143 / 263
三章 炎は時に激しく、時に儚く、時に普遍して燃える
137話 『裏切られていないと信じて』
しおりを挟む
──朝早く登校すると、教室は閉まっていた。
レイカは何度か開けようと試みて、まず、ノックをしてみる。ダメだった。次に思いっ切り引っ張ってみる。ダメだった。窓から入ろうと試みるも、それもダメ。結局、職員室に取りに行く羽目になった。
階段を上って、職員室に向かいながら思考する。
どうしていなくなるんだろう、だって、昔からずっと一緒にいて、仲だって良くて、良かった、はずなのに……。
ダメだな、と思う。らしくもない、とも。
ただ、それでもありあまるほどの後悔と名残惜しさに圧し潰されそうになるレイカは顔をしかめて、震えを止めるように身を縮めて、抱えるように両腕の肘より少し上を握る。爪を立てる。
今はこの痛みで気を紛らわせるしかできない。
階段の踊り場の壁に沢山の紙が貼られていた。熱中症の注意を呼びかけるものに、新聞部の新聞(四コマ漫画付き)に、生徒会が決めた、『今月の目標』と書かれた紙も貼られている。『あいさつをきちんとしよう』と、寒色系で書いてあった。
踊り場から更に上がって行き、二階に上がってすぐ、左に曲がってトイレを過ぎ、職員室の前に到着する。
腕を下ろして、深呼吸をする。それからノックして、失礼しまーすと言いながら横に引く、学校の年季の入ったドアを開ける。
クーラーが効いていて、涼しい風がレイカの顔のすぐ横に避けて通って行った。それに少し呆けていると、出て行く直前だったのか、目の前にプリントの山を抱えた若い女の先生が「どーしたの?」と聞いてくる。
レイカは鍵を、とだけ目を伏せて言った。
「何年何組かな?」
「一年二組です」
「ああ、えっと……」と、先生がプリントの山から小首を傾げて顔を避けてレイカを見る。「ああ、石田さんだったの」そう、微笑んだ。
幾つかのクラスの副担任を兼任している先生で、下の名前がおんなじ、『砂糖 冷菓』先生。
レイカは初めて聞いた時、苗字を『佐藤』と思っていたけれど、黒板に書かれてぎょっとした。甘そうだなぁ、と思った名前だった。
クラスでは別名、『お菓子先生』とも呼ばれている。なぜなら、先生の私物にはいつもお菓子のストラップが付いているからなのと、名前も相まってそういうニックネームになった。あと、気がついたら朝、いつも教室にいて、優しい。
「ぁ……」
お菓子先生の名前を思い出して、食べかけだったスナック菓子を思い出したレイカは、お腹が空いてきた。そう言えば、朝ご飯もまだ食べていない。気が付くと不思議なもので、急にお腹が空いてきて、思い出したくなかった顔が思い浮かんで俯く。
──けれどレイカはそれよりも、悔しかった、と思った。
長年ずっと一緒にいた人が、突然、レイカに何の相談もなしに何処かに行くなんて考えたこともなくて、なのに、勝手に一人で決めて別れを告げたコオロギに、腹が立つと同時にやはり悔しかった。
「どーしたの驚いた顔して」
優しく微笑んでいた童顔の彼女が、レイカの顔を見てきょとんと瞬きする。
それから、「何かあったんですか?」と笑うお菓子先生の顔を見上げ、首を横に振る。
「……? そうですか? そんな悲しい顔をして、てっきり何かあったと思ったんですが……」
「ぇ……?」と呟くように言って、確かめるように顔をぺたぺた触り始める。それで、気が付いた。眉尻が下がっている、歯に力が入っている、目に、涙が浮かんでいて、少しだけ指が濡れた。
「なんで……」
濡れた指を見た途端、涙がじんわり浮かんできて、慌てて袖で拭く。何度も、何度も。でも、急に喉がおかしくなって、変なしゃっくりみたいな音が出てくる。
そんな顔を見せたくなくて、レイカは下を向いた。
「先生がお話、聞きましょうか? ──先生で良ければ、ですが……」
「……せんせーが……?」
「はい。ちょうど、このプリントを教室に持って行く所だったので。……あ、夏休みの宿題ですよ、ちゃんとした。各教科から集めて来ましたっ」
むふんっ、と鼻高々にドヤ顔を披露するお菓子先生の顔を見上げ、レイカはぐすっ、と鼻を鳴らした。レイカのその顔に、お菓子先生はドヤ顔をやめて優しくおでこをレイカの頭にすりすりと擦り付ける。
「手は使えませんので、頭でよしよしです。……泣いちゃ、可愛い顔が台無しですよ? もう中学生なんですから、泣いてちゃ、カッコ悪いです」
おでこを離して、お菓子先生は白い歯を見せて笑う。
幼い、同年代かもう少し小さいくらいの幼い顔に、何かが胸に熱く突き刺さるような、ジン、と来る何かに、温かさのようなものを覚えたレイカはまた泣きそうになって、頷いた。
「じゃあ、まだ時間もありますし、教室でお話ししましょうか」
頭を縦に振ると、じゃあ、一緒に行きましょう、とお菓子先生の隣を歩くことになった。プリントの上に乗ったケーキやパイなどのスイーツが鮮やかに彩られた黄色い筆箱に、ピンクのマカロンのストラップがプリントの端からぶらぶらとぶら下がっている。
歩くごとにそれが揺れていて、レイカはそれを不安げに見詰めて、当人のいない所で何かをする、ということに後ろめたさを感じて顔を伏せる。
──教室。
レイカ達以外に誰もいない部屋に、お菓子先生の後を追いかけるようにして入ったレイカは今、教壇の前に立っている。プリントをよいしょ、と言って教壇の端に置いたお菓子先生はレイカをジッと、真剣な眼差しで見詰めている。
嫌に静かな教室に、では、とお菓子先生の透き通るような、まだまだ幼い高さを残す声がすん、と響き渡る。
レイカは自分が罪人のような気がして、これから断罪されるかもしれない、と思う。
コオロギがいないこの場で、コオロギの事を、自分の思ったまま言ってもいいのか、少し不安になって唇を引き結んだ。顔が俯いている。手を握ってしまう。友達や家族との軽い会話ならばいざ知らず、これは違う。
嫌ならやめてしまえばいい、と知っている、慕っている人が言っていた。
けれど、大切な人がこうも言っていた。
やりたいことをしなければ、後悔する、と。
正直、どちらの手を取れば良いのか分からない。
「石田さん、大丈夫ですよ。ここには先生しかいないので、存分に話してくれて良いですよっ」
俯いているレイカを見て、それからそれを証明するようにぐるりと教室を見渡す。
──その視線を追って、レイカは後者の手を取った。
※※※
「……なるほど。つまり、その人がお家を出て行くって言って聞かないけれど、石田さんはそれが嫌なんですね」
「うん……。ねえ、おかしせんせー」
「なんですか? 石田さん」
「せんせーはさ、ずっと一緒にいた人が、急にいなくなった……ってことがあるの?」
「うーん……。先生は……ありますよ」
少し迷いを見せて目を逸らしてから、レイカは意を決して、下を向きながらだが、それでもぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。ゆっくりなレイカの言葉を、急かさず優しい眼差しで見詰めて、待ってくれている。
「私ね、怒ってるの。急に仕事やめるって言われて、でもそれ、私にもずっと隠したままでいて、なんで隠してたの……って思ったら、ムカついて……学校に来ちゃった。せんせーにも、こんなこと、あった?」
「……先生は、いなくなった──とも言うし、もっと言えば、死んじゃったんです」
レイカはひっ、と悲鳴を洩らし、表情が強張る。
それにハッと気付いたお菓子先生はすぐに「気にしてないので大丈夫ですっ」と慌てて前言撤回し、続ける。
「私はもう、ずいぶん昔のことなので大丈夫ですよ。……でも、石田さん」
「は、はい……」
「──石田さんの、その大切なお世話係の人にもきっと、何か理由があるんです。それを教えてくれるかどうかは分かりませんが、その人もきっと石田さんが嫌いになったわけじゃないと思うので、許してあげて下さいね」
顔を伏せて喋らないレイカを見て、お菓子先生が言葉を続ける。
「その人にも何か、理由があると思うんです。……それを教えてくれない時もあるけれど、きっといつか、それを教えてくれる時が来ます。──って、これじゃ、それまで待てって言ってるみたいですね。ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけれど……」
言葉に詰まるお菓子先生の前で、教壇にうつ伏せるように腕で枕を作ってその中に顔を埋める。それから、深く息を吸って、吐く。今朝のことを思い出し、粟立つほっぺたを腕にすりすりとすりつけて紛らわせる。
何も感じていないように無表情だったコオロギがとても怖かった。
「コウくんは、優しかったの。……一緒に遊んでくれたし、たまにスケベだけど、面白いし、怒られても、いつも一緒で、……仲間みたいに思ってたのに……」
「裏切られた、と感じたんですね」
こくっと頭が上下に揺れたのを見て取ると、お菓子先生はレイカの頭にぽんっと軽く手を乗せる。それに釣られてレイカが顔を上げて目が合うと、お菓子先生は優しく笑った。とても甘く、とても優しく、全てを受け入れられるような、そんな柔らかい微笑みを浮かべる。
「本当に裏切りたい時は、裏切った、なんて思わせないように、バレないように隠すんです。だから、裏切れるんです。だって事前に知られてちゃ、裏切りようがないですもんね。だから、石田さんが裏切られた、と感じるなら、それは逆にその人は裏切ったつもりなんてないんです。……『裏切ったよ』と口にしたなら話はまた変わりますが……。その人は、そうは言わなかったでしょう? なら、大丈夫です。先生を信じてくださいっ。あっ……流石に難しいでしょうか?」
「……うん、難しい」
涙が浮かんで溢れそうな目を、再び腕に擦りつけて落とすレイカから手を離して教壇に疲れたように身を乗り出して両手の肘から先を置いて、体重をかける。古い教壇がギィ、と小さな悲鳴を上げる。
「あはははは……」と苦笑して、それから頭を下ろして深呼吸をする。それが終わるとすぐに顔を上げて再び甘くて優しい笑顔になった。
「すみません、ついつい饒舌……あ、いや、まだ教えてませんでしたね。──えっと、くどくど話してしまうのが、先生の悪い癖です。これからちゃんと、気を付けます。でも、その人は裏切ったつもりなんてないと思うんです。だから、大丈夫ですよ。その人は石田さんのことが大切だと、そう思っているはずです」
「じゃあ、コウくんは、裏切ってないってこと? よく、分かんないけど……。せんせーは、コウくんが裏切ってないって、分かるの?」
「……裏切るのは、その人のことが嫌いになったから。いけないことは、悪いことは、他の人にバレないように隠します。その人は、石田さんを傷つけたくないと、お仕事を辞める、ということをずっと黙ってたんだと思うんです。石田さんのことが大切だから。だから逆に、裏切ったと思った場合、きっとその人は裏切りたくないと思った、もしくは、裏切ったつもりはない、先生はそう思うんです」
「……コウくんは、私のことを、裏切ってないの?」
再度確認するレイカに、お菓子先生は頷く。
少しだけ、雀の涙ほどの量、レイカの瞳に浮かぶ涙が減っていた。
「先生は、そう思います。裏切られたと思うのは、裏切っていないことの証明だと、先生は思うんです」
『裏切られたと思うのは、裏切っていないことの証明』
そう、呟くようにレイカは繰り返し、悲しみに力が入っておらず開いたままになっていた口が閉じ、笑顔に変えて頷いて明るく言う。
「──うん、分かった。せんせー、ありがと! まだちょっともやもやするけど、つまりコウくんは裏切ってないっ! こーゆーことだよね!」
「先生はそう思います」
「なら、それで良いやっ! お菓子せんせーありがとっ!」
「先生にできることなら」と服の上から力こぶを見せるように顔の横に拳を振り上げて、掌をかけて頼りにしてくださいと言わんばかりに「力になりますっ」とやる気満々に鼻から息を吐いた。
曇りの空の、雲が少し晴れた気がした。
外にはずっと、今日は雲が無いけれど。
[あとがき]
トリック・オア・トリート!
どーも、作者です。
さて、本日はハロウィン。十月末日。お菓子の用意はどうでしょう。最近の家はしてないのかな。作者は家族と自分用に用意しました。ハイチュウです。
それはさておき、二日連続更新とか言う寿命(ストック)を削るような所業ですけれど「またこの作者、更新滞るんじゃねーだろーなー」とか、あまり深く考えないで貰えるとありがたいです。そんな事は起こらないはずです。きっと字数にラインを設けたのがいけなかったんです。
とは言え作者、ストックはまだ二十話前後あるので安心して下さい。しばらくは絶対に滞りません。
相変わらずの一人称と三人称がごちゃまぜになったおかしな文体ですが、読みやすくなっていると信じてこれからも邁進します。
次回更新日は明日です。十一月初日。
それではまた明日、良ければ読んでください。
レイカは何度か開けようと試みて、まず、ノックをしてみる。ダメだった。次に思いっ切り引っ張ってみる。ダメだった。窓から入ろうと試みるも、それもダメ。結局、職員室に取りに行く羽目になった。
階段を上って、職員室に向かいながら思考する。
どうしていなくなるんだろう、だって、昔からずっと一緒にいて、仲だって良くて、良かった、はずなのに……。
ダメだな、と思う。らしくもない、とも。
ただ、それでもありあまるほどの後悔と名残惜しさに圧し潰されそうになるレイカは顔をしかめて、震えを止めるように身を縮めて、抱えるように両腕の肘より少し上を握る。爪を立てる。
今はこの痛みで気を紛らわせるしかできない。
階段の踊り場の壁に沢山の紙が貼られていた。熱中症の注意を呼びかけるものに、新聞部の新聞(四コマ漫画付き)に、生徒会が決めた、『今月の目標』と書かれた紙も貼られている。『あいさつをきちんとしよう』と、寒色系で書いてあった。
踊り場から更に上がって行き、二階に上がってすぐ、左に曲がってトイレを過ぎ、職員室の前に到着する。
腕を下ろして、深呼吸をする。それからノックして、失礼しまーすと言いながら横に引く、学校の年季の入ったドアを開ける。
クーラーが効いていて、涼しい風がレイカの顔のすぐ横に避けて通って行った。それに少し呆けていると、出て行く直前だったのか、目の前にプリントの山を抱えた若い女の先生が「どーしたの?」と聞いてくる。
レイカは鍵を、とだけ目を伏せて言った。
「何年何組かな?」
「一年二組です」
「ああ、えっと……」と、先生がプリントの山から小首を傾げて顔を避けてレイカを見る。「ああ、石田さんだったの」そう、微笑んだ。
幾つかのクラスの副担任を兼任している先生で、下の名前がおんなじ、『砂糖 冷菓』先生。
レイカは初めて聞いた時、苗字を『佐藤』と思っていたけれど、黒板に書かれてぎょっとした。甘そうだなぁ、と思った名前だった。
クラスでは別名、『お菓子先生』とも呼ばれている。なぜなら、先生の私物にはいつもお菓子のストラップが付いているからなのと、名前も相まってそういうニックネームになった。あと、気がついたら朝、いつも教室にいて、優しい。
「ぁ……」
お菓子先生の名前を思い出して、食べかけだったスナック菓子を思い出したレイカは、お腹が空いてきた。そう言えば、朝ご飯もまだ食べていない。気が付くと不思議なもので、急にお腹が空いてきて、思い出したくなかった顔が思い浮かんで俯く。
──けれどレイカはそれよりも、悔しかった、と思った。
長年ずっと一緒にいた人が、突然、レイカに何の相談もなしに何処かに行くなんて考えたこともなくて、なのに、勝手に一人で決めて別れを告げたコオロギに、腹が立つと同時にやはり悔しかった。
「どーしたの驚いた顔して」
優しく微笑んでいた童顔の彼女が、レイカの顔を見てきょとんと瞬きする。
それから、「何かあったんですか?」と笑うお菓子先生の顔を見上げ、首を横に振る。
「……? そうですか? そんな悲しい顔をして、てっきり何かあったと思ったんですが……」
「ぇ……?」と呟くように言って、確かめるように顔をぺたぺた触り始める。それで、気が付いた。眉尻が下がっている、歯に力が入っている、目に、涙が浮かんでいて、少しだけ指が濡れた。
「なんで……」
濡れた指を見た途端、涙がじんわり浮かんできて、慌てて袖で拭く。何度も、何度も。でも、急に喉がおかしくなって、変なしゃっくりみたいな音が出てくる。
そんな顔を見せたくなくて、レイカは下を向いた。
「先生がお話、聞きましょうか? ──先生で良ければ、ですが……」
「……せんせーが……?」
「はい。ちょうど、このプリントを教室に持って行く所だったので。……あ、夏休みの宿題ですよ、ちゃんとした。各教科から集めて来ましたっ」
むふんっ、と鼻高々にドヤ顔を披露するお菓子先生の顔を見上げ、レイカはぐすっ、と鼻を鳴らした。レイカのその顔に、お菓子先生はドヤ顔をやめて優しくおでこをレイカの頭にすりすりと擦り付ける。
「手は使えませんので、頭でよしよしです。……泣いちゃ、可愛い顔が台無しですよ? もう中学生なんですから、泣いてちゃ、カッコ悪いです」
おでこを離して、お菓子先生は白い歯を見せて笑う。
幼い、同年代かもう少し小さいくらいの幼い顔に、何かが胸に熱く突き刺さるような、ジン、と来る何かに、温かさのようなものを覚えたレイカはまた泣きそうになって、頷いた。
「じゃあ、まだ時間もありますし、教室でお話ししましょうか」
頭を縦に振ると、じゃあ、一緒に行きましょう、とお菓子先生の隣を歩くことになった。プリントの上に乗ったケーキやパイなどのスイーツが鮮やかに彩られた黄色い筆箱に、ピンクのマカロンのストラップがプリントの端からぶらぶらとぶら下がっている。
歩くごとにそれが揺れていて、レイカはそれを不安げに見詰めて、当人のいない所で何かをする、ということに後ろめたさを感じて顔を伏せる。
──教室。
レイカ達以外に誰もいない部屋に、お菓子先生の後を追いかけるようにして入ったレイカは今、教壇の前に立っている。プリントをよいしょ、と言って教壇の端に置いたお菓子先生はレイカをジッと、真剣な眼差しで見詰めている。
嫌に静かな教室に、では、とお菓子先生の透き通るような、まだまだ幼い高さを残す声がすん、と響き渡る。
レイカは自分が罪人のような気がして、これから断罪されるかもしれない、と思う。
コオロギがいないこの場で、コオロギの事を、自分の思ったまま言ってもいいのか、少し不安になって唇を引き結んだ。顔が俯いている。手を握ってしまう。友達や家族との軽い会話ならばいざ知らず、これは違う。
嫌ならやめてしまえばいい、と知っている、慕っている人が言っていた。
けれど、大切な人がこうも言っていた。
やりたいことをしなければ、後悔する、と。
正直、どちらの手を取れば良いのか分からない。
「石田さん、大丈夫ですよ。ここには先生しかいないので、存分に話してくれて良いですよっ」
俯いているレイカを見て、それからそれを証明するようにぐるりと教室を見渡す。
──その視線を追って、レイカは後者の手を取った。
※※※
「……なるほど。つまり、その人がお家を出て行くって言って聞かないけれど、石田さんはそれが嫌なんですね」
「うん……。ねえ、おかしせんせー」
「なんですか? 石田さん」
「せんせーはさ、ずっと一緒にいた人が、急にいなくなった……ってことがあるの?」
「うーん……。先生は……ありますよ」
少し迷いを見せて目を逸らしてから、レイカは意を決して、下を向きながらだが、それでもぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。ゆっくりなレイカの言葉を、急かさず優しい眼差しで見詰めて、待ってくれている。
「私ね、怒ってるの。急に仕事やめるって言われて、でもそれ、私にもずっと隠したままでいて、なんで隠してたの……って思ったら、ムカついて……学校に来ちゃった。せんせーにも、こんなこと、あった?」
「……先生は、いなくなった──とも言うし、もっと言えば、死んじゃったんです」
レイカはひっ、と悲鳴を洩らし、表情が強張る。
それにハッと気付いたお菓子先生はすぐに「気にしてないので大丈夫ですっ」と慌てて前言撤回し、続ける。
「私はもう、ずいぶん昔のことなので大丈夫ですよ。……でも、石田さん」
「は、はい……」
「──石田さんの、その大切なお世話係の人にもきっと、何か理由があるんです。それを教えてくれるかどうかは分かりませんが、その人もきっと石田さんが嫌いになったわけじゃないと思うので、許してあげて下さいね」
顔を伏せて喋らないレイカを見て、お菓子先生が言葉を続ける。
「その人にも何か、理由があると思うんです。……それを教えてくれない時もあるけれど、きっといつか、それを教えてくれる時が来ます。──って、これじゃ、それまで待てって言ってるみたいですね。ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけれど……」
言葉に詰まるお菓子先生の前で、教壇にうつ伏せるように腕で枕を作ってその中に顔を埋める。それから、深く息を吸って、吐く。今朝のことを思い出し、粟立つほっぺたを腕にすりすりとすりつけて紛らわせる。
何も感じていないように無表情だったコオロギがとても怖かった。
「コウくんは、優しかったの。……一緒に遊んでくれたし、たまにスケベだけど、面白いし、怒られても、いつも一緒で、……仲間みたいに思ってたのに……」
「裏切られた、と感じたんですね」
こくっと頭が上下に揺れたのを見て取ると、お菓子先生はレイカの頭にぽんっと軽く手を乗せる。それに釣られてレイカが顔を上げて目が合うと、お菓子先生は優しく笑った。とても甘く、とても優しく、全てを受け入れられるような、そんな柔らかい微笑みを浮かべる。
「本当に裏切りたい時は、裏切った、なんて思わせないように、バレないように隠すんです。だから、裏切れるんです。だって事前に知られてちゃ、裏切りようがないですもんね。だから、石田さんが裏切られた、と感じるなら、それは逆にその人は裏切ったつもりなんてないんです。……『裏切ったよ』と口にしたなら話はまた変わりますが……。その人は、そうは言わなかったでしょう? なら、大丈夫です。先生を信じてくださいっ。あっ……流石に難しいでしょうか?」
「……うん、難しい」
涙が浮かんで溢れそうな目を、再び腕に擦りつけて落とすレイカから手を離して教壇に疲れたように身を乗り出して両手の肘から先を置いて、体重をかける。古い教壇がギィ、と小さな悲鳴を上げる。
「あはははは……」と苦笑して、それから頭を下ろして深呼吸をする。それが終わるとすぐに顔を上げて再び甘くて優しい笑顔になった。
「すみません、ついつい饒舌……あ、いや、まだ教えてませんでしたね。──えっと、くどくど話してしまうのが、先生の悪い癖です。これからちゃんと、気を付けます。でも、その人は裏切ったつもりなんてないと思うんです。だから、大丈夫ですよ。その人は石田さんのことが大切だと、そう思っているはずです」
「じゃあ、コウくんは、裏切ってないってこと? よく、分かんないけど……。せんせーは、コウくんが裏切ってないって、分かるの?」
「……裏切るのは、その人のことが嫌いになったから。いけないことは、悪いことは、他の人にバレないように隠します。その人は、石田さんを傷つけたくないと、お仕事を辞める、ということをずっと黙ってたんだと思うんです。石田さんのことが大切だから。だから逆に、裏切ったと思った場合、きっとその人は裏切りたくないと思った、もしくは、裏切ったつもりはない、先生はそう思うんです」
「……コウくんは、私のことを、裏切ってないの?」
再度確認するレイカに、お菓子先生は頷く。
少しだけ、雀の涙ほどの量、レイカの瞳に浮かぶ涙が減っていた。
「先生は、そう思います。裏切られたと思うのは、裏切っていないことの証明だと、先生は思うんです」
『裏切られたと思うのは、裏切っていないことの証明』
そう、呟くようにレイカは繰り返し、悲しみに力が入っておらず開いたままになっていた口が閉じ、笑顔に変えて頷いて明るく言う。
「──うん、分かった。せんせー、ありがと! まだちょっともやもやするけど、つまりコウくんは裏切ってないっ! こーゆーことだよね!」
「先生はそう思います」
「なら、それで良いやっ! お菓子せんせーありがとっ!」
「先生にできることなら」と服の上から力こぶを見せるように顔の横に拳を振り上げて、掌をかけて頼りにしてくださいと言わんばかりに「力になりますっ」とやる気満々に鼻から息を吐いた。
曇りの空の、雲が少し晴れた気がした。
外にはずっと、今日は雲が無いけれど。
[あとがき]
トリック・オア・トリート!
どーも、作者です。
さて、本日はハロウィン。十月末日。お菓子の用意はどうでしょう。最近の家はしてないのかな。作者は家族と自分用に用意しました。ハイチュウです。
それはさておき、二日連続更新とか言う寿命(ストック)を削るような所業ですけれど「またこの作者、更新滞るんじゃねーだろーなー」とか、あまり深く考えないで貰えるとありがたいです。そんな事は起こらないはずです。きっと字数にラインを設けたのがいけなかったんです。
とは言え作者、ストックはまだ二十話前後あるので安心して下さい。しばらくは絶対に滞りません。
相変わらずの一人称と三人称がごちゃまぜになったおかしな文体ですが、読みやすくなっていると信じてこれからも邁進します。
次回更新日は明日です。十一月初日。
それではまた明日、良ければ読んでください。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
【完結】7年待った婚約者に「年増とは結婚できない」と婚約破棄されましたが、結果的に若いツバメと縁が結ばれたので平気です
岡崎 剛柔
恋愛
「伯爵令嬢マリアンヌ・ランドルフ。今日この場にて、この僕――グルドン・シルフィードは君との婚約を破棄する。理由は君が25歳の年増になったからだ」
私は7年間も諸外国の旅行に行っていたグルドンにそう言われて婚約破棄された。
しかも貴族たちを大勢集めたパーティーの中で。
しかも私を年増呼ばわり。
はあ?
あなたが勝手に旅行に出て帰って来なかったから、私はこの年までずっと結婚できずにいたんですけど!
などと私の怒りが爆発しようだったとき、グルドンは新たな人間と婚約すると言い出した。
その新たな婚約者は何とタキシードを着た、6、7歳ぐらいの貴族子息で……。
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる