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送り狼と紅花の炊き込みご飯 3
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「なんだったんです、今の」
「天咲さま、神さまだよ。文字通りお客様は神様です、な方。この前結婚したって聞いてたけど、遣いじゃなくて本人、それもお付きの者もなしにここに来るなんて、よっぽど奥さんのことを溺愛してるんだね」
神様、心の中で反芻するが現実味がない。数秒前まで玄関に神様がいたのだという。面をした大きな男の人、アマサキさま。私の思っているよりずっと、神様は人間に似ていた。
「何が溺愛だ。溺愛して心配してるなら診せろって話だ。誰にも会わせたくないらしい」
「天咲さまは神さまなのにお嫁さんのことを自分で何とかできないんですか」
「神は万能じゃない。天咲さまは自然に関連する権能を持つが健康長寿や薬に関する権能は持たない。さっき蓮肉、蓮の種を渡したとき『いくらでも作れる』と言っていただろう。詳しいところは知らんが蓮の花を咲かせたり増やしたりすることはできるんだろうよ」
何となく私のイメージしていた神さまとは違うことは理解した。神さまにもできることとできないこと、得意分野のようなものがあるのだろう。だから神さまであっても何か困ることがあれば他人に頼ることとなる。この花橘のように。
「まあ天咲さまのことは置いておいて話を戻そうか。今は君のことだよ、お嬢ちゃん。まだ名前すら知らないからね」
「あ、ええと、名前は桜良紅於、16歳です。えと、人間です」
促されて自分の名前を憶えていたことに安堵する。けれど同時に嫌な汗も流れる。それ以外、何もわからない。どうしたらいいかわからず、手元の湯飲みを睨みつけた。
「そう紅於っていうのね、よろしく。それで、紅於はどうして夜の街に一人でいたの? 私と一緒に来たってことは待ち合わせでも誰かと遊んでいたわけでもないでしょ。ああいう人通りの多いところでは行く先や目的のない人っていうのは浮いて見えるのよ」
何とか思い出そうと最初にいた場所を思い浮かべる。この山の下の街、東雲谷町の大通り、商店街の入り口が見える歩道にいた。私の周りに、私のことを気にする人はいなかったから意識が戻るまでの間倒れていたわけじゃないだろう。荷物もなく、ポケットに入っている財布くらいだ。もう一度財布をひっくり返しても見るが、身元の分かるものは何一つなく、ポケットの中に手を突っ込むが指先に触れたのはヘアピンとハンカチだけで、携帯も入っていなかった。
「え、急にどうしたの? 財布がどうかした?」
「……ごめんなさい、名前と、年齢しかわからなくて。なにも、覚えてないんです」
伊地知が目を丸くするのを見て喉の奥がぎゅっと閉まるのを感じた。信じてもらえないかもしれない。記憶喪失だなんて現実で聞いたこともない。けれどどうして記憶喪失になってしまったのか私自身わからないし、思い出せない。手掛かりになりそうなものも何もない。
「す、すみません、変なこと言って。私、帰ります」
どうにもいたたまれなくて席を立った。信じてくれなくて当然だ。私だってもし記憶喪失だなんて人間に会ったら警戒するし、疑う。とりあえず元居たところへ戻ろう。そうしたら何か思い出すかもしれないし、手掛かりになるものがあるかもしれない。
「ちょっと待って、帰るって……帰る場所わかるの?」
「それは……」
「考えなしに動かないの。それに外はさっき紅於が見たのがまだうようよいるわよ」
「う……」
伊地知の手によってあっという間に椅子に座らされる。両肩に乗せられた手のひらのせいで立ち上がることすらできない。
「大丈夫、落ち着いて紅於は名前と年齢以外何もわからないのね。家だとか家族の名前もわからない。……それでどうしようもなくなって駅前で座ってたのね」
淡々と事実を確認していく声。情けなさで涙が込み上げてくる。伊地知の言う通り、今私はどうしようもなくなっている。誰を、何を頼ればいいかわからない。自分の名前だけが唯一縋れる確かなものだった。
「ごめんなさい、泣かせたいわけじゃないのよ。不安よね、怖いわよね、何も覚えてなくてどうしたらいかもわからなくて」
伊地知の大きな手が私の頭を緩く撫で、瞼の縁に溜まった涙を掬い取った。
「信じて、くれるんですか……?」
「信じるも何も端から疑ってもいねえよ。記憶喪失自体珍しいが、会ったことがないわけじゃない」
さも大したことないことかのように橘はお茶を飲んだ。伊地知は空いていた私の隣の椅子に腰を下ろす。
「じゃあ前向きな話をしていきましょう! 紅於は記憶を取り戻してお家へ帰るのが目標。でも記憶なんてすぐに戻ってくるわけじゃないわ。でも私たちが会った人たちはみんな記憶を取り戻してる。結局は時間やきっかけの問題よ」
「時間やきっかけ……」
「そう、だから悲観しないの。もしかしたら夜明けには全部思い出してるかもしれないし、花橘に来る人を見て突然思い出す可能性もゼロじゃない」
身体にのしかかっていた重圧が、少しだけ軽くなった気がした。記憶喪失になっても、もうもとに戻らないわけじゃない。いつかちゃんと思い出せる。
「でもどちらにせよ問題はそれまでどうするか。私の家に連れ帰ってもいいけど、ほとんど巣みたいなものだから、人間の紅於にはしんどいと思うし……」
ちらちらとわざとらしく伊地知は橘の方へ視線を送った。隣で見ていた私ですらどういう意味か分かって緊張で冷汗が出る。けれどお願いしてもらっている分際で言えることなどないと口をつぐむ。橘が大きなため息をついた。
「いいじゃない。こんなかわいい子を預かれるのよ。しかも若い、ぴちぴちのJKよ。こんな看板娘がいれば”花橘”も大繁盛間違いなし! 炉善だってこの家に二人きりは寂しいでしょ? それにお手伝いしてくれる子がいれば炉善も助かるはず! 違う?」
「……はあ、わかった好きにしろ。記憶が戻るまではここに置いておいてやる。まあ住み込みのバイトだと思え。飯はこっちで用意する。その代わり材料の調達やら雑務やらをやってくれるか」
「あ、ありがとうございますっ」
ひとまず路頭に迷わずに済みそうなことに胸をなでおろした。けれど住み込みのバイトだなんてそれはそれでどういうものか想像もつかない。何よりここの店に来るのはきっと人じゃないものたちなのだろう。送り狼の伊地知然り、神さまの天咲さま然り。いちいち驚いていては心臓が足りないに違いない。
ふと一つ気になるところがあった。
「あの、さっき伊地知さんが『二人きりは寂しい』って言ってましたけど、花橘にはもう一人どなたかいらっしゃるんですか?」
伊地知は先ほど巣のような家があると言っていたから常連ではあるがここに住んでいるわけではないだろう。だが店の奥の屋敷にしても誰かがいる気配や物音はない。誰かほかにいるなら厄介になる前にあいさつをしておくべきだろう。
「ああ、今はなんだかわからんが隠れてるみたいだ。飛梅、話は聞いてたな。隠れてないで出てこい」
「え」
聞こえていた、ということはこの部屋の中にいたということだろうか。けれどあたりを見ても人影はない。先ほど夜の山で遭遇した何かのように身体が透明なのだろうか。
「はぁい」
「ひっ……!?」
高い子供の声が机の下から聞こえた。慌てて覗き込むと少女と目が合う。思わず立ち上がりそうになる私の足を登り膝の上に飛梅と呼ばれた子供がちょこんと座った。黒々とした丸い目がジロリと私のことを見上げる。
「お、お子さんですか?」
「馬鹿言え。同居人だ。座敷童の飛梅。先代の時からここに住んでる妖怪だ」
座敷童、というのはさすがに知っていた。座敷童のいる商家は栄え、商売繁盛し、座敷童に出ていかれると没落する、という話だ。赤い着物におかっぱの黒髪。その姿は私が思い描く座敷童そのものだった。
「私は飛梅。話は聞いてたよ。よろしく、紅於ちゃん」
「記憶が戻るまでの間だけど、よろしくね、飛梅」
小さな紅葉のような手が差し出され、かわいらしさに癒されながらその手を取り握手をしようとした。すると突如としてその手が捥げた。
「っええ! ごめんなさい飛梅! う、腕がっ」
「きゃはははは!」
捥げた腕を抱え叫ぶ私に対して飛梅は笑いながら飛び降りると橘の膝へと移った。
「座敷童は悪戯好きだ。もはや驚いてやる奴がいないからお前の反応が新鮮なんだろう。しばらくは驚かされる覚悟しとけ」
よくよく見ると私の握っている手は人形の腕で、飛梅と言えば上機嫌で手を叩き笑っている特殊な客たちのせいで寿命が縮まる思いだが同居人のせいで拍車がかかりそうだ。
「ここにいるなら何か仮名をつけないとね」
「かな?」
「仮の呼び名だよ。本名をみんな持ってるけど、本名を知られるだけで不利益になることもある。教えなくても誰かが呼んでるのを勝手に聞いて悪用する悪いモノもいるからね。主に呪術だけど」
「じゅじゅつ」
日常生活でおよそ聞くことのない言葉だ。名前を知られただけで呪われてしまうとは改めて恐ろしい世界観だ。街からほんの少し離れただけの山の中だというのに平安時代もかくやという和風ファンタジーな世界観。
「クレナイってどういう字?」
「えと、”べに”に”於いて”という字で、紅於です」
「ふうん、紅於って書いて、くれないって読むんだ。うん、素敵な名前ね。きっとよく考えてつけられた。簡単には読めない、知らせない名前」
「でも、わかりにくい名前じゃないですか?」
「あなたに教えられた人しか正しく呼べないなんて素敵よ。少なくとも、私たちから見ればあなたの名前は守られた名前。簡単には呪わせない名前だわ」
細められた目はどこまでも優しい。なんて答えたらいいのかわからなくて、まごついた。今の私はただの名前としてしか私の名前を知らない。どうやってつけられたのか、だれがつけたのか、どんな意味があったのか。私は知らないし、誰に聞いたらいいのかも分からない。
「ありがとう、ございます」
だからただお礼の言葉を呟くだけで精一杯だった。ルーツも繋がりもわからない。けれど私に名前を付けてくれた人たちの分まで、お礼を言っておきたかった。
「紅於、ならベニとでも名乗れ。仮名は単純であれば単純であるほど良い」
「ベニ……」
「今からお前お呼び名はベニだ。俺たちも極力お前のことを本名では呼ばん。そしてお前もこれから会う妖たちに決して本名を名乗ってはいけない」
ベニ、口の中で呟くと少しだけ違和感はあるが、そもそも本名すら診察券で知った名前のためすぐに慣れる予感はした。
「妖たちに、呪われてしまうからですか?」
「ああ。必ずしも悪いものではないし、この店にあげる奴は俺が選別した奴らに限られる。だが誰だって魔が差すことはある。そして無防備に隙があれば惑わされることもある。お互いのために距離を詰めすぎるべきじゃない。碌なことにはならん」
お互いのために、と言ったその顔は表情がなかった。
けれどそう言われてしまうとふと得も言われない不安に駆られて伊地知の方を見てしまった。送り狼である伊地知と座敷童の飛梅には私の本名が知られてしまっている。
「私は何もしないよ。呪う理由がないからね。大体はお腹が空いてるとかおいしそうとか憎らしいだとか嫁にほしいだとかが動機よ。私はどれも当てはまらない。花橘でご飯を食べてるから飢餓っていうほどの空腹はないし、元人間だから別に人のことおいしそうとは思えないしね」
「座敷童も人間を呪ったり食べたりしない。力の対象は住人ではなく家そのものだからな。人間単体を呪うことができない」
私の不安はそうそうに解消された。疑われて気分もよくないだろうに、伊地知はからりと笑って否定しただけだった。飛梅は最初から関係ないと言わんばかりに橘の膝の上で座り心地のいい姿勢を探している。
「脅すようなことを言っておいてなんだが、心配するな、本当に危険な奴ってのはほんの一部。ここの客は質のいい妖怪、神、それから勘のいい人間。さっきも見たと思うがここは神御用達の店、贔屓にしてくれている客も多い。基本的に一見の客はここに来る必要があって迷い込む。そう簡単に変な奴も近づかん。俺も極力お前を危険にさらさないようにする」
「私も! ここでやっていけないって思ったときやどこか遠くに行きたいと思ったら言って。気分転換にどこにでも連れて行ってあげる。次はちゃんと二つヘルメット用意してね」
どこか不思議な心地だった。まるで夢でも見ているような、それこそ朝陽が昇ればこの花橘ごとかき消えてしまっているのではないかと思わせるほど、現実味がなかった。
記憶喪失で呆然自失としているとバイクに乗った妖怪に攫われ、そこから逃げ出そうとしてよくわからない妖怪のようなものたちと夜の山の中で遭遇して、世捨て人のような不思議な人の作ったご飯を食べて、神さまを見かけて、そうして今日からここで住み込みのバイトを始める。これほど濃密で疾走感のある現実などあるだろうか。
けれど橘の作った炊き込みご飯と鰈の煮つけは身体の芯から温まるようにおいしく、今も私の手の中の湯飲みは夜の冷えを払うようにじんわりと温かい。
悩んでも、迷っても、今の私には記憶を取り戻さなければどこにも行くことはできない。
「ありがとうございます。桜良紅於改め、ベニです。わからないことばかりでご迷惑おかけするとは思いますが、記憶が戻るまでお世話になります。よろしくお願いします!」
不安なことばかりだけど、この人たちとなら頑張れる気がした。
桜咲く清明のころ、どこにでもいる平凡な人間の私は人と妖怪と神さまの行き交う薬膳茶房・花橘で新生活を始めることになった。
「天咲さま、神さまだよ。文字通りお客様は神様です、な方。この前結婚したって聞いてたけど、遣いじゃなくて本人、それもお付きの者もなしにここに来るなんて、よっぽど奥さんのことを溺愛してるんだね」
神様、心の中で反芻するが現実味がない。数秒前まで玄関に神様がいたのだという。面をした大きな男の人、アマサキさま。私の思っているよりずっと、神様は人間に似ていた。
「何が溺愛だ。溺愛して心配してるなら診せろって話だ。誰にも会わせたくないらしい」
「天咲さまは神さまなのにお嫁さんのことを自分で何とかできないんですか」
「神は万能じゃない。天咲さまは自然に関連する権能を持つが健康長寿や薬に関する権能は持たない。さっき蓮肉、蓮の種を渡したとき『いくらでも作れる』と言っていただろう。詳しいところは知らんが蓮の花を咲かせたり増やしたりすることはできるんだろうよ」
何となく私のイメージしていた神さまとは違うことは理解した。神さまにもできることとできないこと、得意分野のようなものがあるのだろう。だから神さまであっても何か困ることがあれば他人に頼ることとなる。この花橘のように。
「まあ天咲さまのことは置いておいて話を戻そうか。今は君のことだよ、お嬢ちゃん。まだ名前すら知らないからね」
「あ、ええと、名前は桜良紅於、16歳です。えと、人間です」
促されて自分の名前を憶えていたことに安堵する。けれど同時に嫌な汗も流れる。それ以外、何もわからない。どうしたらいいかわからず、手元の湯飲みを睨みつけた。
「そう紅於っていうのね、よろしく。それで、紅於はどうして夜の街に一人でいたの? 私と一緒に来たってことは待ち合わせでも誰かと遊んでいたわけでもないでしょ。ああいう人通りの多いところでは行く先や目的のない人っていうのは浮いて見えるのよ」
何とか思い出そうと最初にいた場所を思い浮かべる。この山の下の街、東雲谷町の大通り、商店街の入り口が見える歩道にいた。私の周りに、私のことを気にする人はいなかったから意識が戻るまでの間倒れていたわけじゃないだろう。荷物もなく、ポケットに入っている財布くらいだ。もう一度財布をひっくり返しても見るが、身元の分かるものは何一つなく、ポケットの中に手を突っ込むが指先に触れたのはヘアピンとハンカチだけで、携帯も入っていなかった。
「え、急にどうしたの? 財布がどうかした?」
「……ごめんなさい、名前と、年齢しかわからなくて。なにも、覚えてないんです」
伊地知が目を丸くするのを見て喉の奥がぎゅっと閉まるのを感じた。信じてもらえないかもしれない。記憶喪失だなんて現実で聞いたこともない。けれどどうして記憶喪失になってしまったのか私自身わからないし、思い出せない。手掛かりになりそうなものも何もない。
「す、すみません、変なこと言って。私、帰ります」
どうにもいたたまれなくて席を立った。信じてくれなくて当然だ。私だってもし記憶喪失だなんて人間に会ったら警戒するし、疑う。とりあえず元居たところへ戻ろう。そうしたら何か思い出すかもしれないし、手掛かりになるものがあるかもしれない。
「ちょっと待って、帰るって……帰る場所わかるの?」
「それは……」
「考えなしに動かないの。それに外はさっき紅於が見たのがまだうようよいるわよ」
「う……」
伊地知の手によってあっという間に椅子に座らされる。両肩に乗せられた手のひらのせいで立ち上がることすらできない。
「大丈夫、落ち着いて紅於は名前と年齢以外何もわからないのね。家だとか家族の名前もわからない。……それでどうしようもなくなって駅前で座ってたのね」
淡々と事実を確認していく声。情けなさで涙が込み上げてくる。伊地知の言う通り、今私はどうしようもなくなっている。誰を、何を頼ればいいかわからない。自分の名前だけが唯一縋れる確かなものだった。
「ごめんなさい、泣かせたいわけじゃないのよ。不安よね、怖いわよね、何も覚えてなくてどうしたらいかもわからなくて」
伊地知の大きな手が私の頭を緩く撫で、瞼の縁に溜まった涙を掬い取った。
「信じて、くれるんですか……?」
「信じるも何も端から疑ってもいねえよ。記憶喪失自体珍しいが、会ったことがないわけじゃない」
さも大したことないことかのように橘はお茶を飲んだ。伊地知は空いていた私の隣の椅子に腰を下ろす。
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「時間やきっかけ……」
「そう、だから悲観しないの。もしかしたら夜明けには全部思い出してるかもしれないし、花橘に来る人を見て突然思い出す可能性もゼロじゃない」
身体にのしかかっていた重圧が、少しだけ軽くなった気がした。記憶喪失になっても、もうもとに戻らないわけじゃない。いつかちゃんと思い出せる。
「でもどちらにせよ問題はそれまでどうするか。私の家に連れ帰ってもいいけど、ほとんど巣みたいなものだから、人間の紅於にはしんどいと思うし……」
ちらちらとわざとらしく伊地知は橘の方へ視線を送った。隣で見ていた私ですらどういう意味か分かって緊張で冷汗が出る。けれどお願いしてもらっている分際で言えることなどないと口をつぐむ。橘が大きなため息をついた。
「いいじゃない。こんなかわいい子を預かれるのよ。しかも若い、ぴちぴちのJKよ。こんな看板娘がいれば”花橘”も大繁盛間違いなし! 炉善だってこの家に二人きりは寂しいでしょ? それにお手伝いしてくれる子がいれば炉善も助かるはず! 違う?」
「……はあ、わかった好きにしろ。記憶が戻るまではここに置いておいてやる。まあ住み込みのバイトだと思え。飯はこっちで用意する。その代わり材料の調達やら雑務やらをやってくれるか」
「あ、ありがとうございますっ」
ひとまず路頭に迷わずに済みそうなことに胸をなでおろした。けれど住み込みのバイトだなんてそれはそれでどういうものか想像もつかない。何よりここの店に来るのはきっと人じゃないものたちなのだろう。送り狼の伊地知然り、神さまの天咲さま然り。いちいち驚いていては心臓が足りないに違いない。
ふと一つ気になるところがあった。
「あの、さっき伊地知さんが『二人きりは寂しい』って言ってましたけど、花橘にはもう一人どなたかいらっしゃるんですか?」
伊地知は先ほど巣のような家があると言っていたから常連ではあるがここに住んでいるわけではないだろう。だが店の奥の屋敷にしても誰かがいる気配や物音はない。誰かほかにいるなら厄介になる前にあいさつをしておくべきだろう。
「ああ、今はなんだかわからんが隠れてるみたいだ。飛梅、話は聞いてたな。隠れてないで出てこい」
「え」
聞こえていた、ということはこの部屋の中にいたということだろうか。けれどあたりを見ても人影はない。先ほど夜の山で遭遇した何かのように身体が透明なのだろうか。
「はぁい」
「ひっ……!?」
高い子供の声が机の下から聞こえた。慌てて覗き込むと少女と目が合う。思わず立ち上がりそうになる私の足を登り膝の上に飛梅と呼ばれた子供がちょこんと座った。黒々とした丸い目がジロリと私のことを見上げる。
「お、お子さんですか?」
「馬鹿言え。同居人だ。座敷童の飛梅。先代の時からここに住んでる妖怪だ」
座敷童、というのはさすがに知っていた。座敷童のいる商家は栄え、商売繁盛し、座敷童に出ていかれると没落する、という話だ。赤い着物におかっぱの黒髪。その姿は私が思い描く座敷童そのものだった。
「私は飛梅。話は聞いてたよ。よろしく、紅於ちゃん」
「記憶が戻るまでの間だけど、よろしくね、飛梅」
小さな紅葉のような手が差し出され、かわいらしさに癒されながらその手を取り握手をしようとした。すると突如としてその手が捥げた。
「っええ! ごめんなさい飛梅! う、腕がっ」
「きゃはははは!」
捥げた腕を抱え叫ぶ私に対して飛梅は笑いながら飛び降りると橘の膝へと移った。
「座敷童は悪戯好きだ。もはや驚いてやる奴がいないからお前の反応が新鮮なんだろう。しばらくは驚かされる覚悟しとけ」
よくよく見ると私の握っている手は人形の腕で、飛梅と言えば上機嫌で手を叩き笑っている特殊な客たちのせいで寿命が縮まる思いだが同居人のせいで拍車がかかりそうだ。
「ここにいるなら何か仮名をつけないとね」
「かな?」
「仮の呼び名だよ。本名をみんな持ってるけど、本名を知られるだけで不利益になることもある。教えなくても誰かが呼んでるのを勝手に聞いて悪用する悪いモノもいるからね。主に呪術だけど」
「じゅじゅつ」
日常生活でおよそ聞くことのない言葉だ。名前を知られただけで呪われてしまうとは改めて恐ろしい世界観だ。街からほんの少し離れただけの山の中だというのに平安時代もかくやという和風ファンタジーな世界観。
「クレナイってどういう字?」
「えと、”べに”に”於いて”という字で、紅於です」
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「ありがとう、ございます」
だからただお礼の言葉を呟くだけで精一杯だった。ルーツも繋がりもわからない。けれど私に名前を付けてくれた人たちの分まで、お礼を言っておきたかった。
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「今からお前お呼び名はベニだ。俺たちも極力お前のことを本名では呼ばん。そしてお前もこれから会う妖たちに決して本名を名乗ってはいけない」
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「ああ。必ずしも悪いものではないし、この店にあげる奴は俺が選別した奴らに限られる。だが誰だって魔が差すことはある。そして無防備に隙があれば惑わされることもある。お互いのために距離を詰めすぎるべきじゃない。碌なことにはならん」
お互いのために、と言ったその顔は表情がなかった。
けれどそう言われてしまうとふと得も言われない不安に駆られて伊地知の方を見てしまった。送り狼である伊地知と座敷童の飛梅には私の本名が知られてしまっている。
「私は何もしないよ。呪う理由がないからね。大体はお腹が空いてるとかおいしそうとか憎らしいだとか嫁にほしいだとかが動機よ。私はどれも当てはまらない。花橘でご飯を食べてるから飢餓っていうほどの空腹はないし、元人間だから別に人のことおいしそうとは思えないしね」
「座敷童も人間を呪ったり食べたりしない。力の対象は住人ではなく家そのものだからな。人間単体を呪うことができない」
私の不安はそうそうに解消された。疑われて気分もよくないだろうに、伊地知はからりと笑って否定しただけだった。飛梅は最初から関係ないと言わんばかりに橘の膝の上で座り心地のいい姿勢を探している。
「脅すようなことを言っておいてなんだが、心配するな、本当に危険な奴ってのはほんの一部。ここの客は質のいい妖怪、神、それから勘のいい人間。さっきも見たと思うがここは神御用達の店、贔屓にしてくれている客も多い。基本的に一見の客はここに来る必要があって迷い込む。そう簡単に変な奴も近づかん。俺も極力お前を危険にさらさないようにする」
「私も! ここでやっていけないって思ったときやどこか遠くに行きたいと思ったら言って。気分転換にどこにでも連れて行ってあげる。次はちゃんと二つヘルメット用意してね」
どこか不思議な心地だった。まるで夢でも見ているような、それこそ朝陽が昇ればこの花橘ごとかき消えてしまっているのではないかと思わせるほど、現実味がなかった。
記憶喪失で呆然自失としているとバイクに乗った妖怪に攫われ、そこから逃げ出そうとしてよくわからない妖怪のようなものたちと夜の山の中で遭遇して、世捨て人のような不思議な人の作ったご飯を食べて、神さまを見かけて、そうして今日からここで住み込みのバイトを始める。これほど濃密で疾走感のある現実などあるだろうか。
けれど橘の作った炊き込みご飯と鰈の煮つけは身体の芯から温まるようにおいしく、今も私の手の中の湯飲みは夜の冷えを払うようにじんわりと温かい。
悩んでも、迷っても、今の私には記憶を取り戻さなければどこにも行くことはできない。
「ありがとうございます。桜良紅於改め、ベニです。わからないことばかりでご迷惑おかけするとは思いますが、記憶が戻るまでお世話になります。よろしくお願いします!」
不安なことばかりだけど、この人たちとなら頑張れる気がした。
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