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蓬団子と生者の巡礼 3
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「梓乃さんに、謝らないといけないことがあります」
「……なあに?」
「私はあの夜あなたに『母親として間違っている』と言いました。……でも記憶喪失以前に、私はそもそも最初から正しい母親なんて知らなかった」
萎んだ憎悪のいた場所にぽっかりと穴が開く。あの日の強風が吹き込むように、胸が寒々しくなった。
「全部私の妄想で、私の願望だった」
こんなくだらないこと泣きたくないのに、もうとっくに割り切ったはずのことなのに、どうしてか目の奥が熱くなる。
「梓乃さん、どんな母親も、子との別れを悲しむというなら、振り向きもせず私を置いていったあの人はいったい何だったんですか。あの人に置いていかれた私は、いったい何だったんですか」
聞いても仕方がないことだということがわかってる。
どんな答えでも私が納得することはきっとないだろうし、今更母親である人を探し出して問い詰めたいという思いがあるわけでもない。
ただ吐いてしまいたかった。聞いてみたかった。数多の母親のあり様を知る彼女に、母親とはいったい何なのかを聞いてみたかった。
「……それが、ベニちゃんの辛さの一つなのねぇ」
梓乃は考え込むように唇に触れた。
「まず一つ、誰であろうと子供を産んだ瞬間に人は親になるわぁ。だからね、その人はあなたの母親に違いはないの。でもねぇ、子供を産んでも心が親になり切れない人もいるわぁ。喜んで子供を産んだわけじゃない人、心がまだ子供だった人、いろんな事情があると思うのぉ」
何も言えなかった。事情、事情があるのだろう。私にはきっと考えが及ばないような事情が。ぐっと歯を噛み締めた。私を捨てるほどの事情とはよほど重要な事情であったのだろう、と自嘲する。
「でもね、そんなこと子供達には関係ない」
「……え、」
「当たり前じゃなぁい。そんなこと子供からしたら知ったこっちゃないわよぉ。……あのね、ベニちゃん。私は後悔する罪を犯した母親の集合体。たくさんの人生を、愛憎を経験してきた。だからのっぴきならない事情、っていうのも分かるのぉ。数百年、事情は様々。仕方がないと思えてしまうことも、理不尽だと思えてしまうことも」
以前、橘が言っていた。飢饉に襲われ子を食べた。生活に困窮し子供を売った。たくさんの事情が、後悔があった。
「それでもね、決して子供自身が仕方ないって思う必要はないの。それはあくまで親の事情。子供はただ愛されるために生まれてくるの。それをしないのは親の罪。事情なんて関係ない。……ベニちゃん、あなたは恨んでいい、怒っていい。その人は確かにあなたの母親だった。どんな事情があっても、あなたを愛することを放棄したのはその人よぉ。それは決して許されることじゃない」
私はどうしてか呆然としてしまった。悠然とした彼女を見て、思い違いをしていたことに気づく。
私はてっきり、彼女は母親の味方をすると思ったのだ。彼女こそ、その様々な事情を知っているから。その事情を経てなお、子を捨て、殺める苦しみを知っているから。けれど違う。彼女の本質は子供を愛する母親の後悔だ。愛していた。それでも殺さざるを得なかった、捨てるよりほかになかった。彼女の根本は母親に寄り添うものではなく、子を愛し執着するものだったと今になって気が付く。だからこそ、彼女を苛む後悔には終わりがない。
「私はね、ベニちゃんのお母さんを知らないわぁ。どんな人だったかも、どんな事情があったのかも。本当に浮気をしてたのか、ベニちゃんのことを捨てていったのか、ベニちゃんのことを愛してなかったのかもね。なぁんにも知らない。でもね、あなたがそれに傷ついているっていうことはわかる」
「梓乃さん」
鋭い爪のついた指先が、私を傷つけないように気遣いながら淵に溜まっていた涙を拭った。
「前にあなたは私に、状況や環境が悪かった、私のすべてが悪かったわけじゃないって言ってくれたわねぇ。でもそれを物分かり良く自分の母親にあてはめちゃだめよぉ。あなたは愛される権利があったんだって主張していい。あなたの優しさを、納得できない人に適用させる必要はないわ」
私はあなたのその言葉に救われたけど、あなたがその人を救ってあげる道理はないでしょう、と少しだけ意地悪に笑う。
「あなたの痛みも苦しみもあなたのもの。死んでしまいたいほどの苦痛を、私たちは本当の意味で理解してあげることはできない。でもね、もしその一端があなたの母親のことだったら、どうかその苦痛を少しでいいから捨ててほしいの。あなたは怒っていい、恨んでいい。でもあなたが苦しむことはしてほしくない。あなたの苦しみはお母さんには届かないし、ただただあなたを痛めつけるだけよぉ」
「苦痛を捨てる……」
そもそも苦痛を抱いていることすら今の今まで顕在化することがなかった。私はただ怒っているだけ、恨んでいるだけのつもりだった。けれどその中に、苦しみや痛みを内包していたのかもしれない。愛されたかっただなんて、そんな今更な願いを握りしめて。
「あなたを置いていった人のせいで、あなたが死んでしまうことはないわぁ。あなたは生きていい、幸せになっていいの」
梓乃は私が潰れてしまわないようにそっと抱きしめた。橘はもう止めなかったし、私は彼女の何も恐れてはいなかった。
憑きものが一つ落ちたように、心が身軽になる代わりに身体が少しだけ暖かくなる気がした。
私の選択は変わらない。でも一ついうなれば、私を愛そうとしてくれるこの鬼女を悲しませるのは少しだけ嫌だな、と思った。
帰り際、梓乃は笑顔で私に言った。
「逃げてもいいわ。でもね、逃げ方を考えてくれると嬉しい」
「逃げ方、ですか?」
「そう。例えばベニちゃんは街で暮らしたくないんでしょう? それなら身体に戻った後ここに来ればいいじゃなぁい。そうしたら私が匿ってあげる! 普通の人間じゃあ見つけられないし、ほとぼりが冷めたら花橘にだって行けるわぁ」
「梓乃!」
どこまで冗談かわからないが、橘が鋭い声を上げる。様々な前科があるだけに、本気具合が計れない。橘は警戒し続けているが
「あなたが気づいていないだけで、元の生活から逃げ出す方法なんてきっといっぱいあるはずよぉ。逃げていいわ。でもどうか、あなたが一番幸せになれる方向へ逃げてほしいの。わたしはいつでも待ってるわぁ」
「……お前のことは信用しているが、子供が絡むと信用がなくなる」
「やだぁ炉善くんったら手厳しい。でもベニちゃんなら私が間違えそうになったらまた怒ってくれるでしょう?」
にっこりと美しく日の下で笑う鬼女は、愛憎も罪も感じさせぬほど晴れやかだった。
「……なあに?」
「私はあの夜あなたに『母親として間違っている』と言いました。……でも記憶喪失以前に、私はそもそも最初から正しい母親なんて知らなかった」
萎んだ憎悪のいた場所にぽっかりと穴が開く。あの日の強風が吹き込むように、胸が寒々しくなった。
「全部私の妄想で、私の願望だった」
こんなくだらないこと泣きたくないのに、もうとっくに割り切ったはずのことなのに、どうしてか目の奥が熱くなる。
「梓乃さん、どんな母親も、子との別れを悲しむというなら、振り向きもせず私を置いていったあの人はいったい何だったんですか。あの人に置いていかれた私は、いったい何だったんですか」
聞いても仕方がないことだということがわかってる。
どんな答えでも私が納得することはきっとないだろうし、今更母親である人を探し出して問い詰めたいという思いがあるわけでもない。
ただ吐いてしまいたかった。聞いてみたかった。数多の母親のあり様を知る彼女に、母親とはいったい何なのかを聞いてみたかった。
「……それが、ベニちゃんの辛さの一つなのねぇ」
梓乃は考え込むように唇に触れた。
「まず一つ、誰であろうと子供を産んだ瞬間に人は親になるわぁ。だからね、その人はあなたの母親に違いはないの。でもねぇ、子供を産んでも心が親になり切れない人もいるわぁ。喜んで子供を産んだわけじゃない人、心がまだ子供だった人、いろんな事情があると思うのぉ」
何も言えなかった。事情、事情があるのだろう。私にはきっと考えが及ばないような事情が。ぐっと歯を噛み締めた。私を捨てるほどの事情とはよほど重要な事情であったのだろう、と自嘲する。
「でもね、そんなこと子供達には関係ない」
「……え、」
「当たり前じゃなぁい。そんなこと子供からしたら知ったこっちゃないわよぉ。……あのね、ベニちゃん。私は後悔する罪を犯した母親の集合体。たくさんの人生を、愛憎を経験してきた。だからのっぴきならない事情、っていうのも分かるのぉ。数百年、事情は様々。仕方がないと思えてしまうことも、理不尽だと思えてしまうことも」
以前、橘が言っていた。飢饉に襲われ子を食べた。生活に困窮し子供を売った。たくさんの事情が、後悔があった。
「それでもね、決して子供自身が仕方ないって思う必要はないの。それはあくまで親の事情。子供はただ愛されるために生まれてくるの。それをしないのは親の罪。事情なんて関係ない。……ベニちゃん、あなたは恨んでいい、怒っていい。その人は確かにあなたの母親だった。どんな事情があっても、あなたを愛することを放棄したのはその人よぉ。それは決して許されることじゃない」
私はどうしてか呆然としてしまった。悠然とした彼女を見て、思い違いをしていたことに気づく。
私はてっきり、彼女は母親の味方をすると思ったのだ。彼女こそ、その様々な事情を知っているから。その事情を経てなお、子を捨て、殺める苦しみを知っているから。けれど違う。彼女の本質は子供を愛する母親の後悔だ。愛していた。それでも殺さざるを得なかった、捨てるよりほかになかった。彼女の根本は母親に寄り添うものではなく、子を愛し執着するものだったと今になって気が付く。だからこそ、彼女を苛む後悔には終わりがない。
「私はね、ベニちゃんのお母さんを知らないわぁ。どんな人だったかも、どんな事情があったのかも。本当に浮気をしてたのか、ベニちゃんのことを捨てていったのか、ベニちゃんのことを愛してなかったのかもね。なぁんにも知らない。でもね、あなたがそれに傷ついているっていうことはわかる」
「梓乃さん」
鋭い爪のついた指先が、私を傷つけないように気遣いながら淵に溜まっていた涙を拭った。
「前にあなたは私に、状況や環境が悪かった、私のすべてが悪かったわけじゃないって言ってくれたわねぇ。でもそれを物分かり良く自分の母親にあてはめちゃだめよぉ。あなたは愛される権利があったんだって主張していい。あなたの優しさを、納得できない人に適用させる必要はないわ」
私はあなたのその言葉に救われたけど、あなたがその人を救ってあげる道理はないでしょう、と少しだけ意地悪に笑う。
「あなたの痛みも苦しみもあなたのもの。死んでしまいたいほどの苦痛を、私たちは本当の意味で理解してあげることはできない。でもね、もしその一端があなたの母親のことだったら、どうかその苦痛を少しでいいから捨ててほしいの。あなたは怒っていい、恨んでいい。でもあなたが苦しむことはしてほしくない。あなたの苦しみはお母さんには届かないし、ただただあなたを痛めつけるだけよぉ」
「苦痛を捨てる……」
そもそも苦痛を抱いていることすら今の今まで顕在化することがなかった。私はただ怒っているだけ、恨んでいるだけのつもりだった。けれどその中に、苦しみや痛みを内包していたのかもしれない。愛されたかっただなんて、そんな今更な願いを握りしめて。
「あなたを置いていった人のせいで、あなたが死んでしまうことはないわぁ。あなたは生きていい、幸せになっていいの」
梓乃は私が潰れてしまわないようにそっと抱きしめた。橘はもう止めなかったし、私は彼女の何も恐れてはいなかった。
憑きものが一つ落ちたように、心が身軽になる代わりに身体が少しだけ暖かくなる気がした。
私の選択は変わらない。でも一ついうなれば、私を愛そうとしてくれるこの鬼女を悲しませるのは少しだけ嫌だな、と思った。
帰り際、梓乃は笑顔で私に言った。
「逃げてもいいわ。でもね、逃げ方を考えてくれると嬉しい」
「逃げ方、ですか?」
「そう。例えばベニちゃんは街で暮らしたくないんでしょう? それなら身体に戻った後ここに来ればいいじゃなぁい。そうしたら私が匿ってあげる! 普通の人間じゃあ見つけられないし、ほとぼりが冷めたら花橘にだって行けるわぁ」
「梓乃!」
どこまで冗談かわからないが、橘が鋭い声を上げる。様々な前科があるだけに、本気具合が計れない。橘は警戒し続けているが
「あなたが気づいていないだけで、元の生活から逃げ出す方法なんてきっといっぱいあるはずよぉ。逃げていいわ。でもどうか、あなたが一番幸せになれる方向へ逃げてほしいの。わたしはいつでも待ってるわぁ」
「……お前のことは信用しているが、子供が絡むと信用がなくなる」
「やだぁ炉善くんったら手厳しい。でもベニちゃんなら私が間違えそうになったらまた怒ってくれるでしょう?」
にっこりと美しく日の下で笑う鬼女は、愛憎も罪も感じさせぬほど晴れやかだった。
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