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宵の狸とパンケーキ 11

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 「ちょっと手を出してみろ」
 「はい? なんですか」

 言われるがままに両手を橘に差し出すと何か入った懐紙を手のひらに落とされた。

 「アーモンドとカシューナッツ、棗と杏子と林檎のドライフルーツだ。適当につまんで食え。夜食はあとでやる。祭りが終わるまであと少し頼むぞ」
 「ありがとうございます!」

 ぱっと懐紙を広げナッツと林檎を口の中に放り込む。噛むと林檎の凝縮された果汁がじゅわりと染み出し、甘い香りが鼻に抜ける。ぽりぽりとしたカシューナッツは歯ごたえが心地いい。糖質と脂質に疲れた身体が震えた。

 「おいしい……簡素だけどおいしい……!」
 「今は落ち着いて余裕がある。それ食って休憩するついでに大舞台の方見てこい」
 「大舞台、って信楽さんと五社さんがいるところですか?」

 遠目からでは舞台など見えないが、あの二人がいるところが祭りの中心だ。部隊があるとすればそこしかないだろう。

 「ああ、宴も酣ってころに宵満月が踊ることになってる。あたりが静かになってるのもそれを見てるからだろう」
 「なんというか……踊りを見るなら余計盛り上がるものかと思ってました」

 特に何もせず月を見ながらどんちゃん騒ぎをしていたのに、宵満月の踊りを見るときは粛々とするものなのかと首をかしげる。

 「宵満月の踊りは奉納の意味合いが強い、神事のようなものだ。人とは違う信仰で、具体的な経典もなければ神の名もない。ただ秋の月に神性を感じ、崇めてるんだろう。だからこそ、この時はバカ騒ぎをしたりしない」

 背中を押され、私は一際狸狐の集まった宴の中心へと向かっていった。
 風の音のような尺八が揺れる。細く繊細な篠笛が響く。軽やかな鼓が跳ねる。
 しゃん、と鈴の音に私の視線は引き寄せられた。木で組まれた舞台を、白い素足が軽やかに蹴る。
 月の光を一身に受けながら、宵満月は踊っていた。いつもの天真爛漫な笑顔もなく、我儘な甘えたな様子も鳴りを潜め、まるで妖精かなにかのように、軽やかに舞う。

 吹き抜ける秋の風、楽器の音、それから宵満月の足音以外になんの音もしなかった。この場の誰もが彼女の踊りを見届けることだけに集中していて、鳴いていたはずの虫たちですら黙りこくる。
 宗教も神事もさして知らない。けれど今のこの彼女の踊りは、彼らにとって重要な神事であることは私にもわかった。彼女のことから目を離せない。そのまとわりつく重力を振り払うような足に、触れられない何かを撫でるような指先に、ふわりと浮いた紙の面の間から見えた真剣な眼差しに心臓を掴まれたようだった。

 気が付けば宵満月の足は止まり、音楽は鳴りやんでいた。まるで頬を引っぱたかれたように目が覚める。徐々にざわめきや虫の声が戻ってくる。ある者は再び酒を飲みだし、ある者は歓談し、ある者は姿を消した。

 状況はよくわからないが、祭りが終わったことだけは理解した。
 言葉にしがたい感情が込み上げる。
 呼吸は浅く、心臓はせわしなく動く。混乱しながらこの感情にふさわしい名前を探した。

 「焦ってる……?」

 口に出た言葉は確かなものだった。けれどその一言で足りている気がしない。私はたくさんの狸狐たちに取り囲まれる宵満月に背を向けた。

 「橘さん、回収したお皿洗ってきますね」
 「早かったな。あとは片付けだけだから宵満月と話してきてもよかったぞ」
 「いえ、ほかのみんなと話してましたし、あの中には割って入れませんよ」
 「いいのか? あいつに食べさせたいデザートがあっただろ」

 橘の言葉にう、と言葉を詰まらせる。
 宵満月とはこの祭りの間一度も顔を合わせていない。彼女が喜ぶと思って街で見てきたデザートを作ろうと思っていたのだが、彼女のあの様子では今日はもう会えないかもしれない。

 「……今日は宵満月も忙しいですし、またにしますよ。お菓子なんていつ食べても変わんないですし」

 空になった皿を数枚積み重ねて祭りの会場を後にした。

 会場は花橘から歩いて10分ほど。丸一日かけて調理器具や食器を会場に移動させたのだ。片付けはきっと翌日の昼頃までかかるだろう。すでに満身創痍といった顔色の橘を思うと、余力があるうちに過ごしでも片づけておきたい。

 明りの消えた花橘に戻ると途端に現実に引き戻された気分になる。
 神秘的で陽気なあの祭りに一時間前まで参加していたとは思えない。上映が終わり明るくなる映画館、遊園地からの帰り道、文化祭の片付けはきっとこんな気分だろう。店の外に大きな桶を置いて水を張る。量が量のため先に汚れた皿を水につけておきたい。冷え切った水に指先が震えた。
 桶の中に頭上の月と私の情けない顔が映る。無意識のうちに首から下げたペンダントを握りしめた。

 「それ、使わねえのかい?」
 「なっ……んで、あなたが」

 突然降ってきた声に振り向くと骨董屋の槐が私の真後ろに立っていた。

 「いやさ、月の祭りは盛大にやってるからな、今年も見に来たんだよ。相変わらず華やかなこった。狸狐ってのは人間社会に混じってる奴も多いから金回りがよくて花橘にとっちゃ万々歳だな」

 淡々とした声を聞きながらどうすべきか頭を巡らせた。ここ周辺に住んでいる客や知り合いはみんな祭りの会場に行ってしまった。助けを求めるのは困難だし、きっと骨董屋もそれはわかっている。彼が私に何かしてくる確率はおそらく低い。橘は彼に対して警戒はしていたがそれは害意を避けるというよりも鬱陶しいものを振り払うような態度だ。何より橘と骨董屋は付き合いが長いように見えた。けれど骨董屋の正体が何かまではわからない。突然私を食べようとする確率は限りなく0に違いが、それでも絶対にないとは言い切れなかった。
 彼の態度は害意や敵意ではない。

 「そう怯えるなよ、紅於」

 猫が鼠を甚振るような好奇心だ。名乗ったはずのない本名で呼ばれても、動揺しないよう腹に力をいれる。

 「ベニ、と呼んでいただけますか。ここではそう名乗るように言われてますので」
 「そうかそうか、橘の教育の賜物だな」
 「それと、私たちはまだ片付けしなくちゃいけないので、お話はまた後日にしていただけますか」

  紫の三つ目が静かに私のことを見下ろす。ここに橘がいない以上、私が余計なことをしゃべってしまう悪手は避けられない。気分を害してしまったかと嫌な汗が噴き出す。この手の妖は地雷がどこにあるかわからなくて恐ろしい。

 「俺がやったの、使わねえのかい?」

 骨董屋はもう一度私にそう問うた。はっとしてペンダントから手を放す。

 「それを使えば記憶はすぐに戻る。なんで躊躇する必要がある。お前は記憶がないから帰る場所がわからず、どこにも行けない。やむにやまれず、花橘に身を寄せてるだけだろう? それを使えばすぐに解決する。お前は記憶が戻り、晴れて帰るべき場所へ帰る。大団円さ。何を躊躇している?」
 「それは……、」
 「いまだに記憶が戻らず、それも使わないのはここから離れがたいと思っているからだろう。ほかに選択肢がなくてここにいるわけじゃなく、ここにいたいがためにいる。ただの我儘だ」

 骨董屋の言葉が鋭く胸の奥に突き刺さる。そんなことには気づいていた。
 どんなことがあったのか、私にはわからない。だからこそ、私は今あるここでの生活の幸福感を手放せないでいるのだ。少なくともここにいる私は紛れもなく幸せだ。ブラックボックスと化した過去の自分が、恐ろしくてならない。

 「宵満月の踊りは見たか? よかったなあ、あれ。見るだけで寿命が延びそうだ。普段はなんだあかんだあと文句を垂れて人間の世界に憧れているが、いざ自分の役割があるとなれば人が変わったようだ。真摯で真面目、今日の出来だって文句のつけようのない踊りだ」

 それに比べて、なあ?
 言わんとする意図が読めて息が苦しくなる。覗き込む顔には厭な笑みが浮かんでいる。

 「……ああ、本当に可愛い人間だなあ。同じ人間でもあいつとは大違いだ」
 「あいつ……?」

 自分から口にしたくせに、私の言葉に笑みを消す。思わず出た言葉なのか、なんなのか。橘と比べているのかと思ったが、違うだろう。橘と私を比べるなら以前のように小馬鹿にしたように笑うだけでいいはずだ。

 「今日はもう帰るとしよう。邪魔が入る。あの子に嫌われるのは俺も本意じゃない」
 「……飛梅、」

 近くにいるだろう彼女を呼ぼうとして、はっと口を噤んだ。呼んだとして彼女にどう説明しようというのか。

 「また来よう、可愛い紅於。しばらくの俺の楽しみになってくれ」

 長い錫杖を大きく振りかぶり、強く地面を叩いた。金属がぶつかり合う音ともに骨董屋槐は姿を消した。
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