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1章 そんな風に始まった
31 おかあさん
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母が到着したのは、雅が来てから1時間後。
タクシーで高速を飛ばして来てくれたのだと、思う。
廊下から母の怒号と足音が聞こえてきて、私は思わず椅子から立ち上がった。
何を言っているのかはよくわからないけれど、金切声を上げながら怒っている。
かなりヒステリックな状態だ……。
そう思ったら、背中から嫌な汗をどっとかいて、体が小刻みに震えだした。
落ち着いて、とか。
ショックを受けているから、お嬢さんをあんまり刺激しないで……とか。
警察の人が色々言って母をなだめているのが聞こえる。
「美亜……?」
雅が不安そうな視線を私に向けている。
もうどう取り繕うつもりもない。
そうだよ、この人が私の、おかあさんだよ。
それから母がこの部屋に来るまで時間はかからなかった。
扉がバン! と音を立てて開かれる。
着の身着のままの姿で母は立っていた。
急いで来てくれたことを喜ぶ余裕はなかった。
怒っているのか泣いてるのか判断がつかない、興奮する母の肩を警官が抑えている。
「帰るわよ!」
開口一番の母の言葉は、意外なものだった。
「かえ……る……?」
どこに?
あの家に?
帰ることを望んだこともあったし、今のままじゃ駄目だとも思っている。
だけど、こんな状態で帰っても、何も変わらない。
ううん、前よりも悪いかもしれない。
息が詰まるような閉塞感と、母を苦しめてしまう私の存在。
母だって重々承知で、絶対にそんなこと望んでいない筈なのに。
「や、嫌だ……」
爪が食い込むほど強く掴まれた腕を振り払うと、母は激昂した。
「だって、じゃあ、私はどうすればいいのよ!! アルバイトの帰りだったんですってね。お金、ちゃんとあげてたじゃない。なんで? 足りないなら、なんで言わないの。なんでそんな夜遅くに危ない道をわざわざ選んで歩いてたの? 私へのあてつけのつもりなの!?」
「ち……ちが……」
あてつけるつもりなんて、もちろんない。
お金が欲しかったのは、本当だけど。
おかあさんからもらったお金は――全額ではないけど――使うことができなかったよ。
これが、私が愛されてる証なんだって思ったら。
唯一の絆なんだって思ったら、使うことができなかった。
そう言ったら、おかあさんは何て言う?
信じてくれない?
それとも、馬鹿にするな?
恥をかかせるな?
負の感情が返ってくることしか思い浮かばない。
声が……言葉が……出てこない。
雅が椅子から立ちあがって、私達の間に制止に入ろうか迷っているのが目に入った。
私はそれを、手で「やめて」と制して母に向き直る。
「ごめ……なさ……」
「もうアルバイトも、ひとり暮らしも辞めなさい! 大学は家から通いなさい!」
「嫌……」
「美亜っ!」
「駄目、できない……っ……」
おかあさんが、私と居たら壊れてしまう。
振り上げられた手を、目をつぶって受け入れる覚悟をする。
私の脇を通り過ぎた風が、肩を掴んで後ろに抱き寄せた。
「あのっ……! はじめまして。美亜さんと、お付き合いさせていただいています! 神庭雅です!」
緊迫した空気に、場違いな声が耳のすぐ傍で響く。
母は今初めて雅の存在に気がついたようだった。
「えっと……美亜さんとは……夜道はいつも一緒に帰っていたんですけど、今回だけたまたま俺が都合つかなかったんです」
「……嘘……」
「申し訳ありませんでした」
「……雅……っ……」
雅が私の方を見る。
じゃあ、どうするの? そう問いかける視線に言葉を噤む。
今の私は結局、雅の作り話に甘える選択肢を選ぶしかなかった。
「これからはできる限り、俺が美亜さんを守ります。もっと安心できる所に引っ越して……美亜さんさえ良ければ、今度は傍で暮らせたらいいなって……思ってます」
どこまでが嘘で、どこからが本気なのかわからない雅の言葉を、私はただ呆然としながら聞いていた。
引っ越す?
暮らす?
「だから安心してください」
そう言ってから、雅は、あ、という顔になった。
「あ、えっと、俺がいたら全然安心じゃ……ないか……。えっと、暮らすって言っても、あの、同棲とかじゃなくて……も っと健全ていうか……大切にします……!」
もはや……何を言っているのか意味がわからない。
雅もテンパり過ぎて今何を言っているのかわかっていないのかもしれない。
私以上に恋愛に希望を抱けない母が、雅の存在にどんな反応をするのか未知数だったけど。
毒気を抜かれたような顔で母は雅を見ていた。
暫くの沈黙の後、渋い顔で何か言おうとして……でもすぐに諦めたように俯いた。
私の顔を面と向かって見ようとして、できなかったのが何となくわかった。
「……美亜のこと、宜しくお願いします」
どちらかと言えば反対されるかと思っていたけど、母はそう言って雅に頭を下げた。
私とは最後まで目を合わせてくれなかった。
「警察の方と話してくるわ……」
母は踵を返すと小さな背中を更にまるめるようにして、部屋を出て行った。
へた、と椅子に腰を下ろした私の横に、雅も座る。
息を短く、吐く。膝の上の拳が少しだけ震えていた。
きつく握った私の拳を雅は手に取ると、一本ずつ時間をかけて指をはがしていた。
「…………」
手のひらが開ききると、そこに指を絡めて、私の手をぎゅっと握った。
「悪いのは全部、犯罪者だよ」
ポツリと雅が呟いた。
「そいつがいなければ、こんなこと起きなかったんだし」
「…………」
「お母さんもきっと、そんなことわかってると思うんだけど……気が動転しちゃったんだよね。俺も。駄目だね。ああいうときって、自分には何かできなかったのかって、やっぱり、考えちゃうよね」
俯いた私の頭を、雅がポンポンと撫でる。
「美亜、大丈夫だよ」
雅には、今の私と母のやりとりがどんな光景に見えたんだろう。
雅は、私のこと、どんな風に思ったんだろう。
「美亜、頑張ったね」
タクシーで高速を飛ばして来てくれたのだと、思う。
廊下から母の怒号と足音が聞こえてきて、私は思わず椅子から立ち上がった。
何を言っているのかはよくわからないけれど、金切声を上げながら怒っている。
かなりヒステリックな状態だ……。
そう思ったら、背中から嫌な汗をどっとかいて、体が小刻みに震えだした。
落ち着いて、とか。
ショックを受けているから、お嬢さんをあんまり刺激しないで……とか。
警察の人が色々言って母をなだめているのが聞こえる。
「美亜……?」
雅が不安そうな視線を私に向けている。
もうどう取り繕うつもりもない。
そうだよ、この人が私の、おかあさんだよ。
それから母がこの部屋に来るまで時間はかからなかった。
扉がバン! と音を立てて開かれる。
着の身着のままの姿で母は立っていた。
急いで来てくれたことを喜ぶ余裕はなかった。
怒っているのか泣いてるのか判断がつかない、興奮する母の肩を警官が抑えている。
「帰るわよ!」
開口一番の母の言葉は、意外なものだった。
「かえ……る……?」
どこに?
あの家に?
帰ることを望んだこともあったし、今のままじゃ駄目だとも思っている。
だけど、こんな状態で帰っても、何も変わらない。
ううん、前よりも悪いかもしれない。
息が詰まるような閉塞感と、母を苦しめてしまう私の存在。
母だって重々承知で、絶対にそんなこと望んでいない筈なのに。
「や、嫌だ……」
爪が食い込むほど強く掴まれた腕を振り払うと、母は激昂した。
「だって、じゃあ、私はどうすればいいのよ!! アルバイトの帰りだったんですってね。お金、ちゃんとあげてたじゃない。なんで? 足りないなら、なんで言わないの。なんでそんな夜遅くに危ない道をわざわざ選んで歩いてたの? 私へのあてつけのつもりなの!?」
「ち……ちが……」
あてつけるつもりなんて、もちろんない。
お金が欲しかったのは、本当だけど。
おかあさんからもらったお金は――全額ではないけど――使うことができなかったよ。
これが、私が愛されてる証なんだって思ったら。
唯一の絆なんだって思ったら、使うことができなかった。
そう言ったら、おかあさんは何て言う?
信じてくれない?
それとも、馬鹿にするな?
恥をかかせるな?
負の感情が返ってくることしか思い浮かばない。
声が……言葉が……出てこない。
雅が椅子から立ちあがって、私達の間に制止に入ろうか迷っているのが目に入った。
私はそれを、手で「やめて」と制して母に向き直る。
「ごめ……なさ……」
「もうアルバイトも、ひとり暮らしも辞めなさい! 大学は家から通いなさい!」
「嫌……」
「美亜っ!」
「駄目、できない……っ……」
おかあさんが、私と居たら壊れてしまう。
振り上げられた手を、目をつぶって受け入れる覚悟をする。
私の脇を通り過ぎた風が、肩を掴んで後ろに抱き寄せた。
「あのっ……! はじめまして。美亜さんと、お付き合いさせていただいています! 神庭雅です!」
緊迫した空気に、場違いな声が耳のすぐ傍で響く。
母は今初めて雅の存在に気がついたようだった。
「えっと……美亜さんとは……夜道はいつも一緒に帰っていたんですけど、今回だけたまたま俺が都合つかなかったんです」
「……嘘……」
「申し訳ありませんでした」
「……雅……っ……」
雅が私の方を見る。
じゃあ、どうするの? そう問いかける視線に言葉を噤む。
今の私は結局、雅の作り話に甘える選択肢を選ぶしかなかった。
「これからはできる限り、俺が美亜さんを守ります。もっと安心できる所に引っ越して……美亜さんさえ良ければ、今度は傍で暮らせたらいいなって……思ってます」
どこまでが嘘で、どこからが本気なのかわからない雅の言葉を、私はただ呆然としながら聞いていた。
引っ越す?
暮らす?
「だから安心してください」
そう言ってから、雅は、あ、という顔になった。
「あ、えっと、俺がいたら全然安心じゃ……ないか……。えっと、暮らすって言っても、あの、同棲とかじゃなくて……も っと健全ていうか……大切にします……!」
もはや……何を言っているのか意味がわからない。
雅もテンパり過ぎて今何を言っているのかわかっていないのかもしれない。
私以上に恋愛に希望を抱けない母が、雅の存在にどんな反応をするのか未知数だったけど。
毒気を抜かれたような顔で母は雅を見ていた。
暫くの沈黙の後、渋い顔で何か言おうとして……でもすぐに諦めたように俯いた。
私の顔を面と向かって見ようとして、できなかったのが何となくわかった。
「……美亜のこと、宜しくお願いします」
どちらかと言えば反対されるかと思っていたけど、母はそう言って雅に頭を下げた。
私とは最後まで目を合わせてくれなかった。
「警察の方と話してくるわ……」
母は踵を返すと小さな背中を更にまるめるようにして、部屋を出て行った。
へた、と椅子に腰を下ろした私の横に、雅も座る。
息を短く、吐く。膝の上の拳が少しだけ震えていた。
きつく握った私の拳を雅は手に取ると、一本ずつ時間をかけて指をはがしていた。
「…………」
手のひらが開ききると、そこに指を絡めて、私の手をぎゅっと握った。
「悪いのは全部、犯罪者だよ」
ポツリと雅が呟いた。
「そいつがいなければ、こんなこと起きなかったんだし」
「…………」
「お母さんもきっと、そんなことわかってると思うんだけど……気が動転しちゃったんだよね。俺も。駄目だね。ああいうときって、自分には何かできなかったのかって、やっぱり、考えちゃうよね」
俯いた私の頭を、雅がポンポンと撫でる。
「美亜、大丈夫だよ」
雅には、今の私と母のやりとりがどんな光景に見えたんだろう。
雅は、私のこと、どんな風に思ったんだろう。
「美亜、頑張ったね」
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