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第百四十二話『僕の名義』

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「……さて」

 家に帰り、スリープモードにしてあったパソコンを目覚めさせる。愛用のワープロソフトを立ち上げて、白紙の文書を呼び出す。新作を作ろうとするたびに何度も何度もやってきたその工程だけれど、今回は少し意味が違ってきていた。

『出来る』とは言ってみたものの、小説を書くのと脚本を書くので勝手が違う部分がないなんてことはないだろう。それがどこで起こるか分からない以上、少しでも早めにぶつかって課題は理解しておく必要があった。

 千尋さんがあれだけはっきりと決意してくれたのに、脚本がそれに見合わないクオリティじゃ顔向けできないからね。色々と忙しくなりつつある状況の中でも、出来る限りのブラッシュアップを繰り返していかないといけない。

 それを辛いとも嫌だとも感じないのは、やっぱり小説家としての性みたいなものなんだろうか。……今回はキャラに明確なモチーフと言うか、それを演じる人が居るってのが少し不思議な気分だけれど。

 だけど、キャラにモチーフがいるパターンの作品は最近にも試してみたばかりだ。多分この半年で、僕は随分と脚本を書くというのに向くようになったと思う。完全に無意識の内に起きたことだから、別に胸を張れることではないんだけどさ。

「……ふふっ」

 帰りながら温めていたアイデアを一度文章に落とし込み、あれこれと確認しているうちに僕の口から自然と笑みがこぼれる。いざ文相に起こしてしまうと収拾がつかなくなるアイデアってのもあるにはあるのだけれど、今回はそうならなかったようで一安心だ。

 飄々としていながらも内心強い夢への憧れを持つ少女と、誰にも言えない秘密を抱えながらそれでも進もうとする少女。二人のキャラ造形をどんどんと掘り下げていって、作品の中に無理のない形で落とし込んでいく。あんまりモチーフに寄せすぎても色々と問題だから、僕が出会ってきた人たちのイメージを少しずつ拝借してモチーフをばらけさせる。その分だけ二人が演じるのは少し難しくなってしまうけれど、そればっかりは我慢してもらうしかないだろう。ここは脚本家の数少ない我儘だ。

 そんなことを思いながらキーボードを叩き続けていると、気が付けば結構な時間が経過していた。本当は足回りを固めるだけで終わるかなあとか思っていたのだけれど、思った以上に筆が乗った形だ。

 止めようかと思ってもそれを無視するかのように手が動き、新しい文章を作り出していく。それは時々ある現象で、そういう時は身を任せるに限るんだ。……それがいいものであれ微妙なものであれ、『書きたい』って衝動は本物だし。

 作業用に流していた音楽はとっくに聞こえなくなり、画面とキーボードをたたく音、そして指先に伝わる感覚に意識が集中していく。ここまで調子がいいと思えたのは、本当に久しぶりの事だった。

 思えば最近、クリスマスの計画を成功させるためにブラッシュアップを何度も繰り返してきたしな。その甲斐もあって最大限いいものに仕上がった自信はあるのだけれど、自分の文章を削り取って確認して、より良いものに改めていく作業には普通に書くのとはまた違った疲労感があるものだ。……多分、脚本の仕上げにも同じような疲労感を感じることになるんだろう。

 だけど今は、今だけはそれから解放されて自由に書くことが出来る。それが楽しくて、一息つく頃には時計はすっかり夕飯の時間を指していた。

 それにようやく気が付いて、僕は保存をしてワープロソフトを終了する。それを待っていたかのようにクルクルと鳴りだす腹におもわず笑っていると、僕は唐突に思い出した。

「……そういえばこれ、『照屋 紡』の作品として世に出るんだよね」

 世とはいっても小さな世界でしかないけれど、僕が本名で作品を作るのはこれが初めてだ。あの文章は『赤糸 不切』じゃなくて、もっと根本的な僕としての性質を持っているらしい。

『セイちゃんとの縁が切れることがありませんように』と、そう願って付けたペンネーム。その願いが叶わなかった後でも、その名前はずっと大切にしてきた。……そして今、その願いはちょっと形を変えながらもしっかり続いているわけで。

「……気合、入れないとな」

 スリープモードに入ったパソコンをもう一度見やって、僕は改めてそう呟く。……二人の決意と機転でできたチャンスをものにできるかどうかは、僕の指先にもかかっていた。
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