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2.後宮の生華
2-1.静月(ジンユェ)美人妃②
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『信じられない横暴、同じ階級なのに』
侍女の林紗は雅語ではない、故郷の言葉で文句を言う。静月が後宮に入る際に連れてきた二人の侍女も同郷で都とは縁のない暮らしをしているから、雅語での会話に苦労している。
静月が落ちた書物を拾って自室に戻ると、もう一人の侍女、麻朱がお使いから戻ってきた。
『ああ、もう、戸が閉まらないよ!』
麻朱は壊れて、半分開いたままの戸に嘆く。
『朱、茶葉の補充はどうだった?』
『……だめ、掛け合ってくれない。上手く話せないから手紙で伝えたら、口に合わないのならどうぞ故郷の茶葉を使えば、みたいな感じのことを言って、こっちは妃付きの侍女なのに尚食の宮女までもが馬鹿にしてさ』
『じゃあ、戸の修理もダメそう?』
『……どこに言いに行けば分からないから内侍に言ったんだけど、話がかみ合わないから御付きの公々(宦官)を改めて交渉に寄こせって』
『そんなこと言ったって……暇をくださいって言われたきり担当の宦官が帰ってこないんだっての! あーもう、御付きの公々をそっちに寄こすために、先にこっちに御付きの公々を寄こせって言ってやりたい!』
林紗と麻朱は、歯がゆくてバタバタと地団太を踏む。静月は彼女たちに苦労をかけて、こんな不都合な場所に道ずれにして申し訳ないと肩を窄めた。
『……あ、小主。ごめんね、私たちが不甲斐ないせいで』
『紗……私たちだけの時に小主はやめて。それに、情けないのは私も一緒だから』
『月姐さん……ごめんなさい』
麻朱が泣いている。静月と侍女の林紗は同い年だが、麻朱は彼女たちよりも年下だ。齢もまだ十四。精神的に幼くて、よく泣いたりもする。
静月は麻朱に手招きして、そっと、絹の織物で頬をぬぐった。
『いいの、泣かないで。私は大丈夫』
『だってぇ……戸も閉まらないし、机だって脚が折れてるし、そのうちに椅子まで壊れそう……美人妃だからもっと良い部屋が割り当てられるはずなのに、こんな寒い場所なんてさ、このまま冬が来たら凍えちゃうよ』
『だけど、普通の人の家よりも豪華じゃない? みんな、これよりも寒いところで暮らしているから』
『そうだけど……他の妃に比べたらさぁ、これじゃあ采女と変わらないよ』
『実際、たいして変わらないから。美人妃なんて器じゃないもの。それにね、住めば都って言うでしょ? いい部屋だって思えるようになるから』
『実際にここ、都だもんね』
林紗が笑って言う。この言葉に麻朱も『そっかぁ、そのうちに慣れるのかぁ』と応えて泣き止んだ。
『じゃあさ、私たちで修理しよう』
『昔は自分たちでやってたもんね。私、木の板でも拾ってくる』
『こっちは釘でも拝借してきますかね。こうなったら宦官に片っ端から声かけてやる。釘くらいは寄こせって』
二人でわいわいと盛り上がっている。苦労は掛けているけれど、これはこれで静月としては暖かい時間だ。むしろこのまま何事もなく過ぎてくれればいい。林紗と麻朱がいて、慎ましく分相応に暮らす。そうして故郷の家族に、兄たちにも迷惑が掛からなければいい。
(……九人会……か)
心の中でつぶやいた。紫萱から渡された書物は、どうやら雅語で書かれた詩のようだ。全員に迷惑が掛からないように勉強しておけということらしい。本当は出席したくはないのに妃という立場がそうさせてはくれない。いっそのこと、自分は下女であれば良かった。
(なんとなくは読めるけど……発音があまり分からない)
静月も多少の学はあるから、雅語での読み書きくらいは習った。少し時間は掛かるが文章を通してのやり取りなら可能だけれど、直接、話すとなればさっきのやり取りのようにたどたどしくなってしまう。
(そういえば、後宮には言葉に精通している人がいるって女官長が言っていたような)
後宮入りの日のことを思い出した。門を潜る時に、あちらの殿には『九訳士』がいて、宮女でも入ることができるのだとか。
(でも、忙しいだろうし……他の妃と会うかもしれないし……私なんか)
結局、引っ込み思案な性格が災いして行動に移せない。さっき麻朱に見せたように他人には前向きな言葉を掛けられるのに、自身の行動には結び付けられない。静月は実家や、地元でしか気を休めることができない。見知らぬ土地に行けば臆病になって気を遣って委縮するのに、まして後宮ともなれば――
受け身の女性は、およそ後宮には向かない。
おそらく静月を待ち受ける未来は、相当に厳しいものになるだろう。
だが、時には幸運が舞い込むことがある。
それは偶然ではなくて、必然として、静月の持つ優しさが彼女の身を案じる兄たちを動かした結果だった。
「あの……誰、あなた、なのでしょうか?」
外に出ようとした麻朱が戸惑って、よく分からないことを言っている。てっきり紫萱が戻ってきたのかと思い、静月は身構えたが、
『ここが静月美人妃の部屋かしら?』
知らない女の客人で、しかも雅語ではなく、聞き慣れた故郷の言葉で話している。
「……あれ、その言葉、あれれ?」
『静月美人妃の部屋で合っているの?』
『はい……そうです。もしかして、西南の方ですか?』
「あら、伝わったみたいね。急いで勉強しただけはあるかも。だけど、残念ながら今はこれだけ。入っていい?」
訪問客が部屋に入ってくる。
凛々しくて、知的で、言葉の一つ一つが丁寧で物腰も柔らかい。
「あなたが、静月妃ね? お兄さんからの手紙を預かっているのだけど」
ふわっと、炊いた香に、紙と墨の匂いが混ざっている。とても暖かくて、懐かしい匂いがした。
侍女の林紗は雅語ではない、故郷の言葉で文句を言う。静月が後宮に入る際に連れてきた二人の侍女も同郷で都とは縁のない暮らしをしているから、雅語での会話に苦労している。
静月が落ちた書物を拾って自室に戻ると、もう一人の侍女、麻朱がお使いから戻ってきた。
『ああ、もう、戸が閉まらないよ!』
麻朱は壊れて、半分開いたままの戸に嘆く。
『朱、茶葉の補充はどうだった?』
『……だめ、掛け合ってくれない。上手く話せないから手紙で伝えたら、口に合わないのならどうぞ故郷の茶葉を使えば、みたいな感じのことを言って、こっちは妃付きの侍女なのに尚食の宮女までもが馬鹿にしてさ』
『じゃあ、戸の修理もダメそう?』
『……どこに言いに行けば分からないから内侍に言ったんだけど、話がかみ合わないから御付きの公々(宦官)を改めて交渉に寄こせって』
『そんなこと言ったって……暇をくださいって言われたきり担当の宦官が帰ってこないんだっての! あーもう、御付きの公々をそっちに寄こすために、先にこっちに御付きの公々を寄こせって言ってやりたい!』
林紗と麻朱は、歯がゆくてバタバタと地団太を踏む。静月は彼女たちに苦労をかけて、こんな不都合な場所に道ずれにして申し訳ないと肩を窄めた。
『……あ、小主。ごめんね、私たちが不甲斐ないせいで』
『紗……私たちだけの時に小主はやめて。それに、情けないのは私も一緒だから』
『月姐さん……ごめんなさい』
麻朱が泣いている。静月と侍女の林紗は同い年だが、麻朱は彼女たちよりも年下だ。齢もまだ十四。精神的に幼くて、よく泣いたりもする。
静月は麻朱に手招きして、そっと、絹の織物で頬をぬぐった。
『いいの、泣かないで。私は大丈夫』
『だってぇ……戸も閉まらないし、机だって脚が折れてるし、そのうちに椅子まで壊れそう……美人妃だからもっと良い部屋が割り当てられるはずなのに、こんな寒い場所なんてさ、このまま冬が来たら凍えちゃうよ』
『だけど、普通の人の家よりも豪華じゃない? みんな、これよりも寒いところで暮らしているから』
『そうだけど……他の妃に比べたらさぁ、これじゃあ采女と変わらないよ』
『実際、たいして変わらないから。美人妃なんて器じゃないもの。それにね、住めば都って言うでしょ? いい部屋だって思えるようになるから』
『実際にここ、都だもんね』
林紗が笑って言う。この言葉に麻朱も『そっかぁ、そのうちに慣れるのかぁ』と応えて泣き止んだ。
『じゃあさ、私たちで修理しよう』
『昔は自分たちでやってたもんね。私、木の板でも拾ってくる』
『こっちは釘でも拝借してきますかね。こうなったら宦官に片っ端から声かけてやる。釘くらいは寄こせって』
二人でわいわいと盛り上がっている。苦労は掛けているけれど、これはこれで静月としては暖かい時間だ。むしろこのまま何事もなく過ぎてくれればいい。林紗と麻朱がいて、慎ましく分相応に暮らす。そうして故郷の家族に、兄たちにも迷惑が掛からなければいい。
(……九人会……か)
心の中でつぶやいた。紫萱から渡された書物は、どうやら雅語で書かれた詩のようだ。全員に迷惑が掛からないように勉強しておけということらしい。本当は出席したくはないのに妃という立場がそうさせてはくれない。いっそのこと、自分は下女であれば良かった。
(なんとなくは読めるけど……発音があまり分からない)
静月も多少の学はあるから、雅語での読み書きくらいは習った。少し時間は掛かるが文章を通してのやり取りなら可能だけれど、直接、話すとなればさっきのやり取りのようにたどたどしくなってしまう。
(そういえば、後宮には言葉に精通している人がいるって女官長が言っていたような)
後宮入りの日のことを思い出した。門を潜る時に、あちらの殿には『九訳士』がいて、宮女でも入ることができるのだとか。
(でも、忙しいだろうし……他の妃と会うかもしれないし……私なんか)
結局、引っ込み思案な性格が災いして行動に移せない。さっき麻朱に見せたように他人には前向きな言葉を掛けられるのに、自身の行動には結び付けられない。静月は実家や、地元でしか気を休めることができない。見知らぬ土地に行けば臆病になって気を遣って委縮するのに、まして後宮ともなれば――
受け身の女性は、およそ後宮には向かない。
おそらく静月を待ち受ける未来は、相当に厳しいものになるだろう。
だが、時には幸運が舞い込むことがある。
それは偶然ではなくて、必然として、静月の持つ優しさが彼女の身を案じる兄たちを動かした結果だった。
「あの……誰、あなた、なのでしょうか?」
外に出ようとした麻朱が戸惑って、よく分からないことを言っている。てっきり紫萱が戻ってきたのかと思い、静月は身構えたが、
『ここが静月美人妃の部屋かしら?』
知らない女の客人で、しかも雅語ではなく、聞き慣れた故郷の言葉で話している。
「……あれ、その言葉、あれれ?」
『静月美人妃の部屋で合っているの?』
『はい……そうです。もしかして、西南の方ですか?』
「あら、伝わったみたいね。急いで勉強しただけはあるかも。だけど、残念ながら今はこれだけ。入っていい?」
訪問客が部屋に入ってくる。
凛々しくて、知的で、言葉の一つ一つが丁寧で物腰も柔らかい。
「あなたが、静月妃ね? お兄さんからの手紙を預かっているのだけど」
ふわっと、炊いた香に、紙と墨の匂いが混ざっている。とても暖かくて、懐かしい匂いがした。
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