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ローテクノロジーノスタルジー
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さらりとした手触り、紙の重み厚み、インクと本棚の香り、見られ触れられたつるりとした表紙。何をとっても素晴らしい。何一つとして無駄がなく、それの持つすべての要素が美しい。すべてが揃ってこそ、最上の時間を味わえるというものだ。
重い?書かれた内容を思えば、芸術的な外観と香りを思えば羽のようだ。
嵩張る?その厚みも大きさも、他の世界を覗くための窓枠と思えばはるかに小さい。
置き場がない?一冊ごとに素晴らしく輝かしい世界が詰まっているのだ。他のものを失くしてでも場所を作る価値はある。
「いや、やっぱ電子書籍の方がいいじゃん。」
「いいものか。」
「アナログだね。」
ああ憎々し電子書籍。軽く笑い飛ばしそうな友人の手には薄っぺらいその笑顔によく似て薄いタブレットがあった。
電子書籍が業界に現れてから早数年。スマホを初めとした数々のタブレット端末の普及とともにその勢力を伸ばしていた。そしてそれに比例するように書籍の販売数は伸び悩んでいた。
しかしながら奴ら、風情がないにもほどがあるのではないだろうか。
電子書籍など、読んだ気がした。ページを捲る動作がなく、紙の重みなど手触りなど存在しない。本それぞれにある独特の匂い、紙やインクの香りもない。表紙を撫でる感覚もなくては、愛ずるべき表装すら存在しない。
あんなもの、読書と言えるか。
重いすりガラスのはまったドアを引けば、鈍い音でベルが鳴る。ぶわりと独特な匂いが鼻腔を通り脳みそを揺らした。嫌いではないが、この感覚は未だ慣れない。ずんずんと中へ進んでいくと、くすくすと笑い声が聞こえる。飄々としてどこか馬鹿にするような色にムッとした。
「いらっしゃい葉山の嬢ちゃん……おーおー、お怒りだねえ。ご機嫌斜めかい?」
「御覧の通りです。」
狐目をさらに細めて店主が笑う。定位置となった隣の丸椅子に座ると煙を吹きかけられた。もちろんそれも慣れていて、学校指定のバッグでガードする。私のこの鞄ももう大分煙管臭くなってしまったのではないかとため息を吐いた。
「古瀬さん、店内で煙管はどうかと思います。」
「俺の店なんだからいいじゃないか。」
「万が一のことがあれば本たちが可哀想です。」
「ご心配痛み入るよ。でもこのこの香りも含めて『古書店ノスタルジー』だからね。」
またぷう、と吹きかけられ、油断していたせいでもろにかぶってしまった。制服に匂いが付くのでは、と気休めに紺の生地を叩くが、クリーニングにでも出さなければならないだろう。品行方正の優等生ではあるため、喫煙は疑われないだろうが。
学校を出て、駅へと向かうその途中、桜並木の川に沿って10分ほど歩くと、その店はある。左に流行っていない服屋、右に怪しげな骨董店。その二つに挟まれた私のバイト先、小さな古書店『ノスタルジー』。知る人ぞ知る、と言えば聞こえはいいが、ほとんど客なんて訪れない。来るのはいつもの常連か同業者ばかり。店内はなるほどノスタルジーというにふさわしく、アンティークなものが大量の本の隙間を縫うように所狭しとおかれている。何に使うのかわからない金色の地球儀、レンズの曇った双眼鏡、いぶし銀の燭台、白磁の小物入れ、その他諸々、私の知識と理解の範疇を超えたものたち。何のつながりもない混沌としたもののはずなのに、この店内にはしっくりとくるから不思議だ。それはもちろん、店の奥で煙管をふかす主人にも同じことが言える。和装に身を包み、狐目をさらに細めてアルカイックスマイルを浮かべる。ここに通って数年、私は一度もこの店の外でこの城の主人、古瀬さんの姿を見たことがない。もし彼がこのままの姿でその辺を歩いていたら下手なコラージュではないかと誰もが目を擦るだろう。もしそうしたなら、この主人は小馬鹿にするようににんまりと笑い、煙を吐くのだろうが。
ここだけの話、馬鹿馬鹿しいと思いながらも彼はこの店の中でしか存在できない妖怪的な生き物ではないかと疑い始めている。それほどまでに浮世離れしていて、まるで現世になじむ気がない。
「それで、葉山の嬢ちゃんは何をそんなに憤ってんだい?」
「聞いてください!読書の醍醐味と言えばその話の内容ももちろんですが、手に掛かる重み、紙を捲る手触り、インクや用紙の香り、持ち主や本棚の匂い、表装の美しさだってあるでしょう。」
「そりゃそうだ。うちの子たち――ほらそこの棚の子たちなんて美しい背表紙をしている。他の子たちだって『ノスタルジー』特有の匂いを持ったままお客のところへ出かけていく。」
ひょいひょいと煙管の先で本棚を指す。なるほどその先には洋書があるようで、鮮やかな分厚い背表紙に金糸の文字が躍っている。本自体が芸術作品と言って良い部類だ。
古瀬さんはこの古書店に来た本たちを皆うちの子と呼ぶ。最初こそ何を、と思っていたが、彼にとってここを訪れた本たちすべてが愛し子なのだろう。皆平等に愛され手入れされている。咥えた煙管だって匂いが付きすぎないよう、煙で痛まないよう注意を払っていることを知っている。
「でしょう!何もかもを含めて本なんです!物語なんです!それなのに電子書籍なんて邪道だと思いませんか!?」
「あら、そうきちまったか……、ふぅん。」
真面目な顔をしてたくせに、また喉の奥でくつくつと笑われ顔を顰める。てっきり彼なら全面的に肯定してくれると思ったのだ。古瀬さんとて本が好きだろう。電子書籍は本のすばらしさの半分近くを奪ってしまうような鬼畜の所業だ。あの美しさを、ただのデータにしてしまうなんて。
「まあそりゃあ俺も本派だなあ。電子書籍がつまんねぇってのも、一理ある。が、」
「……が、何ですか。」
「よぅく考えてみな、葉山の嬢ちゃん。俺や嬢ちゃんは本が好きだ。三度の飯より本が好き。だからこそ本の何もかもが大事で、何もかもがあるからこそ本だと思ってる。でもこの世にゃあ本よりも楽しいことってのがこれでもかってぇくらい溢れてるらしいぜ。」
「…………、百も承知ですが。」
むすりとする私にまた主人が笑う。そんなことはわかってる。私たち本の虫にとって本は無くてはならないもので、本なしで生きていけというのは空気なしで生きていけと言われるのと同義。必要不可欠なもので、それのない生など存在し得ない。けれどそれは本の虫に限ったことである。この世に生きる大半の人間はほんと触れ合う機会を持ちながらもその魅力に取りつかれることなく、他の物へと興味を映していく。言ってしまえば好みなど千差万別。本なしで生きられない私と同じように、音楽やスポーツなしで生きられない人間もまた多くいるのだ。
「子供のうちはまだ大人たちから本を読めとせっつかれる。少なくとも教科書と共にあるんだから本を読む機会もある。だが大人になりゃあそうもいかんさ。本を読むってことは、時間も金もかかる。それより大事なものが大人たちにはあんのさ。」
「……古瀬さんにはなかったんですか。」
「まあね。俺にとっちゃ本が一番だったからな。でも俺みたいなのは奇特さ。十分わかってるとは思うがね。」
子どもは否が応にも本を読まされる。読書感想文なんて言う宿題は義務教育期間中ずっと続くし、教科書だってある種の本だ。でも成長し生活が変わると、本を読むことが強要されなくなる。自ら手を伸ばさなくては本が手元に来てくれない。それは好きでないとできないこと。
「本は手に入りづらい。手元に呼ぶにゃ少しばかり手間がかかる。だが電子書籍、データとなれば話は別だ。今のご時世誰もがスマートフォンやらそれに準ずる端末を持っている。本屋に行かなくても本が手に入るようになったんだ。指先をちょいと動かすだけで、端末の中に世界が広がっていく。本は嫌いじゃないがわざわざ本屋に行く趣味もない、なんていう層にとっちゃあちょうどいいもんさ。」
好きでないと本屋に行かない。好きでないと図書館にいかない。自ら本を迎えに行かないのだ。でも電子端末であれば少しの時間と少しのお金があれば簡単に手に入る。たとえ0と1でできた世界だとしても、小さな画面から世界を覗くことができる。
「他にも、本が好きでも読む時間がない、隙間時間程度に読みたいけれど持ち運ぶのは億劫、なんて奴にも向いてる。本を持ち歩くのは嵩張るし重いが、携帯端末に入れておけば通勤電車の中でも昼休みにでも気軽に手軽に読める。」
「好きなら本の重みくらい、」
「好きにもレベルがあるんだよ嬢ちゃん。本が好き。でも一番じゃない、なんて奴が本好きの大多数さ。言ったろう、俺や嬢ちゃんみたいなタイプは雀の涙。本に全力かけるなんざ世捨て人みてぇなもんさ。専門家や執筆業みてえな仕事にしてねえ限りな。」
ぷかぷかとくゆらせながら諭すように古瀬さんが言う。
「電子書籍にはほとんどデメリットがない。」
「ある!」
「だぁからあるのは俺たちみてぇなのだけなんだって。ちょっと好きとかたまに読む、みてえな奴はなあ本が好きなんじゃなくて物語が文が好きってぇ奴さ。本だろうと電子書籍だろうと見える世界は変わんねぇ。むしろ電子書籍のおかげで手が伸ばしやすくなって、読書人口が増えるってェなら喜ばしいんじゃないのかい。」
「それはそうですけど……、」
なんとも、いえない。読書する人が増えるのは純粋にうれしい。物語を愛する同志。でも電子書籍なんて邪道だ。電子書籍派は絶対に損してる。だが今古瀬さんに何を言っても論破される気しかしない。
「それでも、電子書籍のせいで本の売り上げが下がったりとか……、」
「もしそうなったんなら、まあなるようにしかなんねぇな。時代の流れにゃかなわんさ。」
「はあ!?それこそ避けなきゃいけないことでしょう!百歩譲って、百歩譲って電子書籍も可としましょう。でもそのせいで本が淘汰されるなんてあっちゃいけないでしょう!?」
「んあー……面倒くせぇな嬢ちゃん。」
面倒臭かろうが何だろうが聞き捨てならない。
風情もクソもない電子書籍によって紙の本が失われるなんてことがあればそれは人類史における最悪の事態だ。
「考えてみな。古いもんは新しいもんに淘汰される。それは自然の摂理だろう?」
「本は違う!」
「数百年前の人間だって、木簡から紙に変わったとき嬢ちゃんみたいに騒いだ奴がいたかもしんねえが、結局今は主流が紙どころか木簡なんて存在しないだろう?紙に書くなんて風情がない。木そのものの香りち独特の手触りが失われる、なんてぇ騒ぎ立てても、嵩張らなくて、重くない紙が残って木簡は淘汰された。単純に時代があわねぇんだ。」
「ぐぬぬ……、」
「電子書籍だって数百年後にゃ、前時代の遺物なんてぇ言われるようになんだぜ、たぶんな。」
ぐうの音もでない。前時代の遺物そのもののようなこの主人がそう言うのも妙な感があるが、正論と言えば正論だ。
より便利なものが残り、不便なものは失われる。きわめて合理的だ。
だがしかし、不便であろうと、合理的でなかろうと、それは本という芸術品が失われていい理由にはならない。あれは一つ完成されたものなのだ。不便であろうとも、それがまた魅力なのだから。それが本の虫以外に理解してもらえなくとも。
「ま、葉山の嬢ちゃんが生きているうちに紙の本が消え失せる、なんてこたあねえから安心しな。太陽が爆発するのを恐れるような杞憂でしかねえ。本の虫の相対人口は少ねえ。だが羽虫の羽音と無視できるほどの声の大きさでもねえんだから。少なくとも、古書店に電子書籍が出回ることはねえし、一定数の本がある限り古書店とお客の間を紙の本は行き来し続けんだろうさ。」
「ああ……、まあ……そうですね。」
話しているうちに話がそれて極論になってしまったが、発端は「私が嫌い」というだけのことなのだ。いつの間にやら数百年レベルの壮大な話になっていた。
好む人は好み、厭う人は厭う。そんなものだ。
「……古瀬さん、そのタブレットは何ですか。」
「んあ?小説の続きを読もうと思ってよ。」
「あなたも電子書籍読んでるんですか!あれだけ話しておいて!!」
「良いじゃねえか。見てみろこの店の中を。これ以上本増やしてみろ、足の踏み場がなくなる!電子書籍?上等上等。本も好きだが物語も好きだ。ある程度なら電子書籍で十分。気に入った奴だけ紙で買う。」
「裏切り者!」
「嬢ちゃんみてぇな若者とは年季が違うんだよ。好き勝手本を買ってりゃそのうち本に埋もれて死んじまう。嬢ちゃんだって十年後にゃ本の置き場に困るようになんぜ。」
「そうだろうけど……!」
事実、本棚の底が抜けてしまったばかりだ。
涼しい顔してスイスイと指を動かす古瀬さんが憎らしい。タブレットのせいで前時代の遺物どころか出来の悪いコラ写真感に拍車を掛けている。間違い探しなら幼子でも一瞬で気が付くレベルだ。恨めし気に彼を見ていると視線が五月蠅いとばかりに煙を吐かれた。負けじと息で吹き返す。ゆらゆらと煙が霧散した。
懐を探ったと思うと小さな包みを投げてよこす。反射的に受け取ると見覚えのある形をしたキャラメル。これをやるから静かにしていろ、と言うことなのだろう。ムッとしながらもいつものことなのでそれを口の中に放り込んでおく。仕方なく大人しくしていよう、と手近な本棚に入った日焼けしたモンテ・クリスト伯を開いた。
しばらくして、蝶番が鳴き古びたベルが鈍い音をたてた。珍しい、客が来るのか、と顔を上げると顔に出ていたらしくクツクツと笑われた。
「ほら、世にも珍しいアナログ信者の本の虫様だ。丁重にもてなせ、嬢ちゃん。」
本の森の間から姿を現すだろうまだ見ぬ同志のため、ティーカップを取りに奥へと走った。
重い?書かれた内容を思えば、芸術的な外観と香りを思えば羽のようだ。
嵩張る?その厚みも大きさも、他の世界を覗くための窓枠と思えばはるかに小さい。
置き場がない?一冊ごとに素晴らしく輝かしい世界が詰まっているのだ。他のものを失くしてでも場所を作る価値はある。
「いや、やっぱ電子書籍の方がいいじゃん。」
「いいものか。」
「アナログだね。」
ああ憎々し電子書籍。軽く笑い飛ばしそうな友人の手には薄っぺらいその笑顔によく似て薄いタブレットがあった。
電子書籍が業界に現れてから早数年。スマホを初めとした数々のタブレット端末の普及とともにその勢力を伸ばしていた。そしてそれに比例するように書籍の販売数は伸び悩んでいた。
しかしながら奴ら、風情がないにもほどがあるのではないだろうか。
電子書籍など、読んだ気がした。ページを捲る動作がなく、紙の重みなど手触りなど存在しない。本それぞれにある独特の匂い、紙やインクの香りもない。表紙を撫でる感覚もなくては、愛ずるべき表装すら存在しない。
あんなもの、読書と言えるか。
重いすりガラスのはまったドアを引けば、鈍い音でベルが鳴る。ぶわりと独特な匂いが鼻腔を通り脳みそを揺らした。嫌いではないが、この感覚は未だ慣れない。ずんずんと中へ進んでいくと、くすくすと笑い声が聞こえる。飄々としてどこか馬鹿にするような色にムッとした。
「いらっしゃい葉山の嬢ちゃん……おーおー、お怒りだねえ。ご機嫌斜めかい?」
「御覧の通りです。」
狐目をさらに細めて店主が笑う。定位置となった隣の丸椅子に座ると煙を吹きかけられた。もちろんそれも慣れていて、学校指定のバッグでガードする。私のこの鞄ももう大分煙管臭くなってしまったのではないかとため息を吐いた。
「古瀬さん、店内で煙管はどうかと思います。」
「俺の店なんだからいいじゃないか。」
「万が一のことがあれば本たちが可哀想です。」
「ご心配痛み入るよ。でもこのこの香りも含めて『古書店ノスタルジー』だからね。」
またぷう、と吹きかけられ、油断していたせいでもろにかぶってしまった。制服に匂いが付くのでは、と気休めに紺の生地を叩くが、クリーニングにでも出さなければならないだろう。品行方正の優等生ではあるため、喫煙は疑われないだろうが。
学校を出て、駅へと向かうその途中、桜並木の川に沿って10分ほど歩くと、その店はある。左に流行っていない服屋、右に怪しげな骨董店。その二つに挟まれた私のバイト先、小さな古書店『ノスタルジー』。知る人ぞ知る、と言えば聞こえはいいが、ほとんど客なんて訪れない。来るのはいつもの常連か同業者ばかり。店内はなるほどノスタルジーというにふさわしく、アンティークなものが大量の本の隙間を縫うように所狭しとおかれている。何に使うのかわからない金色の地球儀、レンズの曇った双眼鏡、いぶし銀の燭台、白磁の小物入れ、その他諸々、私の知識と理解の範疇を超えたものたち。何のつながりもない混沌としたもののはずなのに、この店内にはしっくりとくるから不思議だ。それはもちろん、店の奥で煙管をふかす主人にも同じことが言える。和装に身を包み、狐目をさらに細めてアルカイックスマイルを浮かべる。ここに通って数年、私は一度もこの店の外でこの城の主人、古瀬さんの姿を見たことがない。もし彼がこのままの姿でその辺を歩いていたら下手なコラージュではないかと誰もが目を擦るだろう。もしそうしたなら、この主人は小馬鹿にするようににんまりと笑い、煙を吐くのだろうが。
ここだけの話、馬鹿馬鹿しいと思いながらも彼はこの店の中でしか存在できない妖怪的な生き物ではないかと疑い始めている。それほどまでに浮世離れしていて、まるで現世になじむ気がない。
「それで、葉山の嬢ちゃんは何をそんなに憤ってんだい?」
「聞いてください!読書の醍醐味と言えばその話の内容ももちろんですが、手に掛かる重み、紙を捲る手触り、インクや用紙の香り、持ち主や本棚の匂い、表装の美しさだってあるでしょう。」
「そりゃそうだ。うちの子たち――ほらそこの棚の子たちなんて美しい背表紙をしている。他の子たちだって『ノスタルジー』特有の匂いを持ったままお客のところへ出かけていく。」
ひょいひょいと煙管の先で本棚を指す。なるほどその先には洋書があるようで、鮮やかな分厚い背表紙に金糸の文字が躍っている。本自体が芸術作品と言って良い部類だ。
古瀬さんはこの古書店に来た本たちを皆うちの子と呼ぶ。最初こそ何を、と思っていたが、彼にとってここを訪れた本たちすべてが愛し子なのだろう。皆平等に愛され手入れされている。咥えた煙管だって匂いが付きすぎないよう、煙で痛まないよう注意を払っていることを知っている。
「でしょう!何もかもを含めて本なんです!物語なんです!それなのに電子書籍なんて邪道だと思いませんか!?」
「あら、そうきちまったか……、ふぅん。」
真面目な顔をしてたくせに、また喉の奥でくつくつと笑われ顔を顰める。てっきり彼なら全面的に肯定してくれると思ったのだ。古瀬さんとて本が好きだろう。電子書籍は本のすばらしさの半分近くを奪ってしまうような鬼畜の所業だ。あの美しさを、ただのデータにしてしまうなんて。
「まあそりゃあ俺も本派だなあ。電子書籍がつまんねぇってのも、一理ある。が、」
「……が、何ですか。」
「よぅく考えてみな、葉山の嬢ちゃん。俺や嬢ちゃんは本が好きだ。三度の飯より本が好き。だからこそ本の何もかもが大事で、何もかもがあるからこそ本だと思ってる。でもこの世にゃあ本よりも楽しいことってのがこれでもかってぇくらい溢れてるらしいぜ。」
「…………、百も承知ですが。」
むすりとする私にまた主人が笑う。そんなことはわかってる。私たち本の虫にとって本は無くてはならないもので、本なしで生きていけというのは空気なしで生きていけと言われるのと同義。必要不可欠なもので、それのない生など存在し得ない。けれどそれは本の虫に限ったことである。この世に生きる大半の人間はほんと触れ合う機会を持ちながらもその魅力に取りつかれることなく、他の物へと興味を映していく。言ってしまえば好みなど千差万別。本なしで生きられない私と同じように、音楽やスポーツなしで生きられない人間もまた多くいるのだ。
「子供のうちはまだ大人たちから本を読めとせっつかれる。少なくとも教科書と共にあるんだから本を読む機会もある。だが大人になりゃあそうもいかんさ。本を読むってことは、時間も金もかかる。それより大事なものが大人たちにはあんのさ。」
「……古瀬さんにはなかったんですか。」
「まあね。俺にとっちゃ本が一番だったからな。でも俺みたいなのは奇特さ。十分わかってるとは思うがね。」
子どもは否が応にも本を読まされる。読書感想文なんて言う宿題は義務教育期間中ずっと続くし、教科書だってある種の本だ。でも成長し生活が変わると、本を読むことが強要されなくなる。自ら手を伸ばさなくては本が手元に来てくれない。それは好きでないとできないこと。
「本は手に入りづらい。手元に呼ぶにゃ少しばかり手間がかかる。だが電子書籍、データとなれば話は別だ。今のご時世誰もがスマートフォンやらそれに準ずる端末を持っている。本屋に行かなくても本が手に入るようになったんだ。指先をちょいと動かすだけで、端末の中に世界が広がっていく。本は嫌いじゃないがわざわざ本屋に行く趣味もない、なんていう層にとっちゃあちょうどいいもんさ。」
好きでないと本屋に行かない。好きでないと図書館にいかない。自ら本を迎えに行かないのだ。でも電子端末であれば少しの時間と少しのお金があれば簡単に手に入る。たとえ0と1でできた世界だとしても、小さな画面から世界を覗くことができる。
「他にも、本が好きでも読む時間がない、隙間時間程度に読みたいけれど持ち運ぶのは億劫、なんて奴にも向いてる。本を持ち歩くのは嵩張るし重いが、携帯端末に入れておけば通勤電車の中でも昼休みにでも気軽に手軽に読める。」
「好きなら本の重みくらい、」
「好きにもレベルがあるんだよ嬢ちゃん。本が好き。でも一番じゃない、なんて奴が本好きの大多数さ。言ったろう、俺や嬢ちゃんみたいなタイプは雀の涙。本に全力かけるなんざ世捨て人みてぇなもんさ。専門家や執筆業みてえな仕事にしてねえ限りな。」
ぷかぷかとくゆらせながら諭すように古瀬さんが言う。
「電子書籍にはほとんどデメリットがない。」
「ある!」
「だぁからあるのは俺たちみてぇなのだけなんだって。ちょっと好きとかたまに読む、みてえな奴はなあ本が好きなんじゃなくて物語が文が好きってぇ奴さ。本だろうと電子書籍だろうと見える世界は変わんねぇ。むしろ電子書籍のおかげで手が伸ばしやすくなって、読書人口が増えるってェなら喜ばしいんじゃないのかい。」
「それはそうですけど……、」
なんとも、いえない。読書する人が増えるのは純粋にうれしい。物語を愛する同志。でも電子書籍なんて邪道だ。電子書籍派は絶対に損してる。だが今古瀬さんに何を言っても論破される気しかしない。
「それでも、電子書籍のせいで本の売り上げが下がったりとか……、」
「もしそうなったんなら、まあなるようにしかなんねぇな。時代の流れにゃかなわんさ。」
「はあ!?それこそ避けなきゃいけないことでしょう!百歩譲って、百歩譲って電子書籍も可としましょう。でもそのせいで本が淘汰されるなんてあっちゃいけないでしょう!?」
「んあー……面倒くせぇな嬢ちゃん。」
面倒臭かろうが何だろうが聞き捨てならない。
風情もクソもない電子書籍によって紙の本が失われるなんてことがあればそれは人類史における最悪の事態だ。
「考えてみな。古いもんは新しいもんに淘汰される。それは自然の摂理だろう?」
「本は違う!」
「数百年前の人間だって、木簡から紙に変わったとき嬢ちゃんみたいに騒いだ奴がいたかもしんねえが、結局今は主流が紙どころか木簡なんて存在しないだろう?紙に書くなんて風情がない。木そのものの香りち独特の手触りが失われる、なんてぇ騒ぎ立てても、嵩張らなくて、重くない紙が残って木簡は淘汰された。単純に時代があわねぇんだ。」
「ぐぬぬ……、」
「電子書籍だって数百年後にゃ、前時代の遺物なんてぇ言われるようになんだぜ、たぶんな。」
ぐうの音もでない。前時代の遺物そのもののようなこの主人がそう言うのも妙な感があるが、正論と言えば正論だ。
より便利なものが残り、不便なものは失われる。きわめて合理的だ。
だがしかし、不便であろうと、合理的でなかろうと、それは本という芸術品が失われていい理由にはならない。あれは一つ完成されたものなのだ。不便であろうとも、それがまた魅力なのだから。それが本の虫以外に理解してもらえなくとも。
「ま、葉山の嬢ちゃんが生きているうちに紙の本が消え失せる、なんてこたあねえから安心しな。太陽が爆発するのを恐れるような杞憂でしかねえ。本の虫の相対人口は少ねえ。だが羽虫の羽音と無視できるほどの声の大きさでもねえんだから。少なくとも、古書店に電子書籍が出回ることはねえし、一定数の本がある限り古書店とお客の間を紙の本は行き来し続けんだろうさ。」
「ああ……、まあ……そうですね。」
話しているうちに話がそれて極論になってしまったが、発端は「私が嫌い」というだけのことなのだ。いつの間にやら数百年レベルの壮大な話になっていた。
好む人は好み、厭う人は厭う。そんなものだ。
「……古瀬さん、そのタブレットは何ですか。」
「んあ?小説の続きを読もうと思ってよ。」
「あなたも電子書籍読んでるんですか!あれだけ話しておいて!!」
「良いじゃねえか。見てみろこの店の中を。これ以上本増やしてみろ、足の踏み場がなくなる!電子書籍?上等上等。本も好きだが物語も好きだ。ある程度なら電子書籍で十分。気に入った奴だけ紙で買う。」
「裏切り者!」
「嬢ちゃんみてぇな若者とは年季が違うんだよ。好き勝手本を買ってりゃそのうち本に埋もれて死んじまう。嬢ちゃんだって十年後にゃ本の置き場に困るようになんぜ。」
「そうだろうけど……!」
事実、本棚の底が抜けてしまったばかりだ。
涼しい顔してスイスイと指を動かす古瀬さんが憎らしい。タブレットのせいで前時代の遺物どころか出来の悪いコラ写真感に拍車を掛けている。間違い探しなら幼子でも一瞬で気が付くレベルだ。恨めし気に彼を見ていると視線が五月蠅いとばかりに煙を吐かれた。負けじと息で吹き返す。ゆらゆらと煙が霧散した。
懐を探ったと思うと小さな包みを投げてよこす。反射的に受け取ると見覚えのある形をしたキャラメル。これをやるから静かにしていろ、と言うことなのだろう。ムッとしながらもいつものことなのでそれを口の中に放り込んでおく。仕方なく大人しくしていよう、と手近な本棚に入った日焼けしたモンテ・クリスト伯を開いた。
しばらくして、蝶番が鳴き古びたベルが鈍い音をたてた。珍しい、客が来るのか、と顔を上げると顔に出ていたらしくクツクツと笑われた。
「ほら、世にも珍しいアナログ信者の本の虫様だ。丁重にもてなせ、嬢ちゃん。」
本の森の間から姿を現すだろうまだ見ぬ同志のため、ティーカップを取りに奥へと走った。
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