宮廷の九訳士と後宮の生華

狭間夕

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2.後宮の生華

2-5.月に酔う④

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 ついに、ここで泣いてしまった。顔がしわくちゃになって、言葉が途切れて、分からなくなった。鼻水まで垂らして、子供の我儘わがままのように感情があふれて、とめどなく涙が流れて止まらなくなった。

 もう、こんな雨では涙を誤魔化せない。

「今日、会ったことも、忘れないで欲しい……私を、覚えていてくれたら……それだけで、頑張れる……それだけで生きていける……だって、今の私には何もないから……何にも希望がないから……たとえ将来に想い人ができて、明るい家庭を築いても、ここに、こんな私がいたことを……どうか、忘れないで」

 結ばれることは叶わないから、せめて心の片隅にだけでも留めておいてほしい。これを言ったら、言ってしまったら駄目だと分かってはいるけれど、それで最後に、「愛しています」の言葉を伝えられたら良かったのに。

「……本当に、すまなかった」

 抱きしめられる。

 肌が冷たく、それでいて温かい。

「……謝る必要なんて、ないんです、シャオ……将様……私が我儘わがままを……言っているだけなんです」
「将様は、止めろ。俺のことは、昔のままで呼べ」
「だって、それではシャオ兄ぃが……」
「全ては俺が、そう呼ばせたせいだ」
 
 互いの濡れた額が、触れ合った。

「俺を、シャオと呼べ。妹も同然だと言った言葉、撤回てっかいしたい」
「あの……それは……」
「俺がお前をめとらなかったせいだ。早くに妻として迎えていれば、こんなことにはならなかった。どうか、俺を許して欲しい」

 静月ジンユェは、ただ、泣き続けた。少し前に流した涙とは違う感情だった。嬉しい、だけど、切なくて、よけいに辛くて、もっと早くに聞きたかった、もっと早くにこうしていたかった、今更どうしようもなくて、だけどやっぱり、嬉しい。

 二人は抱き合ったまま、茂みに倒れた。

 任暁レンシャオ静月ジンユェに覆いかぶさって、静月ジンユェの垂れた前髪を優しくでる。

 彼女の額に、唇を添えた。

「離れて、やっと気が付いた。幼馴染ではなく、友人の妹でもなく、一人の女として愛していたと。だけど、全てが遅かった。本当に、すまない。それを今になって言う俺は、本当に、最低だ」
「いいえ……いいんです、どうか、謝らないで。だって、私……今、この瞬間が、とっても幸せなのですから。そして、私は悪い女です。あなたにこのまま抱かれたいと望んでいます。だけど、それは叶いません。せめて、どうか、唇だけでも」

 静月ジンユェが目を閉じる。任暁レンシャオは彼女の気持ちに応える。そうして二人の心と舌は一つになる。

「あの……これ以上は……」

 任暁レンシャオの指が下腹部に触れた時に、

「いけません、私だけでなく、あなたが不幸になります」
「その時は、俺も死ぬ」

 雨の冷たさは、もう感じない。

 役目を終えた月は、雲に隠れて消えた。

 暗闇の中で二つの身体が絡み合う。静月ジンユェ官能かんのうの声をらさないように押し留めた。

 後悔はない。

「愛しています……シャオ

 たとえ不幸になろうとも一向に構わないと言った任暁レンシャオの覚悟を受けて、静月ジンユェは最初で最後の、想い人との繋がりを求めた。そういう痛みを含めて、彼を受け入れた。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 英明インミンは開いたままの戸を閉めた。

 何も見なかったし、何も聞かなかった。

 建前は、これで済ませることにする。しかし彼女は、間違いなく不貞に加担した。こうなる流れは予想できたし、未然に防ぐこともできた。だけど、敢えてそれをしなかった。

(公私混同をしているのは、私も一緒かな)

 静月ジンユェの身の上に同情したせいでもあったが、そういうのは静月ジンユェに限ったことではない。いちいち後宮の妃に憂慮していればきりがない。英明インミンの心を動かしたのは静月ジンユェへの心情だけでなくて、任暁レンシャオの立場にもあった。彼ほどの地位にある者が、どういう行動に出るのか興味があったし、その無謀な覚悟の先にある困難を、もしかしたら彼なら乗り越えられるのかもしれないと。

 英明インミンは才女である。

 言葉を知り、学を知り、非常に聡明である。

 それでいて優れた美貌びぼうの持ち主だから、よほど身分が卑しくない限りは後宮に入っていておかしくはない。そういう女性が後宮の妃にはならずに、後宮に自由に出入り可能な環境に身を置いているのは異例のことだ。

 異例を通すには、それなりの代償が必要だった。

 皇帝の妃としては、必要のない身体になる必要があった。

(さらに傷を増やしたところで、もはや変わらないものね)

 英明インミン静月ジンユェの持ってきた張形はりがたを手に取って、もう片方の手で自分の胸を小刀で斬った。

(貫通したのに処女の血が付いてないなんて、変だもの。いいわ、共犯になってあげる)

 胸から滴る血を、張形はりがたにこすりつける。

 英明インミンは無数に付けた傷跡の上からでも、変わらずに赤い血が出てくる自分の身体を愛らしいと思った。
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