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2.後宮の生華
2-5.月に酔う①
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今日は不思議な夜だ、雨が降っているのに月が出ている。
月の下を歩く任暁の胸中には、灰色の藻が渦となって絡みついていた。これはきっと、静月の近況を知ったせいだ。
静月が寵愛を授かることになったと、内侍の者がこっそり教えてくれた。「おめでとうございます」とも言っていた。常識で考えれば祝うべきことに違いない。帝の覚えを得ることが静月の暮らしを豊かにして、実兄の静衛の評価も上がる。間接的に任暁の出世も早くなる。悪いことは、何もない。それがなぜか、どうにもすっきりしない。
任暁は、久しぶりに酒を飲みたくなった。
この前に飲んだのは静衛が都に転任した日だったか。職務に追われていたから、できる限り酒を控えていた。それも今日くらいはいいだろう。こうして夜空の下へ身を任せてみれば灰色の雲が覆って雨が降っているのに、なぜか白い満月が顔を見せている。気まぐれの通り雨のように思えたのに、しとしと、女の涙のようにいつまでも降っている。
小雨に濡れたくなった。
夜の風に振られて、醒ましてくれればいい。
宮廷の道を軒下の吊り灯篭が黄色く照らして、月の光が被さっている。雨の混ざった光がぼうっと広がって、まるで夢見のような心地になってくる。
ここは現世か、はたまた、幽世か。
どのくらい歩いているのか判然としない。いよいよ服まで湿ってきた。そのうちに、ちょうど目の前に九訳殿が見えてくる。暗がりに浮かぶ淡い霧が、まるで異界への入り口のようにも見えた。
誘われるがままに、足を踏み入れた。
「すまない。女がいるところへ、こんな夜分遅くに」
「不思議な夜だものね。あなたも雨の月に惹かれたのかしら」
なぜか今宵の英明は色っぽい。
これは酔いのせいか、月のせいか、それとも。
(心の、迷いのせいだな)
任暁は目頭を押さえる。
めまいがしたので、書斎の椅子に座らせてもらった。すぐに侍女が乾いた布を持ってきて、顔を拭いて、肩や裾の雨を払った。布はすぐに湿りで一杯になった。出してくれた茶を飲んで、酒の混ざった息を吐いたら、白く濁って消えた。
「どうにも眠れそうになくてな。少し、居させてくれるか」
「あなたのそういうの、相応のことがあったのでしょうね」
「妹……いや、静月のことだ」
任暁の苦悩は、静月が後宮で上手くやっていけるかとの心配だったはず。そこに政治的な事情に妹同然の彼女を巻き込んでしまったことへの罪悪感も混ざっていた。
どうやら静月は、器用に立ち回れているようだ。
今回の寵愛を受けることで、おおよその心配事は無用となる。
だったら、このまま突き進むのがいい。それで、どうして俺は気が沈む必要がある? いったい何を考えている? 愛してもいない皇帝に身を捧げる静月の心情を想ってのことか? そういうのは――むしろ贅沢な悩みではないか。誰にも愛されない人生よりも、誰かに必要とされるだけ良いことではないのか。冷宮に移されて、誰にも看取られずに骨となって朽ちるよりも、随分と。
「あなた、申し訳ないと思っているの?」
「……分からない。ただ、せめてもう少し、俺が何かしてやれることはなかったか」
「そんなに責める必要はないんじゃないかしら?」
責めている?
そうか、俺は、自分を責めているのか。
「彼女が後宮に入ったのは、あなたのせいではないでしょう。それに普通は、帝の寵愛を受けられるように支援するものだけど。やっと願いが叶ったことになるのに……いったい、あなたは、どうしたいの?」
「さあ、それも分からない。こうなるべきだったし、こうなるしかなかった。これで良かったはずだ。それが、どうにも気分が悪い。酒を飲んでみたら余計に考えがまとまらない。もう少し頭を冷やした方がいいかもしれない……あの月を見ながら、もう一杯だけ、酒を飲みたい」
さらに酒を求める自分に英明は少々、呆れているようだった。悪い酒の飲み方だと言いたげだ。しばらく黙った後に彼女は「持ってこさせるから待ってて」と言い残して書斎から去った。
独り残った任暁は、夜の戸を開けた。
小雨が顔を撫でる。せっかく拭いたのに、また、濡れた。
月の下を歩く任暁の胸中には、灰色の藻が渦となって絡みついていた。これはきっと、静月の近況を知ったせいだ。
静月が寵愛を授かることになったと、内侍の者がこっそり教えてくれた。「おめでとうございます」とも言っていた。常識で考えれば祝うべきことに違いない。帝の覚えを得ることが静月の暮らしを豊かにして、実兄の静衛の評価も上がる。間接的に任暁の出世も早くなる。悪いことは、何もない。それがなぜか、どうにもすっきりしない。
任暁は、久しぶりに酒を飲みたくなった。
この前に飲んだのは静衛が都に転任した日だったか。職務に追われていたから、できる限り酒を控えていた。それも今日くらいはいいだろう。こうして夜空の下へ身を任せてみれば灰色の雲が覆って雨が降っているのに、なぜか白い満月が顔を見せている。気まぐれの通り雨のように思えたのに、しとしと、女の涙のようにいつまでも降っている。
小雨に濡れたくなった。
夜の風に振られて、醒ましてくれればいい。
宮廷の道を軒下の吊り灯篭が黄色く照らして、月の光が被さっている。雨の混ざった光がぼうっと広がって、まるで夢見のような心地になってくる。
ここは現世か、はたまた、幽世か。
どのくらい歩いているのか判然としない。いよいよ服まで湿ってきた。そのうちに、ちょうど目の前に九訳殿が見えてくる。暗がりに浮かぶ淡い霧が、まるで異界への入り口のようにも見えた。
誘われるがままに、足を踏み入れた。
「すまない。女がいるところへ、こんな夜分遅くに」
「不思議な夜だものね。あなたも雨の月に惹かれたのかしら」
なぜか今宵の英明は色っぽい。
これは酔いのせいか、月のせいか、それとも。
(心の、迷いのせいだな)
任暁は目頭を押さえる。
めまいがしたので、書斎の椅子に座らせてもらった。すぐに侍女が乾いた布を持ってきて、顔を拭いて、肩や裾の雨を払った。布はすぐに湿りで一杯になった。出してくれた茶を飲んで、酒の混ざった息を吐いたら、白く濁って消えた。
「どうにも眠れそうになくてな。少し、居させてくれるか」
「あなたのそういうの、相応のことがあったのでしょうね」
「妹……いや、静月のことだ」
任暁の苦悩は、静月が後宮で上手くやっていけるかとの心配だったはず。そこに政治的な事情に妹同然の彼女を巻き込んでしまったことへの罪悪感も混ざっていた。
どうやら静月は、器用に立ち回れているようだ。
今回の寵愛を受けることで、おおよその心配事は無用となる。
だったら、このまま突き進むのがいい。それで、どうして俺は気が沈む必要がある? いったい何を考えている? 愛してもいない皇帝に身を捧げる静月の心情を想ってのことか? そういうのは――むしろ贅沢な悩みではないか。誰にも愛されない人生よりも、誰かに必要とされるだけ良いことではないのか。冷宮に移されて、誰にも看取られずに骨となって朽ちるよりも、随分と。
「あなた、申し訳ないと思っているの?」
「……分からない。ただ、せめてもう少し、俺が何かしてやれることはなかったか」
「そんなに責める必要はないんじゃないかしら?」
責めている?
そうか、俺は、自分を責めているのか。
「彼女が後宮に入ったのは、あなたのせいではないでしょう。それに普通は、帝の寵愛を受けられるように支援するものだけど。やっと願いが叶ったことになるのに……いったい、あなたは、どうしたいの?」
「さあ、それも分からない。こうなるべきだったし、こうなるしかなかった。これで良かったはずだ。それが、どうにも気分が悪い。酒を飲んでみたら余計に考えがまとまらない。もう少し頭を冷やした方がいいかもしれない……あの月を見ながら、もう一杯だけ、酒を飲みたい」
さらに酒を求める自分に英明は少々、呆れているようだった。悪い酒の飲み方だと言いたげだ。しばらく黙った後に彼女は「持ってこさせるから待ってて」と言い残して書斎から去った。
独り残った任暁は、夜の戸を開けた。
小雨が顔を撫でる。せっかく拭いたのに、また、濡れた。
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