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3.呪詛の像
3-2.香梅堂③
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林紗の不満は、わずか二日後に爆発した。
待遇が良くなると聞いていたのに面積が広くなっただけで人数が変わらないのだから、これでは手間が増えただけ。しかも九嬪の区画は以前よりも北側にあって、さらに香梅堂はその中でも最北端に建っているから、まるで隔離されているような気分になってくる。
もともと、この場所は梅の花を植えた庭園だったらしい。
皇帝の一時的な訪問所としたのが始まりだった。それが梅の花に飽きた皇帝が来なくなったから、代わりに九嬪の誰かが住んで堂として定着した。その美しい梅の花とやらも、今は真冬だ。葉っぱの身ぐるみをはがされた寒々しい枝が伸びているだけ。しばらく無人だったせいで花壇の手入れすらも忘れられている。これで栄転などと言われても多くの妃は納得しない。
静月たちとしては、これまで冷遇されてきたのだから、こういう扱いには慣れている。林紗としても、それだけなら我慢ができる。しかし彼女が腹を立てているのは自分たちには何の責任もないのに、勝手に不穏な噂を立てられてしまっていること。
――あの堂は、呪われているんですよ。
こんな世迷言のせいで、みんながこの場所を恐れて誰も手伝いがやって来ない。手伝わないだけならまだしも、本来やるべき職務さえ放棄される。
――贈り物を取りに来てください。
――料理を取りに来てください。
――茶葉を取りに来てください。
門の前の投函箱に、こんな紙だけが届く。
『投函しに来るついでに、自分で持ってこればいいのに!』
林紗は紙の束を丸めて空に向かって投げた。後宮の衣食住を管理する施設は全て、南側に密集している。最北端から最南端を往復するのは大変なのに、それで今、点心を作るための小麦粉の袋を抱えて帰ってきたところなのに、また取りに来いとは正気の沙汰ではない。
『本来は月姐ぇの分の料理は、尚食から九嬪の置き場にまで運ばれてるらしいんだよぉ』
麻朱が、いつも通りに泣きそうになっている。
『だけど、まだ九嬪になっていないからって追い返されたよ。それじゃあ……本来の私たちの分はどうなってるのかって、絶対、他の人に取られてるに決まってるよ』
『実際に……九嬪にはなっていないもの』
静月は弱々しく微笑む。自分はあまり気にしていないのだが、二人に不必要な肉体労働をさせて申し訳ない。
『せめて、掃除や料理くらいは私がするから』
『え~、皇帝の妃は料理なんてしちゃいけないんだよぉ』
『しちゃいけない……ってことはないと思う。ここの中だけの決まりなら自由にすればいいし。とにかく、私ばっかり待ってても落ち着かないから……ねえ、紗、こっちに積んである箱は何だっけ?』
静月が堂の玄関に積まれている箱を指さす。林紗は離れにある調理部屋に小麦粉を運び終えてから、
『装飾品だったよ。殺風景のままだとあれだからって、私たちにしては珍しく贈り物が届いてるんだって。月が寵愛を受けるようになったんだから当然のことなんだろうけど』
『うわぁ……すごい、綺麗だね』
静月が箱を開けたのを麻朱が覗き込んだ。届いたのは銀の簪や水晶の腕輪などの装身具から、絨毯や青磁器など部屋を彩るための家具。金を施した冠もあって、今まで触れたことのないような高貴な品ばかり。麻朱は喜びのあまりに飛び跳ねて、一方の静月は首を捻っていた。
『こういう派手なのは……私に似合うかな』
『月姐ぇなら、きっと似合うよ。それに贈られてきたものを無下にするのは駄目な気がする』
『……そうかな。じゃあ、朱は私と一緒に飾り付けする?』
『はいはーい、賛成でーす』
静月は堂の飾りつけをする前に、それぞれの部屋を掃除をすることにした。引っ越しの前に宮女や宦官が清掃してくれたとはいえ、御付きの者はまだ定着していない。日々の家事は自分たちだけでしなければならない。それを億劫だ、とは感じない。むしろ何かをしている方が気が晴れて助かる。
なぜなら――
本当は静月も『呪われているという噂』が怖かった。それを忘れるために部屋を綺麗にして、飾りつけもして、ここは自分たちの空間であると納得したい。
まず、静月は玄関周りを箒で掃いた。それから客間、寝室、侍女の部屋を片付けて、贈り物の壺やら燭台やらを配置していった。
『これ、最初からあった?』
静月は寝室の丸机に堂々と置かれている銀の像に、今更になって気が付いた。銀色だから目立つはずなのに、なぜか目立っていない。そこにあって当然のように違和感がない。静月の疑問に、隣の部屋の麻朱は林紗が蒸したばかりの点心を頬張りながら、
『来たほきから、そこに置いてふぁったと思ふ』
『そっか。じゃあ、動かさない方がいいのかな』
とりあえず、このままにしておくことにした。
おおよそ、飾り付けが終わったところで、そろそろ遅めの昼食を取ろうかと腰を休めたあたりで、玄関の外から大きな声がした。
「どうしてさっさと出てこないのかしら! 私の足音で気が付きなさいよ!」
さすがに足音では分からない。声を聞いたからすぐに分かる。それほどに聞き慣らされている。
慌てて、外に出る。
もちろん、待っていたのは紫萱だ。こんな最北端に引っ越しても彼女との因果は切れないらしい。静月は腰を低くしてから、
「ご機嫌、麗しゅう、紫萱美人妃」
いつも通りに挨拶をしたのに、
「は? 今、何て言ったの?」
なぜか今日の紫萱はいつも以上に不機嫌だ。
待遇が良くなると聞いていたのに面積が広くなっただけで人数が変わらないのだから、これでは手間が増えただけ。しかも九嬪の区画は以前よりも北側にあって、さらに香梅堂はその中でも最北端に建っているから、まるで隔離されているような気分になってくる。
もともと、この場所は梅の花を植えた庭園だったらしい。
皇帝の一時的な訪問所としたのが始まりだった。それが梅の花に飽きた皇帝が来なくなったから、代わりに九嬪の誰かが住んで堂として定着した。その美しい梅の花とやらも、今は真冬だ。葉っぱの身ぐるみをはがされた寒々しい枝が伸びているだけ。しばらく無人だったせいで花壇の手入れすらも忘れられている。これで栄転などと言われても多くの妃は納得しない。
静月たちとしては、これまで冷遇されてきたのだから、こういう扱いには慣れている。林紗としても、それだけなら我慢ができる。しかし彼女が腹を立てているのは自分たちには何の責任もないのに、勝手に不穏な噂を立てられてしまっていること。
――あの堂は、呪われているんですよ。
こんな世迷言のせいで、みんながこの場所を恐れて誰も手伝いがやって来ない。手伝わないだけならまだしも、本来やるべき職務さえ放棄される。
――贈り物を取りに来てください。
――料理を取りに来てください。
――茶葉を取りに来てください。
門の前の投函箱に、こんな紙だけが届く。
『投函しに来るついでに、自分で持ってこればいいのに!』
林紗は紙の束を丸めて空に向かって投げた。後宮の衣食住を管理する施設は全て、南側に密集している。最北端から最南端を往復するのは大変なのに、それで今、点心を作るための小麦粉の袋を抱えて帰ってきたところなのに、また取りに来いとは正気の沙汰ではない。
『本来は月姐ぇの分の料理は、尚食から九嬪の置き場にまで運ばれてるらしいんだよぉ』
麻朱が、いつも通りに泣きそうになっている。
『だけど、まだ九嬪になっていないからって追い返されたよ。それじゃあ……本来の私たちの分はどうなってるのかって、絶対、他の人に取られてるに決まってるよ』
『実際に……九嬪にはなっていないもの』
静月は弱々しく微笑む。自分はあまり気にしていないのだが、二人に不必要な肉体労働をさせて申し訳ない。
『せめて、掃除や料理くらいは私がするから』
『え~、皇帝の妃は料理なんてしちゃいけないんだよぉ』
『しちゃいけない……ってことはないと思う。ここの中だけの決まりなら自由にすればいいし。とにかく、私ばっかり待ってても落ち着かないから……ねえ、紗、こっちに積んである箱は何だっけ?』
静月が堂の玄関に積まれている箱を指さす。林紗は離れにある調理部屋に小麦粉を運び終えてから、
『装飾品だったよ。殺風景のままだとあれだからって、私たちにしては珍しく贈り物が届いてるんだって。月が寵愛を受けるようになったんだから当然のことなんだろうけど』
『うわぁ……すごい、綺麗だね』
静月が箱を開けたのを麻朱が覗き込んだ。届いたのは銀の簪や水晶の腕輪などの装身具から、絨毯や青磁器など部屋を彩るための家具。金を施した冠もあって、今まで触れたことのないような高貴な品ばかり。麻朱は喜びのあまりに飛び跳ねて、一方の静月は首を捻っていた。
『こういう派手なのは……私に似合うかな』
『月姐ぇなら、きっと似合うよ。それに贈られてきたものを無下にするのは駄目な気がする』
『……そうかな。じゃあ、朱は私と一緒に飾り付けする?』
『はいはーい、賛成でーす』
静月は堂の飾りつけをする前に、それぞれの部屋を掃除をすることにした。引っ越しの前に宮女や宦官が清掃してくれたとはいえ、御付きの者はまだ定着していない。日々の家事は自分たちだけでしなければならない。それを億劫だ、とは感じない。むしろ何かをしている方が気が晴れて助かる。
なぜなら――
本当は静月も『呪われているという噂』が怖かった。それを忘れるために部屋を綺麗にして、飾りつけもして、ここは自分たちの空間であると納得したい。
まず、静月は玄関周りを箒で掃いた。それから客間、寝室、侍女の部屋を片付けて、贈り物の壺やら燭台やらを配置していった。
『これ、最初からあった?』
静月は寝室の丸机に堂々と置かれている銀の像に、今更になって気が付いた。銀色だから目立つはずなのに、なぜか目立っていない。そこにあって当然のように違和感がない。静月の疑問に、隣の部屋の麻朱は林紗が蒸したばかりの点心を頬張りながら、
『来たほきから、そこに置いてふぁったと思ふ』
『そっか。じゃあ、動かさない方がいいのかな』
とりあえず、このままにしておくことにした。
おおよそ、飾り付けが終わったところで、そろそろ遅めの昼食を取ろうかと腰を休めたあたりで、玄関の外から大きな声がした。
「どうしてさっさと出てこないのかしら! 私の足音で気が付きなさいよ!」
さすがに足音では分からない。声を聞いたからすぐに分かる。それほどに聞き慣らされている。
慌てて、外に出る。
もちろん、待っていたのは紫萱だ。こんな最北端に引っ越しても彼女との因果は切れないらしい。静月は腰を低くしてから、
「ご機嫌、麗しゅう、紫萱美人妃」
いつも通りに挨拶をしたのに、
「は? 今、何て言ったの?」
なぜか今日の紫萱はいつも以上に不機嫌だ。
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