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四章 進む道の先に映るもの
185話 『人を信じてみたいと思った』
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「ところで剣崎くん」
坂道を下りている最中、滝本はレイの隣まで来てそう聞いた。
それに立ち止まって、レイはちらりと一瞬だけ滝本の後ろに立つ和田に目を移し、すぐに戻した。瞳に映した滝本は底の見えない社交辞令的な笑顔を浮かべている。
「えっ? どうしたの?」
「元気がないようだが、何かあったのかい?」
「あ、うう──」
首を振りかけて、レイは思い留まる。
もっと、人を頼って──……。
その言葉が喉の奥に引っかかったように上手く声が出せずにそっと目を伏せると、滝本は下からレイの顔を覗き込んできた。その瞳は不安に塗られていて、その目に背筋が凍るように固くなってしまい、背中が反る。さっと、目を背けた。
「──昨日のこと、覚えてる……?」
目だけを向けて聞くと、まだ頭の整理が出来ていないのか、何度も瞬きを繰り返してレイを見つめて、ゆっくりとその内容を吟味しながら、レイから目を離さずに頷いた。
「──ああ、覚えているとも」
「ぼくは、君のことを信じてみようと思うんだ」
「突然、どうしたと言うんだい……?」
「君も言ってたでしょ? 『時間を遡った人がいる』って。それだよ」
信じられないかもしれないけどね、と曖昧な笑みを浮かべて、頬をかきながら言った。
呆気にとられて何度も瞬く滝本は少しの間を置いて「なるほど」と小さく短く、その言葉を噛み砕くように、納得させるように、そう呟いた。
「それは、うん。分かったが、だとしても君はどうして私のことを急に……?」
小首を傾げて不安げな、心配しているかのような目で、一歩、詰め寄る。
しかしレイはその笑顔を崩さず、そっとだけ目を閉じた。その瞼の裏側に、数分前に見た少女の姿を思い出しながら。自然と滲み出してくる感情がレイの口元を緩ませる。
「信じてくれてるのは、もう知ってるから」そっと眼帯に触れる「──だから、ぼくは君を信じる」
「──これ以上聞いても、話が拗れるだけ、か」
腕を組んで、ふふ、と低い笑いがその口から漏れ出る。その顔をちらと見れば、彼女はとても良く笑っていた。頬を朱に染めて、思わぬ幸せに巡り会えたかのような、そんな笑みを浮かべていた。聞いてきたばかりの社交辞令的な笑顔は、そこにはもう感じられない。
「ありがとう。その信頼、裏切る事は無いと誓おう」
「そう。うん、分かったよ。ぼくも、君を裏切らないと誓うよ」
二人の事を遠目に見つめていた和田は、憎らしげに目を細めて目を背けた。それをレイは視界の端に認めながら、滝本に笑いかける。
「それじゃあ行こうか。次の目的地は湖だ」
素直な笑顔を向けられて、レイは「うんっ」と誤魔化しの無い笑みで返した。もう少し、もう少しだと、そう口中で呟きながら。
遠くで、誰かの笑った声が聞こえた気がした。
※※※
──周囲に霧散していたような意識が徐々に集まってくる感覚が起きて、目が覚めるのだと気が付いた。目を開けると、見慣れた壁が目の前にあった。
まだ重たい瞼を上げて、彼女はむくりと起き上がる。ぐしぐしと目を擦って欠伸をかきながらベッドから下りた。白いレースの付いたシャツの中、背中をかきながら部屋から出た。
「おはよう奈々美」
コトっ、と朝食をテーブルの上に並べていく母親を見て、奈々美は涙の滲んでいた目をごしごしと擦る。
「こらっ、起きてきたらまず顔洗いなさい!」
「別に良いじゃーん」
そう言いながら、奈々美は母親の後ろを通って冷蔵庫まで行き、その中を探るように見回す。天然水、サイダー(飲みかけ)、りんごジュース、麦茶。あとは作り置きのご飯がラップに包まれて置かれているのと、ヨーグルトがあった。
「汚いでしょう!? もー、女の子なんだからもっとしっかりなさい!」
「別に」冷蔵庫を閉じる「関係ないじゃん。女の子とか男の子とか」
「関係ないなら、お兄ちゃんと一緒に下着とか洗うけど?」
「そーゆー問題じゃないって! あとそれはマジでやめて!」
一つため息を吐いて、奈々美は大きなあくびをかいた。
「ねーお母さーん。朝ご飯はー?」
その声でようやく奈々美の方を向いた母親は「あら」と口元に手を当てて目を見開いた。
「だらしがないわよ。シャツの中に手を入れない下着姿で歩かない!」
「分かってるよー。次からちゃんとするー」
「やってないじゃない。もうその台詞何度目なのよ……」
ため息交じりに言われたその言葉に目を背けて「いっ、一回目!」と素早く言い終わらせた奈々美は、今度は大きな大きなため息を聞く事になる。
「──いいえっ! 小学生に入った頃からずっと言ってるわよ!」
「てことはぁ……三百六十五日かける六年で……」
「計算しなくて良いからっ」
「それよりも、朝ご飯食べたーい」
自分の言葉を右から左に受け流す奈々美にこの数分で何度目かも分からない大きなため息を再びついてぐるりと目を回した。
「ほんと、我儘なんだから……。良いわよ、分かった。お兄ちゃん呼んで来て。朝ご飯食べちゃいましょ」
「えーっ!? 兄貴ィ……? 別に良いじゃん寝かしとけばー!」
「そんな訳にもいかないでしょ。さ、呼んで来て呼んで来て」
「あー、もうほんっっっと最悪……っ!」
目をぐるりと回して、彼女はあからさまに肩を落として背中を曲げて再び部屋に戻った。二段ベッドの上でまだ眠っている兄を見上げ、梯子を上ってそのベッドで丸くなっている男の足を叩いた。
「兄貴ー、起きろー。朝だぞー」
「がー、がー、がー……」
「寝たフリ要らないから。早くしてよ……」
「悪かった悪かった。行く行く。今起きるから」
そう言って起き上がった男は彼女の姿を目に入れると、白い歯を見せて寝起き爽やかそうに笑った。同時に立てられた親指を冷たい目で見て、ため息を吐いて梯子を下りて部屋から出て行った。
「ったく、何もそこまで起こることねえだろ?」
「うっさい兄貴。──こっちはお母さんに言われなきゃ話したくもなかったし……」
「でも話してくれてんじゃん」
その返しに奈々美は心底嫌悪し切ったような表情で顔だけ振り向いた。
「マジでやめてよ、気持ち悪い」
吐き捨てるようにそう言うと、奈々美は「おかーさーん、連れて来たー」と母親の方に走って行ってしまう。それを後ろから、彼は喪失感のようなものを漂わせながら目を細めて眺めていた。
「おはよ、母さん」
「おはよう、和樹。あら、あなたも顔洗って来てないんじゃない?」
「そりゃあね。だって今起こされて来た所だし」
「もー、早く食べよ食べよ」
「はいはい。座って座って」と付けていたエプロンの腰の後ろの紐を解き、脱いで、折り畳んで自分が座った席の隣に置く。
「──お父さんはもう仕事?」
「ええ、昔みたいに皆で食べられると嬉しいんだけどね」
苦い笑みを浮かべる母親を逃げるように目を閉じて視界から追い出すと顔の前で手を合わせた。隣の男と音が被って、一瞬だけ嫌悪を表したが、すぐに「いただきまーす」と言い終わらせる。やはり、隣の男と声が被って舌打ちしそうになった所をどうにか思い留まり、目を開いて箸を手に取った。
「うまっ」
「そう言ってくれるとありがたいわね」
口の中の物を腹の中に入れると、和樹はケケケと悪戯を企むような顔をしてなあ奈々美、と笑いを堪え切れないと言った風に奈々美の方を見ながら呼ぶ。
「……何?」
面倒くさそうに、嫌そうに、汚物でも見るかの如く、向けられたその目は冷たかった。
「ちゃんと好き嫌いせずに食えよ? じゃねえと胸平になるからな」
「はあっ!? ざっけんな兄貴! 死ね! マジ死ね!」
「わっはっは。揉まれる胸が無いと大変だろ?」
「マジ死ねよ。話しかけてくんな!」
「和樹、女の子にそういう話は──」
「良いの良いの。胸がつるぺたになっても困るのはコイツだし──いてぇっ!?」
ガシガシと隣から腿を蹴られる和樹は「やめっ、零れんだろ!?」と椅子からどいて立ち上がって、箸で掴んでいた白米を口の中に入れた。
「ねーお母さん、ほんと兄貴追い出しちゃいなよ。マジで鬱陶しいんだけど」
テーブルの上に身を乗り出して母親に交渉にもならない交渉をする。それを見て、和樹は鼻で笑って肩を竦めた。
「おいおいおい、俺はホントの事言っただけ──っとお!? 物投げんじゃねーよ!」
「うっさい兄貴! もうほんと、今日こそぶちのめしてやる……!」
椅子の上に足を乗せて立ち上がる奈々美は低く唸って手に持った箸をまるで包丁を扱うが如く振って威嚇する。和樹は腰に手を当てて「わっはっは!」と大きな声で高笑いした。
「もー、二人共? ご飯は大人しく食べなさい。あと和樹、あなたは後でデコピンね」
「絶対甘いよお母さん! こんな奴はもう火炙りにするくらいじゃないと!」
「言い過ぎだろお前!?」
「言い過ぎじゃないし! こんな奴と家族になんてなりたくなかったっ!」
そう叫ぶと、和樹が悪い事をした子供のような顔になり、あ、とだけ声を漏らした。
その目の向く先を辿っていくと、そこには母親がいて。
「──奈々美」
「な、何? お母さん」
「間違ってもそう言う事、言っちゃだめよ」
「えー、だってさ──」
「だめよ。絶対。それだけは、言っちゃだめ」
「……はあい」
奈々美は一つだけため息を吐いて、唇を尖らせて再び朝ご飯を食べ始める。
「和樹、あなたはあなたで人を怒らせるのをやめなさい」
「俺はホントの事言っただけだって」
「──それでも、嫌な事は言われたくないでしょ」
「わあったよ。以後気をつけまーす」
椅子に座ると、隣から足を踏まれてそっちに向きながら「それ、男子にやってもご褒美だぜ」とウィンクして見せた。瞬間、顔を青褪めさせて反射的に足を引いた奈々美は心底から嫌悪するような、軽蔑するような、そんな目で和樹を見た。
「よろしいっ。──それじゃあ早く食べちゃって。じゃないと遅刻しちゃうわよ?」
「あ、やば」
そう言って、奈々美は速攻でご飯を食べ終わって部屋に戻って行った。
食べ終わった時、テーブルの隅に置かれていたデジタル時計は七時五十分と表示していた。
「うわぁ……。食べるのはやっ」
「和樹、あなたも早く食べなさい。遅刻しちゃうでしょ」
「平気平気。もう少し遅めに出ても間に合うから」
「時間には余裕を持って」
「行動しろ、でしょ? 知ってるよ。耳にタコができるほど聞いてきたから」
「なら早くしなさい」
はいはい、と流すように返事をすると同時に「行ってきまーす!」と大きな声が聞こえてきて、母親が「行ってらっしゃーい」と返事した。
「──父さんも一緒に食べてけば良いのに」
「そう言わないの。──仕事が忙しいんだから」
「……ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした」
「それじゃ、俺も行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
──食べ終わった食器の上に箸を置いて立ち上がりテーブルから離れた。
部屋から出る際、立ち止まって少しだけ振り返った。
「────」
その目は、寂しそうで、悲しそうで。憐れむような目で母親を捉えていた。
[あとがき]
奈々美ちゃんは、ホリちゃんです。フルネームは『堀 奈々美』です。
一章よりかは遥かに面白くなっている……気がする!
連続更新あともうちょっと続きます。なんとかゴールデンウィーク最後まで更新できそうです。それじゃあまた次回!
坂道を下りている最中、滝本はレイの隣まで来てそう聞いた。
それに立ち止まって、レイはちらりと一瞬だけ滝本の後ろに立つ和田に目を移し、すぐに戻した。瞳に映した滝本は底の見えない社交辞令的な笑顔を浮かべている。
「えっ? どうしたの?」
「元気がないようだが、何かあったのかい?」
「あ、うう──」
首を振りかけて、レイは思い留まる。
もっと、人を頼って──……。
その言葉が喉の奥に引っかかったように上手く声が出せずにそっと目を伏せると、滝本は下からレイの顔を覗き込んできた。その瞳は不安に塗られていて、その目に背筋が凍るように固くなってしまい、背中が反る。さっと、目を背けた。
「──昨日のこと、覚えてる……?」
目だけを向けて聞くと、まだ頭の整理が出来ていないのか、何度も瞬きを繰り返してレイを見つめて、ゆっくりとその内容を吟味しながら、レイから目を離さずに頷いた。
「──ああ、覚えているとも」
「ぼくは、君のことを信じてみようと思うんだ」
「突然、どうしたと言うんだい……?」
「君も言ってたでしょ? 『時間を遡った人がいる』って。それだよ」
信じられないかもしれないけどね、と曖昧な笑みを浮かべて、頬をかきながら言った。
呆気にとられて何度も瞬く滝本は少しの間を置いて「なるほど」と小さく短く、その言葉を噛み砕くように、納得させるように、そう呟いた。
「それは、うん。分かったが、だとしても君はどうして私のことを急に……?」
小首を傾げて不安げな、心配しているかのような目で、一歩、詰め寄る。
しかしレイはその笑顔を崩さず、そっとだけ目を閉じた。その瞼の裏側に、数分前に見た少女の姿を思い出しながら。自然と滲み出してくる感情がレイの口元を緩ませる。
「信じてくれてるのは、もう知ってるから」そっと眼帯に触れる「──だから、ぼくは君を信じる」
「──これ以上聞いても、話が拗れるだけ、か」
腕を組んで、ふふ、と低い笑いがその口から漏れ出る。その顔をちらと見れば、彼女はとても良く笑っていた。頬を朱に染めて、思わぬ幸せに巡り会えたかのような、そんな笑みを浮かべていた。聞いてきたばかりの社交辞令的な笑顔は、そこにはもう感じられない。
「ありがとう。その信頼、裏切る事は無いと誓おう」
「そう。うん、分かったよ。ぼくも、君を裏切らないと誓うよ」
二人の事を遠目に見つめていた和田は、憎らしげに目を細めて目を背けた。それをレイは視界の端に認めながら、滝本に笑いかける。
「それじゃあ行こうか。次の目的地は湖だ」
素直な笑顔を向けられて、レイは「うんっ」と誤魔化しの無い笑みで返した。もう少し、もう少しだと、そう口中で呟きながら。
遠くで、誰かの笑った声が聞こえた気がした。
※※※
──周囲に霧散していたような意識が徐々に集まってくる感覚が起きて、目が覚めるのだと気が付いた。目を開けると、見慣れた壁が目の前にあった。
まだ重たい瞼を上げて、彼女はむくりと起き上がる。ぐしぐしと目を擦って欠伸をかきながらベッドから下りた。白いレースの付いたシャツの中、背中をかきながら部屋から出た。
「おはよう奈々美」
コトっ、と朝食をテーブルの上に並べていく母親を見て、奈々美は涙の滲んでいた目をごしごしと擦る。
「こらっ、起きてきたらまず顔洗いなさい!」
「別に良いじゃーん」
そう言いながら、奈々美は母親の後ろを通って冷蔵庫まで行き、その中を探るように見回す。天然水、サイダー(飲みかけ)、りんごジュース、麦茶。あとは作り置きのご飯がラップに包まれて置かれているのと、ヨーグルトがあった。
「汚いでしょう!? もー、女の子なんだからもっとしっかりなさい!」
「別に」冷蔵庫を閉じる「関係ないじゃん。女の子とか男の子とか」
「関係ないなら、お兄ちゃんと一緒に下着とか洗うけど?」
「そーゆー問題じゃないって! あとそれはマジでやめて!」
一つため息を吐いて、奈々美は大きなあくびをかいた。
「ねーお母さーん。朝ご飯はー?」
その声でようやく奈々美の方を向いた母親は「あら」と口元に手を当てて目を見開いた。
「だらしがないわよ。シャツの中に手を入れない下着姿で歩かない!」
「分かってるよー。次からちゃんとするー」
「やってないじゃない。もうその台詞何度目なのよ……」
ため息交じりに言われたその言葉に目を背けて「いっ、一回目!」と素早く言い終わらせた奈々美は、今度は大きな大きなため息を聞く事になる。
「──いいえっ! 小学生に入った頃からずっと言ってるわよ!」
「てことはぁ……三百六十五日かける六年で……」
「計算しなくて良いからっ」
「それよりも、朝ご飯食べたーい」
自分の言葉を右から左に受け流す奈々美にこの数分で何度目かも分からない大きなため息を再びついてぐるりと目を回した。
「ほんと、我儘なんだから……。良いわよ、分かった。お兄ちゃん呼んで来て。朝ご飯食べちゃいましょ」
「えーっ!? 兄貴ィ……? 別に良いじゃん寝かしとけばー!」
「そんな訳にもいかないでしょ。さ、呼んで来て呼んで来て」
「あー、もうほんっっっと最悪……っ!」
目をぐるりと回して、彼女はあからさまに肩を落として背中を曲げて再び部屋に戻った。二段ベッドの上でまだ眠っている兄を見上げ、梯子を上ってそのベッドで丸くなっている男の足を叩いた。
「兄貴ー、起きろー。朝だぞー」
「がー、がー、がー……」
「寝たフリ要らないから。早くしてよ……」
「悪かった悪かった。行く行く。今起きるから」
そう言って起き上がった男は彼女の姿を目に入れると、白い歯を見せて寝起き爽やかそうに笑った。同時に立てられた親指を冷たい目で見て、ため息を吐いて梯子を下りて部屋から出て行った。
「ったく、何もそこまで起こることねえだろ?」
「うっさい兄貴。──こっちはお母さんに言われなきゃ話したくもなかったし……」
「でも話してくれてんじゃん」
その返しに奈々美は心底嫌悪し切ったような表情で顔だけ振り向いた。
「マジでやめてよ、気持ち悪い」
吐き捨てるようにそう言うと、奈々美は「おかーさーん、連れて来たー」と母親の方に走って行ってしまう。それを後ろから、彼は喪失感のようなものを漂わせながら目を細めて眺めていた。
「おはよ、母さん」
「おはよう、和樹。あら、あなたも顔洗って来てないんじゃない?」
「そりゃあね。だって今起こされて来た所だし」
「もー、早く食べよ食べよ」
「はいはい。座って座って」と付けていたエプロンの腰の後ろの紐を解き、脱いで、折り畳んで自分が座った席の隣に置く。
「──お父さんはもう仕事?」
「ええ、昔みたいに皆で食べられると嬉しいんだけどね」
苦い笑みを浮かべる母親を逃げるように目を閉じて視界から追い出すと顔の前で手を合わせた。隣の男と音が被って、一瞬だけ嫌悪を表したが、すぐに「いただきまーす」と言い終わらせる。やはり、隣の男と声が被って舌打ちしそうになった所をどうにか思い留まり、目を開いて箸を手に取った。
「うまっ」
「そう言ってくれるとありがたいわね」
口の中の物を腹の中に入れると、和樹はケケケと悪戯を企むような顔をしてなあ奈々美、と笑いを堪え切れないと言った風に奈々美の方を見ながら呼ぶ。
「……何?」
面倒くさそうに、嫌そうに、汚物でも見るかの如く、向けられたその目は冷たかった。
「ちゃんと好き嫌いせずに食えよ? じゃねえと胸平になるからな」
「はあっ!? ざっけんな兄貴! 死ね! マジ死ね!」
「わっはっは。揉まれる胸が無いと大変だろ?」
「マジ死ねよ。話しかけてくんな!」
「和樹、女の子にそういう話は──」
「良いの良いの。胸がつるぺたになっても困るのはコイツだし──いてぇっ!?」
ガシガシと隣から腿を蹴られる和樹は「やめっ、零れんだろ!?」と椅子からどいて立ち上がって、箸で掴んでいた白米を口の中に入れた。
「ねーお母さん、ほんと兄貴追い出しちゃいなよ。マジで鬱陶しいんだけど」
テーブルの上に身を乗り出して母親に交渉にもならない交渉をする。それを見て、和樹は鼻で笑って肩を竦めた。
「おいおいおい、俺はホントの事言っただけ──っとお!? 物投げんじゃねーよ!」
「うっさい兄貴! もうほんと、今日こそぶちのめしてやる……!」
椅子の上に足を乗せて立ち上がる奈々美は低く唸って手に持った箸をまるで包丁を扱うが如く振って威嚇する。和樹は腰に手を当てて「わっはっは!」と大きな声で高笑いした。
「もー、二人共? ご飯は大人しく食べなさい。あと和樹、あなたは後でデコピンね」
「絶対甘いよお母さん! こんな奴はもう火炙りにするくらいじゃないと!」
「言い過ぎだろお前!?」
「言い過ぎじゃないし! こんな奴と家族になんてなりたくなかったっ!」
そう叫ぶと、和樹が悪い事をした子供のような顔になり、あ、とだけ声を漏らした。
その目の向く先を辿っていくと、そこには母親がいて。
「──奈々美」
「な、何? お母さん」
「間違ってもそう言う事、言っちゃだめよ」
「えー、だってさ──」
「だめよ。絶対。それだけは、言っちゃだめ」
「……はあい」
奈々美は一つだけため息を吐いて、唇を尖らせて再び朝ご飯を食べ始める。
「和樹、あなたはあなたで人を怒らせるのをやめなさい」
「俺はホントの事言っただけだって」
「──それでも、嫌な事は言われたくないでしょ」
「わあったよ。以後気をつけまーす」
椅子に座ると、隣から足を踏まれてそっちに向きながら「それ、男子にやってもご褒美だぜ」とウィンクして見せた。瞬間、顔を青褪めさせて反射的に足を引いた奈々美は心底から嫌悪するような、軽蔑するような、そんな目で和樹を見た。
「よろしいっ。──それじゃあ早く食べちゃって。じゃないと遅刻しちゃうわよ?」
「あ、やば」
そう言って、奈々美は速攻でご飯を食べ終わって部屋に戻って行った。
食べ終わった時、テーブルの隅に置かれていたデジタル時計は七時五十分と表示していた。
「うわぁ……。食べるのはやっ」
「和樹、あなたも早く食べなさい。遅刻しちゃうでしょ」
「平気平気。もう少し遅めに出ても間に合うから」
「時間には余裕を持って」
「行動しろ、でしょ? 知ってるよ。耳にタコができるほど聞いてきたから」
「なら早くしなさい」
はいはい、と流すように返事をすると同時に「行ってきまーす!」と大きな声が聞こえてきて、母親が「行ってらっしゃーい」と返事した。
「──父さんも一緒に食べてけば良いのに」
「そう言わないの。──仕事が忙しいんだから」
「……ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした」
「それじゃ、俺も行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
──食べ終わった食器の上に箸を置いて立ち上がりテーブルから離れた。
部屋から出る際、立ち止まって少しだけ振り返った。
「────」
その目は、寂しそうで、悲しそうで。憐れむような目で母親を捉えていた。
[あとがき]
奈々美ちゃんは、ホリちゃんです。フルネームは『堀 奈々美』です。
一章よりかは遥かに面白くなっている……気がする!
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