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2章 あなたと共に過ごす日々
38 突然の来訪者・2
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私はその後、改めて雅の部屋の本棚を見渡した。
今まで気がつかなかったけど、目につき辛い本棚の奥は植物の本でいっぱいだった。
雅が不在であるのを良いことに、私は何をやっているんだろう――そう思う自分がいるのに、知りたいという欲求は抑えられなくなっていた。
本棚の奥から、装丁が美しい年代物の本を引っ張り出す。
ページをめくれば、ヨーロッパの香料の歴史について書かれたもので、原文のままだった。
いつか雅に話せる言語は何かと尋ねたことがある。
雅が勉強している言語は、英語の他はヨーロッパ圏がほとんどだった。
就職に強いのは、どちらかと言えばアジア圏の言語だと思っていたから意外だったけど、日本語に翻訳されていない文献を読むために学んでいたのだとしたら納得できる。
雅が家族や将来について、私に多くを語りたがらなかった理由は、大体それで想像できてしまった。
お父さんに屈折した感情を抱いているのも……仕方がないのかもしれない。
「はぁ……」
そこまで考えてから、私はふたりに気付かれないように小さく溜息をついた。
気落ちしていた原因は寂しさだけではないのかもしれない。
雅の気持ちを考えると居た堪れなかった。
でも、いやいや。
だめだめ。今は。
せっかく誘ってくれたのにこんな鬱々していてはいけない。
気を取り直して、既に香水から勝負下着の話に移っている――何がどうしてこうなったんだろう――千夏と涼子の会話に入ろうとして、ポケットから伝わってきた振動に体が跳ねた。
いつもは鞄の奥に放り込んであるスマホを、ここ何日かは服のポケットに入れて持ち運んでいたのだ。
今までうんともすんとも言わなかったから、いざバイブが入るとびっくりしてしまう。
焦る気持ちを抑えてスマホを取り出せば、待ちわびていた雅からのメッセージが入っていた。
[俺の不在中に、誰が訪ねても応じないで。無視して]
え……?
「何々? 雅くんから連絡きたの?」
明るい声で千夏が話しかけてくるけど、期待には応えられそうもない。
用件だけの不穏な文面を見て、思わず眉間にしわが寄る。
即座に[どういうこと?]と返信しても既読が付くことはなかった。
なんだか胸騒ぎがして、私はお勘定を置いて立ち上がった。
「ご、ごめん。急用を思い出したから先に帰るね」
心配そうなふたりをよそに、私はファミレスを飛び出してアパートまで走った。
メッセージの文面から察すると、誰かが私と雅の住んでいるアパートにやってくる。
その人は……きっと雅が苦手としている人物で、私に会わせたくない人。
ファミレスからアパートまでの距離はそんなにない。
走ればすぐに帰れる。
帰れる、けど。
帰ってからどうすればいいんだろう。
雅のメッセージに従って、今日はこのまま家から出ない方がいいんだろうか……。
それとも……。
心臓が痛くなってくるのは、急に走ったせいからか、緊張によるものなのかはわからない。
私はアパートを目前に、胸を抑えて立ち止まった。
「……っ……はぁ……」
膝に両手をついて、肩で息をつく、乱れた髪がバラバラと前に垂れてきて頬に張り付いた。
呼吸を落ち着けてアパートへと目を向ければ、街灯の下にシルバーのアウディが停まっていた。
私の存在に気がついて、車から降りてくる人影がある。
「浅木美亜さんですか?」
夜道に響く重厚な声。
上品そうな立ち振る舞いで歩いてくるスーツの人物。
街灯の明かりで徐々に明かされていくその顔には、見覚えがあって当たり前だった。
数日前にインターネットで何度も見ていた。
綺麗な顔立ち、どこか冷たいようにも見える感情が読みとりづらい表情。
差し出された名刺を受け取ると、「リリーバリー」と「神庭孝幸」の文字がある。
間違いなかった。
雅の、お父さんだった。
思わず「今、雅はどうしているんですか?」と口にしたくなって、我慢する。
お葬式はどうなったんだろう。
雅が言う、会ってはいけないって……やっぱりこの人のことなんだろうか。
「少しだけ、お時間いただいてもいいですか?」
柔らかい口調にも関わらず、温度を感じない声色に少し怖い印象を持つ。
雅のメッセージのこともあって、素直に従うことには抵抗があった。
用件に訝しみ、口籠っている私に、孝幸さんは追い打ちをかけてきた。
「息子の……雅のことでお話したいことがあります。あなたの現在のお住まいに関することも含んでいます」
そう言われてしまったら、応じない訳にはいかなかった。
アパートの件は、きっとこの人に迷惑をかけている。
いつか雅が、私の住んでいる場所に興味を持たない母を非難したことがあった。
雅との暮らしも保護者であるこの人にちゃんと見てもらった方がいいのかもしれない。
言い訳をいくつか考えて、心の中で雅に「ごめん」と謝る。
私は孝幸さんを部屋に通すことにした。
今まで気がつかなかったけど、目につき辛い本棚の奥は植物の本でいっぱいだった。
雅が不在であるのを良いことに、私は何をやっているんだろう――そう思う自分がいるのに、知りたいという欲求は抑えられなくなっていた。
本棚の奥から、装丁が美しい年代物の本を引っ張り出す。
ページをめくれば、ヨーロッパの香料の歴史について書かれたもので、原文のままだった。
いつか雅に話せる言語は何かと尋ねたことがある。
雅が勉強している言語は、英語の他はヨーロッパ圏がほとんどだった。
就職に強いのは、どちらかと言えばアジア圏の言語だと思っていたから意外だったけど、日本語に翻訳されていない文献を読むために学んでいたのだとしたら納得できる。
雅が家族や将来について、私に多くを語りたがらなかった理由は、大体それで想像できてしまった。
お父さんに屈折した感情を抱いているのも……仕方がないのかもしれない。
「はぁ……」
そこまで考えてから、私はふたりに気付かれないように小さく溜息をついた。
気落ちしていた原因は寂しさだけではないのかもしれない。
雅の気持ちを考えると居た堪れなかった。
でも、いやいや。
だめだめ。今は。
せっかく誘ってくれたのにこんな鬱々していてはいけない。
気を取り直して、既に香水から勝負下着の話に移っている――何がどうしてこうなったんだろう――千夏と涼子の会話に入ろうとして、ポケットから伝わってきた振動に体が跳ねた。
いつもは鞄の奥に放り込んであるスマホを、ここ何日かは服のポケットに入れて持ち運んでいたのだ。
今までうんともすんとも言わなかったから、いざバイブが入るとびっくりしてしまう。
焦る気持ちを抑えてスマホを取り出せば、待ちわびていた雅からのメッセージが入っていた。
[俺の不在中に、誰が訪ねても応じないで。無視して]
え……?
「何々? 雅くんから連絡きたの?」
明るい声で千夏が話しかけてくるけど、期待には応えられそうもない。
用件だけの不穏な文面を見て、思わず眉間にしわが寄る。
即座に[どういうこと?]と返信しても既読が付くことはなかった。
なんだか胸騒ぎがして、私はお勘定を置いて立ち上がった。
「ご、ごめん。急用を思い出したから先に帰るね」
心配そうなふたりをよそに、私はファミレスを飛び出してアパートまで走った。
メッセージの文面から察すると、誰かが私と雅の住んでいるアパートにやってくる。
その人は……きっと雅が苦手としている人物で、私に会わせたくない人。
ファミレスからアパートまでの距離はそんなにない。
走ればすぐに帰れる。
帰れる、けど。
帰ってからどうすればいいんだろう。
雅のメッセージに従って、今日はこのまま家から出ない方がいいんだろうか……。
それとも……。
心臓が痛くなってくるのは、急に走ったせいからか、緊張によるものなのかはわからない。
私はアパートを目前に、胸を抑えて立ち止まった。
「……っ……はぁ……」
膝に両手をついて、肩で息をつく、乱れた髪がバラバラと前に垂れてきて頬に張り付いた。
呼吸を落ち着けてアパートへと目を向ければ、街灯の下にシルバーのアウディが停まっていた。
私の存在に気がついて、車から降りてくる人影がある。
「浅木美亜さんですか?」
夜道に響く重厚な声。
上品そうな立ち振る舞いで歩いてくるスーツの人物。
街灯の明かりで徐々に明かされていくその顔には、見覚えがあって当たり前だった。
数日前にインターネットで何度も見ていた。
綺麗な顔立ち、どこか冷たいようにも見える感情が読みとりづらい表情。
差し出された名刺を受け取ると、「リリーバリー」と「神庭孝幸」の文字がある。
間違いなかった。
雅の、お父さんだった。
思わず「今、雅はどうしているんですか?」と口にしたくなって、我慢する。
お葬式はどうなったんだろう。
雅が言う、会ってはいけないって……やっぱりこの人のことなんだろうか。
「少しだけ、お時間いただいてもいいですか?」
柔らかい口調にも関わらず、温度を感じない声色に少し怖い印象を持つ。
雅のメッセージのこともあって、素直に従うことには抵抗があった。
用件に訝しみ、口籠っている私に、孝幸さんは追い打ちをかけてきた。
「息子の……雅のことでお話したいことがあります。あなたの現在のお住まいに関することも含んでいます」
そう言われてしまったら、応じない訳にはいかなかった。
アパートの件は、きっとこの人に迷惑をかけている。
いつか雅が、私の住んでいる場所に興味を持たない母を非難したことがあった。
雅との暮らしも保護者であるこの人にちゃんと見てもらった方がいいのかもしれない。
言い訳をいくつか考えて、心の中で雅に「ごめん」と謝る。
私は孝幸さんを部屋に通すことにした。
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