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3章 恋の証明
06 肉じゃが
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私はもう大丈夫。
雅にはそう言ったけど、身勝手な理由で母の元へ帰ることはやっぱり気が進まなかった。
高校生の頃は、このまま母が私とずっと一緒にいたら、母の心が壊れてしまうんじゃないかと思っていた。
大学に進学してからひとり暮らしを始めて、事件に巻き込まれても頑なに母の元には帰らない、帰れないと抵抗していたのに、恋愛が上手く行かなくなった途端に家に帰らせて欲しいだなんて……私は母に、どれだけ我儘で、虫の良い話をしようとしているんだろう。
結局私は、本当には母の気持ちなど汲んでいなくて、私の自己満足でひとり暮らしをしてきただけなのかもしれない。
そう考えたら居た堪れなくなって、どこか別の物件を探すべきだろうか……とか無謀なことも考え始めた。
だけど、どんな選択をしても保護者である母に迷惑をかけることは避けられない。
バカな娘でごめんなさい、と半ば諦めて腹をくくった。
何を言われても全て受け止める覚悟をしていたけど、電話越しの母からは咎めるような言葉は無かった。
ただひと言だけ、「早く帰ってきなさい」と言われた。
***
「ただいま」
大学から家へ帰る。
返事が返って来ないことはわかっていたけど、一応ひと声かけてから家へあがった。
今日は母の仕事が休みだった筈だけど、家の中はいつもと変わらず暗い。
廊下を進み母の部屋の前で足を止める。
部屋の中からはテレビの音が小さく聞こえ、戸の隙間からは細く明りが洩れていた。
「夕飯……まだだよね? たまには私、作るよ?」
遠慮がちに声をかけてみても返事はやはり返ってこない。
腕時計に目をやれば17時と少しをまわった所で、夕飯を作り始めるにはちょうどいい頃あいだった。
私は鞄を居間に置いてからテーブルの上に脱ぎすてられていたエプロンを拝借した。
台所に立って、炊飯器の準備から始める。
お米の保管場所は家を出る前から変わっていないから、ご飯は問題なく炊けそうだ。
「さて……と」
腕まくりをして小さく気合を入れてから、食器棚の隣にあるマガジンスタンドから料理の本を適当に引き抜く。
私の料理の経験は、正直なところ雅と暮らしていた期間ぐらいしかない。
それゆえに手際は悪いけけれど、料理本さえあれば――書いてある通りに作れば、私でも何でも問題なく作れる……気がする。
母が実家から持ってきたと思われる年代物の料理本は家庭料理がメインで、さばの味噌煮やハンバーグといったスタンダードなレシピが並ぶ。
私は目次から常備野菜で作れる肉じゃがを選び、ページを捲ってから、おや? と思った。
几帳面な母は料理をする時、調味料をきっちり計って入れていたから本通りに作っているのだとばかり思っていたけれど、そうではなかったようだ。
鉛筆で『砂糖大匙2』に斜線が引いてあり、『砂糖大匙1.5、はちみつ大匙1、少し甘めが和馬さんの好み』と書き直されている。
このページには醤油の染みらしきものがついているし、角が削れて丸くなっている所を見ると父の好みの味を試行錯誤しながら何度も作ったのだろう。
子供の頃から良く食べた、少し甘めの肉じゃがは……父の好物だったのか。
少しだけ微笑ましい気持ちになって、同時に悲しい気持ちになった。
両親の仲が良かった頃の記憶は私にはもう無い。
祖父母にも会ったことがないから、私は母の昔話を誰からも聞いたことが無い。
だから想像することしかできないけれど……。
きっと母だって、幸せな気持ちで恋をしていた頃があったんだ。
野菜をひと通り洗ってから、慣れない手つきでジャガイモの皮を剥く。
ぐぐぐ……と親指に力を入れて皮と実の間の包丁を押し進めていく。
はじめ分厚かった皮がどんどん薄くなっていき、スパッ! と刃が皮を突き破って、ジャガイモを抑えていた左手の親指すれすれを掠めていった。
冷や汗をかきながら「……ふ」と私は自嘲気味に笑う。
慌てて出てきてしまったけれど、アパートからピーラーを持って帰ってくるべきだった……。
子供の頃からひとりでいることが多くて、留守中に包丁や火を使うと怒られたから、料理なんて学校の授業以外ではほとんどしなかった。
ひとり暮らしを始めてからも料理と呼べるような凝ったものは作らなくて、このままじゃマズイと思ったのは、雅と一緒に暮らしてからだった。
雅の方が私より料理が上手だったから、手伝うふりをして野菜の切り方とか味の付け方を見よう見まねで覚えた。
私ができる料理なんて、カレーとか箱に作り方が書いてあるようなものしかなかったし、雅の作ったご飯の方が絶対美味しかったと思うけど……。
作れば雅が「ありがとう」って喜んでくれるから嬉しかった。
おかあさんだってそうだったんじゃないかな。
お父さんの為に頑張り始めたんじゃないのかな。
おかあさんだって、お父さんに恋をして得たものがある筈なのに。
料理だけじゃなくて……きっと何か、他にもたくさん、あったと思うのに……。
いつまでああしているつもりなんだろう。
雅にはそう言ったけど、身勝手な理由で母の元へ帰ることはやっぱり気が進まなかった。
高校生の頃は、このまま母が私とずっと一緒にいたら、母の心が壊れてしまうんじゃないかと思っていた。
大学に進学してからひとり暮らしを始めて、事件に巻き込まれても頑なに母の元には帰らない、帰れないと抵抗していたのに、恋愛が上手く行かなくなった途端に家に帰らせて欲しいだなんて……私は母に、どれだけ我儘で、虫の良い話をしようとしているんだろう。
結局私は、本当には母の気持ちなど汲んでいなくて、私の自己満足でひとり暮らしをしてきただけなのかもしれない。
そう考えたら居た堪れなくなって、どこか別の物件を探すべきだろうか……とか無謀なことも考え始めた。
だけど、どんな選択をしても保護者である母に迷惑をかけることは避けられない。
バカな娘でごめんなさい、と半ば諦めて腹をくくった。
何を言われても全て受け止める覚悟をしていたけど、電話越しの母からは咎めるような言葉は無かった。
ただひと言だけ、「早く帰ってきなさい」と言われた。
***
「ただいま」
大学から家へ帰る。
返事が返って来ないことはわかっていたけど、一応ひと声かけてから家へあがった。
今日は母の仕事が休みだった筈だけど、家の中はいつもと変わらず暗い。
廊下を進み母の部屋の前で足を止める。
部屋の中からはテレビの音が小さく聞こえ、戸の隙間からは細く明りが洩れていた。
「夕飯……まだだよね? たまには私、作るよ?」
遠慮がちに声をかけてみても返事はやはり返ってこない。
腕時計に目をやれば17時と少しをまわった所で、夕飯を作り始めるにはちょうどいい頃あいだった。
私は鞄を居間に置いてからテーブルの上に脱ぎすてられていたエプロンを拝借した。
台所に立って、炊飯器の準備から始める。
お米の保管場所は家を出る前から変わっていないから、ご飯は問題なく炊けそうだ。
「さて……と」
腕まくりをして小さく気合を入れてから、食器棚の隣にあるマガジンスタンドから料理の本を適当に引き抜く。
私の料理の経験は、正直なところ雅と暮らしていた期間ぐらいしかない。
それゆえに手際は悪いけけれど、料理本さえあれば――書いてある通りに作れば、私でも何でも問題なく作れる……気がする。
母が実家から持ってきたと思われる年代物の料理本は家庭料理がメインで、さばの味噌煮やハンバーグといったスタンダードなレシピが並ぶ。
私は目次から常備野菜で作れる肉じゃがを選び、ページを捲ってから、おや? と思った。
几帳面な母は料理をする時、調味料をきっちり計って入れていたから本通りに作っているのだとばかり思っていたけれど、そうではなかったようだ。
鉛筆で『砂糖大匙2』に斜線が引いてあり、『砂糖大匙1.5、はちみつ大匙1、少し甘めが和馬さんの好み』と書き直されている。
このページには醤油の染みらしきものがついているし、角が削れて丸くなっている所を見ると父の好みの味を試行錯誤しながら何度も作ったのだろう。
子供の頃から良く食べた、少し甘めの肉じゃがは……父の好物だったのか。
少しだけ微笑ましい気持ちになって、同時に悲しい気持ちになった。
両親の仲が良かった頃の記憶は私にはもう無い。
祖父母にも会ったことがないから、私は母の昔話を誰からも聞いたことが無い。
だから想像することしかできないけれど……。
きっと母だって、幸せな気持ちで恋をしていた頃があったんだ。
野菜をひと通り洗ってから、慣れない手つきでジャガイモの皮を剥く。
ぐぐぐ……と親指に力を入れて皮と実の間の包丁を押し進めていく。
はじめ分厚かった皮がどんどん薄くなっていき、スパッ! と刃が皮を突き破って、ジャガイモを抑えていた左手の親指すれすれを掠めていった。
冷や汗をかきながら「……ふ」と私は自嘲気味に笑う。
慌てて出てきてしまったけれど、アパートからピーラーを持って帰ってくるべきだった……。
子供の頃からひとりでいることが多くて、留守中に包丁や火を使うと怒られたから、料理なんて学校の授業以外ではほとんどしなかった。
ひとり暮らしを始めてからも料理と呼べるような凝ったものは作らなくて、このままじゃマズイと思ったのは、雅と一緒に暮らしてからだった。
雅の方が私より料理が上手だったから、手伝うふりをして野菜の切り方とか味の付け方を見よう見まねで覚えた。
私ができる料理なんて、カレーとか箱に作り方が書いてあるようなものしかなかったし、雅の作ったご飯の方が絶対美味しかったと思うけど……。
作れば雅が「ありがとう」って喜んでくれるから嬉しかった。
おかあさんだってそうだったんじゃないかな。
お父さんの為に頑張り始めたんじゃないのかな。
おかあさんだって、お父さんに恋をして得たものがある筈なのに。
料理だけじゃなくて……きっと何か、他にもたくさん、あったと思うのに……。
いつまでああしているつもりなんだろう。
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