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四章 進む道の先に映るもの
156話 『偏在する恐怖』
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レイはうっすらと目を開けた。何やら騒々しい音に、何度かの瞬きを挟んでそちらを向いた。
「あっ、目が覚めたかい?」
「……えっと?」
「寝惚けているようだね。私は滝本入江、作家だ。君の隣に移動して来ている。これが、君が眠るまでのとても簡略的な状況の説明だ」
「……ぁ、そうか。うん、分かった」
頭に手を当てて周囲を見回す。
レイから見て左側の通路では生徒達が忙しなく大荷物を肩にかけたり、両手に抱えたりして歩き回り、混雑していた。
「目的地に着いたから、起こしていた所だったのだよ。呑み込めたかい?」
「うん、えっと、ありがとう」
「どういたしまして。新幹線がまだ動くとは思わないが、少しスペースができ始めたから私達も荷物を持って下りよう」
「……教えてくれて、ありがとう」
「その間が気になるけれど、構わないよ」
※※※
「はっ!?」
気が付けば、天と地が逆さになっていた。
驚きに目をぱちくりさせると、顔の前に下半身が落ちてきて自分が逆さまになっているのだと気づく。
レイカは、ベッドから落ちていた。
くるりとうつ伏せると、四つん這いになって立ち上がる。
机の上の時計を見るとそこには七時五九分と表示されたそれがあった。
「え、ウソっ!」
どたばたと大慌てで着替えると、速攻で階下に下りて行き、ネネに「行って来まーすっ!」とリビングに顔を出してからすぐに玄関へ向かう。
「ちょ、レイカちゃん!」
「えっ、何!? もー! 時間無いんだけど!?」
「何言ってんのよ! そんな格好で──前を出して行くつもりなの!?」
「えっ、うわっ、ぎゃー! もー! 急がなきゃなのに……!」
「それに弁当も持って行ってないじゃない!」
「ほ、ホントだ!」
「レイくん、すごいわね……。あれだけ静かにレイカちゃんの面倒を見てるなんて……」
うわーっ、靴紐できないー!と、そう叫ぶレイカにネネは苦笑しながらはいはい、と声の調子を落としながら言うと、靴紐を結んであげ、リビングからうさぎや果物の絵がプリントされた弁当袋を持って来た。
「はい。今度はカッターシャツのボタン、ちゃんと付けなさいよ」
「分かってるって! それじゃ、行って来まーす!」
「行ってらっしゃい」
手を振って、走って出て行ったレイカを見送ると、ネネは顔から微笑みを消して小さく吐息した。
レイカは家から出ると、向かいの家の窓に向けて「行って来るね!」と朗らかに笑いながら手を振る。カーテンは閉まったままで、けれども確かにそこにいる少女を思いながら、走り出した。
角を右に曲がり、左側のブロック塀沿いに走って行き、少ししてから徐々に左に曲がって行く。そうして橋を渡り、右に走って数分行くと、信号が見えてくる。
着いた途端に信号が点滅し出して、うにゃー!と叫びながらそれを渡り切ると一息ついて額を拭い、再び走る。
「あっ、レーカちゃーん」
「ん? あっ、しずかちゃんっ。おはよ!」
しずかちゃん、とレイカがそう呼んだ彼女はひらひらと手を振りながら走るレイカを呼び止め、にこやかに笑いながらのんびりと歩いて来る。
「そんなに走っちゃー、危ないよー」
廊下じゃないけどー、とくすくす笑いながら歩いて来る彼女を慌てた顔で見ながら、レイカはぶんぶんと学校の方を指さした手を振り回しながら「そんな事を言ってる時間はないよっ!」と、大きく声を張り上げた。
「もーすぐチャイムが鳴って遅刻しちゃうっ!」
「えー、大丈夫だよー。私ー、いつもこのくらいの時間に学校行ってるしー」
「え、ホント!?」
「ホントーだよー。いつもレーカちゃんが早いんだよー。クラスでいっつも一番だもんねー」
「な、なーんだ。良かったー……」
「うっふっふー。レーカちゃん、かわいーねー。勘違いー?」
「うぐっ……」
「最近はべんきょーも頑張ってるもんねー。小学校はダメダメだったのに、中学校じゃ学年の五十圏内らしいよー」
順位発表されてないけどー、とレイカの頬をぷにぷに突きながらニヤニヤと笑う。
「レーカちゃん、中学校ですっごく優等生になってー。私ー、嬉しーなー」
「や、やめてよ。恥ずかしいじゃん……」
「恥ずかしがってるレーカちゃん、かわいーねー」
食べちゃいたいくらい、と耳元でそう囁かれ、ぼふんっ、と脳の処理が熱によって一瞬止まり、体が固まる。ぷすぷすとその余韻を頭からもくもくと上げながら、声を無くす。
「顔赤ーい」
「にゃふっ……、にゃ、にゃ? にゃふ、ふ……」
「それじゃーあー、一緒に行こー、学校ー」
「にゃ──に、ぁ、え、ぅ、え、ちょ、ちょっと、待ってよ~……!」
追いかけるレイカは、くすくすと笑いながら先を行く少女の姿に手を伸ばし、その肩を掴んだ。そのまま飛びつき、笑い合う。
そして思う。認められていると、認められていたいと。このままの関係でありたいと、捨てられたくないと。これからも、これまでのように、ずっと、ずっと──……。
※※※
レイはバスの中で上下する車体に肩を揺られながら窓の外を眺めていた。
いつもとは違うようで、しかし似通った風景がそこにはある。
それを遠い目で見つめるレイは、騒がしい背後の席の人に尻目で意識を向け、すぐにそれを手放し外を眺め直す。いつもとは違う光景のはずのそれが、あまり好奇心を擽らないのは日常のそれと似通った所が多い──多過ぎるからだろう。
バスが信号で停止し、見える光景が固定される。
人が行き交う光景にふと、誰かの姿を探してしまい、それに期待しないまでも車窓の外を行き交う人々の中を探し続ける。
「いないよね……」
そう呟き、自分を納得させようとしているのに、やはりそこから目が離せない。
意識が、ついついそこを探してしまう。可能性があるのかもしれない、と。そう思い始めれば、後は体が勝手に反応する。
「コオロギさん」
バスの中、ペアが見つからず、先生の隣に座る事になったレイは、前の方の席でジッと窓の外を眺め、時間を浪費している。
不意に、あの『黒い空間』や『白い箱』を思い出す。
暗澹としたそこに佇む立方体のそれの上に、気が付けばいつも立っていた。
それは恐らく、自分の後悔の象徴なんだろうと、そう思う。しかし、自分が見たのはその一面、ごく一部だけ。彼女の──ミズキの事のみだ。その一端に触れただけなのだから。アレの事は本当は何も分かってはいない。
首を振り、それらの思考を振り払って外を見る。
どうして、という思いが胸の中に重なっていく。どうして、突然出て行ったのか。どうして、それに気がつけなかったのか。どうして、引き留められなかったのか。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして──……。
「もうすぐ着く」
ふと、隣に座る先生がそう言ったのが聞こえた。
振り向けば、先生は立っていて、生徒全員にそう言っているようだった。静かなのに、厳かで、ハッキリと聞こえる声音が、後に続く。
「各位、持ち物を確認し、ゴミは置いて行くな。忘れ物もするなよ。向こうに着いたら、まずはバスのトランクからそれぞれの荷物を受け取り、各自の部屋へそれぞれ行くように」
そう言われ、はーい、分かりましたー、など色々な返答が返ってくる。それらは全て、それを肯定した返答だった。
「剣崎」
「は、はい……?」
突然名前を呼ばれ、レイは顔を弾かれたように上げた。そこで自分が頭を下げていた事に気がつく。しばらく見つめていると、先生は小さくため息を吐いて、どかっと椅子に腰掛けながら「学校でも言ったが、部屋に行く前に先生の所に来なさい」と、そう言った。
「……はい、分かってます」
少し間の空いた返答に、先生は何も詰問せず、そうか、とだけ答えた。
後ろの方の会話も勢いが消えて、今は随分と静かだ。それを感じ取りながら、レイは顔を伏せ、ズボンを強く、シワが沢山できるほど──指が白くなるほど強く握り締めた。
ホテルに着くまでにそうは時間がかからなかった。
後ろの席の人達から、クラスメイトが下りて行くのを見送りながら一番前に座っていたレイは最後にバスから下りた。運転手から荷物を受け取り、お辞儀をする。そうして先生の下に行くと、彼は「こっちに」とレイを先導するように歩いてホテルの中へ。
続いて行くと、クラスメイト達の声が遠くに聞こえる通路にやってきた。少し奥には階段が見え、隣には青い自動販売機が見られる。そこで、先生が振り返り、腕を組んで短く息を吐いた。
「酷かもしれんが」と、そう前置きして、彼はレイの目を見ながらこう告げた。
「お前には、女性用の部屋に行ってもらう」
「……え?」
どくん、と鼓動が跳ねた。無理解と不可解が唐突に頭の中で暴れ出し、レイは呆気に取られてしまう。瞬間、慌てて取り繕うように背筋を伸ばしたが、不安の篭もる手が、自分の腕を握り締めた。
「知らないとでも、思っていたのか?」
「……」
顔を背け、答えようとしないレイに、先生は小さく唾を飲み込み、「あのな」と言う。
「剣崎、お前の預けられていた児童養護施設の人がな、頼み込んできた。一年生の時にな。お前に過去、何があったのかはなんとなくは理解しているつもりだ」
その言葉を聞き、レイは下唇を噛んで声を無くした。その体は小刻みに震え、目には涙が溜められている。
「だから、女だと言うのは、嫌だと言うんだろう?」
頭の中を駆け巡る恐怖と憤怒が声を荒らげ、無造作に情報を蹴散らして混乱と困惑の海にレイを突き落とし、嘲笑う。そこでは呼吸が上手くできず、レイは震え、か細い息をしながらその場に立ち尽くしていた。
「だが、こっちとしても、お前を男子と同じ部屋に寝かせるわけにはいかない」
次々に突きつけられるその言葉達がレイの心を圧倒し、蹂躙していく。
「お願い、します」
無理に絞り出したようなその声を聞き、先生は、ん、とレイの口に注目する。
「誰、にも、言わないで……」
どろりと、眼帯の下から滲み出すそれを隠しながら、レイは続ける。
「ボクは、今の、生活が、あの、場所が、好きで、だから、お願い、します、言わないで、言わ、ないで……。なん、でも、する、ので……」
左目を手で押さえ、反対側の目からは透明な雫をぽろぽろと溢しながら、懇願する。
遂には荷物を持てなくなって、その場にどさっ、と落とした。それでも、「お願いします」と何度も何度も、途切れ途切れになっても繰り返し続ける。
その態度に、先生は一つ、息を吐いた。
「俺は何も脅しているわけじゃない。泣く必要はない。震えなくても良い。取って食うわけじゃないんだから、そう怖がるな」
そう言葉をかけてくる先生の声が随分と遠くに聞こえたレイは、頭の中で一人の存在を追い求め、縋り始めた。彼女の残影が見える。けれども、顔は見えず、手を伸ばしてもそれは必ず届きそうで届かない距離にいて、触ることができない。
一人だと再確認するのに、それほど時間はかからなかった。
「落ち着いたか?」
──。
────。
────────。
頭の中で暴れ狂う無理解と不可解が黒い『何か』に揉み潰された。
「はい」
無機質に答えたレイの変わりように、先生は眉をひそめたがすぐに普段の顔つきに戻り、「安心しろ」と軽い口振りで言った。
「生徒達と同じ部屋じゃなくて、先生と──女の先生達と一緒の部屋になるように準備してある。それ以外は、風呂の時間が皆とズレるが、そこは勘弁してくれ」
「はい、分かりました」
そう答えるレイを見て、先生は「向こうに副担任の砂糖先生がいる。彼女について行きなさい」と通って来た通路を指さした先には、ショートカットの若い女性の先生がレイの方に体を向けて立っていた。
「何か困った事があれば、言えよ」
「──はい」
短くそう言って、レイは先生に背を向け、荷物を拾ってから示された方向に歩いて行った。
「ああ、それから」
思い出したようにそう言った先生へ振り返り見ると、彼はそのゴリラのような顔で微笑みながら、先程と同じ方向を指さす。
「砂糖先生はお前の義理の妹に当たる、石田の国語担当、副担任もやっている。気になったら聞いてみるといい」
「分かりました」
再び背を向け、歩き始めた。
[あとがき]
作者です。四章入って二回目!
四章突入してから、時間感覚が狂ったように物凄い時間が経ったように感じました……。一週間って長いな。──とは言え、大晦日である今日の予定は大掃除やらで大忙し!いつかこの作品の中でも書けたらな、と思います。書けるかは怪しいけれどっ。最悪、例の如くIFでなんとかします。
そしてこのお話で学校では先生方に既に知られている事が発覚……!
感の良い人は気付いてたかもですが。レイくんの精神にダメージ!オーバーキルしてしまうのでは!?とか一瞬だけ思ったけれど普通になんとかなりました。
さて、ではもう一つ報告を。
実はあらすじの所、三十日に書き直してみました。興味のある人は覗いてみてください。だいぶ変わってると思います。少なくとも前よりは良くなってる(気がする)!
では、次は来週の一月七日!
──と思ったけれど、年越しなので一日にも更新します!
四章の話を早く進めようって魂胆ではありません。それではまた明日!
「あっ、目が覚めたかい?」
「……えっと?」
「寝惚けているようだね。私は滝本入江、作家だ。君の隣に移動して来ている。これが、君が眠るまでのとても簡略的な状況の説明だ」
「……ぁ、そうか。うん、分かった」
頭に手を当てて周囲を見回す。
レイから見て左側の通路では生徒達が忙しなく大荷物を肩にかけたり、両手に抱えたりして歩き回り、混雑していた。
「目的地に着いたから、起こしていた所だったのだよ。呑み込めたかい?」
「うん、えっと、ありがとう」
「どういたしまして。新幹線がまだ動くとは思わないが、少しスペースができ始めたから私達も荷物を持って下りよう」
「……教えてくれて、ありがとう」
「その間が気になるけれど、構わないよ」
※※※
「はっ!?」
気が付けば、天と地が逆さになっていた。
驚きに目をぱちくりさせると、顔の前に下半身が落ちてきて自分が逆さまになっているのだと気づく。
レイカは、ベッドから落ちていた。
くるりとうつ伏せると、四つん這いになって立ち上がる。
机の上の時計を見るとそこには七時五九分と表示されたそれがあった。
「え、ウソっ!」
どたばたと大慌てで着替えると、速攻で階下に下りて行き、ネネに「行って来まーすっ!」とリビングに顔を出してからすぐに玄関へ向かう。
「ちょ、レイカちゃん!」
「えっ、何!? もー! 時間無いんだけど!?」
「何言ってんのよ! そんな格好で──前を出して行くつもりなの!?」
「えっ、うわっ、ぎゃー! もー! 急がなきゃなのに……!」
「それに弁当も持って行ってないじゃない!」
「ほ、ホントだ!」
「レイくん、すごいわね……。あれだけ静かにレイカちゃんの面倒を見てるなんて……」
うわーっ、靴紐できないー!と、そう叫ぶレイカにネネは苦笑しながらはいはい、と声の調子を落としながら言うと、靴紐を結んであげ、リビングからうさぎや果物の絵がプリントされた弁当袋を持って来た。
「はい。今度はカッターシャツのボタン、ちゃんと付けなさいよ」
「分かってるって! それじゃ、行って来まーす!」
「行ってらっしゃい」
手を振って、走って出て行ったレイカを見送ると、ネネは顔から微笑みを消して小さく吐息した。
レイカは家から出ると、向かいの家の窓に向けて「行って来るね!」と朗らかに笑いながら手を振る。カーテンは閉まったままで、けれども確かにそこにいる少女を思いながら、走り出した。
角を右に曲がり、左側のブロック塀沿いに走って行き、少ししてから徐々に左に曲がって行く。そうして橋を渡り、右に走って数分行くと、信号が見えてくる。
着いた途端に信号が点滅し出して、うにゃー!と叫びながらそれを渡り切ると一息ついて額を拭い、再び走る。
「あっ、レーカちゃーん」
「ん? あっ、しずかちゃんっ。おはよ!」
しずかちゃん、とレイカがそう呼んだ彼女はひらひらと手を振りながら走るレイカを呼び止め、にこやかに笑いながらのんびりと歩いて来る。
「そんなに走っちゃー、危ないよー」
廊下じゃないけどー、とくすくす笑いながら歩いて来る彼女を慌てた顔で見ながら、レイカはぶんぶんと学校の方を指さした手を振り回しながら「そんな事を言ってる時間はないよっ!」と、大きく声を張り上げた。
「もーすぐチャイムが鳴って遅刻しちゃうっ!」
「えー、大丈夫だよー。私ー、いつもこのくらいの時間に学校行ってるしー」
「え、ホント!?」
「ホントーだよー。いつもレーカちゃんが早いんだよー。クラスでいっつも一番だもんねー」
「な、なーんだ。良かったー……」
「うっふっふー。レーカちゃん、かわいーねー。勘違いー?」
「うぐっ……」
「最近はべんきょーも頑張ってるもんねー。小学校はダメダメだったのに、中学校じゃ学年の五十圏内らしいよー」
順位発表されてないけどー、とレイカの頬をぷにぷに突きながらニヤニヤと笑う。
「レーカちゃん、中学校ですっごく優等生になってー。私ー、嬉しーなー」
「や、やめてよ。恥ずかしいじゃん……」
「恥ずかしがってるレーカちゃん、かわいーねー」
食べちゃいたいくらい、と耳元でそう囁かれ、ぼふんっ、と脳の処理が熱によって一瞬止まり、体が固まる。ぷすぷすとその余韻を頭からもくもくと上げながら、声を無くす。
「顔赤ーい」
「にゃふっ……、にゃ、にゃ? にゃふ、ふ……」
「それじゃーあー、一緒に行こー、学校ー」
「にゃ──に、ぁ、え、ぅ、え、ちょ、ちょっと、待ってよ~……!」
追いかけるレイカは、くすくすと笑いながら先を行く少女の姿に手を伸ばし、その肩を掴んだ。そのまま飛びつき、笑い合う。
そして思う。認められていると、認められていたいと。このままの関係でありたいと、捨てられたくないと。これからも、これまでのように、ずっと、ずっと──……。
※※※
レイはバスの中で上下する車体に肩を揺られながら窓の外を眺めていた。
いつもとは違うようで、しかし似通った風景がそこにはある。
それを遠い目で見つめるレイは、騒がしい背後の席の人に尻目で意識を向け、すぐにそれを手放し外を眺め直す。いつもとは違う光景のはずのそれが、あまり好奇心を擽らないのは日常のそれと似通った所が多い──多過ぎるからだろう。
バスが信号で停止し、見える光景が固定される。
人が行き交う光景にふと、誰かの姿を探してしまい、それに期待しないまでも車窓の外を行き交う人々の中を探し続ける。
「いないよね……」
そう呟き、自分を納得させようとしているのに、やはりそこから目が離せない。
意識が、ついついそこを探してしまう。可能性があるのかもしれない、と。そう思い始めれば、後は体が勝手に反応する。
「コオロギさん」
バスの中、ペアが見つからず、先生の隣に座る事になったレイは、前の方の席でジッと窓の外を眺め、時間を浪費している。
不意に、あの『黒い空間』や『白い箱』を思い出す。
暗澹としたそこに佇む立方体のそれの上に、気が付けばいつも立っていた。
それは恐らく、自分の後悔の象徴なんだろうと、そう思う。しかし、自分が見たのはその一面、ごく一部だけ。彼女の──ミズキの事のみだ。その一端に触れただけなのだから。アレの事は本当は何も分かってはいない。
首を振り、それらの思考を振り払って外を見る。
どうして、という思いが胸の中に重なっていく。どうして、突然出て行ったのか。どうして、それに気がつけなかったのか。どうして、引き留められなかったのか。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして──……。
「もうすぐ着く」
ふと、隣に座る先生がそう言ったのが聞こえた。
振り向けば、先生は立っていて、生徒全員にそう言っているようだった。静かなのに、厳かで、ハッキリと聞こえる声音が、後に続く。
「各位、持ち物を確認し、ゴミは置いて行くな。忘れ物もするなよ。向こうに着いたら、まずはバスのトランクからそれぞれの荷物を受け取り、各自の部屋へそれぞれ行くように」
そう言われ、はーい、分かりましたー、など色々な返答が返ってくる。それらは全て、それを肯定した返答だった。
「剣崎」
「は、はい……?」
突然名前を呼ばれ、レイは顔を弾かれたように上げた。そこで自分が頭を下げていた事に気がつく。しばらく見つめていると、先生は小さくため息を吐いて、どかっと椅子に腰掛けながら「学校でも言ったが、部屋に行く前に先生の所に来なさい」と、そう言った。
「……はい、分かってます」
少し間の空いた返答に、先生は何も詰問せず、そうか、とだけ答えた。
後ろの方の会話も勢いが消えて、今は随分と静かだ。それを感じ取りながら、レイは顔を伏せ、ズボンを強く、シワが沢山できるほど──指が白くなるほど強く握り締めた。
ホテルに着くまでにそうは時間がかからなかった。
後ろの席の人達から、クラスメイトが下りて行くのを見送りながら一番前に座っていたレイは最後にバスから下りた。運転手から荷物を受け取り、お辞儀をする。そうして先生の下に行くと、彼は「こっちに」とレイを先導するように歩いてホテルの中へ。
続いて行くと、クラスメイト達の声が遠くに聞こえる通路にやってきた。少し奥には階段が見え、隣には青い自動販売機が見られる。そこで、先生が振り返り、腕を組んで短く息を吐いた。
「酷かもしれんが」と、そう前置きして、彼はレイの目を見ながらこう告げた。
「お前には、女性用の部屋に行ってもらう」
「……え?」
どくん、と鼓動が跳ねた。無理解と不可解が唐突に頭の中で暴れ出し、レイは呆気に取られてしまう。瞬間、慌てて取り繕うように背筋を伸ばしたが、不安の篭もる手が、自分の腕を握り締めた。
「知らないとでも、思っていたのか?」
「……」
顔を背け、答えようとしないレイに、先生は小さく唾を飲み込み、「あのな」と言う。
「剣崎、お前の預けられていた児童養護施設の人がな、頼み込んできた。一年生の時にな。お前に過去、何があったのかはなんとなくは理解しているつもりだ」
その言葉を聞き、レイは下唇を噛んで声を無くした。その体は小刻みに震え、目には涙が溜められている。
「だから、女だと言うのは、嫌だと言うんだろう?」
頭の中を駆け巡る恐怖と憤怒が声を荒らげ、無造作に情報を蹴散らして混乱と困惑の海にレイを突き落とし、嘲笑う。そこでは呼吸が上手くできず、レイは震え、か細い息をしながらその場に立ち尽くしていた。
「だが、こっちとしても、お前を男子と同じ部屋に寝かせるわけにはいかない」
次々に突きつけられるその言葉達がレイの心を圧倒し、蹂躙していく。
「お願い、します」
無理に絞り出したようなその声を聞き、先生は、ん、とレイの口に注目する。
「誰、にも、言わないで……」
どろりと、眼帯の下から滲み出すそれを隠しながら、レイは続ける。
「ボクは、今の、生活が、あの、場所が、好きで、だから、お願い、します、言わないで、言わ、ないで……。なん、でも、する、ので……」
左目を手で押さえ、反対側の目からは透明な雫をぽろぽろと溢しながら、懇願する。
遂には荷物を持てなくなって、その場にどさっ、と落とした。それでも、「お願いします」と何度も何度も、途切れ途切れになっても繰り返し続ける。
その態度に、先生は一つ、息を吐いた。
「俺は何も脅しているわけじゃない。泣く必要はない。震えなくても良い。取って食うわけじゃないんだから、そう怖がるな」
そう言葉をかけてくる先生の声が随分と遠くに聞こえたレイは、頭の中で一人の存在を追い求め、縋り始めた。彼女の残影が見える。けれども、顔は見えず、手を伸ばしてもそれは必ず届きそうで届かない距離にいて、触ることができない。
一人だと再確認するのに、それほど時間はかからなかった。
「落ち着いたか?」
──。
────。
────────。
頭の中で暴れ狂う無理解と不可解が黒い『何か』に揉み潰された。
「はい」
無機質に答えたレイの変わりように、先生は眉をひそめたがすぐに普段の顔つきに戻り、「安心しろ」と軽い口振りで言った。
「生徒達と同じ部屋じゃなくて、先生と──女の先生達と一緒の部屋になるように準備してある。それ以外は、風呂の時間が皆とズレるが、そこは勘弁してくれ」
「はい、分かりました」
そう答えるレイを見て、先生は「向こうに副担任の砂糖先生がいる。彼女について行きなさい」と通って来た通路を指さした先には、ショートカットの若い女性の先生がレイの方に体を向けて立っていた。
「何か困った事があれば、言えよ」
「──はい」
短くそう言って、レイは先生に背を向け、荷物を拾ってから示された方向に歩いて行った。
「ああ、それから」
思い出したようにそう言った先生へ振り返り見ると、彼はそのゴリラのような顔で微笑みながら、先程と同じ方向を指さす。
「砂糖先生はお前の義理の妹に当たる、石田の国語担当、副担任もやっている。気になったら聞いてみるといい」
「分かりました」
再び背を向け、歩き始めた。
[あとがき]
作者です。四章入って二回目!
四章突入してから、時間感覚が狂ったように物凄い時間が経ったように感じました……。一週間って長いな。──とは言え、大晦日である今日の予定は大掃除やらで大忙し!いつかこの作品の中でも書けたらな、と思います。書けるかは怪しいけれどっ。最悪、例の如くIFでなんとかします。
そしてこのお話で学校では先生方に既に知られている事が発覚……!
感の良い人は気付いてたかもですが。レイくんの精神にダメージ!オーバーキルしてしまうのでは!?とか一瞬だけ思ったけれど普通になんとかなりました。
さて、ではもう一つ報告を。
実はあらすじの所、三十日に書き直してみました。興味のある人は覗いてみてください。だいぶ変わってると思います。少なくとも前よりは良くなってる(気がする)!
では、次は来週の一月七日!
──と思ったけれど、年越しなので一日にも更新します!
四章の話を早く進めようって魂胆ではありません。それではまた明日!
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