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第百八話『教室は静まり返る』

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――結局、それ以上『あの子』から手紙が来ることはなかった。

『憶えている』という事だけを教えられて、僕はただ悶々と日々を過ごすことしかできなかった。『あの子』との過去を背負っていく覚悟はできていたけれど、今更それが動き出すかもしれないなんて想像していなかったから。……外に出る度にばったり顔を合わせはしないかと、期待なのか恐怖心なのかよく分からないものが僕を支配していた。

 それを克服できたのは、千尋さんが傍にいる時だけの事だ。千尋さんといる時の僕は『千尋さんの彼氏』であり、それ以外の何者でもなくなる。……その時だけは、『あの子』の影を眼で追わずに済む。

 だけど、それだって限界だ。なんであんな手紙を送ったのか、『あの子』はあの後どうしていたのか、これから先も手紙は来るのか。……何も分からないままで、ただ考えに考えなければいけない日々だけが続いて行った。

 そんなうちに夏休みは終わり、二学期が幕を開ける。……鬼のような量の課題も、目の前の問題をすり替えることが出来ると思うとあまりにもありがたかった。

 しかしここからはいつも通りの日常、どうしても考え事が出来てしまう毎日だ。……だからこそ、『あの子』の影から逃げられない。

「……紡君、目の下にクマ出来てる……?」

 僕が無意識にため息を吐いていると、千尋さんが顔を覗き込みながら心配そうにそう尋ねてくれる。……その気遣いはありがたかったけれど、『まだ話しちゃいけない』と僕の中の誰かが告げていた。

 僕が思っていた以上に、僕と言う人間は脆かったのだ。もうかさぶたになったと思っていた過去の傷跡は、少しもふさがることなく今でも血を流し続けていた。その痛みが続きすぎて、無視することに慣れてしまっていただけで。誰も触れていなかったからそれでもよかったけれど、その傷口に触れる何かが現れた瞬間に話は大きく変わってしまう。

 今この状況がまさしくそれだ。僕と『あの子』にまつわる記憶は、今もまだ固定化することなく動き続けている。……だからまだ、千尋さんに語る物語になりきれていないんだ。

「……うん、土壇場でやってない課題のページ見付けちゃってさ、それを解くのに時間かかっちゃった」

 軽く頭を抱える仕草を見せながら、僕は咄嗟に考えたごまかしの言葉を千尋さんに返す。胸の奥で何かがずきりと痛む音がしたけれど、それを無視する以外の選択肢は今の僕にない。

 まだ物語が終わっていないのならば、終わらせに行くしかないのだ。誰もが納得する形で、分かりやすい落としどころで。……それが役割、それがやるべきことだ。僕にしか、できないことだ。

「うわ、それは災難だったねー……でも間に合っただけいいと考えるべき?」

「そうだね、忘れたらとんでもなくどやされるところだった。……それを思えば、このタイミングなのがまだ僥倖だったんだろうな」

 小さく笑みを作りながら、僕は千尋さんの言葉に応える。気を抜くと眠気の波に飲み込まれてしまいそうになるけれど、面倒な始業式はもう終わったんだ。……あとは、これからのホームルームを耐えればいい。そうしたら即帰ってベッドに飛び込んで、問題はそこから考えればいい。

「ごめんね、千尋さん。午後休みなのにデートできなくて」

「ううん、今の紡君を無理に引っ張り出そうとは思わないよ。その代わり、週末はたくさん遊ぼ?」

 僕の謝罪に千尋さんはゆっくり首を横に振って、そして改めて遊びの誘いをかけてくれる。それにクラスの周囲が一気に殺気立ったような気配がしたが、だけどそんなものはもうどうでもよかった。クラスメイトからの圧に耐えるだけの心持ちが早めに作れたのは、『あの子』の事に意識を割かなければいけない今本当によかった。

 だから本当に、今解決するべきなのは『あの子』の事だけなのだ。それさえ綺麗にけりを付けられるのならば、僕は確かな形でまた前を向ける――

「お前ら喜べー。高校生活でもなかなかのレアイベント、転校生の紹介だ」

「――は?」

 そう思っていた、矢先だった。

 珍しくホームルームの開始時刻に少しだけ遅れた先生が、ガラリと扉を開けながらとんでもない発言をかましてくる。……そしてその後ろには、一人の女子生徒。

 制服を纏ったその姿は可愛いというよりは綺麗よりで、クラスが静まり返る。消化するだけの時間だったホームルームが、一人の転校性によって完全に覆された。

 だが、僕はその様を見て叫びだしそうになっている。今すぐにでもたくさんの言葉を並べ立てたい衝動を、咄嗟に必死に押し殺している。

「なんで、なんで、なんで」

 口の中だけで、誰にも聞こえないように僕は問いを重ねる。なんでこんな偶然が起こるんだ、嫌偶然なのか。どこまでが筋書きで、どこからが神様の悪戯だ。……なんで、なんで、なんで。

「……セイ、ちゃん」

『あの子』――セイちゃんと、三年の時を超えて今僕は再び顔を合わせているのだろう?
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