男達に命令を下した。
──今すぐこの子の意識を消して!
それは怒号にも似た、本能的な恐怖を押し隠した叫び声だった。
その怒号に釣られて顔を上げたエミリの黒い左目が、黒く長い髪の隙間から呪いのような眼光を纏って愛香を見つける。喉が、引き攣った。
前後左右。四方から迫り来る男達の波。それに囲まれてなお、エミリは愛香から、目を背けずにいた。飛びつかれるようにして頭、首、腰、脚を掴み、捕まえられ、拘束される。
移動を封じられたエミリは、それでも浅い呼吸を繰り返して、抵抗を微塵もしない。
「な、なんなの……?」
瞳孔が、開く、閉じる、開く、閉じる。
まるでそれ自体が呼吸しているかのような動き。
それが捉えているのは、ずっと愛香だ。それは、変わらない。
「……アイカ」
「…………」
瞳孔が動きっぱなしになっているエミリの口から、ゆっくりと名前を紡がれた愛香。自分の名前を呼ばれた愛香は、きゅっと息を詰めて一歩、後ずさった。
「の、負け」
「は?」
ブチッ、と。
エミリにしか聞こえないだろうその音は、エミリの体から表出した渦巻く暗黒によって成し得られた。渦巻き、形の定まらない刃のような形で、男達の間を駆け抜けるその姿に、愛香は大きく目を見開いた。
「何、それ……」
聞かれて、エミリは首を傾ける。
「さあ?」
そして、男達はエミリの拘束を解いて次々と立ち上がる。
その状況に頭がついていかない愛香は、エミリの首を絞めた青年が自分に振り向いた事に目を丸くして、ずんずんと歩いて来るその青年を、何も分かっていない顔で見上げる。
鈍痛。血みどろの拳が愛香の頬を力強く殴り、その体を部屋の隅にまで弾き飛ばした。
壁に激突して床に倒れた愛香は、殴られて感覚を失っている頬に触れ、それから唇から床へぽたぽたと滴り落ちる液体に目を向ける。自分が鼻血を流している事に気が付いた。
「え、えっ?」
何が起こっているのか、到底理解している様子もなく、愛香は、目を丸くしてエミリ達を眺めていた。ただただ、眺めていた。
[あとがき]
月末連続更新、次回で最後です。
「うん。ここだよ」
かつて学校として使われていた、その二階。昔は校長室として使われていたらしきその部屋は、その今でもその名の名札が掛けられていた。
その部屋の前。愛香は、ドアノブに手を掛けて静かにしている。
その背中を見ながら、首を傾けたエミリ。
「どうしたの?」
「────」
息を大きく吸い込んで、愛香はドアを引いて中へ入って行く。その後ろをついて行って中に入ったエミリは、外とはまるで違うその空気に無表情のままそっと息を詰めた。
「……ここの空気は、むさ苦しいなあ」
窓を開くと、冷たい空気が部屋の中に入り込んでくる。
バタン、と激しい音を立てて閉まった背後の扉を振り向き見て、それからすぐに正面に向き直った。彼女は、一番奥の革製らしき椅子に座り、足を組んで、肘掛けに手を乗せて頬杖をついていた。浮かべられたその笑みは、冷たく壁を感じるように覚えた。
それはさながら女王のようで──
「ねえ、エミリちゃん」
「なに?」
「一つお願いがあるの。いいかな?」
「お願いによる」
その答えに少しの間、黙り込む。
ひゅるひゅると外から突き刺すような風が入り込んできた。
「──エミリちゃん。私の配下にならない?」
「はいか? ──いいえ、ってこと?」
「違う。配下。部下。下っ端。私の命令を聞く人のこと」
そう言われて、エミリは周囲を見回す。
どうりで、と思った。そこには四人の若い男達が、拳銃をその腰に装備し、軍隊さながらの姿勢で入り口から見て左右に二人ずつ、石像のように立っていた。
「この人達は、それ?」
「そう。この人達は、私の配下。エミリちゃんも、やってくれるでしょう?」
少し、頬が赤くなっていた。
それを見つめて、エミリはふるふると首を左右に振る。左右で色の違うエミリの両目が恍惚とした表情の愛香に向けられる。
「ボクは、愛香の配下にはならない」
「……どうして?」
冷たいを通り越して、凍えた低い声が、エミリの耳を突いた。
浮かべられていた笑みが無くなり、そこには代わりに焦りとか、驚きに満ちた表情が浮かべられていた。それはまるで、夢が現実に見えているかのような、そんなものだった。
「どうしてそんな事を聞くの?」
質問を返すが、愛香はそれに取り合わない。組んでいた足も、今は解かれて床から浮いて宙ぶらりんになっていた。そんな自分の足を見つめながら、愛香は黙り込んでいる。
「も一回聞くよ。どうして、そんな事を、聞くの?」
「……私の力が、どうして効かないの……?」
「知らない。答えて」
「私の願いは、叶わないの……?」
「知らない。答えて」
「答えるのは、お兄ちゃんの方だよっ!」
冷たい空気が、ひゅうう、と音を立てて部屋の中に入り込んでくる。
それを背景に、愛香は涙を堪えるような顔で、エミリに向けて訴えてきた。
しかし『お兄ちゃん』と呼んで。
「……昔のボクを、知ってる?」
それはエミリにとっても聞き逃せない案件だった。何も手掛かりのないこの状況で、昔の自分を知っているらしき愛香の言動。彼女の感情の爆発とは別に、エミリは片眉を上げる。その、なんにも分かっていないエミリの顔に、今にも泣き出しそうな顔で、愛香は体を前屈みにしてエミリに顔を近づけながら続けた。
「いじめられてた私に優しくしてくれて、心配してくれて、何度も何度も『大丈夫』て言ってくれて、嬉しかった! イジメを見て見ぬふりをする大人達も、巻き込まれたくないからって無視してくる子供達も皆みんな大ッキライ! そんな私に優しくしてくれたお兄ちゃんだけが、心の支えだった! ──なのに、知らない女の子と歩いてて、苦しくて、今度は、何もかも忘れて女の子になって戻って来るなんて! ひどいひどいヒドいヒドイ酷い非道い!」
「────」
「また会いに来るって言ったのに! それだけで良かったのに! 私はずっと待った! でも、約束なんてこれっぽっちも守ってくれない! ほんとは私の事なんかどうでもいいんだぁッ!」
激情を吐き捨て終わったのか、愛香は息を切らして、椅子の背もたれに背中を預けて俯いてしまう。その荒波にも似た気迫に気圧されていたのか、これまで押し黙っていたエミリが小さな声でそっと、声を出す。
「……ない」
「……へぁ?」
上手く聞き取れなかった愛香は、眉を上げて正面を見た。
涙の浮かぶ目で見たそこには、エミリが立っている。
「知らない」
無機質な、そんな答えが返ってきて、愛香は、激情が冷水に流されていく感覚に陥り、眉尻を下げてぎしぎしと歯を食い縛った。震える瞳孔は、濡れた瞳は、無機質な表情しか浮かべない、エミリに向けられ続けている。
「なん、なの……?」
「ボクは、エミリ。『お兄ちゃん』は、知らない」
かつての自分がなんなのか。それは、無視できない案件ではあるが、既に答えを固めたものに対しては、既に用意した回答を述べる事しかできない。
今、エミリは彼女に対して何も感じていない。だから、何かが変わる兆候もない。
だとしたらそれは、きっと、他人ということになるんだろう。
知人でも、友達でも、家族でも、親戚でも無い。お互いに面識の無い、初めての出会い。
『それならば、覚えていない過去に縋るよりも今を生きた方が良い』
それが、答えだった。
「覚えてない昔は、知らない。ボクは、今しか知らない」
「お兄ちゃんと同じ、魔力を持ってるのに……」
「それが昔のボクだとしても、今はエミリがボク」
「……お兄ちゃんを、乗っ取った?」
ふと、まるで天啓を与えられたかのように、希望の光に似たものがその瞳に宿る。
顔を上げた愛香は、その目でエミリをジッと見つめる。
「知らない」
やはり返る無機質な答えには耳を貸さず、愛香は一人ブツブツと言いながら頷く。
「お兄ちゃんの魔力なのに、この子なのはおかしい」
「この子を倒せば、お兄ちゃんは元に戻る?」
「間違いを正すだけ。何も、間違ってない。うん、間違ってない」
不気味なその様子をただただ眺めているエミリを震えた指で指して、嫌に確信した顔で歪な、深々とした笑みを浮かべた愛香は小さく息を吸い込み、女王としての役目を果たす。
「この子を、捕えて」
救われたかのような顔をしていた。
「──がッ、かはっ」
首根っこを鷲掴みにされ、高く掲げられたエミリは気道を外から無理やり閉じられた窒息の苦しみを味わわされていた。強行して呼吸しようとする口がぱくぱくと魚のように動く。
断続的に吐き出された空気に連れられてぽたぽたと、唾液が外に溢れる。
ジタバタと暴れるブーツの脱げた両足が。薄かった手袋の内側でガリガリと引っ掻く爪が割れた、赤くて白い、細っこい指が。生を渇望して、生きるために藻掻いていた。
エミリの首を掴むその青年の目には生物の灯火を感じない。
生きる者が持つ特有の光が、これっぽっちも無かった。
「殺したらお兄ちゃんがその体に戻って来れなくなるから、殺しちゃダメだよ。丁寧に、その子の部分だけを殺しちゃえば、後に残るのは、きっとお兄ちゃんだけ。そうしたら、お兄ちゃんが戻って来る」
耳鳴りの向こう側からぼやけて耳に響くその絵空事。
かつての自分は、一体何者で、どこで何をしていたのか。ふと、そんな事を考えた。
益体の無い考えではあったが、少しは気が紛れた。
かつて、自分はヒーローか何かだったのだろうか。悪から、弱い人達を助ける、立派な人間だったのだろう。そして、男だったらしい。
今となっては知らない、とても凄い事を成し遂げたり、したのかもしれなかった。
──ただそれは、自分では無いのだ。
このエミリと言う人間は、弱く非力で、何も覚えておらず、世界への認識は赤ちゃんに等しい。もし仮にもヒーローだったならば、こんな困難はいとも簡単に打ち砕けただろう。
しかし、それはできない。エミリは、小さく、か弱く、誰かに助けてもらわねば何もできない、何も知らない、ただの女の子なのだ。
「ぅ、が、ハッ」
喉がピッタリと貼り付いたような心地に気持ちの悪さが増す。
思考が阻害され、被害が外側から侵食されるように真っ暗になっていく。
目が、大きく見開かれる。
「ぁっ、ぁぁが、はっ」
何も見えなくなって、意識が汚濁され、希薄になってゆく。
見えず、聞こえず、何も触れることのできない、闇だけがそこにはあった。
ふと、思う。
人は、感覚を奪われれば、こんなにも自分を保てないのかと。
直後、エミリの四肢から力が抜けた。
「うん、いいよ。放して」
エミリの首根っこを掴んでいた青年は掌を広げて腕をだらりと真っ直ぐ下ろした。
どさっと意識を失ったエミリが床に倒れ伏す。
「──ああ、お兄ちゃんにいつになったら会えるんだろう」
その女王の言葉に、何か反応を示す者は一人としていない。
ただ、青年の手の甲からぽたぽたと、滴り落ちる血だけがこの部屋の中で唯一動いていた。
床に倒れ伏す少女を見下ろして、愛香は疲れたような吐息をつく。
「『怠惰』かあ……。その通りだよね」
ぼんやりとした、自嘲めいた笑みを浮かべた愛香はそっと目を閉じた。
黒髪、眼帯のかつての姿が、瞼の裏側にぼんやりと映る。三年の年を経て、徐々に鮮明さが消えていくその残影に縋りながら、千回以上訪れた一人寂しい夜を明かしてきた。
だが、目の前の彼女の存在は、それを終わりにする事ができる。
彼女の体は、おそらく元々、彼の体だったのだ。どういう経緯でかは分からないが、こんな世の中だ。多少、あり得ないことが起こっても不思議じゃない。あの体の中に、彼女の魂と彼の魂とがあるとして、それならば、彼女の魂を取り除けば『百パーセントのお兄ちゃん』が出来上がる。そう、考えていた。
しかし、どうすれば良いのか。
意識を刈り取るのは簡単だ。しかし、それで魂がどうなる訳でもないと、知っている。
意識が無くなろうと、死にはしない。人の魂だけを殺すのは、とても、難しい事だった。
「……あれ?」
倒れている少女をもう一度見直す。
彼女は雪のように白い肌と、純白の髪を持っていた。
黒。しかし目の前にあったのは、黒くて淀んだ、暗黒にも似た黒い髪だった。
「──何、これ」
がハッ、と。盛大な咳が出た後、何事も無かったかのように、彼女は動かなくなった。
何も起きない。その状況に焦れたのか、愛香は椅子から下りて、彼女へと近づいていく。
「──ッ!」
前触れも無く、ふらりと彼女が糸に吊られたように立ち上がった。
「はぁ、はぁはぁ」
大きく目を見開いて、彼女は浅い呼吸を繰り返している。瞳孔が開いたり閉じたりしながら、左右で色の違う瞳を、床を穿つようにまじまじと向けていた。
手足が震えている。口から溢れていた唾液が、ぽたぽたと落ちる。涙がぽろぽろとその目からこぼれ落ちていく。明らかに様子のおかしい彼女に、愛香は眉をひそめて部屋で静かに佇んでいた男達に命令を下した。
──今すぐこの子の意識を消して!
それは怒号にも似た、本能的な恐怖を押し隠した叫び声だった。
その怒号に釣られて顔を上げたエミリの黒い左目が、黒く長い髪の隙間から呪いのような眼光を纏って愛香を見つける。喉が、引き攣った。
前後左右。四方から迫り来る男達の波。それに囲まれてなお、エミリは愛香から、目を背けずにいた。飛びつかれるようにして頭、首、腰、脚を掴み、捕まえられ、拘束される。
移動を封じられたエミリは、それでも浅い呼吸を繰り返して、抵抗を微塵もしない。
「な、なんなの……?」
瞳孔が、開く、閉じる、開く、閉じる。
まるでそれ自体が呼吸しているかのような動き。
それが捉えているのは、ずっと愛香だ。それは、変わらない。
「……アイカ」
「…………」
瞳孔が動きっぱなしになっているエミリの口から、ゆっくりと名前を紡がれた愛香。自分の名前を呼ばれた愛香は、きゅっと息を詰めて一歩、後ずさった。
「の、負け」
「は?」
ブチッ、と。
エミリにしか聞こえないだろうその音は、エミリの体から表出した渦巻く暗黒によって成し得られた。渦巻き、形の定まらない刃のような形で、男達の間を駆け抜けるその姿に、愛香は大きく目を見開いた。
「何、それ……」
聞かれて、エミリは首を傾ける。
「さあ?」
そして、男達はエミリの拘束を解いて次々と立ち上がる。
その状況に頭がついていかない愛香は、エミリの首を絞めた青年が自分に振り向いた事に目を丸くして、ずんずんと歩いて来るその青年を、何も分かっていない顔で見上げる。
鈍痛。血みどろの拳が愛香の頬を力強く殴り、その体を部屋の隅にまで弾き飛ばした。
壁に激突して床に倒れた愛香は、殴られて感覚を失っている頬に触れ、それから唇から床へぽたぽたと滴り落ちる液体に目を向ける。自分が鼻血を流している事に気が付いた。
「え、えっ?」
何が起こっているのか、到底理解している様子もなく、愛香は、目を丸くしてエミリ達を眺めていた。ただただ、眺めていた。
[あとがき]
月末連続更新、次回で最後です。
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