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山椒魚をペットにいたしまして
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「あっ!」
そう言った時には時すでに遅し。手に持っていたアクセサリーケースが宙を舞う。
ごきげんよう。私はとある小国の我が儘な姫に仕えるしがないメイドです。
状況を説明します。
何故だか機嫌のよろしくない姫様は気分転換におしゃれをする、などと言い出し、下っ端メイドの私にアクセサリーを衣装ケースから持ってくるよう言いつけた。
正直、今日城から出る予定がないのなら着替えようとするなよ、と言いたいが私はしがないメイド。面倒などと言って首を撥ねられるのはごめんだ。
そうして城のなかをアクセサリーケースを持って歩いていた。
しかしぼうっとしていたからか、窓から見える空が綺麗だったからか、私は杜撰な石造りの廊下の段差に足をとられたのだ。
キラキラと舞うアクセサリー。
頭で考えるまもなく、つけていた白いエプロンで宙を舞うアクセサリーたちを、魚を漁る職人さながらに回収したのだ。生まれてこのかた、こんなに早く動いたのは初めてな気がする。
何が言いたいかと言うと、私は頑張った。最善の対応をした。
努力むなしく、エプロンが届かなかったものが一つ。
ティアラだ。
教養もない私にすら、高価なものだと人目でわかる。悪趣味なほどにつけられた宝石、キラキラと輝くプラチナ。
その悪趣味ティアラは窓の外へと羽ばたいた。
「ああああああああっ!!!」
私の絶望など知らず、ティアラは外階段をバウンドしながら徐々に下へと落ちていく。
「あああああっ………!」
「ミーシャ?どうしたの?」
後ろからかけられる声。失態がバレたと絶望しながら振り向く。
「あ、アンちゃん!」
「え?」
振り向けば同期のメイド、大天使アンジェリーナちゃん。神はまだ私を見捨てていなかった。
「アンちゃん!ほんっとうに申し訳ないんだけど、このアクセサリーたちを姫様のところに持って行ってもらっても良い!?」
「え、別にいいけど、ミーシャは?」
「私はちょっとやらなきゃいけない使命があるの!ごめんね!帰ったら詳しく話すから!」
一方的に言ってごめん、アンちゃん。でも私は凄まじい勢いで転がっていくティアラを見失うわけにはいかないの。
はしたないとかそういうことは気にせず、ティアラを追って窓から外階段へ飛び降り、その後ろ姿を追った。
*********
おかしい。これはおかしい。しかし誰に聞こうと返事などあるわけがない。
木の生い茂った森の中、私は全力で走っていた。
自慢ではないが、私はとても淑女とは思えないほど運動能力が良い。この国に来る前まではあらゆる国を流浪する民であり、毎日がサバイバルであった。そんな仲間たちの中でも抜きんでて身体の動く私は仲間内で山猿などと揶揄されていた。
この国に来てメイドを始めて数年。まだ体は鈍っていないと言える。
そしてそんな私が走り続けて数分。いまだ私のはるか前を行くあのティアラは一体何者なのだろうか。
もはや加速でもしているのではないかと思えてくる。そもそもここは別に坂道でも何でもないどころか、道は悪く木の根が這い、石が転がるような場所なのだ。なのになぜあのティアラはあんなにも早く転がっているのか。呪われたティアラなんて、きいてない。
正直もうあんな不気味なものを追いかけたくないが、あれを持って帰らなければ私の首が転がることになるし、無理やり任せてきたアンちゃんにも迷惑がかかる。
木々の数が減り、森が開けてきた。そして更なる絶望感が私を襲う。
池だ。
化け物ティアラの進行方向には緑に濁って底など到底見えるはずのない池が鎮座ましましていた。
「やばっ……!」
加速するわがまま姫のティアラ、追う私。
からの、ホールインワン、である。
ぽちゃん、とあっけない音を立てて、美しくも恐ろしいティアラは藻のはった池の底へと姿を消した。
「そん、な……、」
息を切らせて池の淵から覗きこもうとも、ティアラの姿はかけらも見えない。
化け物じみたティアラなのだから重力に等負けず、いっそ池の上を滑走してくれた方が良かった。今まで摩擦力を完全無視していたのに、なぜ池にたどり着いた瞬間に重力という自然法則を思い出してしまったのだろうか。
そもそも私がほうっとしていたのがいけなかったのだ。そんなんだから、足を取られてアクセサリーたちをぶちまけることになってしまった。
悔めど悔めど、ティアラは帰らず。
血の気が引き、鳩尾が冷たくなった。
もういっそこのまま城へは帰らずどこかへ逃げてしまいたい。もとはサバイバル区域で生活してたんだ。このまま着の身着のままに逃げ出しても、きっとやっていける。
でもアンちゃんは違う。今彼女はあのわがまま姫のところに居るのだ。私のせいで。もし今私が逃げてしまえばアンちゃんが殺されてしまうかもしれない。
「ああ、もうどうしよう……、」
スカートが汚れることさえ気にせず膝を突いた。ジワリと湿る膝が冷たい。
この池は、冷たいだろうか。考える。
私は泳げないわけじゃない。だが池に潜ったことはない。それもこんな少し先も見えなさそうな池になど。
だがもう、あのティアラを持ち帰る以外に生きる方法はないのだ。
「いける、かな。」
ぼんやりと池に身を乗り出す。
濁った水は、私の顔を反射させることさえもない。
「お嬢さん、お嬢さん、」
「……へ?」
どこからか聞こえた声。あたりを見るが、人影はない。
「私、私だ。お嬢さんの足元にいる。」
自分の耳よりも低い位置から聞こえる声。恐る恐る視線を下げていく。
「そう。私だ。それはそうと、お嬢さん。何かお困りか。」
どこか気取ったようで、同時に高慢さを感じさせる声。
その声の主は私の足の側にいた、真っ黒いサンショウウオだった。
「サンショウ、ウオ……?」
「いかにも。私はサンショウウオだ。正しくはオオサンショウウオに分類される、人間のお嬢さん。」
サンショウウオ、いやオオサンショウウオは人間の言葉でそう返事した。
先ほどの絶望は一瞬にして困惑に塗り替えられる。
サンショウウオがしゃべった。しかもこのサンショウウオ、やたらデカい。サンショウウオと言えば大きくて20センチくらい。だがこのサンショウウオは明らかに50センチは超えているように見えた。
「オオ、サンショウ、ウオ……さん。」
「ああ、だからそう言っている。そんなことより、お嬢さん。何か困りごとがあったんじゃないか?」
人語を解す、ファンタジーオオサンショウウオの言葉に現実へと引き戻される。
そう、私にとってオオサンショウウオが言葉を話そうが文字を書こうが空を飛ぼうが関係ないのだ。目下の問題はこの池の中に落ちたティアラなのだから。
「……姫様のアクセサリーを運んでいたら躓いて、中身をぶちまけたんです。その中の一つ、ティアラだけが窓から飛び出し、ここまで転がってきたんです。そして、ついさっき、この池の中へとダイブしてしまいました。」
「それは、困った。」
「ええ、困っています。とても。姫様にばれれば私の首は簡単に飛んでしまうでしょう。」
一人と一匹、池の淵から覗きこむ。たくさんの宝石の飾りのついたティアラが自然に浮き上がってくることはまずないだろう。
「一つ、オオサンショウウオさんにお願いがあります。」
「聞くだけ聞こう。」
「池の深さって、わかります?」
「……そんなことを聞いてどうする。」
「私に潜れる深さであれば、潜ります。無理そうなら、首は諦めて城へ帰ります。」
オオサンショウウオはびっくりしたような顔をした。表情なんて読み取れないはずなのに、何故か驚いているとはわかった。
「君は愚か者か。こんな池に君のような人間が潜れるわけがない。このままとんずらするのが良いだろう。」
「私一人ならそうしてました。しかし城には今私の友人であり同僚である子がいます。私が帰ってこなければ、おそらく彼女が責め苦にあうでしょう。」
ふむ、とオオサンショウウオは考え事するように唸った。ぬらぬらとひかる身体をぼうっと見ながら池の深さに思考を割いた。手は届くだろうか、息は持つだろう、戻ってこられるだろうか。
「お嬢さん。そこは私にそのティアラを取ってくるように頼むところじゃなかったか。」
「初対面のサンショウウオさんにそんなことを頼むほど非常識じゃないと思ってます。」
サンショウウオはまた低く唸る。流石にサンショウウオに取ってきてくれなどと頼むことはできるほど私の神経は図太くない。そもそもサンショウウオは頼むのが当然、といった風だが人間が両生類に何かを頼むなど異常事態の極みではないだろうか。たとえその両生類が人の言葉を話すとしても。
「……取ってきて、とお願いすればオオサンショウウオさんは取ってきてくれるんですか?」
「交換条件を飲むのであれば、取ってきてやろう。」
にい、と笑うサンショウウオは存外愛らしい。端を持ち上げた口がどことなくひょうきんだ。人間の顔であれば、きっとあくどいのだろうが。
「交換条件、とは?」
「お嬢さんが是といえば、教えよう。」
「……ちょっと卑怯じゃない?」
「まさか!至極親切だとは思わないか。ティアラがなくては君か君の友人が死にかねないのだ。それに比べれば、私が条件を伏せることなど些事、易いものだろう?」
何となく、交換条件がろくでもないものだと察する。そうでなければこうも隠そうとはしないだろう。食べ物か、寝床か、はたまたメスのサンショウウオか。オオサンショウウオの願いなど、人間の私には想像もつかない。
だが私には選択肢などないも同然だ。
「その条件というのは、誰かの命にかかわるものですか?」
「ああ、誰かを殺せだのなんだのと言う物騒なものでは決してないと約束しよう。」
もう一度池を見る。やはり底は見えない。
日が傾きかけ空がほのかに朱に染まる。直に夜が来る。私が池に潜り、運よくティアラを見つけられたとしても、帰るときにはきっと寒さに凍えるだろう。
得体の知れないオオサンショウウオの言うことを聞くか、このままのこのこ城へ戻り、首を飛ばされるか。二つに一つ。
やはり、何もかも命あってのことだと、私は思うのだ。
「……条件が何であれ、飲みましょう。」
「ほう!言ったな。」
「オオサンショウウオさん、池の中に落ちてしまったティアラをどうか取ってきてください。」
「喜んで!」
ぼちゃん、と音を立てて、オオサンショウウオは池の中へと姿を消した。
池のふちに座り込み、オオサンショウウオの帰りを待つ。誰もいなくなった森は風に揺れる木の音だけで、先ほどまで人の言葉を話すサンショウウオの存在などまるでなかったように穏やかだった。
まるで狐か何かに化かされたような白昼夢に感じられた。
ふと、さきほどのオオサンショウウオが白昼夢だったら、私は一人ここで戻って来るはずのない彼を待ち続けることになる。日が暮れてしまえば、森から出られなくなってしまうかもしれない。背筋に寒気が走り、傾いていく夕日に焦りを覚えた。
身を乗り出して、早く帰ってきてくれと願っているとそれが通じたのか、池からぷくぷくと気泡が上がった。
「オオサンショウウオさん!」
「これで良かったか。随分と趣味の悪いティアラだな。」
例のティアラを加えて現れたオオサンショウウオは、びたびたと水を滴らせながら池から這い上がった。
「ありがとうございます!これで死なないで済みそうです!」
パッと検分しても、特に欠けているとか傷が付いているということはない。あれほどの高さから落ちたというのになぜ無傷、と思わないでもないが、ないに越したことはない。
「さあ私は君の願いを叶えてやった。君にも私の願いを聞いてもらおう。」
「何ですか?」
ニヤニヤと笑うオオサンショウウオに身構える。
正直、ティアラは戻ってきたし、このままとんずらしてしまいたいとも思う。サンショウウオの生態には詳しくないが、私より足が速い、なんてことはないだろう。だがしかし、相手がサンショウウオと言えど人の言葉と思考を持ち、そのうえで約束をした。そして相手はその約束を守り、私の願いを叶えてくれたのだ。このまま立ち去るのは、不義理が過ぎる。
「なに、無茶なことではない。私を同じ食卓につかせ、君と同じ食事をとり、同じ寝室で寝かせてくれ。間接的に君の命を救ったのだ。それくらい安い物だろう。」
オオサンショウウオは大きな口で愉快そうに笑った。
ふむ、と考えるように唸るのは私の方だ。
「……まず一つ良いですか。」
「何だ。何を言おうと君に拒否権はない。」
「いえ、そうではなく。同じ食卓につくのはおそらく不可能です。私は他の使用人やメイドたちと基本的に食事をとります。そこにサンショウウオであるあなたを連れていくことは流石にできません。食事は同じ食卓、というのは無理です。私の部屋、ではいけませんか?」
「……良いだろう。」
笑いを引っ込めたサンショウウオ。怒っているわけではなさそうなので、言葉をつづける。
「それから、同じ食事、と言いましたが、同じ食事で大丈夫でしょうか。サンショウウオにとって毒になるものとかありますか?同じ食事にするといっても、私が貴方と同じ食生活をするわけにはいけませんから。」
「……特にない。人間の食べ物と同じで良い。」
随分と人間臭いサンショウウオだ。いや、生きた虫でなければ食べないと言われるよりはるかに良いのだが。
今後の食事については食堂から食べ物を自室に持ってくることになりそうだ。
「それじゃ、これからよろしくお願いしますね。」
「……そんなに簡単に言って良かったのか。」
話がまとまったところでオオサンショウウオはぽつりと言った。思わず怪訝な顔をする。今更何を言っているのだろうか。
「自分から私が断れない条件を出して、何言ってるんですか。」
「いや、それでも、こんな醜い両生類を自分と生活するのは、嫌だろう。」
居心地が悪そうなこのオオサンショウウオは、その傲慢な口調に似あわずずいぶんの劣等感に苛まれているようだ。
「オオサンショウウオさんはまあ一般的に見て気色悪いとは思いますよ。婦女子は特に両生類とか昆虫とかは好きませんし。哺乳類、鳥類以外には可愛いの基準が厳しいです。」
ぬらぬらとてかる身体は十人中十人が気持ちが悪いと眉を顰めるだろう。おまけにオオサンショウウオさんは大きい。百歩譲って、普通サイズのサンショウウオはイモリやヤモリのようでかわいらしい。しか全長50センチを超えるオオサンショウウオさんは気持ち悪いとか以前に怖がられる可能性もあるだろう。
十人中十人が気色悪いと言っても、百人いれば、一人くらい愛らしいと称する人がいてもダメではないだろう。
「でも私は嫌だとは思いませんし、よくよく見れば愛らしいとも思いますよ。」
「愛っ……!?」
「愛らしいと思いますよ。正直、ご飯のために生きた虫を取って来いとか言われたらどん引いたかもしれませんが、オオサンショウウオさんは人間みたいですから。せいぜいルームシェア位にしか思いませんよ。」
黙り込むオオサンショウウオ。どうもこのオオサンショウウオは両生類のくせに人間がごとくあれこれ考えすぎるきらいがある。
「まあ約束は約束です。お城へ行きましょう。養ってあげますから。」
「……私をヒモかなにかのように言うな。」
「違いましたか。」
「……もういい。約束通り、しばらく世話になるぞ。」
自分から言い出したくせに、どこかしぶしぶ、という空気を器用に醸し出す面倒なオオサンショウウオ。四足でノタノタと歩くオオサンショウウオを拾い上げた。
「な、なにをする!?」
「歩くの遅いんです。早くしないと日が暮れてしまいます。」
流石にまだ素手で掴み上げる勇気がなく、付けていたエプロンでオオサンショウウオを包み抱き上げる。エプロンの汎用性高い。
「そういえば、同じ寝室で、とも言ってましたが、やはり水瓶かなにかが必要ですかね?」
「は?」
「だってオオサンショウウオさんは両生類でしょう?干からびたら死んじゃいそうじゃないですか。」
「……水瓶をよこせ。」
態度も身体も大きなオオサンショウウオさん。
この時の私は、人間の言葉を話し、理性とプライドを持つ、世にも珍しいペットを手に入れたとしか思っていなかったのだ。
そう言った時には時すでに遅し。手に持っていたアクセサリーケースが宙を舞う。
ごきげんよう。私はとある小国の我が儘な姫に仕えるしがないメイドです。
状況を説明します。
何故だか機嫌のよろしくない姫様は気分転換におしゃれをする、などと言い出し、下っ端メイドの私にアクセサリーを衣装ケースから持ってくるよう言いつけた。
正直、今日城から出る予定がないのなら着替えようとするなよ、と言いたいが私はしがないメイド。面倒などと言って首を撥ねられるのはごめんだ。
そうして城のなかをアクセサリーケースを持って歩いていた。
しかしぼうっとしていたからか、窓から見える空が綺麗だったからか、私は杜撰な石造りの廊下の段差に足をとられたのだ。
キラキラと舞うアクセサリー。
頭で考えるまもなく、つけていた白いエプロンで宙を舞うアクセサリーたちを、魚を漁る職人さながらに回収したのだ。生まれてこのかた、こんなに早く動いたのは初めてな気がする。
何が言いたいかと言うと、私は頑張った。最善の対応をした。
努力むなしく、エプロンが届かなかったものが一つ。
ティアラだ。
教養もない私にすら、高価なものだと人目でわかる。悪趣味なほどにつけられた宝石、キラキラと輝くプラチナ。
その悪趣味ティアラは窓の外へと羽ばたいた。
「ああああああああっ!!!」
私の絶望など知らず、ティアラは外階段をバウンドしながら徐々に下へと落ちていく。
「あああああっ………!」
「ミーシャ?どうしたの?」
後ろからかけられる声。失態がバレたと絶望しながら振り向く。
「あ、アンちゃん!」
「え?」
振り向けば同期のメイド、大天使アンジェリーナちゃん。神はまだ私を見捨てていなかった。
「アンちゃん!ほんっとうに申し訳ないんだけど、このアクセサリーたちを姫様のところに持って行ってもらっても良い!?」
「え、別にいいけど、ミーシャは?」
「私はちょっとやらなきゃいけない使命があるの!ごめんね!帰ったら詳しく話すから!」
一方的に言ってごめん、アンちゃん。でも私は凄まじい勢いで転がっていくティアラを見失うわけにはいかないの。
はしたないとかそういうことは気にせず、ティアラを追って窓から外階段へ飛び降り、その後ろ姿を追った。
*********
おかしい。これはおかしい。しかし誰に聞こうと返事などあるわけがない。
木の生い茂った森の中、私は全力で走っていた。
自慢ではないが、私はとても淑女とは思えないほど運動能力が良い。この国に来る前まではあらゆる国を流浪する民であり、毎日がサバイバルであった。そんな仲間たちの中でも抜きんでて身体の動く私は仲間内で山猿などと揶揄されていた。
この国に来てメイドを始めて数年。まだ体は鈍っていないと言える。
そしてそんな私が走り続けて数分。いまだ私のはるか前を行くあのティアラは一体何者なのだろうか。
もはや加速でもしているのではないかと思えてくる。そもそもここは別に坂道でも何でもないどころか、道は悪く木の根が這い、石が転がるような場所なのだ。なのになぜあのティアラはあんなにも早く転がっているのか。呪われたティアラなんて、きいてない。
正直もうあんな不気味なものを追いかけたくないが、あれを持って帰らなければ私の首が転がることになるし、無理やり任せてきたアンちゃんにも迷惑がかかる。
木々の数が減り、森が開けてきた。そして更なる絶望感が私を襲う。
池だ。
化け物ティアラの進行方向には緑に濁って底など到底見えるはずのない池が鎮座ましましていた。
「やばっ……!」
加速するわがまま姫のティアラ、追う私。
からの、ホールインワン、である。
ぽちゃん、とあっけない音を立てて、美しくも恐ろしいティアラは藻のはった池の底へと姿を消した。
「そん、な……、」
息を切らせて池の淵から覗きこもうとも、ティアラの姿はかけらも見えない。
化け物じみたティアラなのだから重力に等負けず、いっそ池の上を滑走してくれた方が良かった。今まで摩擦力を完全無視していたのに、なぜ池にたどり着いた瞬間に重力という自然法則を思い出してしまったのだろうか。
そもそも私がほうっとしていたのがいけなかったのだ。そんなんだから、足を取られてアクセサリーたちをぶちまけることになってしまった。
悔めど悔めど、ティアラは帰らず。
血の気が引き、鳩尾が冷たくなった。
もういっそこのまま城へは帰らずどこかへ逃げてしまいたい。もとはサバイバル区域で生活してたんだ。このまま着の身着のままに逃げ出しても、きっとやっていける。
でもアンちゃんは違う。今彼女はあのわがまま姫のところに居るのだ。私のせいで。もし今私が逃げてしまえばアンちゃんが殺されてしまうかもしれない。
「ああ、もうどうしよう……、」
スカートが汚れることさえ気にせず膝を突いた。ジワリと湿る膝が冷たい。
この池は、冷たいだろうか。考える。
私は泳げないわけじゃない。だが池に潜ったことはない。それもこんな少し先も見えなさそうな池になど。
だがもう、あのティアラを持ち帰る以外に生きる方法はないのだ。
「いける、かな。」
ぼんやりと池に身を乗り出す。
濁った水は、私の顔を反射させることさえもない。
「お嬢さん、お嬢さん、」
「……へ?」
どこからか聞こえた声。あたりを見るが、人影はない。
「私、私だ。お嬢さんの足元にいる。」
自分の耳よりも低い位置から聞こえる声。恐る恐る視線を下げていく。
「そう。私だ。それはそうと、お嬢さん。何かお困りか。」
どこか気取ったようで、同時に高慢さを感じさせる声。
その声の主は私の足の側にいた、真っ黒いサンショウウオだった。
「サンショウ、ウオ……?」
「いかにも。私はサンショウウオだ。正しくはオオサンショウウオに分類される、人間のお嬢さん。」
サンショウウオ、いやオオサンショウウオは人間の言葉でそう返事した。
先ほどの絶望は一瞬にして困惑に塗り替えられる。
サンショウウオがしゃべった。しかもこのサンショウウオ、やたらデカい。サンショウウオと言えば大きくて20センチくらい。だがこのサンショウウオは明らかに50センチは超えているように見えた。
「オオ、サンショウ、ウオ……さん。」
「ああ、だからそう言っている。そんなことより、お嬢さん。何か困りごとがあったんじゃないか?」
人語を解す、ファンタジーオオサンショウウオの言葉に現実へと引き戻される。
そう、私にとってオオサンショウウオが言葉を話そうが文字を書こうが空を飛ぼうが関係ないのだ。目下の問題はこの池の中に落ちたティアラなのだから。
「……姫様のアクセサリーを運んでいたら躓いて、中身をぶちまけたんです。その中の一つ、ティアラだけが窓から飛び出し、ここまで転がってきたんです。そして、ついさっき、この池の中へとダイブしてしまいました。」
「それは、困った。」
「ええ、困っています。とても。姫様にばれれば私の首は簡単に飛んでしまうでしょう。」
一人と一匹、池の淵から覗きこむ。たくさんの宝石の飾りのついたティアラが自然に浮き上がってくることはまずないだろう。
「一つ、オオサンショウウオさんにお願いがあります。」
「聞くだけ聞こう。」
「池の深さって、わかります?」
「……そんなことを聞いてどうする。」
「私に潜れる深さであれば、潜ります。無理そうなら、首は諦めて城へ帰ります。」
オオサンショウウオはびっくりしたような顔をした。表情なんて読み取れないはずなのに、何故か驚いているとはわかった。
「君は愚か者か。こんな池に君のような人間が潜れるわけがない。このままとんずらするのが良いだろう。」
「私一人ならそうしてました。しかし城には今私の友人であり同僚である子がいます。私が帰ってこなければ、おそらく彼女が責め苦にあうでしょう。」
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「お嬢さん。そこは私にそのティアラを取ってくるように頼むところじゃなかったか。」
「初対面のサンショウウオさんにそんなことを頼むほど非常識じゃないと思ってます。」
サンショウウオはまた低く唸る。流石にサンショウウオに取ってきてくれなどと頼むことはできるほど私の神経は図太くない。そもそもサンショウウオは頼むのが当然、といった風だが人間が両生類に何かを頼むなど異常事態の極みではないだろうか。たとえその両生類が人の言葉を話すとしても。
「……取ってきて、とお願いすればオオサンショウウオさんは取ってきてくれるんですか?」
「交換条件を飲むのであれば、取ってきてやろう。」
にい、と笑うサンショウウオは存外愛らしい。端を持ち上げた口がどことなくひょうきんだ。人間の顔であれば、きっとあくどいのだろうが。
「交換条件、とは?」
「お嬢さんが是といえば、教えよう。」
「……ちょっと卑怯じゃない?」
「まさか!至極親切だとは思わないか。ティアラがなくては君か君の友人が死にかねないのだ。それに比べれば、私が条件を伏せることなど些事、易いものだろう?」
何となく、交換条件がろくでもないものだと察する。そうでなければこうも隠そうとはしないだろう。食べ物か、寝床か、はたまたメスのサンショウウオか。オオサンショウウオの願いなど、人間の私には想像もつかない。
だが私には選択肢などないも同然だ。
「その条件というのは、誰かの命にかかわるものですか?」
「ああ、誰かを殺せだのなんだのと言う物騒なものでは決してないと約束しよう。」
もう一度池を見る。やはり底は見えない。
日が傾きかけ空がほのかに朱に染まる。直に夜が来る。私が池に潜り、運よくティアラを見つけられたとしても、帰るときにはきっと寒さに凍えるだろう。
得体の知れないオオサンショウウオの言うことを聞くか、このままのこのこ城へ戻り、首を飛ばされるか。二つに一つ。
やはり、何もかも命あってのことだと、私は思うのだ。
「……条件が何であれ、飲みましょう。」
「ほう!言ったな。」
「オオサンショウウオさん、池の中に落ちてしまったティアラをどうか取ってきてください。」
「喜んで!」
ぼちゃん、と音を立てて、オオサンショウウオは池の中へと姿を消した。
池のふちに座り込み、オオサンショウウオの帰りを待つ。誰もいなくなった森は風に揺れる木の音だけで、先ほどまで人の言葉を話すサンショウウオの存在などまるでなかったように穏やかだった。
まるで狐か何かに化かされたような白昼夢に感じられた。
ふと、さきほどのオオサンショウウオが白昼夢だったら、私は一人ここで戻って来るはずのない彼を待ち続けることになる。日が暮れてしまえば、森から出られなくなってしまうかもしれない。背筋に寒気が走り、傾いていく夕日に焦りを覚えた。
身を乗り出して、早く帰ってきてくれと願っているとそれが通じたのか、池からぷくぷくと気泡が上がった。
「オオサンショウウオさん!」
「これで良かったか。随分と趣味の悪いティアラだな。」
例のティアラを加えて現れたオオサンショウウオは、びたびたと水を滴らせながら池から這い上がった。
「ありがとうございます!これで死なないで済みそうです!」
パッと検分しても、特に欠けているとか傷が付いているということはない。あれほどの高さから落ちたというのになぜ無傷、と思わないでもないが、ないに越したことはない。
「さあ私は君の願いを叶えてやった。君にも私の願いを聞いてもらおう。」
「何ですか?」
ニヤニヤと笑うオオサンショウウオに身構える。
正直、ティアラは戻ってきたし、このままとんずらしてしまいたいとも思う。サンショウウオの生態には詳しくないが、私より足が速い、なんてことはないだろう。だがしかし、相手がサンショウウオと言えど人の言葉と思考を持ち、そのうえで約束をした。そして相手はその約束を守り、私の願いを叶えてくれたのだ。このまま立ち去るのは、不義理が過ぎる。
「なに、無茶なことではない。私を同じ食卓につかせ、君と同じ食事をとり、同じ寝室で寝かせてくれ。間接的に君の命を救ったのだ。それくらい安い物だろう。」
オオサンショウウオは大きな口で愉快そうに笑った。
ふむ、と考えるように唸るのは私の方だ。
「……まず一つ良いですか。」
「何だ。何を言おうと君に拒否権はない。」
「いえ、そうではなく。同じ食卓につくのはおそらく不可能です。私は他の使用人やメイドたちと基本的に食事をとります。そこにサンショウウオであるあなたを連れていくことは流石にできません。食事は同じ食卓、というのは無理です。私の部屋、ではいけませんか?」
「……良いだろう。」
笑いを引っ込めたサンショウウオ。怒っているわけではなさそうなので、言葉をつづける。
「それから、同じ食事、と言いましたが、同じ食事で大丈夫でしょうか。サンショウウオにとって毒になるものとかありますか?同じ食事にするといっても、私が貴方と同じ食生活をするわけにはいけませんから。」
「……特にない。人間の食べ物と同じで良い。」
随分と人間臭いサンショウウオだ。いや、生きた虫でなければ食べないと言われるよりはるかに良いのだが。
今後の食事については食堂から食べ物を自室に持ってくることになりそうだ。
「それじゃ、これからよろしくお願いしますね。」
「……そんなに簡単に言って良かったのか。」
話がまとまったところでオオサンショウウオはぽつりと言った。思わず怪訝な顔をする。今更何を言っているのだろうか。
「自分から私が断れない条件を出して、何言ってるんですか。」
「いや、それでも、こんな醜い両生類を自分と生活するのは、嫌だろう。」
居心地が悪そうなこのオオサンショウウオは、その傲慢な口調に似あわずずいぶんの劣等感に苛まれているようだ。
「オオサンショウウオさんはまあ一般的に見て気色悪いとは思いますよ。婦女子は特に両生類とか昆虫とかは好きませんし。哺乳類、鳥類以外には可愛いの基準が厳しいです。」
ぬらぬらとてかる身体は十人中十人が気持ちが悪いと眉を顰めるだろう。おまけにオオサンショウウオさんは大きい。百歩譲って、普通サイズのサンショウウオはイモリやヤモリのようでかわいらしい。しか全長50センチを超えるオオサンショウウオさんは気持ち悪いとか以前に怖がられる可能性もあるだろう。
十人中十人が気色悪いと言っても、百人いれば、一人くらい愛らしいと称する人がいてもダメではないだろう。
「でも私は嫌だとは思いませんし、よくよく見れば愛らしいとも思いますよ。」
「愛っ……!?」
「愛らしいと思いますよ。正直、ご飯のために生きた虫を取って来いとか言われたらどん引いたかもしれませんが、オオサンショウウオさんは人間みたいですから。せいぜいルームシェア位にしか思いませんよ。」
黙り込むオオサンショウウオ。どうもこのオオサンショウウオは両生類のくせに人間がごとくあれこれ考えすぎるきらいがある。
「まあ約束は約束です。お城へ行きましょう。養ってあげますから。」
「……私をヒモかなにかのように言うな。」
「違いましたか。」
「……もういい。約束通り、しばらく世話になるぞ。」
自分から言い出したくせに、どこかしぶしぶ、という空気を器用に醸し出す面倒なオオサンショウウオ。四足でノタノタと歩くオオサンショウウオを拾い上げた。
「な、なにをする!?」
「歩くの遅いんです。早くしないと日が暮れてしまいます。」
流石にまだ素手で掴み上げる勇気がなく、付けていたエプロンでオオサンショウウオを包み抱き上げる。エプロンの汎用性高い。
「そういえば、同じ寝室で、とも言ってましたが、やはり水瓶かなにかが必要ですかね?」
「は?」
「だってオオサンショウウオさんは両生類でしょう?干からびたら死んじゃいそうじゃないですか。」
「……水瓶をよこせ。」
態度も身体も大きなオオサンショウウオさん。
この時の私は、人間の言葉を話し、理性とプライドを持つ、世にも珍しいペットを手に入れたとしか思っていなかったのだ。
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