当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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四章 進む道の先に映るもの

184話 『取り返しのつかない事』

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 ──投げ放たれた羽根をレイは盾を展開して防ぐ。

 左腕に纏わりつくように黒い粘液のような『何か』が放射状に広がり、人一人覆うほど大きな盾が飛んできた羽根を形成途中の『何か』に掴まれて速度を手放し、地面に落ちる。盾が、形成される。

 トッ、と木を叩くような音が連続してレイを襲う。
 音が続けば続くほどその表情を険しくしていく。

「お兄ちゃん……?」

 そんなレイを見かねて、ナツミが声をかけるとレイはバッと振り返った。

「ナツミちゃん──」振り向いたレイは、一度だけ目を背け、首を小さく振って、ナツミに目だけを向ける「君に、お願いがあるんだ」

「えっ……」

「杉浦さんと、あの狼の女の人。あの二人と一緒に、外に戻って」

「っ。わ、私も、お兄ちゃんの役に立ちたいの……! お願い! このままじゃ、私は……」

「ううん。逃がすためじゃなくて、やって欲しいことがあるからだよ。──人を信頼、だよね?」

「あ、ありがと……。そっ、それで、何をしたらいいの……?」

「皆をここに連れて来てほしいんだ。ここには、あの化物は来てないから、きっと安全だから」

「わ、分かった……!」

 視界の端に、泡が見えた──。

「な、あ──っ!?」

 すぐに周囲に目を配らせ、次の瞬間、腹の底に響き渡るような重たい悲鳴とも聞き取れるような絶叫が耳を駆け抜けて脳天に響く。続く泡の増加にレイは息を飲む。

「ど──」

 遠くで醜悪なドス黒い塊が動いているのが僅かに見えて、レイはそちらを向く。しかし、増加した気泡の隙間からはそれを見る事は叶わずに歯を噛んだ。
 気泡が視界を外側から侵食していくように出現し、レイから視界を奪っていく。

 袖を引っ張られてそちらを向くと、そこには必死に口を動かしているナツミがいた。
 彼女を中央に捉え、それに手を伸ばすと同時に遂に視界が気泡に覆い尽くされた。泡が出来上がる音しか聞こえない中、必死に探るように周りに手を伸ばし、藻掻いて、気泡の奥を目を細めて認めようとする。

「ぼくはまだ、死んでない……! 殺されてない……! なんで、なんで……!?」

 まるで水の中を暴れるように纏わりついてくる空気の重たさをその身に受けながら、レイは腕を振り回す。やがて、気泡が小さくなっていき、晴れてくる。

 ──光が、目を焼いた。

「うっ……」

 その眩しさに目を細めてひさしを作りながら後ずさると体勢を崩してしまい、蹌踉めいてしまう。

「あ」

 ずるりと段差を踏み外し、もう何歩か後ずさって姿勢を整えると一つ、息を吐いた。

「だ、大丈夫かい? 剣崎くん」

 聞き覚えのあるその声を聞き、目を見開いた。
 ここにはいないはずの、彼女のその声を聞き、再び舞い戻ってきた事を知覚する。

「──ああ、うん」

 返事をして、顔を上げるとそこには心配そうな顔をする滝本の姿があった。

「そうかい。良かったよ」

 不自然に繋がれた輪のようにこの時へと再び舞い戻って来たレイは、自分の手を確認する。そこには、ただただ震えている、決意を無下に、誰も救えなかったか弱く、頼りない手だけがそこにはあった。

 ※※※

「よいしょっとー」

 しずかは帰る準備をしていた。鞄の中がぐちゃあ、となっているのを見て、しずかは慌てて鞄をひっくり返してその中身を一からしっかりと直そうとする。
 ──ひっくり返した瞬間、一体いつ渡されたのかすら分からないプリント群がその中から数え切れないほど飛び出して来たのを見てぼんやりと口を開けて呆けてしまった。

「あああああーっ!」

 泣く泣くそれを片していると、レイカが散らばったプリントの何枚かを揃えて「はい」と渡してきて、一瞬だけきょとんと固まってしまったものの、その手元を見てからもう一度レイカを見上げたしずかは柔らかく目を細めた。

「ありがとー」

「どういたしましてっ。てかしずかちゃん、こんなにも溜めてたんだ。──私なんかネネさんに調べられるからすぐにプリントとかは持って行かれちゃうよー」

 あはははは、と苦々しい思い出があるのか、それともまずい事でもあったのか、から笑いするレイカは目に涙を浮かべて泣きそうになりながらたらたらと脂汗をかいてしまっていた。

「どーしたのー? レーカちゃんー」

「いや、なんでも? ないよぉ? にゃはははは……はあ……。ウソ。ほんとは教科書とかに挟んで隠してたプリント、渡さなきゃいけなかったやつで……。渡すの怖い。ネネさん、すっごい怒るし……。あれ、明日までだし……」

「レーカちゃん……」

 項垂れるレイカの頭を撫でて、弾かれたように顔を上げるレイカに笑って見せる。
 レイカはその顔を見て、うるっと目に溜まる涙が増加したのを感じながら「うにゃああああああっ!」としずかに抱きついた。その瞬間、咄嗟に宙に浮いたプリントをキャッチして、抱きつかれる。

「しずかちゃんはなんて優しいんだ……! 私は嬉しいよおおおっ!」

 物凄い勢いで

「レーカちゃーん、周りの人が驚いてるからー、一旦落ち着こー……?」

「──あ、そ、そうだね」

 いやー、お騒がせいたしましたっ。と周りに向けてお辞儀をするレイカを中心に笑いの渦が巻き起こった。その光景を、まるで女優を見るような目で見て小さく微笑んでから視線を外し、鞄にプリントを直す作業を早々と終わらせた。

「帰る準備してくださいねー。じゃないと早く帰れなくて夜まで学校にいる事になるわよーっ」

 からかうように両手を上げて如何にも脅かそうとしているのを見て、多くの生徒達が笑う。笑って、それぞれの席にゆっくりと戻って行き、全員が各々の席に座ると担任の先生がその手を下ろした。

「まー、今日も何かと元気だったね皆! 別段いつもと変わんなくて先生安心安心。──とまあ、このまま話しちゃうとずっと続きそうだからやめといて、手紙、幾つか配るわよー。はいはい回して回してー。早く帰れなくなっちゃうからー。先生が」

 その言葉に従い、渡されたプリントを手際良く後ろに回していく生徒達。
 その全員にプリントが行き渡ると、先生はうんうんと頷いてから「それじゃー帰りの挨拶っ」と片手を挙げる。

「今日も一日お疲れーっ!」勢い良く手を振り下ろした「はい解散っ!」

 がやがやと突然に騒がしくなる教室に、しずかは一瞬だけびくっと体を震わせる。

「しずかちゃーん! 帰ろーっ!」

 斜め後ろを向いてそう言うレイカに、こくっ、と快く頷いて見せた。

「いいよー。レーカちゃん」

「やたー」

 その小さな子供みたいに純真無垢な笑顔を見せられて、しずかはそっと肩の力を抜いた。悩んでいたのが馬鹿らしくなったような、そんな吐息を漏らしてしずかは鞄を背負う。

「それじゃー帰ろー」

 レイカに笑いかけて、その隣まで歩いて行った。学校指定の紺色の鞄のチャックを閉じて、背中に背負うと「帰ろー帰ろー!」と拳を高く掲げた。

 ※※※

「ただいまー」

 いつも通り、ドアを開けると同時にドタバタと激しい音がして、慌てて部屋から出て来た優太がしずかを見る。走り続けていたかのように肩を上下させる優太の様相に優しい笑顔を向けてもう一度「ただいまー」と静かに、そう言う。

「お、おかえり……」

 小さく、躊躇うように手を挙げて、優太は一息ついた。
 後ろ手にドアを閉じて玄関に座って靴を脱いでいると、側へと優太が歩いて来る。

「お帰り、姉さん」

「ただいまー」

 脱いでいる最中の靴を見つめ、紐を解くその手を休めながら再びそう返す。
 優太は少しだけ顔を背け、それからその背中に少しばかりの迷いが見える黒い瞳を向けて口を開け、言い損ねる。口をつぐんで、首を横に振り、強引に意を決したように自分の胸に手を当てて、短く息を吸い込んだ。瞳に漂う迷いを押し隠して少しだけ目尻を尖らせる。

「──姉さん」

「んー? どーしたのー?」

「姉さんは、さ……」

 その先を続けられない優太の方を見ず、顔を下に向けたまま、しずかは「んー」と聞く姿勢を見せる。その少し丸められた背中から目を背け、壁の方に目線を注ぎながら優太は「どう、やったの……?」と怖がるような口振りで聞いた。

「──お姉ちゃんはねー、たぶんー……一人じゃ何もできなかったと思うんだー」

「……そんな事、ないよ。姉さんは、強い」

「レーカちゃんがー、私をー、助けてくれたからー。──だからねー、私もー、ゆうくんのー、力になれるならー、なるよー?」

 振り返って見れば、そこに映るのは苦々しく、悲しみを堪えるような、怒りを隠すような、それはまるで熱を取り払った恥ずかしさのように、少年の顔を歪めていた。
 ただ、それは次の瞬間には顔の内側に隠されて少し遠慮がちな笑みが代替品としてその顔に浮かべられる。その一瞬の葛藤に、しずかは悲しみを彩る瞳を目を伏せて隠した。

「……そう、なんだ。ありがと……」

 小さく、弱々しく、それは諦めのような、それは落胆のような、負の方面へと顔を向けたまま、優太はそう口にした。

「んー……」

 再び靴に視線を戻し、しずかはぐちゃぐちゃになってしまっていた紐を解こうとして、はたと目を大きく見開き、弾かれたように顔を上げる。再び振り返って「待ってー」と間の抜けた声がその廊下に響いて、部屋に戻ろうとする優太の足が止まった。
 振り返らずに、優太は答える。

「……どうしたの? 姉さん」

「お姉ちゃんとー、お出かけしよー?」

「どうして……?」

「お姉ちゃんとならー、きっとー、平気だよー……?」

 ぎりっ、と歯を噛み砕くほど強く、歯を軋らせる。
 まだ幼い顔を向けて、優太は答える。その顔には、もはや喜びや嬉しさのようなものは知らないとでも言うような、悲しみが彩られていた。それはいっそ、憐れみのようなものをその瞳に宿しているようで。

「──姉さんは、ほんと、姉さんだね」

 それだけ言い残し、優太は部屋に入って行った。
 しずかは目を伏せて、そっと、こんがらがった紐を一人でどうにか解いて靴を脱ぎ、部屋に戻って行った。家の廊下が、まるで大きな溝のように二人の間に存在しているかのような、もう会えないと思ってしまう、そんな虚無感や悲しみが入り混じった瞳を細めて、ほろりとほんの一つだけ、涙を流した。





[あとがき]
 レイくんの方も少しずつ終わりが見えてきた頃合い……まだ終わらないけれどね!
 ループの条件は、レイくんの死亡ではないです。勘のいい人はもう分かったと思うけれど、もうしばらく謎のままで……。
 連続更新まだまだ続くよ!次回もよろしくね!
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