当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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四章 進む道の先に映るもの

197話 『見つめるもの』

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 ──その目は、まるで、母親のようでもあった。

 その目を見た瞬間、ハダチはあたかも死人でも見た顔をした。

 ……──それは、まだ幼い、か弱かった頃の記憶だった。

 夕日が差し込む病室で、一人の女性が眠っていた。すぅ、すぅ、と安らかな寝息を立てて。そのすぐ側では、まだ年齢を片手で数えられそうなくらいの少年が椅子に座って女性の顔を眺めている。

 うつらうつらと、少し寝ぼけ眼ではあるものの、その目はベッドで寝そべる女性へと向けられている。そんな少年の顔を、辛そうに女性は見た。

「嗚呼、可哀想な子……」

 絞り出されたような、口をついて出てしまったかのような掠れた声が二人だけの病室に響いた。少年は、聞こえていないのかうつらうつらと、首をもたげながら弱った女性の姿を見つめていた。

 がら、と病室の扉が開いた。慌てて顔を上げ、目を擦ったハダチが振り向くと、そこには優しそうな目つきの年老いた女性と、年老いた男性が立っていた。女性の腕の中では、まだ小さな妹──ミノリがすやすやと寝付いている。

「そろそろ帰りましょうねえ」

 少し間延びしたその声に少し躊躇いがちにこくんと応じて椅子を下りると、ベッドに寝そべる女性の手を両手で掴んで、生唾を飲み込んだ。

 ──絶対、元気になってね。

 そうは、うまく言えなかった。

「────」

 過去に見た、既視感を覚えるその目に、ハダチは動きが固まり動けなくなってしまう。その目が怖くて、縮こまって。でも、懐かしさを覚えてしまうくらいにはまだそれは記憶にこびりついていた。

「──じゃあね」

 即座にその身を後ろに引くがそれは間に合わずにその拳は、その手に持っているナイフは、一秒も満たず直撃する事だろう。しかし、それは彼が一般人であればこそ。

 刃先がハダチへと襲い掛かる寸前、世界のあまねく全てが停止する。

 展開されたハダチの作り上げたその独特なルールが、世界の一部に上書きされる。それこそが領域の強みであり、しかし、それは同時に相応の代価を要求される。

 時が静止した世界で、ハダチの傷が少しずつ癒えていく。頭の傷が、体の打撲痕が、少しずつ小さく、薄くなってやがて見えなくなると、世界は再び脈動し、動き始める。

 ヒュ、とハダチの頬をナイフが掠めていった。それを目で捉えながら、ハダチは重心を傾けた方へと転がり距離をとってトアを視界に入れる。

「また随分なものを作り上げて──!」

 そう言いながら嬉しそうに突いてくるナイフを横に躱して、その腕を掴む。しかし、視界から消えたその姿を上手く捉える事はできず、掴んだ指に人の感触はなかった。

 咄嗟に飛び退いたハダチの指先が何かに抉られ、血が弾かれるように飛び散った。顔をしかめたハダチは、関節まではいかないまでも自分の指先が半分に割れているのを見て、地面にボタボタと落ちた血溜まりを見て、更に深く顔にシワを作る。

「休憩なんてさせないわよ、ぉ──!」

 再び辺りに響く声に反応し、両手で顔を庇いながらすぐに後ろに回避。間髪入れずに回避。回避。回避。そうして繰り返した回避の先、足下の小さな亀裂に足を掬われて目を大きく見開いた。

 直後、ハダチを襲ったのは鼻先を掠める鋭い痛みだった。

 すぐにバック転で足を振り上げつつ後退するがその足に何かが触れた様子も無く上手い具合に着地させてすぐに辺りを見回す。見える範囲に、その姿は無い。

 しかし無いからと言って、いないとは限らないのだ。辺りと一体化、あるいはただ単に姿を消す。そんな能力を持つ彼の姿を捉える事は叶わないだろう。

 だから──、

「避けられるもんなら避けてみるんだぜ──ッ!」

 背中から翼が二枚、暗黒が吐き出されるように、噴き出すように広がり出た。

「テメェに語られてやるほど俺ぁ小さくねえぜ!」

 翼が羽ばたかせてその羽根を弾丸のように飛ばし、黒い銃撃の幕が辺り一帯に破壊の限りを尽くす。アスファルトは砕け、広い通りの左右にある建物らは崩れ、それはさながら、嵐のようであった。

 その嵐の中、しかしそれでも彼は姿を現す事は叶わなかった。
 雨の如く降り注ぐ銃幕のような羽根の嵐を、直進していく弾幕の嵐を、その中でも彼の姿は見つけられない。姿どころか、その存在さえ、そこにあるのかどうかも怪しい所だ。

「────」

 ただ、だからと言って今の攻撃を無傷で切り抜けるなんて事はないだろう。
 警戒は怠らず、少しの差異も見逃す気は無いその眼光は、強く、鋭く、辺りを睥睨する。しかし、そのどこにも、何も動きは見当たらず、ハダチは抜きそうになった肩の力を無理やり込め直す。

「────」

 不気味なほど静まり返ったその大通りで、ハダチは短く息を吸い込んだ。その空気を吐き出す勢いでハダチは疾走を始めたのだった。

 ※※※

 ──そこは、観光名所でもあるこの街の、その入口のような場所。

 そこを境に、分かりやすいくらいに辺りの風景はがらりと変化する。
 そこは、和を基調とした伝統ある家々が紡ぐ町並みが壮観な光景であった。

「この街が、これから……」

 この光景が破壊され尽くす事を思うと、どうにも罪悪感のようなものが芽生えて仕方がなく、少女は一つため息をついた。車椅子を押す、後ろの少女に目を向ける。

「ナナセさん、大丈夫ですか?」

 車椅子を押すその少女は、目元で笑みを浮かべながら軽快に頷いて見せた。

「良かったです。……本当に」

 その場で、まるで何かを待ちわびるように遠くの方を見据えた車椅子に座る少女は、風になびく小麦のようにきれいな金色をした長い髪を、顔にかかる分を耳にひっかけてまた、ため息をついた。

「そうだ。ナナセさん、この後、コーイチくんと一緒にお茶にでも行きませんか? 彼もきっと──ううん。絶対に、喜びますから」

 車椅子がふと止まり、振り向いて見た彼女は、右目を閉じて考え込むように少し首を傾けていた。その姿を、怯えたような、怖がるような目で見つめている彼女の視線に気づいたナナセは二度も首を縦に振って快諾した。

 その返答に無邪気な、子供らしい満面の笑みがぱあっ、と花咲くように浮かんだのを見て、ナナセもまた、嬉しそうに目元を笑わせる。

 再び動き始めた車椅子が向かう先には、遠く、大きな屋敷が見えていた──……。

「ナナセさん、もう、離れないでくださいね」

「────」

 悲壮を帯びた声音で告げるその想いに、ナナセはそっと優しく目を細めてゆったりと、今のこの時間を楽しむように歩いて行った。

 被るフードとマスクによって隠れている口は、今はもう、何も言わない。

 車椅子を押していた彼女がふと足を止めた。その正面、肩で呼吸をする一人の少年の、コーイチの姿があった。彼は、怒りか憎しみか、そう言った敵意の如し負の感情をその目に湛えて視線を鋭利に研ぐ。

「こんにちは」

 にこりと、笑みを向けるがコーイチはそれでもその目をずっと向けている。
 その様子に微笑みを返すと、彼からは更に深い、あからさまな敵意を向けられて苦笑いを浮かべた。

「何が『こんにちは』だ。──リーダー、アイツらとまだつるんでるのは、なんでなんだよ……! あの時、もうスッパリ縁を切ったんじゃねえのかよ……!」

 苦々しく、怒りを、悔しさを、正義感を、沢山の感情を湛えて顔をしかめたコーイチに対し、車椅子に座る彼女はそっと目を閉じて聞く姿勢に入る。ドスドスと、力強い足取りで少女達に近づくと大きな声で、怒鳴りつけるような声で叫ぶ。

「アイツらと付き合うのはやめろよッ! もう金輪際、奴らとは一切関わるな!」

 人目を憚らず叫んだその言葉は、人々の注目を集めるには十分過ぎる声量と印象を持ち合わせていた。立ち止まり、振り向き見る群衆。しかしそんな事は気にも留めず、彼は言い寄った。

 その姿を、様子を遠目に見た群衆は寸分違わず、打ち合わせをした訳でもないのに一つの言葉を心の中で綺麗にハモりながら叫んだ。

 ──修羅場だ、と。

 ゆるゆると、車椅子に座る彼女は首を横に振る。

「それは出来かねます」

「……! どうして!」

「このままでは、ナナセさんはいずれ食い物にされて、心を奪われて、壊されてしまう。確かに、彼らが──あの子達が戻ってくれる事はとっても嬉しい。──ですが……私にはやはり、ナナセさんが必要なんです。これだけは、ゆずれません」

「だからって奴らとつるまなくても……」

「なら、コーイチくんに何か、策があるんですか……」

「策……?」

「ええ、策です。ナナセさんを救けられて、尚且つ彼女達の目的に反する策。それが、コーイチくんには思い浮かぶんですか?」

 言葉の背後を取られて黙り込む事しかできなくなったコーイチは、苦虫を噛み潰したように顔を歪めて詰め寄っていた顔を背けた。

「──私には、思いつきません。私が何をすれば良いのか。どうすれば、あの二人と、ナナセさんを救えるのか。分からないから、せめてもの希望に縋って何が悪いんですか……?」

 嫌味を吐くように、答えが返ってこない事が分かっているかのように尋ねる彼女の瞳に、コーイチはその通り答えを見つけられず歯を噛み合わせる。

 その時、小刻みに震える振動が車椅子に座る彼女の太ももの上で突然起こった。
 携帯の画面を覗いた彼女は悲しそうに眉をひそめ、息を吐いた後でそっと、目を閉じた。

 それはさながら、冥福を祈る聖女のようであった。

「それでは、私は行きます」

「────」

「安心してください、コーイチくん。また皆で笑って遊べるような、そんな時間を設けますから。その時はまた、剣崎くんやハダチくん。ミノリちゃん達も一緒に、ご飯でも囲んでゲームでもしましょう」

 にこりと、陰の無い笑みで会話を終わらせたさくらは、ナナセに「行きましょう」とだけ告げて、ナナセは車椅子を押して行った。コーイチは、ただ一人、呆然と立ち尽くす。

 ──突然に突き抜けた背中越しの一撃が腹を貫通してアスファルトを砕き突き刺さった。

「が、ハ──ッ!?」

 それは、黒炎を纏った槍だった。

「──さようなら」

 冷徹な声が鼓膜を揺らし、振り向いたそこには、頭から二本の巻角が生えた少女が無関心の表情を浮かべ立っていた。その少女の容姿に瞠目しながら、コーイチの意識は闇の中へと消えて行った。





[あとがき]
 わからない人の為に補足すると、最後の女の子はアリスちゃんです。ちょっと前の話でリゼちゃんと一緒にいた子です。179話の終わりの方で二人を描いているので忘れているのであればどうぞ。
 さて、次回は六月二十一日が更新日です。次回もよろしく!
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